『ナンとジョー先生』 教訓と茶番

若草物語 ナンとジョー先生
1993年1月17日~12月19日放映(全40話)

 『ナンとジョー先生』は、その六年前に放映された『愛の若草物語』の続編で、若草四姉妹の次女ジョーとその夫ベアが経営するプラムフィールドと呼ばれる寄宿学校を舞台に、主人公のナンをはじめ10人の生徒のほのぼのまったりした学校生活を描いた物語である。


左『ナンとジョー先生』01話 ジョー先生とベア先生
右『ナンとジョー先生』24話 ナンとジョー先生

 昔の学校にしては珍しく、プラムフィールドには体罰がない。生徒に善悪を教えるときは、生徒の良心に訴えかけて自らの過ちを気づかせる。たとえば、生徒が夜更かしをして、注意してもなかなかベッドに入らないとき、ジョー先生はこう宣言する。

「みんな寝るのが嫌いなようね。そこで今夜からみんながどんなに遅くまで遊んでいても叱らないことにしました。」

 そうすると、生徒は「ジョー先生はすごく怒っているに違いない」と無言の圧力を感じ、また、いつも見守ってくれるジョー先生の優しさを思い出し、反省してすすんで眠りにつくのである。

 いい学校だとは思うが、この学校に入りたいかと問われれば、あまり気が進まない。「いい子」になれというプレッシャーが強すぎるのだ。学校は、ジョー先生を母親、ベア先生を父親として、擬似的な家族関係を築いている。生徒たちは、先生に見放されることを、あたかも親に見捨てられるように感じているように見受けられる。

 ところで、この作品は日常を描いた正統派アニメであり、あまり事件らしい事件が起こらない。

 いや、正確にいえば、事件は起こるのだが、あまり印象に残らない。

 その理由を考えてみると、事件が発生しても、そこから「教訓」を得た生徒が成長して事件が締めくくられるというプラムフィールド特有の「いい子」空間の魔力が原因と思われる。

 たとえば、ナンが野イチゴ摘みのときに立ち入り禁止のエリアに入って行方不明になるという事件があった。捜索の末に発見されたナンは、越えてはいけない柵を越えたことについて「あんなに先生にダメだっていわれてたんですもの。それを破るのが最高の冒険だったわ」と平気な顔である。

 ところが、そんなナンを見てジョー先生が簡単な罰を与えると、その日の夕方には「あたし五歳の子と同じでした。しちゃいけないことが分からないなんて」と泣いてすがりつくのである。


左『ナンとジョー先生』4話 規則破りを得意げ話すナン
右『ナンとジョー先生』4話 泣いてジョー先生にすがるナン

 こうなると、あらゆる事件が教訓を得るために存在しているのではないかという錯覚を覚え、事件そのものが嘘っぽく感じるのである。就職面接で自分の短所を聞かれた学生が、「頑固なところです。一度決めたことを最後までやり通します」とさりげなく長所にすり替え、結局はさっぱり印象に残らなくなってしまう感じに似ている。

 あるいは、もっと直接的に言えば、小学校のときに道徳の時間に「さわやか三組」などの番組を見せられて「茶番」という言葉の意味を理解した感じに似ている。

 こうして、なにごとも最後をとってつけたような教訓で終わらせてしまうと、本題の部分の印象が薄くなるのではないか。と、そんな教訓を得たのである。

『小公子セディ』 無垢の怪物

小公子セディ
1988年1月10日~12月25日放映(全43話)

 ニューヨークの下町で生まれ育った少年セディは、父の死を機に伯爵家の跡継ぎとしてイギリスのドリンコート邸に迎えられ、偏屈な祖父と暮らすことになる。祖父は、純粋無垢なセディと暮らすうち、次第に心優しい気持ちを持つようになっていく。

フォントルロイスーツ
『小公子セディ』18話 セディ

 見終わってからいろいろ考えているうちに、もしかしてこの作品のジャンルはホラーではないかと思うようになってきた。

 作品を見ているときにセディのことを怖いとはっきり感じたのが33話である。セディは「単語のスペルが間違っているかもしれないから見てほしい」と、ニューヨークの知り合いのホッブスに宛てて書いた手紙を祖父に読んでもらう。その手紙には祖父のことが書かれている。自分の偏屈を自覚している祖父に、こんな手紙を読ませるのである。

  親愛なるホッブスさん。
  ぼくはおじいさんのことを書きたいと思います。
  おじいさんは立派な伯爵です。
  伯爵が暴君なんていうのはまちがっています。
  僕のおじいさんは暴君ではありません。
  ホッブスさんもおじいさんに会ったらいいお友だちになるでしょう。
  だれだってみんなに親切な人のことは好きになるからです。

 断っておくと、セディは手紙を読ませることによって祖父に何かを伝えたいわけではない。セディは、祖父が善良な人だとただ単純に信じ切っており、それをあのままに書いただけなのだ。だが、自分のことがこんな風に書かれた手紙を読まされて、平静を保っていられるだろうか。どうしたってセディの気持ちを裏切りたくないと思ってしまうのではないか。

 つまり、セディの周りにいる人は、セディが意図しているわけでもないのに、ゆるやかにマインドコントロールされ、セディの望む人格に作り変えられていくのである。セディは26話で「小さな若君(リトルプリンス)」との二つ名を与えられているが、そんな可愛らしいものではない。セディに二つ名を付けるなら、「無垢の怪物(イノセントモンスター)」とでもしておきたい。

