『ペリーヌ物語』 結びつける者

ペリーヌ物語
1978年1月1日~12月31日放映(全53話)

 ペリーヌ物語は、世界名作劇場の初期作品のなかでは目立たない存在である。“ペリーヌ”を画像検索すると『ストライクウィッチーズ』のペリーヌ・クリステルマンの画像ばかりがヒットする。さらに、“ペリーヌ エロ”を画像検索するとペリーヌ・クリステルマンのいやらしい画像ばかりがヒットする。


『ペリーヌ物語』1話 ペリーヌ・パンダボアヌ

 ただし、目立たないからといって甘く見てはいけない。特に、ストーリー運びについては、一分の隙もないといってよい作品である。

 本作品において、ペリーヌは<結びつける者>という役割を担っている。ペリーヌ自身のキャラクター設定からして、そのように意図されている。

 まず、血統についていえば、ペリーヌはインド系の母とフランス系の父をルーツにもち、民族的、文化的に両者の中間に立つ存在である。その生い立ちからペリーヌは英語とフランス語のバイリンガルであり、後に通訳に抜擢されて(34話)、頭角を現していったことは、<結びつける者>というペリーヌの役割をもっとも端的に示している。

 また、13歳という年齢についても、同じことがいえる。子供というには精神的・肉体的に成熟しており、作中でもペリーヌは大人に混ざって祖父ビルフランが経営する紡績工場で働くことになる(28話~)。しかし、大人というには世知に長けておらず、一人で写真屋の商売をしたときは子供だと侮られて全く客をつかまえられなかった(16話)。つまり、ペリーヌは大人と子供の中間的に立ち、両者をつなぐ存在なのである。作中でも、工場の同僚の愚痴をビルフランに子供らしい率直さで伝えようとして、同僚を慌てさせるシーンなどがある(48話)。

 一方、ペリーヌを取り巻く環境については、いくつもの分断がみられる。

 まず、本作品におけるペリーヌの最大の目的は、祖父ビルフランとの家族としての結びつきを取り戻すことにある。しかし、祖父は息子が外国人と結婚したことを許さず、孫であるペリーヌの存在すら知らない。祖父とペリーヌは完全に断絶しているといえる。

 また、ビルフランは工場の経営者としては有能なのだが、時代性もあって労働者の待遇や権利についてほとんど配慮することがない。孫であることを隠して工場で働くペリーヌの給料は毎日のパンを買うのに精いっぱいで、総じて労働者の待遇は悪い。つまりは、労使間が断絶しているのである。

 さらにいえば、ビルフランが経営し、ペリーヌの働く工場が紡績工場であることも注目すべき点である。紡績業は、産業革命の象徴とでもいうべき業種である。工業化においてイギリスから大きく後れを取ったフランスだが、ペリーヌの時代には追い付きつつあり、第二帝政期に整備されたインフラを利用して著しい発展を見せていた。それは、家内工業から工場工業への変革の時代である。それまでの、生活と生産の現場が一致していた時代から、両者が分断され、人々が生活の中でモノをつくるという行為から遠ざけられはじめた時代である。

 ペリーヌは、それらの分断した事柄を次々に結びつけていく。

 マロクールの街で、ペリーヌは町はずれの空き家に居を構え、自分の力で生活しようと決意する。それは単に生活費を自分で稼ぐというだけではない。ペリーヌは生活に必要な道具を自分の手でつくってしまう。くつ、下着、鍋や食器などをつくり、それをけっこう楽しんでいるようである。小規模ながら、ペリーヌはものづくりを自らの手を取り戻し、生活と生産の場を結びつける。

 また、ペリーヌは労使間の断絶の解消についても積極的に動く。工場の経営者であるビルフランに対し、従業員の葬式に出席することをすすめたり、ひどい待遇を受ける女工の悪臭漂う共同部屋に連れ出したりして、ビルフランに従業員の待遇改善に目を向けさせることに成功する(49話)。ペリーヌはビルフランに対してこんなふうに伝える。

「ビルフラン様は今までは工場を大きくすることだけを考えていたのではないでしょうか。ですから、これからは働いている人たちのことたちをもっともっとお考えになっていただきたいのです。」

 ところで、<結びつける者>としてのペリーヌの特質は、母の影響が大きい。物語の序盤では、ペリーヌは負けん気が強く、写真屋としての商売を同業者に邪魔されたときなどは自分たちの腕が上だと食ってかかっている(10話)。母はそんなペリーヌをいさめ、相手の立場に立つことを教え、死の際では「人に愛されるためには、まず自分が人を愛さなくては」と伝えるのである。


『ペリーヌ物語』21話 ペリーヌと母

 母の教えのとおり、さまざまなものをうまく結びつけていくペリーヌだが、祖父との関係だけはうまくいかない。ペリーヌは、祖父に拒絶されることが怖くて、自分が孫だと言い出すことができない。そこで登場するのが、フィリップ弁護士である。

 フィリップ弁護士はペリーヌのインドからフランスへの長い旅路をたどることで、ペリーヌの父と母、旅の中で出会った人々を順に線で結んでいく。倒叙的に描かれるその様子は、刑事コロンボを見ているような痛快さがある。そして、49話において、フィリップ弁護士はペリーヌとビルフランをつなぐ最後のパーツであるルクリおばさんの存在を指摘し、ペリーヌはビルフランの孫だと解き明かすのである。

 ペリーヌは<結びつける者>としての役割を持ちながら、自分と祖父の関係だけは結びつけることができなかった。しかし、ペリーヌが旅の途中で結んできた人とのつながりが、最後には自分と祖父を結びつける糸になるという、印象的なラストシーンを迎えるのである。

 50話以降はエピローグのようなものだが、祖父はペリーヌの勧めで目の手術を行い、閉ざされていた外界とのつながりを取り戻して物語は終わる。

 第1話から最終話まで、作品の持つテーマを余すことなく描き切っている。なにより「人の結びつき」などというくすぐったいようなテーマを正面から描いているにも関わらず、まったく鼻に付かないのがいいところだ。

 惜しむらくは、その独特のキャラクターデザインだろう。ペリーヌは慣れればかわいいのだが、たまにタツノオトシゴの妖精みたいな顔になるのが玉に瑕だ。あと、酔ったロバのパリカールは、夢に出てくる。


『ペリーヌ物語』8話 酔いどれパリカール

『こんにちはアン』 小さなアンにかけられた呪い

こんにちはアン ~Before Green Gables
2009年4月5日~12月27日放映(全39話)

 『こんにちはアン』は『赤毛のアン』(以下、本伝と呼ぶ)の前日譚で、孤児のアンがトーマス家の家事手伝いをしている6歳のころから、カスバート家に引き取られる11歳までの出来事が描かれている。『こんにちはアン』は本伝の出版100周年を記念して書かれており、本伝とは作者が異なっている。


左『こんにちはアン』01話 アン・シャーリー6歳
右『こんにちはアン』19話 アン・シャーリー8歳

 2008年に出版された原作を、2009年にさっそくアニメ化したのが本作である。

 本伝を繰り返し読んだ者の目線では、このシーンは本伝のあのシーンにつながるんだなとか、これは本伝のあのシーンのオマージュだなと、いろいろ楽しめるつくりになっている。ところが、話数が進むにつれて、だんだん本伝の<呪い>のようなものを感じるようになってくる。

 つまり、『こんにちはアン』の最終話が、本伝の第1話につながるのだから、あらゆる点で整合している必要があり、アンの持ち物ひとつとっても矛盾があってはいけないのである。

 カスバート家へ向かうアンの服装は「きゅうくつな交織りの服」「色あせた水兵帽」「取っ手の壊れたかばん」でなくてはいけない。アンはそばかすだらけのやせっぽちでならなければならない。アンはアイスクリームを食べたことがあってはならない。なにより、本伝でカスバート家に引き取られてから幸福になるアンは、『こんにちはアン』では幸福になってはならないのである。

