『ナンとジョー先生』 教訓と茶番

若草物語 ナンとジョー先生
1993年1月17日~12月19日放映(全40話)

 『ナンとジョー先生』は、その六年前に放映された『愛の若草物語』の続編で、若草四姉妹の次女ジョーとその夫ベアが経営するプラムフィールドと呼ばれる寄宿学校を舞台に、主人公のナンをはじめ10人の生徒のほのぼのまったりした学校生活を描いた物語である。


左『ナンとジョー先生』01話 ジョー先生とベア先生
右『ナンとジョー先生』24話 ナンとジョー先生

 昔の学校にしては珍しく、プラムフィールドには体罰がない。生徒に善悪を教えるときは、生徒の良心に訴えかけて自らの過ちを気づかせる。たとえば、生徒が夜更かしをして、注意してもなかなかベッドに入らないとき、ジョー先生はこう宣言する。

「みんな寝るのが嫌いなようね。そこで今夜からみんながどんなに遅くまで遊んでいても叱らないことにしました。」

 そうすると、生徒は「ジョー先生はすごく怒っているに違いない」と無言の圧力を感じ、また、いつも見守ってくれるジョー先生の優しさを思い出し、反省してすすんで眠りにつくのである。

 いい学校だとは思うが、この学校に入りたいかと問われれば、あまり気が進まない。「いい子」になれというプレッシャーが強すぎるのだ。学校は、ジョー先生を母親、ベア先生を父親として、擬似的な家族関係を築いている。生徒たちは、先生に見放されることを、あたかも親に見捨てられるように感じているように見受けられる。

 ところで、この作品は日常を描いた正統派アニメであり、あまり事件らしい事件が起こらない。

 いや、正確にいえば、事件は起こるのだが、あまり印象に残らない。

 その理由を考えてみると、事件が発生しても、そこから「教訓」を得た生徒が成長して事件が締めくくられるというプラムフィールド特有の「いい子」空間の魔力が原因と思われる。

 たとえば、ナンが野イチゴ摘みのときに立ち入り禁止のエリアに入って行方不明になるという事件があった。捜索の末に発見されたナンは、越えてはいけない柵を越えたことについて「あんなに先生にダメだっていわれてたんですもの。それを破るのが最高の冒険だったわ」と平気な顔である。

 ところが、そんなナンを見てジョー先生が簡単な罰を与えると、その日の夕方には「あたし五歳の子と同じでした。しちゃいけないことが分からないなんて」と泣いてすがりつくのである。


左『ナンとジョー先生』4話 規則破りを得意げ話すナン
右『ナンとジョー先生』4話 泣いてジョー先生にすがるナン

 こうなると、あらゆる事件が教訓を得るために存在しているのではないかという錯覚を覚え、事件そのものが嘘っぽく感じるのである。就職面接で自分の短所を聞かれた学生が、「頑固なところです。一度決めたことを最後までやり通します」とさりげなく長所にすり替え、結局はさっぱり印象に残らなくなってしまう感じに似ている。

 あるいは、もっと直接的に言えば、小学校のときに道徳の時間に「さわやか三組」などの番組を見せられて「茶番」という言葉の意味を理解した感じに似ている。

 こうして、なにごとも最後をとってつけたような教訓で終わらせてしまうと、本題の部分の印象が薄くなるのではないか。と、そんな教訓を得たのである。

『小公子セディ』 無垢の怪物

小公子セディ
1988年1月10日~12月25日放映(全43話)

 ニューヨークの下町で生まれ育った少年セディは、父の死を機に伯爵家の跡継ぎとしてイギリスのドリンコート邸に迎えられ、偏屈な祖父と暮らすことになる。祖父は、純粋無垢なセディと暮らすうち、次第に心優しい気持ちを持つようになっていく。

フォントルロイスーツ
『小公子セディ』18話 セディ

 見終わってからいろいろ考えているうちに、もしかしてこの作品のジャンルはホラーではないかと思うようになってきた。

 作品を見ているときにセディのことを怖いとはっきり感じたのが33話である。セディは「単語のスペルが間違っているかもしれないから見てほしい」と、ニューヨークの知り合いのホッブスに宛てて書いた手紙を祖父に読んでもらう。その手紙には祖父のことが書かれている。自分の偏屈を自覚している祖父に、こんな手紙を読ませるのである。

  親愛なるホッブスさん。
  ぼくはおじいさんのことを書きたいと思います。
  おじいさんは立派な伯爵です。
  伯爵が暴君なんていうのはまちがっています。
  僕のおじいさんは暴君ではありません。
  ホッブスさんもおじいさんに会ったらいいお友だちになるでしょう。
  だれだってみんなに親切な人のことは好きになるからです。