 むろん、セディのマインドコントロールが及ばない人もいる。この作品には、世界名作劇場にしては珍しいほど「悪役」といえる人物が登場する。

コールデット夫人…7~8話に登場。セディの母が仕立てたドレスに難癖をつけて引取りを拒否した。

ハリス夫人…14~22話に登場。伯爵の親戚。伯爵の跡継ぎとしてドリンコート邸に突然やってきたセディに辛く当たる。

ニューイック…24~35話に登場。伯爵の領地の管理人だが、領民に不親切で嫌われている。地位を利用して私腹を肥やす。

ミンナ…39~43話に登場。ドリンコート家の正統な跡継ぎの母親と騙り、セディをドリンコート邸から追い出す。

 ふつう、児童文学に出てくる悪役というのは、最終的には罰を受けたり、改心したりするものだ。勧善懲悪や因果応報というのは児童文学の基本といってもいいだろう。

 ところが、この作品に登場する悪役は、ただ“いなくなる”のである。コールデッド夫人もハリス夫人もニューイックもミンナも、反省してセディに謝ったり、後悔の涙を流したり、捕まって罰を受けたりすることはない。彼らには、何のペナルティもなく、もともと存在しなかったかのように、ぱったりと登場しなくなってしまうのである。それに気づいたとき、どこか薄気味悪さを感じた。

 最終話を迎えて、そこにはセディを心の底から愛する人しかいない。セディに疑いを持つものや反感を持つものは消えてしまった。

 いなくなった彼らは、本当にどこかにまだ存在しているのだろうか。

『私のあしながおじさん』 おじさんの趣味

私のあしながおじさん
1990年1月14日~12月23日放映(全40話)

 「お嬢様学校に思いがけず入学した天真爛漫な主人公」という本作の設定から、ただのハートフル学園コメディだろうと油断してはいけない。


『私のあしながおじさん』6話 ジュディ・アボット

 主人公のジュディ・アボットは孤児である。あしながおじさんの援助でリンカーン記念女子学園に入学する(3話)。ジュディは孤児院育ちということに強いコンプレックスを持っていて、誰にも自分の過去を打ち明けられない。なにしろ、脱走未遂の罰として犬のように木に縄で縛られさらし者にされたり(29話)、クラスメイトの寄付したおさがりの服を着て同じ教室で授業を受けさせられたり(29話)、超重量級のトラウマを植え付けられた孤児院のことだ。気安く話せることではない。

 ジュディの抱えるコンプレックスは、ジュディの青春にも暗い影を落とす。授業で「家族」をテーマにした作文を課されたときは、孤児院を大きなお屋敷と偽った悲しい嘘の作文を書き(6話)、孤児への寄付を求められたときは「貧乏人はお金持ちが慈善を施すための家畜なのか」とルームメイトにどなってしまう(7話)。そして、金持ちのジャーヴィスからプロポーズされたときには、彼を愛しているにも関わらず孤児院育ちの自分を卑下して断ってしまう(38話)。

 なかなかコンプレックスから解放されないまま、ジュディは卒業式を迎える。最優秀卒業生として答辞を述べることになったジュディは、意を決して壇上で自分が孤児であることを告白し、自分のいじけた考えと決別する(39話)。

 卒業式のあと、ジュディはあしながおじさんの正体がジャーヴィスだということを知る(40話)。

 ジュディはあしながおじさんの正体にすっかり感激していたが、ジュディがあしながおじさんに書いた手紙は全部ジャービスが読んでいたわけで、なかには恋愛相談なんかもあったりしたわけで、ジャービスはそれをニヤニヤしながら読んでいたであろうわけで、ジュディはビンタぐらいしてもよかったと思う。

『小公女セーラ』の正義の話をしよう

小公女セーラ
1985年1月6日~12月29日放映(全46話)

 ミンチン女子学院というロンドンの寄宿学校に入学した10歳の少女セーラは、父の死によって、学院一のお嬢様から、元クラスメイト達に仕える使用人に転落する。


左 『小公女セーラ』07話 セーラ・クルー(転落前)
右 『小公女セーラ』15話 セーラ・クルー(転落後)

 率直にいって、作品のストーリーやテーマより、貧乏になったセーラが虐げられるシーンが何よりも印象に残る作品である。特に、元クラスメイトのラビニアが、セーラが逆らえないのをいいことに執拗にいたぶるところなど、見ていると胸が痛くなる。

 疲れて暖炉の前で居眠りするセーラに対し、セーラのもたれかかっている石炭桶を思い切り蹴飛ばす物理攻撃(34話)や、セーラに靴を磨かせ「履かせてちょうだい」と命令する精神攻撃(20話)など、忘れがたいシーンは多い。


左 『小公女セーラ』34話 物理攻撃を受けるセーラ
右 『小公女セーラ』20話 精神攻撃を受けるセーラ

 屋根裏から馬小屋に寝床を移されたセーラについて、他のクラスメイトに「こちらのお嬢様はね、昔お飼いになっていた馬の馬小屋に今は住んでらっしゃるんですって」と話す時の口ぶりときたら、視聴者にそういう性癖があったらヘビーローテーションしたくなる場面である。(39話)

 それにしても、見ていると胸が痛くなるような作品なのに、つい続きを見てしまうのはなぜだろう。

 ネットでこの作品の感想を見ていると、「いじめを助長している」とか「悪者に罰が与えられないのは教育上よくない」という正義感にあふれるコメントが多く見られたので、私もそう思ったことにしようかと考えたが、やっぱりセーラが悲惨であればあるほど中毒性があるのだ。

 人は、押したらダメというボタンを押したくなる。食べると太ると思うと食べたくなる。くさいものは嗅ぎたくなる。それと同様に、見ないほうがいいとわかっていても見たくなるのである。これは、もしかしたら多くの人が共通して持つ一種の破滅願望なのかもしれない。

