沈黙のメッセージ

 発車五秒前。ドアはいまにも閉まりそうだ。階段を三段とばしで駆け下りているときに、足を踏み外してしまう。あっと思ったときにはもう遅い。バランスを立て直す間もなくしりもちをつき、三段とばしの勢いで、そのままデクのように階段をすべり落ちる。およそ五段ほどすべり落ちた後にからだは停止し、やっとの思いで立ち上がって痛む尻を押さえながらドアが閉まる寸前の電車に駆け込む。

 このような状況におちいったとき、いったいどのようにふるまえばいいのかということは、古来より多くの賢人たちにより考え尽くされてきた。いわく、「口笛を吹くとよい。そうすれば、その澄んだ音色が気まずい空気を和ませてしまうだろう」。いわく、「車内をぐるりとにらみわたせばよい。そうすれば、その威圧感があなたの恥ずかしいシーンを忘れ去らせるだろう」。いわく、「スキップをすればよい。そうすれば、その珍妙な行動がすぐ以前の滑稽なあなたを覆い隠すだろう」。賢人たちは、階段からすべり落ちた我々を救うべく、さまざまな解決策をあみ出してきた。

 とはいえ、別に賢人たちの知恵に頼るまでもない。たいていの人はちょっと照れ笑いを浮かべながら車内に乗り込んでくる。入ったときは車内からの注目を浴びることになるが、すみっこのほうでおとなしくしていれば、すぐに車内の空気は平常に戻る。気まずい空気があとあとまで残ることはない。電車から降りるころには、階段からすべり落ちたことなど全ての人が忘れてしまうだろう。

 しかし、賢人たちは「階段からすべり落ちた人間がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれるが、「階段からすべり落ちた人間を見ていた人がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれない。自然にふるまえばいいだろう、と言う人もいるだろう。私だって、昨日まではそう思っていた。しかし、すべり落ちた人間が何事もなかったように車内に乗り込んできて、よりにもよって私の隣に腰をおろしたとき、私はいったいどのような反応をすべきなのだろうか。

 そんなこと気にする必要なんてないんじゃないの、と思う人は同じ経験をしたことがない人だ。乗り込んできた人がてれ笑いのひとつもしてくれて、うつむきかげんにしてくれれば、こちらも救われる。相手が「ちょっと失敗しちゃった。エヘ」と思っていることがこちらに伝わるからだ。しかし、相手がそのような「気まずさ解消行動」をとらなかった場合、どうも妙な気分なのである。なぜこの人はこんなに堂々としていられるんだろうか。なんだか得体の知れない人物だという印象を受ける。ひょっとしたら苦痛をこらえていたりするのだろうか、という推測をしてみるが、それをじっくり観察するのも趣味が悪い。かくして、うっかりその人のほうに顔を向けられない。首がこり固まったようになってしまうのである。単に、階段からすべり落ちた人がとなりに座っただけなのに、すごいプレッシャーだ。このようなとき、私はどうすればよいのだろうか。

 「大丈夫ですか」と声をかけるのはどうか。「だいぶ尻を打ったみたいですけど、よかったらさすりましょうか」と親切で言ってみるのはどうだろう。相手は受け入れてくれるだろうか。そこから「ええ、大丈夫です。優しいんですのね」なんて和やかな雰囲気が流れるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンの尻をさするのは嫌だ。

 「どうです、今の心境は」と聞いてみるのはどうか。そうすれば、「ええ、五段は新記録でした」なんて思わぬ話を聞くことができるかもしれない。それどころか「よかったら、明日の朝はごいっしょしませんか」なんて友情が深まるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンとそろって階段をすべり落ちるのはごめんだ。オッサンとじゃなくたってごめんだ。

 「いやあ、あそこは危ないですよね。僕も先日すべったばかりで」なんて気さくに話し掛けるのはどうか。「あれじゃあ誰だってすべっちゃいますよ。あはは」と乾いた笑いをたててみるのはどうか。いや、ダメだ。「バッカじゃない」なんて軽蔑の目で見られたりしたら、立ち直れない。

 結局、言うべきことは何もないのだろうか。なぜ私がこんなことで悩まなければならないのか。こいつが慣例通り、てれ笑いをしてうつむいていれば、無駄に頭をつかう必要もないのに。そんなことを思いながらちらと隣を見たら、ばっちりと目が合ってしまった。私は、ちょっとてれ笑いをしてうつむいた。