そっと目を閉じて

 先日、視力検査を受けた。受けるたびに思うのだが、あれはどれくらい本気になっていいのだろう。マークが見えそうで見えないとき、素直に「見えない」というべきなのか、パンチラ・アイを使ってもいいものなのか。どれほど手加減すべきかわからず、余計なところで気をつかわされる。

 思うに、上のような迷いが生じるのは、視力検査が単純に「高ければよい」というものではないからだろう。視力検査は視力を測るためにあり、それを競うものではない。実際、視力が高ければよいことばかりかといえば、たとえば鏡を見るときなどは視力が低いおかげで人生に絶望せずにすむ。

 もっとも、視力は人間の基本的な身体能力のひとつであるのに、それを競わないのは不自然なことかもしれない。どれだけ速く走れるか、どれだけ重いものを持ち上げられるかなどを競う競技があるのだから、どれだけ遠くのものを見ることができるのかを競ってもよさそうなものだが、実際は、せいぜいとなりの席の人と「視力どれぐらいあった?」などといいあうくらいで、プロが実力を発揮する機会はない。

 もし、視力検査の世界大会などがあれば、おそらくは視力10.0くらいのすごい人たちが競いあうことになるだろう。視力検査表を百メートルほど離れた場所に置き、無線で連絡を取り合いながら「はい、これは?」「右です」などと答えあうのだ。地味な大会である。

 いや、世界大会というくらいだから、そんな牧歌的なものではすまないかもしれない。凄腕のスナイパーや、チベットの修行僧や、サバンナの狩猟民族など、世界の視力自慢が参加して、常人にはなしえない技を繰り出すことになるかもしれない。ある者は、カメレオンのように眼筋を自在にコントロールする。ある者は、びっくりすると目が数メートル飛び出す。果ては、目からビーム光線をだしたりするようになるかもしれない。

 だが、それらの強敵すらも凌駕するすごい男がやってくる。そいつは、検査表を見ることすらしない。用いるのは心眼である。たとえ何キロ離れていようと、どれほど小さいマークであろうと、精神集中すればぴたりと当ててしまうのだという。もはや彼にとって、こんな大会は目じゃない。