 この作品を見ていて、ふと思った。どこか、人目に付かないところに「お金を入れると恵まれない子供が救われる募金箱」と「お金を入れると恵まれない子供がもっとひどい目に会う募金箱」を並べて置いたら、案外、後者にたくさんお金が入ったりしないだろうか。

『七つの海のティコ』は90年代らしいアニメ

七つの海のティコ
1994年1月16日~12月18日放映(全39話)

 主人公は11歳の少女ナナミ。4歳で母を亡くして以来、金色に発光するクジラ(ヒカリクジラ)を探すというオカルトじみた研究にのめり込む父に連れられ、学校にも通わせてもらえずに、海洋調査船ペペロンチーノ号で世界中を旅する毎日である。なお、ペペロンチーノ号の船名の由来は作中では明かされていないが、父親が「ナナミ(七味)とペペロンチーノ(唐辛子)を合わせて七味唐辛子…なんちゃって」とダジャレで決めていたりしたら、そんな船には乗っているだけで苦痛だろう。

 ナナミと父以外のペペロンチーノ号のクルーは、太った中年イタリア人だけだ。思春期の女の子が父と中年男の3人で狭い船で生活するのはストレスが溜まりそうだが、ナナミはいい子なのでまったくそんなそぶりを見せない。もちろん、ナナミに人間の友達はいない。シャチにティコという名前を付けて、よく海で遊んでいる。


『七つの海のティコ』3話 洗濯物も一緒に干す

 物語が進むと、ペペロンチーノ号に3人のクルーが乗り込んでくる。まず、財閥令嬢のシェリルとその執事。もう一人は内気でコンピュータが得意な10歳の少年トーマス。序盤は頼りにならないが、作中で著しく成長し、終盤ではナナミの良き相棒となる。ナナミとトーマスのちびっこコンビが駆け回る様子は、ニコニコしながら見てしまう。


『七つの海のティコ』37話 トーマスとナナミ

 そんなペペロンチーノ号の仲間たちだが、ヒカリクジラをめぐって巨大企業GMCと対立することになる。いろいろあって、GMCがヒカリクジラ研究のため南極に建てた基地は破壊され、悪の親玉の乗るヘリコプターは崖に衝突し炎上する。それにしても、動物については必死で守ろうとするナナミが、南極海に落ちたGMCの研究員や警備員については眉一つ動かさず無視するのは、ヒカリクジラ至上主義者とでもいうべき父の長年の教育の成果だろうか。

 なお、ようやく邂逅を果たしたヒカリクジラだが、実在する存在かと思いきや、オーバーマインドとか統合情報思念体とかいう名前でSFに出てきそうなオカルトっぽい存在というオチで話は終わる。

 世界名作劇場のなかでは最も新しい年代を舞台にした作品なのだが、しょうもないオカルトじみたエコ思想に古臭さを感じる作品である。

『あらいぐまラスカル』 飼ってはいけない

あらいぐまラスカル
1977年1月2日~12月25日放映(全52話)

 アライグマは、2005年に外来生物法で人や農作物に被害を及ぼす動物に指定され、もちろん飼育は禁じられている。アニメは1977年の放映で、現在の日本の感覚とは違うのだと理屈ではわかるのだが、やはり今となってはアライグマをペットとして飼うこと自体に違和感がある作品である。


『あらいぐまラスカル』15話 ラスカルとスターリング

 主人公のスターリングは動物好きで、アライグマののほかにセントバーナード犬のハウザーとカラスのポー、スカンク4匹を世話している。

 カラスはスターリングがエサを与えるので人に慣れてしまい、スターリング家の隣の教会に巣をつくってミサの妨害をしたり(1話)、近所の花畑の種をほじり返したりする(16話)。苦情を受けたスターリングはカラスに向かって説教したあと、こうつぶやく。

「あいつ本当にわかったのかな。そうだよな、わかっちゃいないんだよな。もういいや、ハウザー、さあ、釣りに出かけよう」

 この無責任さは何とかならなかったのだろうか。

 また、スカンクは、スターリングと仲が悪い少年スラリーに犬をけしかけられ、教会で結婚式の最中に悪臭を放ち、結婚式をめちゃくちゃにしてしまう(6話)。その場から逃げ出したスターリングは川辺でこうつぶやく。

「僕が悪いわけでもないのに。ただスカンクを飼っていただけなのに…」

 確かに犬をけしかけたスラリーの責任は重い。でも、何かの拍子にスカンクが悪臭を放つのは十分に考えられることなのだから、まったく無責任でいられるわけではない。

 そもそも、作品のタイトルとなっているあらいぐまラスカルは、森で母と暮らしていたところを、スターリングとセントバーナード犬に巣を掘り返され、巣から飛び出した母が猟師に撃ち殺されたことで、スターリングに飼われることになる。スターリングさえいなければ、ラスカルは母子仲良く森で暮らせのだが。


『あらいぐまラスカル』1話 撃たれた母にすがるラスカル

 私は、どうもこの主人公が好きになれないし、動物好きだとも思わない。

 なお、主人公の運命は物語は進むにつれて下降線をたどっていくことになる。母が亡くなり(14話)、ラスカルは檻に入れられ(28話)、父の事業が災害で打撃を受け(37話)、やがて父や友達と離れて暮らすことになる(49話)。身勝手で残酷な少年に対する因果応報の物語なのかもしれない。

『世界名作劇場』に出てくるお金の価値

 世界名作劇場を見ていると、お金をやりとりする場面で「これは現在の日本円に換算していくらなんだろう」と思うことがある。そこで、国立国会図書館リサーチ・ナビの「過去の貨幣価値を調べる(明治以降)」を参考に、当時のお金との換算レートをつくってみた。

