裁くのは俺だ

 セールス電話が馴れ馴れしくなってきている。

 もちろん、それはやつらの手口だ。事務的な口調であれば、こちらも事務的に応対することができるが、最初から馴れ馴れしい口調だと「知り合いかも」と思ってしまい、いきなり切ることができない。そうして切るタイミングを逃してしまうと、ずるずると会話するはめになる。

 先日かかってきた電話では、相手の男がいきなり元気な声であいさつしてきた。

「こんにちはっ!」

 幸い、私はこれが知り合いからの電話でないことにすぐ気付いた。私の知り合いなら、私に電話をかけるとき、こんなに元気でいられるはずがない。つまり、この電話はセールスマンの罠である。ここで相手に調子をあわせて明るく対応してしまうと、その後も無下に対応しにくくなり、相手のペースにひきずりこまれてしまう。こんなちゃちな手口に私がひっかかると思っているのだろうか。バカにするにもほどがある。私は反射的に「こんにちはっ!」と言ってしまったあと、そんなことを考えていた。バカにもほどがある。

 それにしても、やたら馴れ馴れしいセールス電話には閉口する。はじめのうちは「○○じゃないですか」と一応はですます口調なのだけれど、次第に馴れ馴れしさが増していき、「○○だよ~」「○○じゃない?」などと言いはじめる始末だ。このままでは「ごめん、ちょっとウンコしてくるから待ってて」などと言い出すのではないだろうか。いつから俺とお前はそんなツーカーの仲になったんだと言いたい。

 結局、対策としてはこちらが毅然とした態度をとるようにするしかないのだ。ツーと言われてカーと返すのでは相手が増長するばかりである。常に距離を保たなければならないのだ。

 ただ、そういうことは頭ではわかっていても、いざとなるとなかなか実践することは難しい。そのため、普段から訓練しておくことが必要である。たとえ親しい恋人が相手であっても、ツーといわれてカーと返すのではなく、ツーと言われてツーと返すぐらいの心がけでいたい。

「もしもし、私、大切な話があるんだけど…」
「ツー!」

 ツー…、ツー…、ツー…

胸いっぱいの愛と情熱を私に

 宮沢章夫の『百年目の青空』に「こつは生産される」というエッセイがあり、そこで友人が見つけたこつを紹介している。コンピュータには漢字変換システムがつきものだけど、それを電話帳にしてしまうというのだ。単語登録機能によって、たとえば「スズキタロウ」の変換語句として「XXX-XXX-XXXX」と電話番号を登録してしまう。そうすれば、わざわざ手帳をめくったりせずとも、コンピュータを立ち上げて、ワープロソフトを起動し、名前を入力して変換キーを押すだけで、いとも簡単に電話番号を調べられるのだという。

 これを「こつ」といっていいのかどうか疑念はあるけれど、もしこれを「こつ」といってもいいのであれば、私も「こつ」をひとつ持っている。同じく、漢字変換システムに関するこつだ。

 誰にだって、気分が落ち込むことはある。私のように、容貌・知性・財産のすべてにおいて卓越した人間であっても、ときどき自分すら騙しきれなくなって、落ち込むことがある。そんなときには、やはり誰かに慰めてほしいと思う。だけど、なかなかそんな気の利いた人間はいないものだ。私が落ち込んだ顔をしていると、嬉しそうに「おねしょでもしたの?」と訊いてくるような輩ばかりである。

 人間が慰めてくれないのなら、人間以外に慰めてもらうしかない。そこで「こつ」である。漢字変換システムの単語登録機能を利用して、落ち込んでいるときに効きそうな文章をあらかじめ登録しておくのだ。

 たとえば、「なんだかゆううつ」と入力すると、「ダイジョウブ?」と変換されるように、単語登録しておくのである。そして、いざ気持ちが落ち込んできたら、コンピュータ相手に愚痴を言うことができるのだ。前もってたくさんの単語を登録しておけば、コンピュータと癒しの会話をすることさえ可能である。

「なんだかゆううつ」
「ダイジョウブ?」
「なにもかもいやだ」
「ゲンキダシテ!」
「やさしいのはきみだけだ」
「アナタガスキナノ」
「そばにおいでよ」
「イヤーン」

