『フランダースの犬』 ネロの亡命

フランダースの犬
1975年1月5日~12月28日放映(全52話)

 最終話のネロが昇天するシーンが有名な作品である。

 だが、この作品を通して見て気付くのは、ネロが移動するシーンがやたらに多いことである。ネロの祖父は、村から街へ牛乳を緑色の荷車に載せて運搬することで生計を立てており、ネロもそれを手伝っている。なので、事実として毎日、村から街まで往復しているのだが、それにしても何十回も同じ道のりが描写する必要があるのだろうか。


左『フランダースの犬』5話 祖父ジェハンとネロ
右『フランダースの犬』5話 ネロ

 ネロの家→石造りのアーチ橋→公共水道の脇→アロアの家の前→小さなほこら→白い跳ね橋→ポプラ並木→川沿いの道→アントワープの街

 アニメを見ながら、自然に道順を覚えてしまうほどだ。ネロは1話から最終話まで、一度としてこの道を外れることはなく往復する。幼なじみのアロアがイギリスに留学しても、友人のジョルジュが遠くの街へ奉公に行っても、ネロはこの往復路を一歩も抜け出すことがなかった。

 ふつう、移動というのは目的地へたどり着くための手段であり、移動そのものにはあまり意味はない。通学電車で同じ車両に気になるアイツがいてドキドキ、といった少女マンガ的シチュエーションでもないかぎり、移動がクローズアップされることはない。

 にもかかわらず、執拗といってもいいほど同じ移動シーンを繰り返すのは、どんな意味が考えられるだろうか。

 すぐに思いつくのは、たった一本の道を往復するだけのネロの生活を描くことにより、ネロの将来に対する閉塞感や、ネロに見えている世界の狭さを象徴的に表現している、という考えである。しかし、ネロの屈託のなさをみていると、それは勝手な深読みというものだろう。

 ここは素直に考えて、ネロの移動シーンを何度も描写するのは、特に意味があるわけではなく、ネロという主人公に対して描くものがそれしかなかったということではないか。41話でネロの祖父は、ネロが幼かったときのことを回想する。祖父が思い浮かべたのは、ネロに初めて会ったときや、ネロにおそろいの帽子をあげたときなど、いかに回想にありそうなシーンではない。幼いネロが緑色の荷車に乗って移動したり、荷車の脇で歩いて移動しているシーンを、祖父は思い浮かべるのである。

 人は、目的地がなければ、どこかに属することができない。通学なら学校に、通勤なら会社にといった具合である。しかし、ネロはついにどこかに属するということがなかった。だから、ネロという人物を描くには移動しているところを描くしかないのである。

 児童文学において、子供と社会をつなぐ役割を担うことが多い父親は、この作品では不自然なまでに除去されている。ネロは家と社会のあいだでずっとたゆたっている。最後に、ネロは木こりとして生きる道を提示される。ネロが社会に属することができるはずだったが、ネロは顧みることなく、通りなれた道を通って街へと向かい亡くなった。

 ネロは亡くなるとき悔いを残していただろうか。木こりとして生きていくという生存ルートをあえて選ばなかったところを見ると、芸術家を夢見て死ぬことが、ネロにとっては良かったのだろう。ネロは、文字通り生活から亡命したのである。