 簡単にいうと、昔は物価が安いので「現在のA円」に相当する「過去のB円」がいくらかを物価指数により計算する。次に、「過去のB円」に相当する「過去のCドル」がいくらかを当時の為替レートにより換算する。これで、「過去のCドル」に相当する「現在のA円」がいくらかがわかるはずだ。

 細かいことは後述するが、各作品に登場したお金を現在の日本円に換算すると、このようになる。

フランダースの犬 パトラッシュの代金 3フラン 1400円
フランダースの犬 ジェハン爺さんの1か月の稼ぎ 2フラン 950円
フランダースの犬 画用紙 10サンチーム 48円
フランダースの犬 ルーベンスの絵の鑑賞代 1フラン 500円
フランダースの犬 絵画コンクールの賞金 200フラン 99000円
フランダースの犬 コゼツ旦那の落とした金 2000フラン 99万円
ペリーヌ物語 パリカール(ロバ)の代金 30フラン 15000円
ペリーヌ物語 パンを6枚厚く切って具を
たっぷり挟んだもの
40サンチーム 210円
ペリーヌ物語 3日前の固くなったパン 2サンチーム 10円
ペリーヌ物語 トロッコ押しの日給 60サンチーム 310円
ペリーヌ物語 共同部屋の1日当たり間借り賃 20サンチーム 100円
ペリーヌ物語 社長秘書の月給 90フラン 46000円
ナンとジョー先生 卵12個 25セント 670円
ナンとジョー先生 モーツァルトの楽譜 3ドル 8100円
小公女セーラ ダニエル少年からもらったお金 6ペンス 350円
小公女セーラ ぶどうパン1個 1ペンス 59円
小公女セーラ ミンチン女子学院への寄付 10万ポンド 14億円
赤毛のアン アラン牧師の年俸 750ドル 220万円
赤毛のアン 毛染め剤の価格 75セント 2200円
赤毛のアン 大学の奨学金1年分 250ドル 71万円
家なき子レミ レミの代金 20フラン 11000円
家なき子レミ ヴィタリス一座の1公演での稼ぎ 3.35フラン 1800円
家なき子レミ レミのパリでの1日の稼ぎ 23スー 610円
家なき子レミ レミの身代金 1万フラン 530万円
あらいぐまラスカル パイの早食い競争の賞金 5ドル 11000円
あらいぐまラスカル 大人用手袋 5ドル 11000円
私のあしながおじさん 入学準備金 50ドル 40000円
私のあしながおじさん 小説コンテスト入賞賞金 25ドル 20000円
名犬ラッシー 炭鉱作業員の週給 3.5ポンド 41000円

 物価指数というのは物価の変動を示す指標だが、日本銀行が1887年から調べている企業物価指数と、政府が1946年から調べている消費者物価指数がある。世界名作劇場は戦前を舞台を作品としている作品が多いので、より古い年代までわかる企業物価指数を用いている。

 さらに1887年より以前については米価が参考になるが、米価は短期間での変動が激しいものの、長期的にはあまり変動していないとみて、1887年以前は物価変動なしと取り扱った。


米価と物価指数の比較グラフ

 また、為替レートは日本銀行統計局のデータによるが、1874年までしかない。日本の通貨単位が“円”になったのは1871年なので、それ以上過去にさかのぼるのは難しく、調べたところで江戸時代にまともな為替レートが設定されているとも思えない。よって、この文章では1874年までの換算で打ち切っている。

 以上をふまえて、現在の日本円と過去の外国通貨を換算すると、次表のようになる。


現在の日本円と過去の外国通貨の換算表

『赤毛のアン』 アン・シャーリーの全盛期とは

赤毛のアン
1979年1月7日~12月30日放映(全50話)

 原作の小説は有名だが、内容を知らない人に向けて簡単に説明すると、感情の振幅が常人の三倍ある女の子アン・シャーリーがマシンガントーク(というかマシンガンスピーク)をしまくる作品である。アンとその他のキャラクターのセリフ量を比べてみたら、9:1ぐらいになっているのではないか。

 アニメでもアンの長広舌は健在である。特に気に入ってるのが、アンが悲しみに暮れながら最後に余計なことをいって台無しにしてしまうセリフで、聞くたびに笑ってしまう。(アン本人は大まじめだが)

「お昼なんかほしくないわ。何にも食べられないの。胸がはりさけそうなのよ。あたしをこんな目に会わせて、いつか心から後悔することがあると思うわ、マリラ。でも、あたし、許してあげるわ。その時が来たら、あたしが許したことを忘れないでね。でも、お願いだから、何か食べろなんて言わないでちょうだい。特に豚肉や野菜の煮物は困るわ。悩みを抱いている者に豚肉や野菜の煮物はあんまりロマンチックじゃなさすぎるんだもの。」(12話)

「ああ、マリラ。あたしは永久に浮かばれないわ。今度のことはいつまでたっても消えないわ。みんなにも知れるし――アヴォンリーじゃ何でも必ず人にわかるようにできているんですもの。ダイアナはあたしにケーキの出来具合を聞くにきまってるし、そうすればほんとうのことを言わないわけにはいかないでしょう。これから先いつまでも痛み止めの塗り薬をケーキの香料に使ったんだって指さされることになるわ。ああ、マリラ、少しでもクリスチャンらしい憐みが残っていたら、こんなことのあとで、食器を洗えなんてこと言わないでちょうだい。」(22話)

 アニメと小説でセリフはほとんど変わらないのだが、アニメになることでより笑えるようになっている。アンの表情がくるくる変わったり、セリフに間を取ったりするのはアニメならではである。アンがしゃべっている横で、マリラが「何いってんだコイツ」という顔でアンを見つめていたりするのもいい。


