医学部演劇科

 最近、医学会では「全ての医科大学に演劇科を設けるべきである」という提案が論議を呼んでいる、と聞けば驚かれるかたは多いだろう。私も初めて聞いたときは「なんだそれは」と思ったものだ。しかし、その筋の詳しい人の話を聞いていると、なかなか納得させられる部分が多い。今は一部の専門家の間で話題になっているだけなのだが、いずれみなさんの耳にも入るかと思うので、それにさきがけて、ここでひとつその提案を紹介しておこうと思う。

 まずは、「手術」という言葉を十回続けて言ってほしい。きちんと言えただろうか。おそらく、言えなかっただろうと思う。たいていの人は、「手術」が「ちゅじゅちゅ」になってしまったり、「スズツ」になってしまったりしたのではないだろうか。それがどうした、と思われるかもしれないが、少し説明すれば、これがいかに大きな問題か分かっていただけると思う。

 たとえば、あなたが原因不明の腹痛に襲われて病院にかけこんだとする。そして、こんな会話がかわされるとしよう。

「先生。腹がキリキリ痛むんですが、大丈夫でしょうか?」
「これはいけない。すぐに切開しないと命に関わります」
「えっ! 手術ですか!」
「そう! ちゅじゅちゅでちゅ!」

 この瞬間、医者は「しまった」という表情をするはずだ。こんなシリアスな場面で舌がもつれて「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまった。これでは、場の雰囲気がぶちこわしである。緊張感は抜け、医者の権威が失墜してしまう。あなたは「ちゅじゅちゅ」と言う医者を見て、それでもその医者を全面的に信頼することができるだろうか。病気の治療とは、医者との信頼関係である。それが壊れてしまっては、治る病気も治らなくなってしまう。

 これは「スズツ」と言ってしまった場合でも同じである。「そうです。スズツです」などと言われたら、なにやら、東北地方の怪しげな呪術医療が始まるのではないかと身構えてしまう。やはり、信頼関係を保ち続けることは難しい。

 そこで、演劇科を設けるべきだという提案が登場する。医師のタマゴたちが、深刻な雰囲気の中で緊張して「手術」を「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまわないように、「声楽」の授業で練習をするべきだというのである。きちんと練習しておけば、舌がもつれる可能性はぐっと低くなる。医者の威厳も保たれる。ひいては、あなたも医者を信頼したまま手術をうけることができるのである。この一件を聞いただけでも、「医大には演劇科を設けるべき」という主張がいかに理にかなったものであるかが分かるだろう。

 あるいは、こんな問題もある。

 医者の仕事で最も重要なことは何かといえば、それは癌にかかった患者に「癌なんかじゃありませんよ」ということである。「癌です」とはっきり言ってしまうと患者は一気に気力を失ってしまうかもしれないし、へたをすれば死にいたる。それはあまりに残酷である。そこで、癌患者には、その気持ちを配慮して「癌ではない」と言うことが普通である。

 しかし、少し考えれば分かるように、これには卓越した演技力が必要である。「癌なんかじゃありませんよ」という一言を言うだけであるが、実際に患者は癌にかかっているわけである。もし「癌ではない」と言うために深刻すぎる表情をしていたら、患者に「ああ、俺は癌なのか」と悟られてしまうし、「癌なんかじゃないぶー」とおどけて言ったりしたら、やはり医者の権威が失墜してしまう。つまり、「癌なんかじゃありませんよ」と言うためには、深刻すぎず、明るすぎず、説得力をもった声と表情をつくる必要がある。しかし、素人の医者がそんなにうまい演技をできようはずがない。

 そこで、必要になるのが演劇科の存在である。患者の信頼をそこなわず、説得力をもった声と表情がだせるように「演技」の授業を設けて練習すべきだというのである。きちんと練習しておけば、無駄に患者を不安に陥れることなく、残った余生を安楽に過ごさせることができる(かもしれない)し、うまくすれば希望を持った患者は気力をふるいおこして、病気が快方に向かう(かもしれない)だろう。やはり、「医大に演劇科を」という提案は、理にかなっている。