 コンピュータの前には、ますます落ち込んでいる私がいた。

どこまでも行こう

 みなさんに、プラス思考のすばらしさを伝えたい。

 なにより精神衛生のためによいし、ものごとを前向きにとらえるのは建設的でもある。おまけに、無料でできる。決定された結果は変えられないが、結果に対するリアクションは自由なのだ。だったら、どんなことだって肯定的にとらえたほうがいい。

 たとえば、風邪をひいたときには、こんなふうに考えられる。

「風邪をひいたおかげで免疫がつくし、ゆっくり寝ていられるし、咳やくしゃみで腹筋が鍛えられるし、いいことずくめだ。」

 もっとも、プラス思考を実践するのは簡単ではない。思考を正の方向へコントロールするだけなら、誰だってできるし、正常な人間なら思考が前向きになるのは自然なことですらある。むしろ、思考が前のめりになりすぎるのを抑えることが難しいのだ。

「風邪をひいてしまった。しかし、これはただの風邪ではないだろう。今、私の身体は浄化されているのだ。宇宙存在であられるサタン様が私の意識側個脳意識を滾らせ、やがて、ドゥグ・ハル・ラ・バルのパワーが生命の樹を我が肉体に捧げようとしているのだ。そのとき、我が肉体は昇天華伏することで、神となる。そう、私は神となるのだ。愚民どもよ、ひれ伏せ。我が無限遠天の力に戦慄せよ。フハハハハッ……。」

 油断していると、ついついこんなことに考えてしまいがちである。だけど、こんなことばかり考えていると、日常生活にだいぶ支障をきたすようになる。友達は十人ぐらい減る上に、三人ぐらい増える。「視点が定まらない」「いつもクスクス笑っている」「ときどき顔がひきつる」などの諸症状があらわれるようになる。普通に会話しているつもりでも、無意識にサタン様の影が現れてしまう。思考の振幅が激しくなり、ふと我に返ったとき「こんなことで大丈夫だろうか」と不安に襲われることもある。

 でも、そんなときでもプラス思考で安心。

ことば、ありき

 動物と人間の違いとして「道具をつかう」「本能より理性で行動する」「すぐに理性を捨てることができる」などがよく挙げられるが、「言葉をつかう」というのもそのひとつだ。人間がいつから言葉をつかうことができるようになったのかは知らないが、人間は言葉によって「現象」を定義し、認識することができるようになったのではないかと思う。

 たとえば「くしゃみ」という言葉がなかったらどうだ。「くしゃみ」という言葉があってこそ、くしゃみをしたとき「くしゃみが出た」と思うことができるのではないか。「くしゃみ」という言葉がないときにくしゃみをしたら、何が起こったのかわからないのではないだろうか。

「今、なんか爆発した…。」

そんな感じだろうか。

「ハクション!」
「今の何?」
「ああ、ちょっと爆発しちゃって…」
「爆発?」
「爆発っていうかさ…、口からすごい勢いで七人の小人が飛び出す感じ?」
「小人?」
「だからさ、擬音であらわすとバヒューンって感じでさ…」

 話はややこしくなるばかりである。
 「くしゃみ」という言葉があれば「くしゃみが出た」で済むことだし、そもそも「今の何?」などとは聞かれないだろう。言葉がないばかりに、いらぬ苦労をしなければならない。くしゃみならまだしも「屁」という言葉がなかったらどうだ。

「(プスー)」
「?」
「あ…空気が漏れる…」
「なんだかにおわない?」
「ごめん…」
「何? 何があったの?」
「たった今、ぼくの身体から悪霊が生まれたのです…」

 何が起こったというのか。ただ屁をこいただけなのに。
 それでは効率が悪いから、人は「現象」に名前をつける。名前をつけることによって「現象」は一般化され、ひとつの言葉で伝達ができるようになるのである。してみると、言葉というのは偉大である。