『赤毛のアン』18話 アン・シャーリー

 ところで、アンは村の学校を卒業するあたりからどんどん成長して容姿も性格も変わっていく。アンのこども時代を懐かしんで嘆くマリラに対し、アンはこんなふうに答える。

「マリラ、あたしはちっとも変わってないわ。ただ少し鋏を入れたり、枝をのばしただけなんだわ。ほんとうのあたしは、そのうしろにいて――今までとまったく同じなのよ。」

 そうはいうが、こういうのは自分では何を失ったのかわからないものだろう。衝動的で、好き嫌いが激しく、ロックで、たびたびうっとうしいアンは消えてしまい、「正しい」アンになってしまう。あれほど「この娘が大きくなったらどうなるんだろう」と思わせてくれたアンなのに。

 大きくなって精神的にも物質的にもすっかり満ち足りてしまったアンは、牙をなくしてしまった。それは、アン本人もマリラも望んでいたことだろう。しかし、正しくなっていくことは正しいのかということを考えさせられる。大人の階段とは、実は下りなんじゃなかろうか。

『家なき子レミ』に足りないのは家だけなのか

家なき子レミ
1996年9月1日~1997年3月23日放映(全26話)

 1900年ごろのフランス。10歳の少女レミは、養父に売り飛ばされるところを旅芸人のヴィタリスに助けられ、ともに旅することになる。

 『家なき子レミ』は世界名作劇場のなかで『名犬ラッシー』と並んで最も短い全26話構成となっている。本放送時には未放送話が3話あったので、実質的には最短といえるだろう。その短さが、このアニメをずいぶん大味にしてしまったように思う。

 世界名作劇場において欠かせない、食事をしたり、たわいもない雑談をしたり、花を愛でたり、空を眺めたりといった、些細な日常描写がほとんどないがために、登場人物には生活感がなく、どこか親しみづらい印象を受ける。

 シナリオにも腑に落ちない部分が多い。人間嫌いだという旅芸人のヴィタリスがたいした理由もなくほぼ初対面のレミを助けたり(2話)、ヴィタリスが逮捕されて悲壮な決意をして街を出たレミが、何も状況は変わっていないのに翌日に街に戻ってきたり(9話)、そのほかにも随所で疑問を感じるシナリオとなっている。

 最も腑に落ちないのは、レミがミリガン夫人に保護されたとき、なぜ誰もレミがミリガン夫人の誘拐された娘だと考えなかったのかという点である。

・レミは捨て子であり、実母を探している。
・ミリガン夫人の娘は幼いころに誘拐された。
・レミと誘拐されたミリガン夫人の娘は同じ年頃である。
・レミは高価そうな産着を着て捨てられていた。
・レミは実母からもらったペンダントを持っている。

 これだけ分かっていれば、名探偵コナンを呼ぶまでもなく「もしかして、レミはミリガン夫人の娘では」と考えるだろう。いや、何の証拠がなくても、ミリガン夫人の息子アーサーとそっくりなレミが姉弟と思わないのは、どうかしている。


『家なき子レミ』11話 アーサーとレミとミリガン

 いろいろと不満はあるが、総じて丁寧さに欠けており、話の進め方が性急で、レミが周囲に流されるままの主体性のない主人公になってしまったのが残念なところだ。レミの決め台詞は「前へ進め!」だが、だいたいベルトコンベアーに乗っている感じである。

『ポルフィの長い旅』という長い旅

ポルフィの長い旅
2008年1月6日~12月28日放映(全52話)

 小学生のとき、作文の宿題で原稿用紙何枚以上と決まっているのに書くことがないときなど、少しでも文字数を増やすために「うれしかった」を「とてもうれしいという気もちを持ちました」みたいに無駄に冗長に書くことがあったが、このアニメを見てそんなことを思いだした。


『ポルフィの長い旅』20話 ポルフィ(12)

 人間そっくりだけど、どこか違うロボットに嫌悪を感じることを不気味の谷現象というけれど、この物語に見て感じたこともそれに通じるものがある。古今東西の様々な小説をインプットした人工知能がつじつまの合う場面をつなぎ合わせた、つぎはぎだらけの脚本。いうなれば、脚本におけるフランケンシュタインの怪物のようなもの。

 登場人物の行動がどこか変で、とにかく共感ができないのである。

 たとえば、下のようなことだ。

【問題】何年も絶交していた二人がむりやり会わせるとどうなる? (24話)
【予想】きまずい沈黙、ぎこちない会話など
【答え】すぐに笑顔で会話が弾む

【問題】トイレにて、ひとつしかない小便器を誰かが使っている。どうする? (24話)
【予想】少し待つ、大便器のほうで済ますなど
【答え】「どけ!」と使っている人を突き飛ばす

【問題】貨物列車が駅に止まっている。この後、旅客列車がやってくるそうだ。貨物列車が動きだした。どうする? (25話)
【予想】貨物列車の後にやってくる旅客列車に乗る
【答え】貨物電車に飛び乗る

【問題】地元の者以外は禁じられている場所で魚を捕っているところを見つかった。どうなる? (26話)
【予想】怒られる
【答え】マフィアのボスの屋敷に連れていかれる

【問題】二人ならんでアイスを舐めながら、会話のキャッチボール。「うまいぞ、このアイス」に対する返答は? (33話)
【予想】「そうだね」
【答え】「ぼくはもっとおいしいアイスたべたことある。母さんがつくってくれたんだ」

【問題】こっそりとトラックの荷台に乗り込んだが、どうやら運転手は密輸などする悪い奴みたいだ。車が止まったらどうする? (40話)
【予想】荷台から降り、運転手に見つからないよう、すぐに隠れる
【答え】荷台から降り、雪を見て感動。運転手に見つかる