 見ていて一番きつかったのは、1話でアンがミントン夫人からもらい、ロキンバーと名付けた猫との別れである。26話でハモンド家に引き取られることになったアンは、ロキンバーを連れていきたがる。だが、ハモンドから連れていけないといわれてしまう。表向きは「妻は猫が苦手だから」ということだが、視聴者は知っている。アンがロキンバーと引き離されるのは、本伝でアンが猫なんて連れていなかったからなのだ。


『こんにちはアン』26話 アンとロキンバーの別れ

 アン・シャーリーがどれだけ明るくふるまっても、どれだけ希望を見失わないようにしても、彼女が本作で幸せになることはない。これを呪いといわずなんと言おう。

 また、呪いをかけられているのはアンだけではない。アンが幸せにならないということは、アンの養育者たちがアンを幸せにできないということでもある。

 最初の養育者トーマスは酒飲みでろくに仕事もせず、何度か立ち直ろうとするが、最後は汽車に轢かれて死亡する。次の養育者ハモンドは製材所を営むが、大きな仕事を請け負った直後に心不全で亡くなってしまう。

 この決して解けない呪いを見ていると、運命とはこういうものなのかと考えさせられる。つまり、すべての出来事はあらかじめ決まっており、人間の意志や努力などは無意味なのではないかと。

 しかし、さらに考えてみると、この呪いが解けるのは果たしていいことなのだろうか。呪いが解けて、アンがこの物語で幸せになることは、望ましいことなのだろうか。

 もちろんアンにとっては悪いことではないだろう。エリーザ、ミントン、エッグマン、ヘンダーソン先生など、本作において孤児のアンを引き取りたいと考える人はたくさんいたし、呪いがなければ引き取られていただろう。アンならグリーン・ゲイブルズに行かなくても、彼女らしい幸せをつかむことだろう。だが、本伝においてアンに幸せをもらうことになるマシュウやマリラをはじめとした多くの人々は、アンが存在しなければ本伝で書かれるような幸せを得られるとは思えないのである。

 してみると、アンには呪いなどかかっていなかったのかもしれない。アンにとっての試練であることは間違いないが、たまたまアンがそういう役回りだったというだけのことで、本来はアンにしか幸せにできない人に対する<祝福>だったのかもしれないとも思えてくるのである。

 こういうことを、ひとことでまとめてしまえば、次のようになる。

 『神は天にいまし、すべて世は事もなし。』

『南の虹のルーシー』 もっとも名劇らしからぬ主人公

南の虹のルーシー
1982年1月10日~12月26日放映(全50話)

 オーストラリアにヨーロッパ人が本格的な植民を始めてからまもない1837年。アデレードの人口が300人くらいしかいないころ、南オーストラリアに自由移民としてやってきたポップル一家の物語である。

 ポップル家は父、母、息子2人、娘3人の7人家族である。最初に強調しておくと、この作品は三女ルーシーと次女ケイトがオーストラリアの珍しい動物に驚き、建設途上の町や自然の中をかけずり回り、ボケ役のルーシーとツッコミ役のケイトの掛け合いがとても楽しい作品である。そう、楽しい作品であることには間違いない。しかし、最後まで見終わって感じたのは、それだけではなかった。


左『南の虹のルーシー』13話 ルーシーとケイト
右『南の虹のルーシー』14話 ポップル一家

 印象に残ったシーンが2つある。

 ひとつは、ルーシーがプリンストンというお金持ちの農園経営者の屋敷に滞在し、図書室に入ったシーンである。世界名作劇場のヒロインといえば、たくさんの本を見るとキラキラと目を輝かせるのが定番である。

 ところが、ルーシーは「どうしてこんなたくさんの本を読まなくてはならないんですか?」という、ある意味ではしごく当たり前の反応をする。考えてみれば、世の中は本好きの子供ばかりではないのだ。むしろ、字ばかりの本など読みたくない子供のほうが多いかもしれない。あまりにまっとうな子供の感想であるがゆえに、かえって意表をつかれて印象に残ったシーンである。

 もうひとつは、ポップル家がオーストラリアで農場を手に入れる見込みがなくなって、ルーシーの父がやけ酒を飲むようになってからのこと。希望をなくした父を気遣い、家族はやんわりと父をいさめる。父は改心して「心配させてすまなかった」と酒をやめる。家族愛により、父が立ち直るシーンを描いた心温まるシーンである。

 ところが、数日後に父は「ま、一杯だけ」と酒瓶を取り出し、グラスに注いでいるところを長男に見つかってしまう。そのときの父のうろたえぶり、そのあまりにも人間臭い様子を見て、とても物悲しい気持ちになった。これもまた、家族愛を絶対視する名劇の他の作品では見られないようなシーンだろう。


『南の虹のルーシー』43話 ルーシーの父

 つまり、何がいいたいかといえば、ポップル家は「ふつうの人たち」なのである。彼らは、忍耐力とか向上心とか行動力とか空想力とか、他の名劇の主役たちがいずれか傑出して持っていたりする能力を、どれもふつうに備えているが、特筆するほどには備えていない。ポップル家の人たちは、思った通りにいかない一家の状況を嘆き、生活のために望まぬ仕事をこなし、運が開けることを祈るしかできない。閉塞した状況に対し、彼らが行うのは「行動」ではなく「愚痴」なのである。

 もちろん、そのままでは子供向けアニメにならないので、最後はルーシーが記憶喪失になり、偶然知り合ったプリンストンから農場を破格の条件で譲ってもらえるというラッキーイベントが発生する。裏を返せば、そんな宝くじに当たったみたいなことがなければハッピーエンドにならないという、「ふつうの人たち」の悲哀すら感じられるラストである。

 なにやら、暗いイメージを書いてしまったが、最初に強調したとおり、この作品が「楽しい作品」であることは紛れもない事実である。個々のシーンをとりだせば、ゲラゲラ笑えたり、ほっこり心あたたまったりするシーンはいくらでもある。

 もしかして、この作品は深い視点で考察しながら見れば、人間の陰影を描いたとんでもない傑作なのではないかと思うことがある。しかし、この作品があまり話題にならない理由も分かる気がするのである。

『トム・ソーヤーの冒険』 トムはどんな大人になるのだろう

トム・ソーヤーの冒険
1980年1月6日~12月28日放映(全49話)

 1845年ごろのアメリカ、ミシシッピ川沿いの小さな町に住む10歳の少年トム・ソーヤーが遭遇する日々の出来事を描いた作品である。タイトルには「冒険」とあるが、冒険野郎マクガイバーのように世界を股にかけて毎週命がけのアクションをする話ではなく、子供心にワクワクするような出来事が描かれている。


『トム・ソーヤーの冒険』2話 トム・ソーヤー少年

 とはいえ、大人になってからでは熱中して見るのはつらい。幼いころに見ていたら「トムと友達になりたい」などと思ったのかもしれないが、大人になった今では、こんな糞ガキは勘弁してほしい、というのが本音である。

 というのも、トムはイタズラっ子というには可愛げがない。好奇心で行動するというより、目立ちたくて行動している感じである。しかも、イタズラは一人ではやらない。有名なエピソードに、トムが死んだと町の人に思わせておいて自分の葬式にひょっこりと帰ってくるというのがあるが、それも嫌がる友達を言いくるめて3人でやる。それ以外のイタズラについても、たいていは友人のハックことハックルベリー・フィンがつきあわされる。

 たとえば、37話でこっそり気球に乗り込むシーンはこんなふうだ。

トム「俺はお前がもっと勇気のあるやつだと思っていたよ」
ハック「そんなこといったって、俺たちだけで気球に乗ったらどこに飛ばされるかわかんないぞ」
トム「そんなに飛ばされやしないさ。あまり上に行かないように大きな石をつむのさ」
ハック「それじゃ上に上がらないんじゃないの」
トム「そのときはひとつひとつ石を落として調節するのさ」
ハック「でもさあ、もしミシシッピ川のほうに流されて途中でおっこっちゃったら?」
トム「それこそ一番安全だろ。なにしろ俺たちは泳ぎは達者だし」