 それにしても、想像してみるに「はじめてその現象を名づけた人」というのは「よいことをした」という気持ちだっただろう。それまではなんだかまわりくどい言いかたをしなければならなかったのに、これからはひとことで言い表すことができる。これは便利だと思ったことだろう。私もそれにならって「急いでいるときに限ってタンスの角に足の小指をぶつけてしまい、うずくまって小指を抑えているとき全身にめぐる感覚」について、ひとつ名前をつけてみることにする。

「…………。」

 言葉にならない。

注文の多い両手

 人はさまざまな状況で両手をあげる。

 たとえば、自分の存在をアピールしたいとき、人は両手をあげる。たいへんに混雑した場所で、待ち合わせの相手が自分を探しているときなど、人は両手をあげ目立つようにし、自分がそこにいることをアピールする。あるいは、テレビカメラが大勢の群集を写したとき。そんなとき、人は両手をあげて自分が田舎者であることをアピールする。

 喜びを表現するときも、人は両手をあげる。国家的な慶事があったときなどは、大勢の人が「ばんざい」と叫びながら両手を上下させる。個人的なことであっても、たとえば胴上げをされている人を見れば、必ずといっていいほど両手をあげている。腕組みをしながら胴上げされる人などいない。手を合わせて胴上げされる人は、そんなに仲間が信頼できないのだろうか。

 また、相手に降伏するときも両手をあげる。銀行強盗は決り文句のように「手をあげろ!」と言う。強盗を取り囲んだ警察も、強盗に向かって「手をあげろ!」と言う。「手を叩け!」という強盗はいない。「手がかゆい!」という警官もいない。

 他にも、球技場でウェーブをするとき、旗揚げゲームをしているとき、ラジオ体操で深呼吸をするとき、両隣の人にわきの臭いをかがせたいとき、元気玉をつくるときなど、両手を挙げる機会は数え上げればきりがない。

 このように「両手をあげる」という行為はさまざまな意味を持っている。目立ちたいときも、嬉しいときも、脅されたときも、人は両手をあげるのである。これで混乱しない者がいるだろうか。誰しも両手をあげるときに、自分がいったい何のために手をあげているのか不安に思いながらあげているのである。

 しかしながら、手をあげる状況がそれぞれ単独で起きたときならば、人はそれほど混乱しない。手をあげなければならない状況が複合的に襲ってきたときこそ、混乱の真骨頂である。たとえば「銀行強盗に襲われているとき、赤ちゃんが誕生したことを告げられた」という状況はどうか。そんな状況におちいったとき、人は両手をあげながら、喜んでいいのかおびえていいのかわからなくなるだろう。ましてや「銀行強盗が赤ちゃんを産んだ」ときにはどうすればいいのか。

 あるいは、「暴漢に襲われながら撮った記念写真で目立ちたい」という場合はどうか。自分が暴漢におびえて両手をあげているのか、目立ちたくて両手をあげているのかわからない。そもそも何のために記念写真を撮るのかわからない。混乱である。

 どうも、この「両手をあげる」という行為にはさまざまな意味が付け加わりすぎていて、複雑な状況に対応するのは難しい。考えれば考えるほど、自分がどのような状況でどのような意味をもって両手をあげればよいのかがわからなくなり、うっかり手をあげることもままならない。……どうしていいかわからなくて、どうにもならなくなった人にできることは、ただ「お手上げ」である。

小粒でもピリリ

《食べられません》と書かれた小さな袋

 気のせいかもしれないが、あれを見ることが少なくなってきていないか。本当に気のせいかもしれないし、食品を密封する技術などが発達してその必要性が薄らいできたのかもしれない。

 昔、あれのインパクトには、なかなかに強烈なものがあった。中には乾燥剤が入っているだけなのであり、食品といっしょに入れるぐらいだから、それほど致命的に毒性が強いというものではないだろう。ただ、小さいころに「絶対食べちゃだめだからね!」ときつく叱られたのかもしれないが、どうもあれは「ものすごい毒だ」という感じがしていた。