 分かりやすい二例を挙げたが、まだまだこんなものではない。医者に演技力が必要とされる場面は数えきれないほどある。そのような状況になったとき、冷静に局面を乗りきるためには、日頃の練習と教育が必要不可欠である。もしかしたら、「くだらない」という一言で片づけられてしまうかもしれない。当の医大生たちは鼻で笑って、きちんと練習しないかもしれない。先進的な提案は、はじめは常人には理解されがたいものである。

 しかし、それらの無理解を無視してでも、医学部には演劇科が必要であると、私は断言することができる。四年間、しっかり「医学部演劇科」で修練を重ねてこそ、自信をもって演劇界へデビューできるのではないだろうか。

科学的にも実証されてます

 かねてより、なぜミミズに小便をかけるとチンチンが腫れるといわれるのか不思議だった。迷信であるとは知っているが、言い伝えられているからにはそれなりの根拠があるはずだ。小さい頃から禁則のみを教えられて、その理由は聞かなかったため、以来十数年悩み続けていた。

 先日、ようやくこの疑問が解けた。中野宏『人はなぜ迷信が気になるのか』(河出夢新書)を読むと、「ミミズは田畑にとって大事な生き物であり、小便をかけたりするものではないという禁忌である」と書かれている。田畑の恵みを受ける人間にとっては、なるほどミミズは尊い生物なのであり、それを汚すことは許されないのだろう。それならそれで、ミミズを大事にしなさいといってくれればよいものを、なまじ「チンチンが腫れる」などというから、かえってミミズの社会的地位がおとしめられてしまうのだ、という気がしないでもないのだが、一応は理由づけがなされたので納得できた。

 ところで、この『人は~』を読んでいると、世の中には他にも様々な迷信・俗信があることが分かる。「お雛様は早くしまわないと、娘が縁遠くなる」「茶柱が立つと縁起がよい」など、我々のよく知っているものもいくつかある。しかし、多くは聞いたこともないものばかりで、世の中にはこんな迷信があったのかと驚かされるものが多い。

 たとえば、「人に砂をかけると、身体がグニャグニャになる」というのは初めて聞いたが、本当にこれが信じられている地域があるのだろうか。砂をかけたらグニャグニャになるのだったら、砂場で遊んでいる子供たちはもはや軟体動物のようになっているのであろうか。それとも、それを通り越して内臓がドロドロになっているのだろうか。外見上はそう見えないし、本人もそう気づいていないようであるが、実は子供たちはゼリーのようになっているのだろうか。身体がグニャグニャになるのだったら、やはり、バレリーナや新体操をする人々は、演技をするまえに砂をかぶったるするのだろうか。客席には「砂かぶり席」なども用意されているのだろうか。疑問は尽きない。

 「アリジゴクを枕に入れておけば、夫婦の仲が和合する」というのもある。私は妻帯者ではないのでよく分からないのだが、やはり寝る前に妻がアリジゴクを入れていたりすると、よし今日はやるぞ、という気分になるのであろうか。夫婦の仲が冷めてきたことを感じたら、アリジゴクをつかまえてくるのだろうか。それとも、世間一般の家庭ではアリジゴクを飼っていて、いざというときに備えているのだろうか。これまた、疑問が尽きない。少なくとも、私はアリジゴクを飼うような(ましてや、枕にいれるような)人とはお近づきになりたくないのだが。

 さらに、こんなものもある。「朝焼けと姑の笑い顔は油断するな」。これは、ある程度分かる気がする。解説すると、朝焼けは雨の前触れだから気をつけなければならないし、姑の笑い顔はいやがらせの前兆(かもしれない)から同様に気をつけるにこしたことはない、ということだ。一応、頭では納得できるのではあるが、なにも「朝焼け」と「姑の笑い顔」を結び付けなくてもよいのではないだろうか。なんだかオヤジ的センスがただよう迷信である。だいたい、相手に笑いかけて警戒されるのでは、姑の底意地が悪くなるのも当たり前である。

 迷信や俗信の類はこのようなものなのかもしれないが、解説なしで聞かされると納得できないものが多い。むろん、それなりの理由がそれぞれの迷信にはあるのだろうが、いまだに理由が解明されていないものも多いのである。初めて聞いた迷信の中で、まともに納得できるものは数えるほどしかない。一例を挙げると、

「便所に落ちると、出世しない」

 まったくそのとおりだと思う。