動物と人間の違いとして「道具をつかう」「本能より理性で行動する」「すぐに理性を捨てることができる」などがよく挙げられるが、「言葉をつかう」というのもそのひとつだ。人間がいつから言葉をつかうことができるようになったのかは知らないが、人間は言葉によって「現象」を定義し、認識することができるようになったのではないかと思う。
たとえば「くしゃみ」という言葉がなかったらどうだ。「くしゃみ」という言葉があってこそ、くしゃみをしたとき「くしゃみが出た」と思うことができるのではないか。「くしゃみ」という言葉がないときにくしゃみをしたら、何が起こったのかわからないのではないだろうか。
「今、なんか爆発した…。」
そんな感じだろうか。
「ハクション!」
「今の何?」
「ああ、ちょっと爆発しちゃって…」
「爆発?」
「爆発っていうかさ…、口からすごい勢いで七人の小人が飛び出す感じ?」
「小人?」
「だからさ、擬音であらわすとバヒューンって感じでさ…」
話はややこしくなるばかりである。
「くしゃみ」という言葉があれば「くしゃみが出た」で済むことだし、そもそも「今の何?」などとは聞かれないだろう。言葉がないばかりに、いらぬ苦労をしなければならない。くしゃみならまだしも「屁」という言葉がなかったらどうだ。
「(プスー)」
「?」
「あ…空気が漏れる…」
「なんだかにおわない?」
「ごめん…」
「何? 何があったの?」
「たった今、ぼくの身体から悪霊が生まれたのです…」
何が起こったというのか。ただ屁をこいただけなのに。
それでは効率が悪いから、人は「現象」に名前をつける。名前をつけることによって「現象」は一般化され、ひとつの言葉で伝達ができるようになるのである。してみると、言葉というのは偉大である。
それにしても、想像してみるに「はじめてその現象を名づけた人」というのは「よいことをした」という気持ちだっただろう。それまではなんだかまわりくどい言いかたをしなければならなかったのに、これからはひとことで言い表すことができる。これは便利だと思ったことだろう。私もそれにならって「急いでいるときに限ってタンスの角に足の小指をぶつけてしまい、うずくまって小指を抑えているとき全身にめぐる感覚」について、ひとつ名前をつけてみることにする。
「…………。」
言葉にならない。