 とはいえ、そういうインパクトは歳とともに薄れてきて、人間のからだが意外にじょうぶであることもわかり、あまり「恐れ」というようなものを抱かなくなってきた。「よくわからないものに対しておびえる」という年齢ではなくなったのだろう。しかし、こんなふうに悪慣れしてしまって、子どものころあの袋に感じたおどろおどろしさを忘れてしまうのは、少し寂しくもある。

 では、現在の私にとってインパクトのある袋とはいったいどういうものなのか。

《許せません》と書かれた小さな袋

 こんなものが食品に入っていたら、そうとう怖いだろう。後ろ暗いことのある人間は、とてもその食品を食べることができないはずだ。あのことだろうか、それともこのことか、と想像力は止まらなくなる。幸いなことに、私には後ろ暗いことは片手で数えるほどしかない(ただし、片手に生えているうぶ毛を用いて数える)。それでも、そんな食品は食べたくない。

《見てません》と書かれた小さな袋

 あ、こいつ見てるな、と直感的にわかる。人は「見てない」と言いながら見ているのだ。指のすきまからそっと覗くのだ。いったいどこから見ているんだ。そこか、それともあそこか。オレを見るな、見るんじゃない。人をどこまでも追いつめる力を、この袋は持っている。

《わかりません》と書かれた小さな袋

 何がわからないのか。「私は三たす二がわかりません」といった、まるで自分と関係のないことならよい(よくないが)。しかし、そんなものをわざわざ食品に仕込むわけがない。きっと何かその食品に関係があることには違いないのである。ひょっとしたらつくるときに「何だかよくわからないもの」を入れてしまったのではないか。「ちょっとぐらいならいいか」と、そのまま放置してしまったのではないか。そんないいかげんな。「わかりません」と書いたからそれですむものでもないだろう。これはとても食べられたものじゃない。

 そうして人を疑り深くさせたあとで、そっと次のような袋を入れておく。

《食べられます》と書かれた小さな袋

 本当に食べられるのか。

滋賀県

滋賀県というのは、福井県と岐阜県と三重県と京都府に囲まれた県で、琵琶湖のまわりにへばりつくように人が住んでるところだ。そんな説明はないか。あー、琵琶湖にへばりついてないところもありますが、そこには忍者が住んでいます。

堀井憲一郎『東海道五十三次を歩く』

 生まれてすぐに引っ越してきたので、故郷といえば滋賀県のことである。日本地図のまん中にあるのだから多少の知名度はあるというものの、どことなく華やかさに欠けることは否めない。なんというか、漠然とした印象しか持たないところだと思う。

 「良くも悪くも琵琶湖」という言葉があって、滋賀県に住んでいない人に「滋賀県といえば?」と質問すれば、92パーセントぐらいの人は「琵琶湖」と答える。ひとつ目立つものがあるのはいいのだが、言い換えれば琵琶湖以外はあまり認知されていないということでもある。「良くも悪くも琵琶湖」なのである。もちろん「西堀栄三郎記念館」とか「イーゴス108」とかマニアックなスポットを答えられても、それはそれで何だか馬鹿にされているような気がしないでもないけれど、ちょっと「琵琶湖」と答えられるのに飽いているのも事実なのである。

 もちろん、滋賀県には琵琶湖以外に何もないわけではなく、とりあえず滋賀県に暮らす人間としては「平和堂」の存在を語らずに済ませることはできない。平和堂というのは滋賀県を中心に展開する中規模スーパーマーケットのことである。もし滋賀県を電車で旅する人がいれば、しばらく窓の外を見ているとよい。シンボルマークである白と緑のハトを、必ず十数羽は見つけることができる。ちなみに平和堂は滋賀県に61店舗もある。要するに、滋賀県は平和堂だらけである。県内のあらゆる駅前に平和堂があるといっても過言ではない。そのせいか滋賀県にある駅の出口には「西口」「東口」といった名称がつけられず、「平和堂口」「平和堂逆口」と名づけられたりする、というようなことはないのだが、これは駅の両側に平和堂が建っている場合を考慮してのことである。