 こういうのが全編を通して何十箇所もあり、全然興味がない前衛芸術を見せられたときのような気分になる。胸糞が悪くなるシーンも多く、世界名作劇場の看板がかかっているからといって、親子で見るようなことは決してオススメできない。

 それでも、未見の人にアドバイスらしきことをしておくと、第33話、第34話あたりは前後のつながりがあまりないので、それを見て気に入ったら見ることにすればよいと思う。ポルフィは長い旅をしたかもしれないが、これを全話見た私もそれに劣らず長い旅をした気分だ。

『愛少女ポリアンナ物語』から愛らしさが無くなったら

愛少女ポリアンナ物語
1986年1月5日~12月28日放映(全51話)

 「よかった探し」を抜きに、この作品は語れない。「よかった探し」とは、日頃から「よかった」と思えることを探し、いやなことや悲しいことがあっても落ち込みすぎないようにする生活の知恵のことである。主人公のポリアンナは4歳のときの母の死をきっかけによかった探しをするようになった。

 本編における記念すべき第1回目の「よかった」は、次のようなものである。

 外遊びから帰ってきたポリアンナは、父と食卓につく。食卓にはパンと牛乳しかのっておらず、ポリアンナは不平をいう。
「わたしいらない。ハムエッグがないんだったらわたし食べたくない」
 そんなわがままな態度を父は諭し、ポリアンナはすぐに反省する。
「ごめんなさい、おとうさん。このごろ火曜日にはいつもハムエッグが食べられたでしょ。だからわたし“今日も”って思ってたけど、今日だったら当たり前みたいでそんなにうれしくなかったかもしれないわね。きっと今度食べるときは今日の何倍もうれしいわ。よかった!」

 こんな調子で、ポリアンナは鈴のような声で、本編中に何十回と「よかった」を連発するのである。この作品を見終わったあとしばらくは「よかった」という単語を聞くたびに、ポリアンナの笑顔と四頭身の幼児体型が脳裏に浮かぶようになるほどである。


『愛少女ポリアンナ物語』6話 ポリアンナ(8)

 物語が進むと、ポリアンナにはさまざまな事件が訪れる。父の死(2話)や下半身不随になるほどの交通事故(21話)など、ハードな出来事に対しても「よかった」を探そうとするポリアンナの精神力はとても8歳児とは思えず、もしジョジョに登場していたら、さぞ強力なスタンド使いになっていたことだろう。

 ところで、この作品を見てから知ったのだが、心理学用語に「ポリアンナ症候群」というものがあるらしい。過度に楽観的であり、一見前向きだが実は問題点から目をそらしているだけというような症状のことをいう。

 アニメのポリアンナは幼いこともあってそのようにネガティブな印象を受けないのだが、大人になってからもこの調子では確かに困ることがあるかもしれない。仕事でミスをして「でも、おかげでこんなに課題が見つかったわ、よかった!」などと言われたら、上司はグーで殴りたくなるだろう。


『愛少女ポリアンナ物語』11話 よかったを見つけたポリアンナ

 そんなわけで、ポリアンナの将来を思うのであれば、「あまりよかった探しにのめりこむのをやめなさい」というべきなのかもしれない。しかし、ポリアンナにとって「よかった」はもはや口癖のようなもので、忠告されたからといって急にやめるのは難しい。そこで、「よかった」を少しだけ変えてみることにしてはどうか。

「ある意味よかった」

 つまり、最初のよかったはこんなふうになる。

「ごめんなさい、おとうさん。このごろ火曜日にはいつもハムエッグが食べられたでしょ。だからわたし“今日も”って思ってたけど、今日だったら当たり前みたいでそんなにうれしくなかったかもしれないわね。きっと今度食べるときは今日の何倍もうれしいわ。ある意味よかった!」

 思わずこぶしを握る父。

『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』を二回見たくない理由

大草原の小さな天使ブッシュベイビー
1992年1月12日~12月20日放映(全40話)

 1965年ごろのケニア。12歳のイギリス人の少女ジャッキーは、親をなくしたブッシュベイビー(以下、BB)の赤ちゃんを育てることになる。ちなみに、ジャッキーは世界名作劇場で最もグラマーなヒロインだろう。健康的で、イギリス人なのに紅茶より麦茶が似合うタイプである。


左『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』11話 ジャッキーとBB
右『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』25話 水着のジャッキー

 物語の前半ではジャッキーがBBを育てる様子や、ケニアでの生活が描かれるが、あまり起伏がなく退屈なストーリーである。

 物語が面白くなるのは後半からで、ジャッキーがケニア人のテンボと共にサバンナを横断する旅が描かれる。二人が密猟者やワランガ族に追われたり、ヒョウなどの野生動物に襲われたり、野火に巻かれたり、アフリカならではのダイナミックな冒険が繰り広げられる。

 ところで、この物語で最も印象に残るキャラクターは、主人公のジャッキーでも、タイトルにもなっているBBでも、相棒のテンボでもない。ジャッキーのクラスメイトのミッキーである。


『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』4話 ミッキー

 ミッキーは、ジャッキーの友人ヅラした性格の悪い肥満児である。なぜこんなにウザい性格のキャラクターを出したのか理解できない。ジャッキーに蛇を突き付けたり(3話)、わざとサッカーボールをぶつけたりしたときは(4話)、いじわるで女子の気を引こうとする不器用な男子ポジションなのかと思ったが、ジャッキーの兄を本人のいないところで笑い者にしていたあたりからは(10話)、さすがにうっとうしい奴としか思えなくなった。嫌われ者を集めたグループの中でも嫌われそうな男である。