 こんなふうに嫌がるハックを言いくるめてイタズラに付き合わせる。友達がいないと思われるのが嫌で一人で学食に入れない大学生みたいでかっこ悪い。一人でやれ。

 他にも、友達に平気でうそをついたり、正々堂々とした勝負なのに自分の負けを認めなかったり、これは、ある意味では等身大の少年を描いた作品なのかもしれない。なんとなく、トムは口のうまさを活かして、将来は小さなお店でも開いて子供時代と変わらない人間関係の中で「あのころのオレはよお」と昔の出来事ばかり振り返って一生を終えるのではないかという気がする。

 ――と、ずいぶんトムをくさしてきたが、そろそろ空しくなってきたところだ。そう、これは嫉妬なのだ。私には、トムのような生き方はできない。私には、会って間もない女の子に<婚約>を申し込むことなんてできない。しかも、ほかの女の子とも<婚約>したことがバレて激怒されても、うまく立ち回って仲直りするなんてことは、私にはどうやっても無理だ。

 だからといって、人は自分の人生を否定することはできないのである。だから、たとえ空しくても、私はトムは嫌いだといわせてもらう。私は、トムもトム・ソーヤー的なものも嫌いである。トム・ソーヤーの家とか名前がついている宿泊所は、朝から体操とかさせられそうだから嫌いだ。トム・ソーヤー風の料理とかは、手を洗ってなさそうだから嫌いだ。

『母をたずねて三千里』における現実感

母をたずねて三千里
1976年1月4日~12月26日放映(全52話)

 イタリアからアルゼンチンまで単身で出稼ぎに行った母親を追って、10歳の少年マルコが何千キロに及ぶ旅をして、母親のもとにたどり着く物語である。


左『母をたずねて三千里』16話 船でアルゼンチンに向かうマルコ
右『母をたずねて三千里』49話 平原をゆくマルコ

 まあ、リアリティのある物語ではない。特に、マルコがアルゼンチンに着いてからは、マルコがピンチに陥るたびに、偶然知り合いや親切な人に助けてもらい、次の目的地へ進むというパターンが5回ほどある。昔ながらのおつかいRPGのようなものだ。

 とはいえ、そのことはこの作品の評価とあまり関係しない。この作品をみるのは初めてだが、タイトルを見た時から「最後は母親に会うんだろうな」ということはわかっていたし、どこかでマルコが助けてもらえず先に進めなくなったら、それこそ驚きである。

 そんな旅の過程より、印象に残っているシーンがふたつある。

 ひとつは、マルコが旅芸人のペッピーノ一座といっしょにバイアブランカまで行くときのこと。道中で、マルコ一行は大きな牧場の若旦那サルバドールと出会う。サルバドールは自分の牧場で祝い事があるのでそこで公演するようペッピーノを熱心に誘う。ペッピーノの長女コンチェッタは、身分違いと知りつつもサルバドールにほのかな恋心を抱く。しかし、いざ牧場についてみると、行われている宴会はサルバドールの結婚祝いだった。

 コンチェッタは、「夢を見てたのは父さんだけじゃなかったの」と小さくつぶやく。


『母をたずねて三千里』28話 コンチェッタ

 もうひとつは、コルドバの街での出来事。マルコはスラムに住む少年パブロと出会い、家に泊めてもらう。部屋にある棚にトウモロコシの芯が置いてあり、マルコはごみと思って囲炉裏に捨ててしまう。すると、部屋に入ってきたパブロの妹フワナがそれを拾い上げ、色あせた赤い布でくるみ、撫でながら話しかける。

 フワナはトウモロコシの芯をお人形として大事にしているのである。


『母をたずねて三千里』43話 フワナ

 どちらもほとんど本筋には関係のないシーンだが、とても印象に残った。

 もしかしたら、他の人は、私とは別のシーンがなぜだか分からないけど印象に残ったりしているんじゃないかと思う。そういう、ふとしたシーンの描写がこの作品を支えている。

 マルコの旅は、ありそうにもない旅だ。だが、コンチェッタやフワナはアルゼンチンのどこかにいそうな気がするのである。

『世界名作劇場』で最も不幸な主人公は

 『世界名作劇場』といえば、主人公が不幸なことに定評がある。では、最も不幸な主人公は誰だろうか。

 同じような境遇でも主人公の性格によって感じ方が違うので、誰が最も不幸なのかは一概に決められないのだが、いくつかの指標をもって点数をつけてみた。

 まず、一つ目の指標は“保護者の有無”である。世界名作劇場の主人公は、『トラップ一家物語』のマリア以外は未成年である。したがって、保護者の庇護を受けられるかどうかは、主人公の幸せに直結する。そこで、保護者の有無により、次のように配点した。

(1)家族がいる。ただちに生存の危機はない … +10点
(2)知人や雇い主などに面倒を見てもらえる … ±0点
(3)親身とはいえない誰かに食料をもらえる … -10点
(4)頼れる者はいない。働けなくなったら死 … -20点

 二つ目の指標は“住環境”である。名劇の主人公はお城のような家に住む者から野宿生活者まで、幅広い住環境を持っている。『小公子セディ』のセディのように20人以上の召使いに囲まれて生活する者もいれば、『母をたずねて三千里』のマルコのように故郷から遠く離れた土地で野宿を続ける者もいる。住環境については、次のように配点した。

(1)複数の召使いがいる屋敷 … +10点
(2)自分の部屋がある家や寮 … +5点
(3)少なくとも定住している … ±0点
(4)ボロ家、雑居、仮住まい … -5点
(5)野営しつつ生活している … -10点

 三つ目の指標は“物質的豊かさ”である。金銭的な余裕がなく、欲しいものひとつ買えない生活というのは、あまり幸せとはいえない。『フランダースの犬』のネロのように、画用紙すら買えない生活では、生きるために生きているとしかいえないだろう。そこで、物質的豊かさについては次のように配点した。

(1)生活に余裕がある。欲しいものは簡単に手に入る … +5点
(2)ふつうの生活。欲しいものはそれなりに手に入る … ±0点
(3)生活費に事欠く。欲しいものは我慢するしかない … -5点

 四つ目の指標は“健康”である。心身の健康は、その人の幸せを計るうえで重要な要素である。『愛少女ポリアンナ物語』のポリアンナのように超プラス思考の主人公でさえ、交通事故で大怪我をしたときは意気消沈してふさぎこんでいた。健康については、次のように配点した。

(1)普通 … ±0点
(2)軽いケガや病気 … -5点
(3)重いケガや病気。命の危険がある … -10点

 五つ目の指標は“教育”である。きちんとした教育は、主人公の将来の幸福に関わる重要な要素である。特に、名劇の主人公は一部の例外を除いて学ぶことに喜びを見出す者が多い。『トム・ソーヤーの冒険』のトムのような勉強嫌いでも、小さいうちから労働させられるよりは学校に行くほうがましだと考えるだろう。教育については、次のように配点した。

(1)学校に通っている(いた)。家庭教師がついている … +5点
(2)字が読める … ±0点
(3)字が読めない … -5点

 以上の点数に基礎点70点を合計したものを、幸福度と呼ぶことにする。

 なお、幸福度は最高で100点、最低で20点となる。各話ごとに点数をつけて、それを平均したものを、その主人公の幸福度とする。下のグラフで、顔アイコンのある点がその主人公の幸福度であり、あわせて作中における幸福度の幅(最大値~最小値)も示している。

 幸福度最高は、なんとなく予想がついていたが『小公子セディ』の主人公セディである。序盤で父の死とそれに伴う窮乏生活が描かれるが、14話で祖父の屋敷に引き取られてからは、優雅な生活を過ごす。物語の流れでピンチになることもあるが、とりたてて「悲惨」という感じはしない。


左『小公子セディ』14話 食事をするセディ
右『小公子セディ』26話 専属メイドとたわむれるセディ

 最も幸福度が低かったのは『家なき子レミ』のレミであった。実父を幼いころに亡くし、実母とは生き別れ。2話で養父の手によって人買いに売られ、旅芸人として生活することになる。だが、やさしい座長にも先立たれ、たどり着いたパリでは悪党に強制的に働かされ、最終話まで安定して不幸な境遇にあったことが、幸福度を下げる結果となった。


