注文の多い両手

 人はさまざまな状況で両手をあげる。

 たとえば、自分の存在をアピールしたいとき、人は両手をあげる。たいへんに混雑した場所で、待ち合わせの相手が自分を探しているときなど、人は両手をあげ目立つようにし、自分がそこにいることをアピールする。あるいは、テレビカメラが大勢の群集を写したとき。そんなとき、人は両手をあげて自分が田舎者であることをアピールする。

 喜びを表現するときも、人は両手をあげる。国家的な慶事があったときなどは、大勢の人が「ばんざい」と叫びながら両手を上下させる。個人的なことであっても、たとえば胴上げをされている人を見れば、必ずといっていいほど両手をあげている。腕組みをしながら胴上げされる人などいない。手を合わせて胴上げされる人は、そんなに仲間が信頼できないのだろうか。

 また、相手に降伏するときも両手をあげる。銀行強盗は決り文句のように「手をあげろ!」と言う。強盗を取り囲んだ警察も、強盗に向かって「手をあげろ!」と言う。「手を叩け!」という強盗はいない。「手がかゆい!」という警官もいない。

 他にも、球技場でウェーブをするとき、旗揚げゲームをしているとき、ラジオ体操で深呼吸をするとき、両隣の人にわきの臭いをかがせたいとき、元気玉をつくるときなど、両手を挙げる機会は数え上げればきりがない。

 このように「両手をあげる」という行為はさまざまな意味を持っている。目立ちたいときも、嬉しいときも、脅されたときも、人は両手をあげるのである。これで混乱しない者がいるだろうか。誰しも両手をあげるときに、自分がいったい何のために手をあげているのか不安に思いながらあげているのである。

 しかしながら、手をあげる状況がそれぞれ単独で起きたときならば、人はそれほど混乱しない。手をあげなければならない状況が複合的に襲ってきたときこそ、混乱の真骨頂である。たとえば「銀行強盗に襲われているとき、赤ちゃんが誕生したことを告げられた」という状況はどうか。そんな状況におちいったとき、人は両手をあげながら、喜んでいいのかおびえていいのかわからなくなるだろう。ましてや「銀行強盗が赤ちゃんを産んだ」ときにはどうすればいいのか。

 あるいは、「暴漢に襲われながら撮った記念写真で目立ちたい」という場合はどうか。自分が暴漢におびえて両手をあげているのか、目立ちたくて両手をあげているのかわからない。そもそも何のために記念写真を撮るのかわからない。混乱である。

 どうも、この「両手をあげる」という行為にはさまざまな意味が付け加わりすぎていて、複雑な状況に対応するのは難しい。考えれば考えるほど、自分がどのような状況でどのような意味をもって両手をあげればよいのかがわからなくなり、うっかり手をあげることもままならない。……どうしていいかわからなくて、どうにもならなくなった人にできることは、ただ「お手上げ」である。