 断っておくと、セディは手紙を読ませることによって祖父に何かを伝えたいわけではない。セディは、祖父が善良な人だとただ単純に信じ切っており、それをあのままに書いただけなのだ。だが、自分のことがこんな風に書かれた手紙を読まされて、平静を保っていられるだろうか。どうしたってセディの気持ちを裏切りたくないと思ってしまうのではないか。

 つまり、セディの周りにいる人は、セディが意図しているわけでもないのに、ゆるやかにマインドコントロールされ、セディの望む人格に作り変えられていくのである。セディは26話で「小さな若君(リトルプリンス)」との二つ名を与えられているが、そんな可愛らしいものではない。セディに二つ名を付けるなら、「無垢の怪物(イノセントモンスター)」とでもしておきたい。

 むろん、セディのマインドコントロールが及ばない人もいる。この作品には、世界名作劇場にしては珍しいほど「悪役」といえる人物が登場する。

コールデット夫人…7~8話に登場。セディの母が仕立てたドレスに難癖をつけて引取りを拒否した。

ハリス夫人…14~22話に登場。伯爵の親戚。伯爵の跡継ぎとしてドリンコート邸に突然やってきたセディに辛く当たる。

ニューイック…24~35話に登場。伯爵の領地の管理人だが、領民に不親切で嫌われている。地位を利用して私腹を肥やす。

ミンナ…39~43話に登場。ドリンコート家の正統な跡継ぎの母親と騙り、セディをドリンコート邸から追い出す。

 ふつう、児童文学に出てくる悪役というのは、最終的には罰を受けたり、改心したりするものだ。勧善懲悪や因果応報というのは児童文学の基本といってもいいだろう。

 ところが、この作品に登場する悪役は、ただ“いなくなる”のである。コールデッド夫人もハリス夫人もニューイックもミンナも、反省してセディに謝ったり、後悔の涙を流したり、捕まって罰を受けたりすることはない。彼らには、何のペナルティもなく、もともと存在しなかったかのように、ぱったりと登場しなくなってしまうのである。それに気づいたとき、どこか薄気味悪さを感じた。

 最終話を迎えて、そこにはセディを心の底から愛する人しかいない。セディに疑いを持つものや反感を持つものは消えてしまった。

 いなくなった彼らは、本当にどこかにまだ存在しているのだろうか。

『私のあしながおじさん』 おじさんの趣味

私のあしながおじさん
1990年1月14日~12月23日放映(全40話)

 「お嬢様学校に思いがけず入学した天真爛漫な主人公」という本作の設定から、ただのハートフル学園コメディだろうと油断してはいけない。


『私のあしながおじさん』6話 ジュディ・アボット

 主人公のジュディ・アボットは孤児である。あしながおじさんの援助でリンカーン記念女子学園に入学する(3話)。ジュディは孤児院育ちということに強いコンプレックスを持っていて、誰にも自分の過去を打ち明けられない。なにしろ、脱走未遂の罰として犬のように木に縄で縛られさらし者にされたり(29話)、クラスメイトの寄付したおさがりの服を着て同じ教室で授業を受けさせられたり(29話)、超重量級のトラウマを植え付けられた孤児院のことだ。気安く話せることではない。

 ジュディの抱えるコンプレックスは、ジュディの青春にも暗い影を落とす。授業で「家族」をテーマにした作文を課されたときは、孤児院を大きなお屋敷と偽った悲しい嘘の作文を書き(6話)、孤児への寄付を求められたときは「貧乏人はお金持ちが慈善を施すための家畜なのか」とルームメイトにどなってしまう(7話)。そして、金持ちのジャーヴィスからプロポーズされたときには、彼を愛しているにも関わらず孤児院育ちの自分を卑下して断ってしまう(38話)。

 なかなかコンプレックスから解放されないまま、ジュディは卒業式を迎える。最優秀卒業生として答辞を述べることになったジュディは、意を決して壇上で自分が孤児であることを告白し、自分のいじけた考えと決別する(39話)。

 卒業式のあと、ジュディはあしながおじさんの正体がジャーヴィスだということを知る(40話)。

 ジュディはあしながおじさんの正体にすっかり感激していたが、ジュディがあしながおじさんに書いた手紙は全部ジャービスが読んでいたわけで、なかには恋愛相談なんかもあったりしたわけで、ジャービスはそれをニヤニヤしながら読んでいたであろうわけで、ジュディはビンタぐらいしてもよかったと思う。

『小公女セーラ』の正義の話をしよう

小公女セーラ
1985年1月6日~12月29日放映(全46話)

 ミンチン女子学院というロンドンの寄宿学校に入学した10歳の少女セーラは、父の死によって、学院一のお嬢様から、元クラスメイト達に仕える使用人に転落する。


左 『小公女セーラ』07話 セーラ・クルー(転落前)
右 『小公女セーラ』15話 セーラ・クルー(転落後)