左『家なき子レミ』13話 座長に先立たれるレミ
右『家なき子レミ』15話 悪党に鞭を振るわれるレミ

 ちなみに、瞬間的に最も不幸なのは『フランダースの犬』の最終話のネロであった。終盤までは貧しいながらも、それなりに生活に満足していたが、生業としていた牛乳運搬の仕事を奪われ、祖父ジェハンを亡くし、家賃が払えなくなって家を追い出され、どうしようもなくなってしまった。ネロは作中で死を迎えた唯一の主人公である。

 また、幸・不幸の落差が最も大きいのは『ペリーヌ物語』のペリーヌであった。25話で両親を亡くしたペリーヌが、ほぼ一文無しで炎天下を徒歩でマロクールに向かうあたりが不幸のピークで、終盤に祖父と和解し従業員7000人の工場の跡取りとなったあたりが幸福のピークである。

 平均的な幸福度と、作中での境遇の変化を散布図にまとめると下図のようになる。なんとなくだが、各作品の傾向を知る手がかりになるだろうか。

『ロミオの青い空』 黄金の魂は黄金の魂に惹かれあう

ロミオの青い空
1995年1月15日~12月17日放映(全33話)

 1875年ごろ、スイスの山間部にあるソノーニョ村の少年ロミオは、病気の父の治療費を出すため、<死神>と呼ばれる人買いに自分自身を売る。死神によってミラノに連れてこられたロミオは、煙突掃除夫として働くことになる。

 ソノーニョ村にいるときのロミオは、小さな世界しか持たない。村には学校もなく、医者もいない。第1話でロミオは「英雄になる」と息巻いているが、何をするのかと思えば、村祭りの出し物の棒のぼり競争(参加者4名)での勝利を目指しているだけのことである。


『ロミオの青い空』1話 棒をのぼるロミオ

 ミラノに連れてこられたロミオは、煙突掃除夫としての過酷な仕事をこなしながら、今まで見たことのないものを見聞し、文字を覚え、将来について考え、様々な経験をする。同じ煙突掃除夫のアルフレドや、親方の家に住む病弱な少女アンジェレッタなど、多くの人々との出会いを通じてロミオは大きく成長する。


左『ロミオの青い空』15話 アルフレド
右『ロミオの青い空』15話 アンジェレッタ

 タイトルになっている「青い空」とは、ロミオが煙突の上から見る見渡す限りの空のことであるとともに、ロミオが村から出ることで得た広い世界の寓意である。


『ロミオの青い空』8話 煙突から空を見るロミオ

 そんなタイトルのイメージどおり、さわやかな気持ちになれる作品なのだが、あらためて振り返ってみると、なぜかロミオを素直に応援する気になれない。その理由を考えてみると、私は歳をとり、ロミオのようにまっすぐな少年にまるで共感できなくなってしまったためではないかと思われる。

 ロミオはあまりに利他的で、正義感が強すぎるのだ。

 ロミオは、自分を買った死神が湖でおぼれそうなところを助けたり、危険をかえりみず爆弾が仕掛けられた建物に駆け込んだり、他人のために銃口の前に立ってひるむことがなかったり、格好良すぎている。

 おそらく、子供のころなら素直に格好いいと思えただろう。しかし、「夢」「笑顔」「感謝」などを社訓にする会社にブラック臭しか感じないように、ロミオの黄金の魂を毒に感じて共感できなくなってしまった。

 ロミオがもっともくじけたのが、親友のアルフレドが病気で亡くなったときである。そのときはさすがにふさぎこんでいた。しかし、仲間に「お前は逃げている」と殴られると、涙を流して立ち直る。こういう感性の人には、何か相談しても殴ってきそうで相談したくないと思ってしまう。

 アンジェレッタが、生き別れの祖母に会いにいったときもそうだ。アポなしで出かけたロミオたちは門前払いを食らう。「もういいの、帰りましょ。ここまで来られただけで、私は幸せなの」というアンジェレッタに対し、ロミオたちは強引に屋敷に侵入する。結果的にはうまくいくのだが、そんなロミオの前向きさを負担に感じてしまうのである。


『ロミオの青い空』24話 門前払いを食らうロミオたち

 たぶん、今の私にとって、物語の主人公はちょっとクズなぐらいがいい。そのほうがほっとできるのである。

ア「もういいの、帰りましょ」
ロ「そう、よかった。じゃあ帰ろうか」
ア「えっ」
ロ「というか、ちゃんとアポをとっておくべきだったね」
ア「……」
ロ「まあ、うすうす無理だろうなと思ってた。でも、ここまで来られただけで、幸せだよね?」
ア「……うん」

『ピーターパンの冒険』のどたばた予定調和

ピーターパンの冒険
1989年1月15日~12月24日放映(全41話)

①ウェンディがフック船長のせいでトラブルに巻き込まれる
②「助けてピーターパン!」
③ピーターパンのおかげでピンチを脱出

 だいたい、こういうドラえもんみたいなパターンで話が進む。ドラえもんはひみつ道具の種類で③の部分のバリエーションをつけられるが、ピーターパンはそういうわけにはいかない。ピーターパンの飛行能力で飛べないフック船長を翻弄するか、フック船長の弱点である時計ワニを連れてきてフックを追い返すくらいしかないので、またこのパターンかと思うことが多い。一気に続けて見るのには適していないアニメである。週1話のペースで見るぐらいがちょうどいい。


『ピーターパンの冒険』8話 ピーターパンとウェンディ

 おそらく、視聴対象年齢が他の世界名作劇場より低めに設定されており、単純なドタバタ活劇を楽しむ作品である。ピーターパンとフック船長の戦いもあまり緊張感がなく、遊園地のアトラクションみたいなものだ。

 ところで、幼い視聴者にとってピーターパンは正義の味方でフック船長は悪者ということになるが、大人の目で見るとそうともいいきれないところがある。

 本作品を見て気になったのは、フック船長がピーターパンや子供たちを本気で殺そうとしているのに対し、ピーターパンがどこか手加減した対応をしており、本気でそれを阻止しようとしていないところがある。

 ピーターパンの圧倒的な身体能力をもってすれば、フック船長を捕らえたり、ワニのエサにしたりすることなどたやすいことだ。ただ、フック船長の存在があるからこそピーターパンは活躍することができ、子供たちはピーターパンを尊敬してくれる。ウェンディはピーターパンを見てうっとりする。つまり、ピーターパンは自らのステータスを高めるために、フック船長を都合よく利用しているだけなのではないかという疑惑がわいてくるのである。

 そもそも、フック船長が子供たちを殺そうとする動機はあるのだろうか。作品を見る限り、子供たちをつかまえて働かせたり、奴隷商人に売ったりなどの実利を得ようとしているようにはみえない。子供たちは、ピーターパンの巻き添えを食らって命を狙われているだけではないか。

 やっつけようと思えばやっつけられるフックを泳がせ、自らの利益のために利用するピーターパンは本当にヒーローなんだろうか。

『フランダースの犬』 ネロの亡命

フランダースの犬
1975年1月5日~12月28日放映(全52話)

 最終話のネロが昇天するシーンが有名な作品である。

 だが、この作品を通して見て気付くのは、ネロが移動するシーンがやたらに多いことである。ネロの祖父は、村から街へ牛乳を緑色の荷車に載せて運搬することで生計を立てており、ネロもそれを手伝っている。なので、事実として毎日、村から街まで往復しているのだが、それにしても何十回も同じ道のりが描写する必要があるのだろうか。


左『フランダースの犬』5話 祖父ジェハンとネロ
右『フランダースの犬』5話 ネロ

 ネロの家→石造りのアーチ橋→公共水道の脇→アロアの家の前→小さなほこら→白い跳ね橋→ポプラ並木→川沿いの道→アントワープの街

 アニメを見ながら、自然に道順を覚えてしまうほどだ。ネロは1話から最終話まで、一度としてこの道を外れることはなく往復する。幼なじみのアロアがイギリスに留学しても、友人のジョルジュが遠くの街へ奉公に行っても、ネロはこの往復路を一歩も抜け出すことがなかった。