 ミッキーはジャッキーの飼うBBをやたら欲しがるのだが、BBが川に落ちておぼれたときはガクガク震えながらボートの上で見ているだけである。泳げないテンボが川に飛び込んでBBを助けようとするのが、ミッキーのヘタレっぷりと対象的である (26話) 。もし世界中が敵になっても、こいつにだけは味方になってほしくない。

 ジャッキーとミッキーが密猟者に捕まったときは、ジャッキーに「俺を置いて逃げたりしないよな」とやたらに訴える(31~32話)。「お前とは違うんだよ」と言ってやりたい。ミッキーが嫌いになれるエピソードは書ききれないほどである。ディズニーはこいつにクレームをつけるべきだと思う。

 主役でもないのにここまで存在感のあるキャラクターは珍しい。

 なによりミッキーを見たくないがために、再び見ることをためらってしまう作品である。

『わたしのアンネット』における善良の意味

アルプス物語 わたしのアンネット
1983年1月9日~12月25日放映(全48話)

 私にとっての“神様”のイメージといえば、八百万の神である。

 つまり、大部分の生物や一部の無機物には神様が宿っていて、米には一粒当たり八十八柱の神様がいる。全知全能ではない。たくさん集まって「ちいちい」と鳴いたりする。なかには勘違いして人間のことを神様と思っているような神様もいる。神様なのでうんちはしない。もちろん、全知全能でないからといって侮ったりする存在ではない。

 そういうゆるい宗教観しか持たない私にとっては、このアニメはわりとハードだったりする。

 タイトルの「アルプス物語 わたしのアンネット」の「アンネット」は主人公の名前だが、「わたし」が誰なのか作中では明らかにされない。しかし、全話を見終わったうえで察するに、おそらくはキリスト教の神のことだろうと思われる。つまり、珍しいくらいにキリスト教を推してくる作品なのだ。

 このアニメでは、アンネットと幼馴染のルシエンがお互いに罪を犯し、それをいかに許しあうのかということがテーマになっているのだが、終盤は怒涛の宣教セリフが連発される。


『わたしのアンネット』10話 アンネットとルシエン

「イエス様…イエス様、私はいま私の心の扉を開きます。今まで心の扉を閉めたままでいたことをお許し下さい。どうぞ、私の心の中にお入り下さい。そして…そして、私があの木彫りの馬を壊した事をルシエンに正直に話すことが出来るよう、勇気をお与え下さい。ルシエンを私のところにお送り下さったことを感謝します。」(35話)

「アンネット、私は嬉しいよ。よくそこまで決心してくれたね、これも神様のご加護があったからだよ。イエス様はお前の心の中にも、ルシエンの心の中にも同時に入っておいでになった。本当にありがたいことだよ。でもアンネット、大事なのはこれからだよ。お前達は真剣にお互いのことを考えて、何が大切かを一生懸命に考えるようになった。そして、その結果お前達は仲直りすることが出来ました。でもそのうちにまた醜い心、怒りの心、自分勝手な心がお前の心の中に起こるかも知れない。そうなったとき、お前は今の素直な心を忘れないでいることが大切なんだよ。イエス様が深い愛をお持ちになってお前をお守り下さったように、お前も深い愛で答えなくてはならないよ。このことを忘れないようにね。」(37話)

「この聖書に書かれているように完全な愛は恐れをとりのぞくのです。イエス様は完全な愛で私たちをお守りくださっています。イエス様が愛してくださっていることを心の底から信じていれば、なんにもおそれるものはないのです。どんなものもわたしたちを傷つけることができないように守ってくださるのです。ルシエンは自分の罪の償いとして、このように危険なおこないをしました。でも、ルシエンの心の中には尊い愛があります。ダニーやお前のために尽くそうとする愛が。だからこそ、ルシエンは危険を恐れず峠を越えようとしているのです。ルシエンは恐れてはいません。私たちはそれを信じましょう。そして、ルシエンの帰りを待つのです。ルシエンの勇気を信じて。」(40話)

 いいたいことは理解できるが、こうも強くキリスト教を推されると、「別にキリスト教徒でなくても善良な人はたくさんいるんだけどな」と考えてしまう。やはり、クリスチャンのほうが楽しめる作品だろう。

『愛の若草物語』 目立たぬ長女メグに愛を込めて

愛の若草物語
1987年1月11日~12月27日放映(全48話)

 南北戦争中のアメリカ北東部に住むマーチ家の四姉妹が、父の出征で女ばかりの家の留守を預かり、お互いに助け合いながら成長していく姿を描いた物語である。


『愛の若草物語』24話 左上メグ(16)、右上ジョオ(15)、左下ベス(10)、右下エイミー(7)

 見終わって思ったが、長女メグのあつかいが悪くないか。

 次女ジョオは文学、三女ベスは音楽、四女エイミーは絵画とそれぞれに特技が設定されているのに、メグには何もない。

 メグに関するエピソードも、舞踏会デビューしようとしたら戦火に巻き込まれてできなかったとか(6話)、念願の舞踏会デビューを果たしたら足をくじいたとか(19話)、舞踏会で着飾ったら「孔雀みたい」と言われたとか(31話)、あまりメグの魅力を伝えるものがない。

 ほかの3人については、それぞれに印象的なエピソードがある。

 次女のジョオは37話で、戦地でケガをした父親のために自らの髪を売る。家族の前では、あっけらかんと「もじゃもじゃのときよりきっと頭がよく働くわ。軽くてひんやりして気持ちがいいのよ」と笑う。しかし、乙女が髪を切って平気でいられるわけがない。部屋に戻ったジョオは、ひとり枕を濡らす。思わず、頭を撫ぜながら、「だいじょうぶ? おれと結婚する?」といいたくなるシーンである。