 率直にいって、作品のストーリーやテーマより、貧乏になったセーラが虐げられるシーンが何よりも印象に残る作品である。特に、元クラスメイトのラビニアが、セーラが逆らえないのをいいことに執拗にいたぶるところなど、見ていると胸が痛くなる。

 疲れて暖炉の前で居眠りするセーラに対し、セーラのもたれかかっている石炭桶を思い切り蹴飛ばす物理攻撃(34話)や、セーラに靴を磨かせ「履かせてちょうだい」と命令する精神攻撃(20話)など、忘れがたいシーンは多い。


左 『小公女セーラ』34話 物理攻撃を受けるセーラ
右 『小公女セーラ』20話 精神攻撃を受けるセーラ

 屋根裏から馬小屋に寝床を移されたセーラについて、他のクラスメイトに「こちらのお嬢様はね、昔お飼いになっていた馬の馬小屋に今は住んでらっしゃるんですって」と話す時の口ぶりときたら、視聴者にそういう性癖があったらヘビーローテーションしたくなる場面である。(39話)

 それにしても、見ていると胸が痛くなるような作品なのに、つい続きを見てしまうのはなぜだろう。

 ネットでこの作品の感想を見ていると、「いじめを助長している」とか「悪者に罰が与えられないのは教育上よくない」という正義感にあふれるコメントが多く見られたので、私もそう思ったことにしようかと考えたが、やっぱりセーラが悲惨であればあるほど中毒性があるのだ。

 人は、押したらダメというボタンを押したくなる。食べると太ると思うと食べたくなる。くさいものは嗅ぎたくなる。それと同様に、見ないほうがいいとわかっていても見たくなるのである。これは、もしかしたら多くの人が共通して持つ一種の破滅願望なのかもしれない。

 この作品を見ていて、ふと思った。どこか、人目に付かないところに「お金を入れると恵まれない子供が救われる募金箱」と「お金を入れると恵まれない子供がもっとひどい目に会う募金箱」を並べて置いたら、案外、後者にたくさんお金が入ったりしないだろうか。

『七つの海のティコ』は90年代らしいアニメ

七つの海のティコ
1994年1月16日~12月18日放映(全39話)

 主人公は11歳の少女ナナミ。4歳で母を亡くして以来、金色に発光するクジラ(ヒカリクジラ)を探すというオカルトじみた研究にのめり込む父に連れられ、学校にも通わせてもらえずに、海洋調査船ペペロンチーノ号で世界中を旅する毎日である。なお、ペペロンチーノ号の船名の由来は作中では明かされていないが、父親が「ナナミ(七味)とペペロンチーノ(唐辛子)を合わせて七味唐辛子…なんちゃって」とダジャレで決めていたりしたら、そんな船には乗っているだけで苦痛だろう。

 ナナミと父以外のペペロンチーノ号のクルーは、太った中年イタリア人だけだ。思春期の女の子が父と中年男の3人で狭い船で生活するのはストレスが溜まりそうだが、ナナミはいい子なのでまったくそんなそぶりを見せない。もちろん、ナナミに人間の友達はいない。シャチにティコという名前を付けて、よく海で遊んでいる。


『七つの海のティコ』3話 洗濯物も一緒に干す

 物語が進むと、ペペロンチーノ号に3人のクルーが乗り込んでくる。まず、財閥令嬢のシェリルとその執事。もう一人は内気でコンピュータが得意な10歳の少年トーマス。序盤は頼りにならないが、作中で著しく成長し、終盤ではナナミの良き相棒となる。ナナミとトーマスのちびっこコンビが駆け回る様子は、ニコニコしながら見てしまう。


『七つの海のティコ』37話 トーマスとナナミ

 そんなペペロンチーノ号の仲間たちだが、ヒカリクジラをめぐって巨大企業GMCと対立することになる。いろいろあって、GMCがヒカリクジラ研究のため南極に建てた基地は破壊され、悪の親玉の乗るヘリコプターは崖に衝突し炎上する。それにしても、動物については必死で守ろうとするナナミが、南極海に落ちたGMCの研究員や警備員については眉一つ動かさず無視するのは、ヒカリクジラ至上主義者とでもいうべき父の長年の教育の成果だろうか。

 なお、ようやく邂逅を果たしたヒカリクジラだが、実在する存在かと思いきや、オーバーマインドとか統合情報思念体とかいう名前でSFに出てきそうなオカルトっぽい存在というオチで話は終わる。

 世界名作劇場のなかでは最も新しい年代を舞台にした作品なのだが、しょうもないオカルトじみたエコ思想に古臭さを感じる作品である。