 ふつう、移動というのは目的地へたどり着くための手段であり、移動そのものにはあまり意味はない。通学電車で同じ車両に気になるアイツがいてドキドキ、といった少女マンガ的シチュエーションでもないかぎり、移動がクローズアップされることはない。

 にもかかわらず、執拗といってもいいほど同じ移動シーンを繰り返すのは、どんな意味が考えられるだろうか。

 すぐに思いつくのは、たった一本の道を往復するだけのネロの生活を描くことにより、ネロの将来に対する閉塞感や、ネロに見えている世界の狭さを象徴的に表現している、という考えである。しかし、ネロの屈託のなさをみていると、それは勝手な深読みというものだろう。

 ここは素直に考えて、ネロの移動シーンを何度も描写するのは、特に意味があるわけではなく、ネロという主人公に対して描くものがそれしかなかったということではないか。41話でネロの祖父は、ネロが幼かったときのことを回想する。祖父が思い浮かべたのは、ネロに初めて会ったときや、ネロにおそろいの帽子をあげたときなど、いかに回想にありそうなシーンではない。幼いネロが緑色の荷車に乗って移動したり、荷車の脇で歩いて移動しているシーンを、祖父は思い浮かべるのである。

 人は、目的地がなければ、どこかに属することができない。通学なら学校に、通勤なら会社にといった具合である。しかし、ネロはついにどこかに属するということがなかった。だから、ネロという人物を描くには移動しているところを描くしかないのである。

 児童文学において、子供と社会をつなぐ役割を担うことが多い父親は、この作品では不自然なまでに除去されている。ネロは家と社会のあいだでずっとたゆたっている。最後に、ネロは木こりとして生きる道を提示される。ネロが社会に属することができるはずだったが、ネロは顧みることなく、通りなれた道を通って街へと向かい亡くなった。

 ネロは亡くなるとき悔いを残していただろうか。木こりとして生きていくという生存ルートをあえて選ばなかったところを見ると、芸術家を夢見て死ぬことが、ネロにとっては良かったのだろう。ネロは、文字通り生活から亡命したのである。

『牧場の少女カトリ』 はたらくお嬢ちゃんの行く末

牧場の少女カトリ
1984年1月8日~12月23日放映(全49話)

 カトリは勤労少女である。シリーズの前半は家畜番、後半は子守りが主な仕事だが、オプションで台所仕事、麦の刈入れ、羊の毛刈り、機織りなど様々な仕事をこなしている。数えてみると、全49話のうち40話で何らかの仕事をしており、働いていない回はだいたい次の職場へ移動中である。


左『牧場の少女カトリ』8話 家畜番のカトリ
右『牧場の少女カトリ』33話 麦の刈入れを手伝うカトリ

 カトリは隙あらば働こうとする。マルティという近所の裕福な家の子と知り合うと、さっそく「私をあなたのところで働かせてくれないかしら」と仕事の斡旋を頼んでいる。マルティに「まだ小さいのに」と言われても、カトリはいうのだ。

「でも働きたいの」(2話)

 私が生まれてから一度も言ったことのないセリフである。 というか、「でも」の後に続くのが「働きたくない」以外に存在することに驚いた。

 やがて、マルティの紹介でカトリは家族のもとを離れて奉公に出ることになる。心配するマルティに、カトリは9歳にしてこういうのだ。

「私ね、仕事がつらいことはわかっているの。だから少しくらいつらいのは我慢する。一生懸命がんばるつもりよ」(5話)

 私が9歳のころは、おもしろいダジャレを考えてノートを埋めることなどに夢中だったものだが。

 そして、仕事を通じて広い世界に触れたカトリは、単純労働だけでは物足りなくなってくる。

「私、今、心から思っているの。学校に行きたいって。働くのがいやだっていうんじゃないの。でも勉強したいの。勉強して、世の中のことをもっともっと知りたいの、わたし。」(15話)

「私が働くといったのは、たとえばひとの役に立つ仕事がしたいのです。たとえば看護婦とか学校の先生とか。いえ、簡単になれるとは思っていません。でも一生懸命努力すれば…」(30話)

 そんなふうに考えていると、カトリを見込んだロッタ奥様に、都会に連れて行ってもらい、学校も行かせてもらえることになる。たぶん、私でもそうしてあげたくなると思う。

「トゥールクで働けるなんて、夢にも考えなかったんです。あっちの農場、こっちの牧場とまわり歩いて一生を終わるんだと、ついこの間まで思ってたんです。」(40話)

 カトリは自らの頑張りでチャンスをつかむ。なぜ、そんなに頑張るのかを考えてみると、つきつめると結局は「もっと働きたい」ということなのだ。最終話でいったん帰郷したカトリは、かつての家畜番仲間にいう。

「わたしはきっと学校を卒業したらこっちへ戻ってくるわ。そんな気がする」

 それに対して、家畜番仲間は寂しそうにこうつぶやく。

「いや、カトリは戻らないと思う」

 カトリは何も返事をせず、前を見つめたまま物語は終わる。カトリはどこまでも昇っていけそうである。

 もし、カトリが日本生まれだったら、いまごろ「カトリ神社」がつくられて、就活とか出世にご利益のあるパワースポットになっていたことだろう。

『トラップ一家物語』 マリアの十倍人生

トラップ一家物語
1991年1月13日~12月22日放映(全40話)

 マリア・フォン・トラップの人生は波乱万丈である。本作品で語られている範囲でその経歴をまとめると、次のようになる。

2才のとき母親を亡くす。
9才のとき父親を亡くす。親類に引き取られ虐待を受ける。
15才のとき中学校を卒業。家出して雑用で生活費を稼ぐ。奨学金を得て師範学校に入る。
18才のとき師範学校を卒業。ノンベルグ修道院の門を叩く。(1話)
修道院からトラップ男爵家に家庭教師として派遣される。(3話)
2男5女の子持ちで20歳年上のトラップ男爵と結婚する。(32話)
トラップ男爵が全財産を預けていた銀行が破綻し、下宿屋を始める。(33話)
トラップ一家合唱団として舞台に立つ。(34話)
ナチスドイツの支配から逃れるため、オーストリアからアメリカに亡命する。(40話)

 これ以降のマリアの人生は本作では語られないが、史実では亡命先のアメリカでも激動の人生を送っている。マリアが生きていたら、飲み屋で若い頃のしょうもない武勇伝を語るおっさんの前に連れて行きたい。マリアの前ではどんな武勇伝だろうと語るのが恥ずかしくなるだろう。


左『トラップ一家物語』08話 マリア
右『トラップ一家物語』35話 トラップ一家

 もっとも、マリアの人生は特殊すぎてなかなか共感できるところが少ない。卒業旅行で見たアルプスの夕映えが素晴らしいので修道女になろうと思った、などといわれても「あるある」とうなずく人はあまりいないだろう。

 本作の内容も、マリアの人生に比例してか盛りだくさんである。マリアの家庭教師としての奮闘記だけでも、7人の子供がいるからボリュームたっぷりである。そのうえ、メロドラマじみた恋愛劇や教育方針をめぐる家政婦長との確執など息をつくひまがない。歴史の奔流に巻き込まれるラスト数話は、いくぶんあわただしく終わってしまった。

 結局、マリアは幸福だったのだろうか。まったく愚痴を言わない性格なので、安穏とした人生でないことについてどう思っているのかはよくわからない。ただ、人生の最後に振り返って「何のために生きていたのか」などという後悔だけは、絶対にない人生であることは間違いない。

『名犬ラッシー』 やさしい世界のやさしい犬

名犬ラッシー
1996年1月14日~8月18日放映(全26話)

 炭鉱の町で暮らす少年ジョンとコリー犬ラッシーの交流を描いた物語。


『名犬ラッシー』16話 ジョンとラッシー

 人気が出なくて打切りになったということで、よほどつまらなかったんだろうかと期待せずに見たら、まったくそんなことはなかった。人々の暮らしぶりを感じさせる町の描写は世界名作劇場のなかでも屈指の出来栄えだし、ジョンのへこたれない性格は好感が持てるし、ヒロインは素朴でかわいい。

