『南の虹のルーシー』 もっとも名劇らしからぬ主人公

南の虹のルーシー
1982年1月10日~12月26日放映(全50話)

 オーストラリアにヨーロッパ人が本格的な植民を始めてからまもない1837年。アデレードの人口が300人くらいしかいないころ、南オーストラリアに自由移民としてやってきたポップル一家の物語である。

 ポップル家は父、母、息子2人、娘3人の7人家族である。最初に強調しておくと、この作品は三女ルーシーと次女ケイトがオーストラリアの珍しい動物に驚き、建設途上の町や自然の中をかけずり回り、ボケ役のルーシーとツッコミ役のケイトの掛け合いがとても楽しい作品である。そう、楽しい作品であることには間違いない。しかし、最後まで見終わって感じたのは、それだけではなかった。


左『南の虹のルーシー』13話 ルーシーとケイト
右『南の虹のルーシー』14話 ポップル一家

 印象に残ったシーンが2つある。

 ひとつは、ルーシーがプリンストンというお金持ちの農園経営者の屋敷に滞在し、図書室に入ったシーンである。世界名作劇場のヒロインといえば、たくさんの本を見るとキラキラと目を輝かせるのが定番である。

 ところが、ルーシーは「どうしてこんなたくさんの本を読まなくてはならないんですか?」という、ある意味ではしごく当たり前の反応をする。考えてみれば、世の中は本好きの子供ばかりではないのだ。むしろ、字ばかりの本など読みたくない子供のほうが多いかもしれない。あまりにまっとうな子供の感想であるがゆえに、かえって意表をつかれて印象に残ったシーンである。

 もうひとつは、ポップル家がオーストラリアで農場を手に入れる見込みがなくなって、ルーシーの父がやけ酒を飲むようになってからのこと。希望をなくした父を気遣い、家族はやんわりと父をいさめる。父は改心して「心配させてすまなかった」と酒をやめる。家族愛により、父が立ち直るシーンを描いた心温まるシーンである。

 ところが、数日後に父は「ま、一杯だけ」と酒瓶を取り出し、グラスに注いでいるところを長男に見つかってしまう。そのときの父のうろたえぶり、そのあまりにも人間臭い様子を見て、とても物悲しい気持ちになった。これもまた、家族愛を絶対視する名劇の他の作品では見られないようなシーンだろう。


『南の虹のルーシー』43話 ルーシーの父

 つまり、何がいいたいかといえば、ポップル家は「ふつうの人たち」なのである。彼らは、忍耐力とか向上心とか行動力とか空想力とか、他の名劇の主役たちがいずれか傑出して持っていたりする能力を、どれもふつうに備えているが、特筆するほどには備えていない。ポップル家の人たちは、思った通りにいかない一家の状況を嘆き、生活のために望まぬ仕事をこなし、運が開けることを祈るしかできない。閉塞した状況に対し、彼らが行うのは「行動」ではなく「愚痴」なのである。

 もちろん、そのままでは子供向けアニメにならないので、最後はルーシーが記憶喪失になり、偶然知り合ったプリンストンから農場を破格の条件で譲ってもらえるというラッキーイベントが発生する。裏を返せば、そんな宝くじに当たったみたいなことがなければハッピーエンドにならないという、「ふつうの人たち」の悲哀すら感じられるラストである。

 なにやら、暗いイメージを書いてしまったが、最初に強調したとおり、この作品が「楽しい作品」であることは紛れもない事実である。個々のシーンをとりだせば、ゲラゲラ笑えたり、ほっこり心あたたまったりするシーンはいくらでもある。

 もしかして、この作品は深い視点で考察しながら見れば、人間の陰影を描いたとんでもない傑作なのではないかと思うことがある。しかし、この作品があまり話題にならない理由も分かる気がするのである。