 三女のベスは11話で空想のピアノを弾き、本物が弾きたくて涙を浮かべるほどのピアノ好きである。いろいろあって、隣家の老紳士ローレンスからピアノを贈られる。ふだんは冬眠中のシマリスよりおとなしく、マメ科の花より目立たないベスが、「私、幸せすぎて倒れそうなの…」とからだを震わせ、ひとりローレンスのもとへ出かけ、抱きついてお礼をいうシーンに、視聴者は萌え狂わざるを得ない。好きである。


『愛の若草物語』26話 ローレンスとベス

 四女のエイミーの42話における健気さは特筆すべきことである。ベスが病気で倒れ、感染しないように大叔母の家に預けられたエイミー。自宅には近づかないように言われるのだが、ある雪の日にがまんできずに自宅の庭先まで来てしまう。いつもはでしゃばりで我の強いエイミーが、ただ心配そうに家を見上げて雪の降る庭先にたたずんでいるところは、家族愛の象徴ともいえるシーンである。

 あと、メグはボンレスハムみたいな髪をしている。

 ――と、澤選手のようにオチ担当になってしまうのがメグなのである。若草物語で人気投票をしたら、ほかの三姉妹が上位に食い込む中、ひとりだけ9位とか微妙な順位になって、視聴者をいたたまれない気持ちにしそうなのがメグなのである。

 メグは47話でプロポーズされるのだが、最初は断ろうと思っていたのに、大叔母から「あんな貧乏人はやめておけ」と言われて、「そんなことないわ、彼はいい人よ!」とプロポーズを承諾してしまう。そんな勢いで決めて後悔しないか、老婆心ながら心配である。

 とにかく、どうか彼女に幸せがめぐってきますように。(メグだけに)

『ふしぎな島のフローネ』に学ぶ無人島生活の心得

家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ
1981年1月4日~12月27日放映(全50話)

 友人に招かれ、スイスからオーストラリアへ移住することにしたロビンソン一家は、オーストラリア直前で船が難破し、近くの無人島に上陸して生活することになる。

 ロビンソン一家は、船の難破をはじめ、さまざまなトラブルに見舞われる。長男が毒虫によって失明しそうになったり、次男がマラリアにかかったり、オオカミの群れに襲われたり、苦労してつくった船がすぐに転覆したり、世界名作劇場の他の作品と比べてもかなり悲惨な目に会っているのだが、全体としてはフローネがちょっぴり変わった南国リゾート生活を満喫している印象を受ける作品である。


左『ふしぎな島のフローネ』21話 海亀の孵化を見守るロビンソン一家
右『ふしぎな島のフローネ』25話 火おこしをするロビンソン一家

 ところで、せっかくの無人島ものなので、ここであらためて「無人島に何かひとつだけ持っていくとしたら何がいいか」という、いわゆる無人島問題を『ふしぎな島のフローネ』を通じて考えてみたい。

 なんでもありの条件ならば、「フローネのお父さん」が最もよい選択だろう。職業は医者であり、無人島生活で頼りになることは間違いない。しかも、サバイバルの知識が豊富で、力仕事や工作も得意とする。医師不足で困っているオーストラリアの人々のために移住を決意するほど高潔な性格である。状況判断力や行動力にすぐれ、物語を通じて失敗らしい失敗といえば、兄にブスと言われて傷つくフローネに「人間に大事なのは姿かたちの美しさじゃない。気持ちが美しいかどうかなんだ」と言って、余計に怒らせてしまったことぐらいか。

 たしかに、フローネはひょうたんのような輪郭、団子鼻、平安眉という特徴的な容姿を持ち、美人といわれるような顔ではない。しかし、表情が豊富で、小柄な体を大きく動かして木登りしたり転げまわったりする姿はとてもかわいらしく感じられる。作画によっては、たまにドキッとするほどブサイクである。

 物品に限るという条件ならば、ロビンソン一家が無人島に持ち込んだものは、医療品、調理器具、調味料、大工用具、着替え、カーテン、銃、双眼鏡、植物の種、聖書、ナイフなど多岐にわたる。アニメを参考にしても、このうちひとつだけを選ぶのは、どれも一長一短で難しい。

 ただし、無人島問題を考えるとき、つい「どうやって生き延びるか」を考えてしまいがちだが、「どうやって脱出するのか」という視点から選ぶことも大切だということがこのアニメをみるとよくわかる。たとえば、ロビンソン一家は大きい布を縫い合わせて帆布にして脱出船にとりつけたが、あらかじめ用意しておかないと無人島ではそれに代わるものを見つけるのも難しいことから、「ありったけの布」というのも無人島問題の有力な答えのひとつかもしれない。


『ふしぎな島のフローネ』48話 ロビンソン一家の船出

 あるいは、無人島問題の答えは人でも物でもないのかもしれない。ロビンソン一家を見ていてつくづく思うのは、心の強さである。なにしろ、無人島にもかかわらず、フローネは算数の勉強をさせられていた。ふつうの神経なら教える方も教わる方も、この非常事態にそんなことをするのに耐えられないのではないか。だが、ロビンソン一家は決して自暴自棄にならなかった。

 いざ、無人島から脱出するにあたっても、自分の現在位置もわからず大洋に乗り出して無事に陸地につく可能性が高いとは思えない。それでも、島の脱出の成功を信じ、踏み切ることのできる心の強さ。それこそが、無人島問題の答えなのかもしれない。

 余談であるが、無人島に上陸してからフローネは、いつも赤いハイビスカスを髪に挿している。その花ことばは「勇敢」である。


『ふしぎな島のフローネ』12話 ポーズを決めるフローネ