 ただし、犬のラッシーが主役ということで、単調になっている部分もある。この作品は、基本的に一話完結でラッシーの活躍が描かれるのだが、ラッシーは犬なのでできることには限りがある。ものを運ぶ、人を呼んでくる、何かを捜すというあたりがラッシーの活躍の限界で、犬らしくないこと(家事をする、相談にのる、心理戦など)はできない。よって、いくつかのエピソードで「似たような展開だな」という印象を受けることがあった。

 犬だけに、ワン・パターンなのである。

 もっとも、単調なのは悪いばかりではない。単調だからこそ、共感をおぼえるような日常のさりげない出来事を、じっくり描くことができている。秘密基地で友達と語らったり、みんなでケーキをつくったり、ザリガニ釣りに出かけたりといった、のんびりとした作品世界を楽しむことができるアニメである。

 どのエピソードもうまくまとまっているが、6話の「嵐の中をかけぬけろ」などはこの作品らしさがうまく表現されているかもしれない。町内の家に届け物をするため、嵐の日に出かけていくという「冒険」のスケール感のささやかさや、風でちっとも前に進まないジョンのコミカルな動きなど、イライラしてそうな人に見せてやったら、やさしい気持ちになって犯罪が減ると思う。


『名犬ラッシー』6話 嵐の中をかけぬけるジョンとラッシー

 ジョンと離れ離れになったラッシーが、ジョンのもとへ帰るための千キロメートルに及ぶ旅路が、打切りのためにたったの2話で終わってしまったのは残念である。あと数話もあれば、作品としての完成度はぐっと高まったことだろう。いち視聴者として、そんな無念を感じる作品である。

『レ・ミゼラブル 少女コゼット』 とびきり虐げられた子

レ・ミゼラブル 少女コゼット
2007年1月7日~12月30日放映(全52話)

 原作は言わずと知れたビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」。原作が発表されたのは1862年である。文久二年である。江戸時代である。それだけ読み継がれてきたという事実に、まず重みを感じる。

 アニメのほうは、原作を現代向けに翻案しながらもストーリーには厚みと勢いがあり、全52話という長丁場を活かしたつくりになっている。

 細かいことを考え出すと、いろいろと気になる点はある。たとえば、コゼットは成長も行動もしないタイプで、主人公としては物足りない。マリウスは優柔不断で無神経でコゼットがなぜ彼を好きになったのかわからない。奴隷のように扱われているコゼットが大型犬を飼っている設定は不自然。そんなふうに、あえていえば不満な点は多い。

 けれども、この作品は、小利口な理屈で計ろうとすると、その良さを見失ってしまう作品だと思う。

 アニメはコゼットを主人公としているので、コゼットが奴隷のごとくこき使われる前半13話までが特に印象に残る。社会権など影も形もないような時代の話だから、コゼットの扱いは容赦ない。子供が虐げられるシーンが苦手な人は見るのも苦痛だろう。

 食堂の床に置かれたじゃがいもを食べるコゼットを見ていると、別作品だが『小公子セディ』でセディが専属美人メイドにフルーツを手で与えるシーンを思い出した。二人はほぼ同じ年齢だが、とてつもない落差である。


左『少女コゼット』10話 床で食事をとるコゼット
右『小公子セディ』24話 メイドにフルーツを与えるセディ

 『小公女セーラ』では、主人公が落ちぶれつづけて最後に馬小屋で寝起きするようになるが、コゼットは最初から馬小屋暮らしである。


左『少女コゼット』03話 馬小屋のコゼット
右『小公女セーラ』40話 馬小屋のセーラ

 悲惨な境遇だけにコゼットがジャン・バルジャンに救い出されてまともな生活ができるよういになるとほっとするが、それが自分でつかみ取った幸せでないだけに、物足りなさを感じるところもある。

『ナンとジョー先生』 教訓と茶番

若草物語 ナンとジョー先生
1993年1月17日~12月19日放映(全40話)

 『ナンとジョー先生』は、その六年前に放映された『愛の若草物語』の続編で、若草四姉妹の次女ジョーとその夫ベアが経営するプラムフィールドと呼ばれる寄宿学校を舞台に、主人公のナンをはじめ10人の生徒のほのぼのまったりした学校生活を描いた物語である。


左『ナンとジョー先生』01話 ジョー先生とベア先生
右『ナンとジョー先生』24話 ナンとジョー先生

 昔の学校にしては珍しく、プラムフィールドには体罰がない。生徒に善悪を教えるときは、生徒の良心に訴えかけて自らの過ちを気づかせる。たとえば、生徒が夜更かしをして、注意してもなかなかベッドに入らないとき、ジョー先生はこう宣言する。

「みんな寝るのが嫌いなようね。そこで今夜からみんながどんなに遅くまで遊んでいても叱らないことにしました。」

 そうすると、生徒は「ジョー先生はすごく怒っているに違いない」と無言の圧力を感じ、また、いつも見守ってくれるジョー先生の優しさを思い出し、反省してすすんで眠りにつくのである。

 いい学校だとは思うが、この学校に入りたいかと問われれば、あまり気が進まない。「いい子」になれというプレッシャーが強すぎるのだ。学校は、ジョー先生を母親、ベア先生を父親として、擬似的な家族関係を築いている。生徒たちは、先生に見放されることを、あたかも親に見捨てられるように感じているように見受けられる。

 ところで、この作品は日常を描いた正統派アニメであり、あまり事件らしい事件が起こらない。

 いや、正確にいえば、事件は起こるのだが、あまり印象に残らない。

 その理由を考えてみると、事件が発生しても、そこから「教訓」を得た生徒が成長して事件が締めくくられるというプラムフィールド特有の「いい子」空間の魔力が原因と思われる。

 たとえば、ナンが野イチゴ摘みのときに立ち入り禁止のエリアに入って行方不明になるという事件があった。捜索の末に発見されたナンは、越えてはいけない柵を越えたことについて「あんなに先生にダメだっていわれてたんですもの。それを破るのが最高の冒険だったわ」と平気な顔である。

 ところが、そんなナンを見てジョー先生が簡単な罰を与えると、その日の夕方には「あたし五歳の子と同じでした。しちゃいけないことが分からないなんて」と泣いてすがりつくのである。


左『ナンとジョー先生』4話 規則破りを得意げ話すナン
右『ナンとジョー先生』4話 泣いてジョー先生にすがるナン

 こうなると、あらゆる事件が教訓を得るために存在しているのではないかという錯覚を覚え、事件そのものが嘘っぽく感じるのである。就職面接で自分の短所を聞かれた学生が、「頑固なところです。一度決めたことを最後までやり通します」とさりげなく長所にすり替え、結局はさっぱり印象に残らなくなってしまう感じに似ている。

 あるいは、もっと直接的に言えば、小学校のときに道徳の時間に「さわやか三組」などの番組を見せられて「茶番」という言葉の意味を理解した感じに似ている。

 こうして、なにごとも最後をとってつけたような教訓で終わらせてしまうと、本題の部分の印象が薄くなるのではないか。と、そんな教訓を得たのである。

『小公子セディ』 無垢の怪物

小公子セディ
1988年1月10日~12月25日放映(全43話)

 ニューヨークの下町で生まれ育った少年セディは、父の死を機に伯爵家の跡継ぎとしてイギリスのドリンコート邸に迎えられ、偏屈な祖父と暮らすことになる。祖父は、純粋無垢なセディと暮らすうち、次第に心優しい気持ちを持つようになっていく。

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『小公子セディ』18話 セディ

 見終わってからいろいろ考えているうちに、もしかしてこの作品のジャンルはホラーではないかと思うようになってきた。

 作品を見ているときにセディのことを怖いとはっきり感じたのが33話である。セディは「単語のスペルが間違っているかもしれないから見てほしい」と、ニューヨークの知り合いのホッブスに宛てて書いた手紙を祖父に読んでもらう。その手紙には祖父のことが書かれている。自分の偏屈を自覚している祖父に、こんな手紙を読ませるのである。

  親愛なるホッブスさん。
  ぼくはおじいさんのことを書きたいと思います。
  おじいさんは立派な伯爵です。
  伯爵が暴君なんていうのはまちがっています。
  僕のおじいさんは暴君ではありません。
  ホッブスさんもおじいさんに会ったらいいお友だちになるでしょう。
  だれだってみんなに親切な人のことは好きになるからです。

 断っておくと、セディは手紙を読ませることによって祖父に何かを伝えたいわけではない。セディは、祖父が善良な人だとただ単純に信じ切っており、それをあのままに書いただけなのだ。だが、自分のことがこんな風に書かれた手紙を読まされて、平静を保っていられるだろうか。どうしたってセディの気持ちを裏切りたくないと思ってしまうのではないか。

 つまり、セディの周りにいる人は、セディが意図しているわけでもないのに、ゆるやかにマインドコントロールされ、セディの望む人格に作り変えられていくのである。セディは26話で「小さな若君(リトルプリンス)」との二つ名を与えられているが、そんな可愛らしいものではない。セディに二つ名を付けるなら、「無垢の怪物(イノセントモンスター)」とでもしておきたい。

 むろん、セディのマインドコントロールが及ばない人もいる。この作品には、世界名作劇場にしては珍しいほど「悪役」といえる人物が登場する。

コールデット夫人…7~8話に登場。セディの母が仕立てたドレスに難癖をつけて引取りを拒否した。

ハリス夫人…14~22話に登場。伯爵の親戚。伯爵の跡継ぎとしてドリンコート邸に突然やってきたセディに辛く当たる。

ニューイック…24~35話に登場。伯爵の領地の管理人だが、領民に不親切で嫌われている。地位を利用して私腹を肥やす。

ミンナ…39~43話に登場。ドリンコート家の正統な跡継ぎの母親と騙り、セディをドリンコート邸から追い出す。

 ふつう、児童文学に出てくる悪役というのは、最終的には罰を受けたり、改心したりするものだ。勧善懲悪や因果応報というのは児童文学の基本といってもいいだろう。

 ところが、この作品に登場する悪役は、ただ“いなくなる”のである。コールデッド夫人もハリス夫人もニューイックもミンナも、反省してセディに謝ったり、後悔の涙を流したり、捕まって罰を受けたりすることはない。彼らには、何のペナルティもなく、もともと存在しなかったかのように、ぱったりと登場しなくなってしまうのである。それに気づいたとき、どこか薄気味悪さを感じた。

 最終話を迎えて、そこにはセディを心の底から愛する人しかいない。セディに疑いを持つものや反感を持つものは消えてしまった。

 いなくなった彼らは、本当にどこかにまだ存在しているのだろうか。

『私のあしながおじさん』 おじさんの趣味

私のあしながおじさん
1990年1月14日~12月23日放映(全40話)

 「お嬢様学校に思いがけず入学した天真爛漫な主人公」という本作の設定から、ただのハートフル学園コメディだろうと油断してはいけない。


『私のあしながおじさん』6話 ジュディ・アボット

 主人公のジュディ・アボットは孤児である。あしながおじさんの援助でリンカーン記念女子学園に入学する(3話)。ジュディは孤児院育ちということに強いコンプレックスを持っていて、誰にも自分の過去を打ち明けられない。なにしろ、脱走未遂の罰として犬のように木に縄で縛られさらし者にされたり(29話)、クラスメイトの寄付したおさがりの服を着て同じ教室で授業を受けさせられたり(29話)、超重量級のトラウマを植え付けられた孤児院のことだ。気安く話せることではない。

 ジュディの抱えるコンプレックスは、ジュディの青春にも暗い影を落とす。授業で「家族」をテーマにした作文を課されたときは、孤児院を大きなお屋敷と偽った悲しい嘘の作文を書き(6話)、孤児への寄付を求められたときは「貧乏人はお金持ちが慈善を施すための家畜なのか」とルームメイトにどなってしまう(7話)。そして、金持ちのジャーヴィスからプロポーズされたときには、彼を愛しているにも関わらず孤児院育ちの自分を卑下して断ってしまう(38話)。

 なかなかコンプレックスから解放されないまま、ジュディは卒業式を迎える。最優秀卒業生として答辞を述べることになったジュディは、意を決して壇上で自分が孤児であることを告白し、自分のいじけた考えと決別する(39話)。

 卒業式のあと、ジュディはあしながおじさんの正体がジャーヴィスだということを知る(40話)。

 ジュディはあしながおじさんの正体にすっかり感激していたが、ジュディがあしながおじさんに書いた手紙は全部ジャービスが読んでいたわけで、なかには恋愛相談なんかもあったりしたわけで、ジャービスはそれをニヤニヤしながら読んでいたであろうわけで、ジュディはビンタぐらいしてもよかったと思う。

『小公女セーラ』の正義の話をしよう

小公女セーラ
1985年1月6日~12月29日放映(全46話)

 ミンチン女子学院というロンドンの寄宿学校に入学した10歳の少女セーラは、父の死によって、学院一のお嬢様から、元クラスメイト達に仕える使用人に転落する。


左 『小公女セーラ』07話 セーラ・クルー(転落前)
右 『小公女セーラ』15話 セーラ・クルー(転落後)

 率直にいって、作品のストーリーやテーマより、貧乏になったセーラが虐げられるシーンが何よりも印象に残る作品である。特に、元クラスメイトのラビニアが、セーラが逆らえないのをいいことに執拗にいたぶるところなど、見ていると胸が痛くなる。

 疲れて暖炉の前で居眠りするセーラに対し、セーラのもたれかかっている石炭桶を思い切り蹴飛ばす物理攻撃(34話)や、セーラに靴を磨かせ「履かせてちょうだい」と命令する精神攻撃(20話)など、忘れがたいシーンは多い。


左 『小公女セーラ』34話 物理攻撃を受けるセーラ
右 『小公女セーラ』20話 精神攻撃を受けるセーラ

 屋根裏から馬小屋に寝床を移されたセーラについて、他のクラスメイトに「こちらのお嬢様はね、昔お飼いになっていた馬の馬小屋に今は住んでらっしゃるんですって」と話す時の口ぶりときたら、視聴者にそういう性癖があったらヘビーローテーションしたくなる場面である。(39話)

 それにしても、見ていると胸が痛くなるような作品なのに、つい続きを見てしまうのはなぜだろう。

 ネットでこの作品の感想を見ていると、「いじめを助長している」とか「悪者に罰が与えられないのは教育上よくない」という正義感にあふれるコメントが多く見られたので、私もそう思ったことにしようかと考えたが、やっぱりセーラが悲惨であればあるほど中毒性があるのだ。

 人は、押したらダメというボタンを押したくなる。食べると太ると思うと食べたくなる。くさいものは嗅ぎたくなる。それと同様に、見ないほうがいいとわかっていても見たくなるのである。これは、もしかしたら多くの人が共通して持つ一種の破滅願望なのかもしれない。

 この作品を見ていて、ふと思った。どこか、人目に付かないところに「お金を入れると恵まれない子供が救われる募金箱」と「お金を入れると恵まれない子供がもっとひどい目に会う募金箱」を並べて置いたら、案外、後者にたくさんお金が入ったりしないだろうか。

『七つの海のティコ』は90年代らしいアニメ

七つの海のティコ
1994年1月16日~12月18日放映(全39話)

 主人公は11歳の少女ナナミ。4歳で母を亡くして以来、金色に発光するクジラ(ヒカリクジラ)を探すというオカルトじみた研究にのめり込む父に連れられ、学校にも通わせてもらえずに、海洋調査船ペペロンチーノ号で世界中を旅する毎日である。なお、ペペロンチーノ号の船名の由来は作中では明かされていないが、父親が「ナナミ(七味)とペペロンチーノ(唐辛子)を合わせて七味唐辛子…なんちゃって」とダジャレで決めていたりしたら、そんな船には乗っているだけで苦痛だろう。

 ナナミと父以外のペペロンチーノ号のクルーは、太った中年イタリア人だけだ。思春期の女の子が父と中年男の3人で狭い船で生活するのはストレスが溜まりそうだが、ナナミはいい子なのでまったくそんなそぶりを見せない。もちろん、ナナミに人間の友達はいない。シャチにティコという名前を付けて、よく海で遊んでいる。


『七つの海のティコ』3話 洗濯物も一緒に干す

 物語が進むと、ペペロンチーノ号に3人のクルーが乗り込んでくる。まず、財閥令嬢のシェリルとその執事。もう一人は内気でコンピュータが得意な10歳の少年トーマス。序盤は頼りにならないが、作中で著しく成長し、終盤ではナナミの良き相棒となる。ナナミとトーマスのちびっこコンビが駆け回る様子は、ニコニコしながら見てしまう。


『七つの海のティコ』37話 トーマスとナナミ

 そんなペペロンチーノ号の仲間たちだが、ヒカリクジラをめぐって巨大企業GMCと対立することになる。いろいろあって、GMCがヒカリクジラ研究のため南極に建てた基地は破壊され、悪の親玉の乗るヘリコプターは崖に衝突し炎上する。それにしても、動物については必死で守ろうとするナナミが、南極海に落ちたGMCの研究員や警備員については眉一つ動かさず無視するのは、ヒカリクジラ至上主義者とでもいうべき父の長年の教育の成果だろうか。

 なお、ようやく邂逅を果たしたヒカリクジラだが、実在する存在かと思いきや、オーバーマインドとか統合情報思念体とかいう名前でSFに出てきそうなオカルトっぽい存在というオチで話は終わる。

 世界名作劇場のなかでは最も新しい年代を舞台にした作品なのだが、しょうもないオカルトじみたエコ思想に古臭さを感じる作品である。

『あらいぐまラスカル』 飼ってはいけない

あらいぐまラスカル
1977年1月2日~12月25日放映(全52話)

 アライグマは、2005年に外来生物法で人や農作物に被害を及ぼす動物に指定され、もちろん飼育は禁じられている。アニメは1977年の放映で、現在の日本の感覚とは違うのだと理屈ではわかるのだが、やはり今となってはアライグマをペットとして飼うこと自体に違和感がある作品である。


『あらいぐまラスカル』15話 ラスカルとスターリング

 主人公のスターリングは動物好きで、アライグマののほかにセントバーナード犬のハウザーとカラスのポー、スカンク4匹を世話している。

 カラスはスターリングがエサを与えるので人に慣れてしまい、スターリング家の隣の教会に巣をつくってミサの妨害をしたり(1話)、近所の花畑の種をほじり返したりする(16話)。苦情を受けたスターリングはカラスに向かって説教したあと、こうつぶやく。

「あいつ本当にわかったのかな。そうだよな、わかっちゃいないんだよな。もういいや、ハウザー、さあ、釣りに出かけよう」

 この無責任さは何とかならなかったのだろうか。

 また、スカンクは、スターリングと仲が悪い少年スラリーに犬をけしかけられ、教会で結婚式の最中に悪臭を放ち、結婚式をめちゃくちゃにしてしまう(6話)。その場から逃げ出したスターリングは川辺でこうつぶやく。

「僕が悪いわけでもないのに。ただスカンクを飼っていただけなのに…」

 確かに犬をけしかけたスラリーの責任は重い。でも、何かの拍子にスカンクが悪臭を放つのは十分に考えられることなのだから、まったく無責任でいられるわけではない。

 そもそも、作品のタイトルとなっているあらいぐまラスカルは、森で母と暮らしていたところを、スターリングとセントバーナード犬に巣を掘り返され、巣から飛び出した母が猟師に撃ち殺されたことで、スターリングに飼われることになる。スターリングさえいなければ、ラスカルは母子仲良く森で暮らせのだが。


『あらいぐまラスカル』1話 撃たれた母にすがるラスカル

 私は、どうもこの主人公が好きになれないし、動物好きだとも思わない。

 なお、主人公の運命は物語は進むにつれて下降線をたどっていくことになる。母が亡くなり(14話)、ラスカルは檻に入れられ(28話)、父の事業が災害で打撃を受け(37話)、やがて父や友達と離れて暮らすことになる(49話)。身勝手で残酷な少年に対する因果応報の物語なのかもしれない。

『世界名作劇場』に出てくるお金の価値

 世界名作劇場を見ていると、お金をやりとりする場面で「これは現在の日本円に換算していくらなんだろう」と思うことがある。そこで、国立国会図書館リサーチ・ナビの「過去の貨幣価値を調べる(明治以降)」を参考に、当時のお金との換算レートをつくってみた。

 簡単にいうと、昔は物価が安いので「現在のA円」に相当する「過去のB円」がいくらかを物価指数により計算する。次に、「過去のB円」に相当する「過去のCドル」がいくらかを当時の為替レートにより換算する。これで、「過去のCドル」に相当する「現在のA円」がいくらかがわかるはずだ。

 細かいことは後述するが、各作品に登場したお金を現在の日本円に換算すると、このようになる。

フランダースの犬 パトラッシュの代金 3フラン 1400円
フランダースの犬 ジェハン爺さんの1か月の稼ぎ 2フラン 950円
フランダースの犬 画用紙 10サンチーム 48円
フランダースの犬 ルーベンスの絵の鑑賞代 1フラン 500円
フランダースの犬 絵画コンクールの賞金 200フラン 99000円
フランダースの犬 コゼツ旦那の落とした金 2000フラン 99万円
ペリーヌ物語 パリカール(ロバ)の代金 30フラン 15000円
ペリーヌ物語 パンを6枚厚く切って具を
たっぷり挟んだもの
40サンチーム 210円
ペリーヌ物語 3日前の固くなったパン 2サンチーム 10円
ペリーヌ物語 トロッコ押しの日給 60サンチーム 310円
ペリーヌ物語 共同部屋の1日当たり間借り賃 20サンチーム 100円
ペリーヌ物語 社長秘書の月給 90フラン 46000円
ナンとジョー先生 卵12個 25セント 670円
ナンとジョー先生 モーツァルトの楽譜 3ドル 8100円
小公女セーラ ダニエル少年からもらったお金 6ペンス 350円
小公女セーラ ぶどうパン1個 1ペンス 59円
小公女セーラ ミンチン女子学院への寄付 10万ポンド 14億円
赤毛のアン アラン牧師の年俸 750ドル 220万円
赤毛のアン 毛染め剤の価格 75セント 2200円
赤毛のアン 大学の奨学金1年分 250ドル 71万円
家なき子レミ レミの代金 20フラン 11000円
家なき子レミ ヴィタリス一座の1公演での稼ぎ 3.35フラン 1800円
家なき子レミ レミのパリでの1日の稼ぎ 23スー 610円
家なき子レミ レミの身代金 1万フラン 530万円
あらいぐまラスカル パイの早食い競争の賞金 5ドル 11000円
あらいぐまラスカル 大人用手袋 5ドル 11000円
私のあしながおじさん 入学準備金 50ドル 40000円
私のあしながおじさん 小説コンテスト入賞賞金 25ドル 20000円
名犬ラッシー 炭鉱作業員の週給 3.5ポンド 41000円

 物価指数というのは物価の変動を示す指標だが、日本銀行が1887年から調べている企業物価指数と、政府が1946年から調べている消費者物価指数がある。世界名作劇場は戦前を舞台を作品としている作品が多いので、より古い年代までわかる企業物価指数を用いている。

 さらに1887年より以前については米価が参考になるが、米価は短期間での変動が激しいものの、長期的にはあまり変動していないとみて、1887年以前は物価変動なしと取り扱った。


米価と物価指数の比較グラフ

 また、為替レートは日本銀行統計局のデータによるが、1874年までしかない。日本の通貨単位が“円”になったのは1871年なので、それ以上過去にさかのぼるのは難しく、調べたところで江戸時代にまともな為替レートが設定されているとも思えない。よって、この文章では1874年までの換算で打ち切っている。

 以上をふまえて、現在の日本円と過去の外国通貨を換算すると、次表のようになる。


現在の日本円と過去の外国通貨の換算表