 あと、平和堂は「HOPカード」というポイントカードを発行している。恐るべきことに、この「HOPカード」をほとんど全ての滋賀県民が持っている。以前、他府県の人に「滋賀県の人って、なんでみんなそのカードを持ってるの?」と聞かれたので、「これは滋賀県民のIDカードである」と答えておいたが、あながち間違いではないと思う(事実、相手は納得していた)。腰の曲がったおじいさんでもおしゃれをしたお嬢さんでもHOPカードを持っていたりする。恐ろしいことだ。もしあなたの知り合いに滋賀県民かどうか疑わしい人がいたならば、ちょっと財布を見せてもらうといい。「HOP」と書かれた黄色いカードを持っていれば、そいつは「隠れ滋賀県民」の可能性が非常に高いので、厳しく追及してあげるとよい。

 そんな感じに、私は滋賀県といえばつい「平和堂」のことを考えてしまうのだが、他府県の人は平和堂の存在すら知らないのだと思う。それに、「滋賀県といえば?」という問いに対して「平和堂」と答えられても、それはそれで虚しいような気がするので、インターネットを用いて広く世間に「滋賀に平和堂あり」と情報発信するようなことはしないでおこうと思う。やはりここは漠然とした土地なのである。

追伸 上のほうに書いた「イーゴス108」というのは滋賀県内の遊園地にある観覧車の名前である。高さが108メートルというのが日本一(当時、今は知らない)だったのが「スゴーイ」ので「イーゴス」と名づけられたのである。スゴーイ。

自由の示すもの

 「自由研究」とはその名が示すとおり好きなテーマを選んで研究をすればよいのであるが、いくつかの暗黙のルールがないわけでもない。それは小学校を卒業すればわかるような類のものばかりなのではあるが、あいにくと自由研究とは小学生に課される課題なのである。

 そこで、せっかくの自由研究シーズンが到来したことであるし、ここはひとつ「自由研究における暗黙のルール」について書いておきたいと思う。この文章を読んでいる小学生がはたして何人いるのかは知らないけれど(たぶん一人もいないけど)、小学生の子どもを持つ親御さんには少しぐらい参考になるだろう。

 まず、自由研究が夏休みに課される課題であることに着目したい。なぜ、平時の課題ではなく夏休みを選んで出されるのか。これは、夏休みにおける小学生はヒマだという前提があり、ヒマだからきっと多くの時間を研究に割くだろうということを期待されているのだろう。少なくとも、二秒で飽きるようなテーマを選んではいけない。

ルール1…研究にはある程度時間をかける
良い例「アサガオの観察」
悪い例「輪ゴムの観察」

 もっとも、単に時間をかければよいというわけではない。やたらと時間のかかる分不相応なテーマは避けるべきであろう。自分が小学生であることを忘れてはいけない。簡単すぎる研究は良くないが、難解すぎる研究もあまり歓迎されないものなのである。

ルール2…小学生らしい研究であること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「非イオン性ノニオン活面活性剤の分子構造の観察」

 簡単すぎず、難解すぎず、ちょうどよい加減というものがある。そういうバランスを考えるのが大切なのである。できれば、日常のちょっとした疑問や興味を研究テーマにするのがよい。あまりにも日常と乖離した研究は、少なくとも小学校の先生には受けが悪いのではないかと思うのである。もっとも、日常と密着しすぎた身近すぎる題材を選ぶのも考えものだ。

ルール3…身内の恥をさらさないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「母の脱毛の観察」

 笑いはとれるかもしれないが、両親の目が三角になるのを見たくはないだろう。やはり、あまり自分に近すぎるのはよくない。研究テーマと自分との間にはある程度の距離感があることも大事である。やはり家族のことは自分に近すぎるし、書くことはやめたほうがよい。だからといって、家族以外ならいいというわけではない。

ルール4…公序良俗に反しないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「となりのお姉さんの観察」

 「ストーカー規制法」というものを知っているだろうか。自由研究だから、小学生だからといって何でも許されると思ったら大間違いだ。お母さんに盗聴器やピンホールカメラをねだったりしないように。お母さんは「勉強に使うから」という子どもの言葉に騙されないように。

 だいぶ長くなってきたので、このあたりで最後にしようと思う。最後に最も重要なルールを書いておこう。自由研究の最大の目的は何かといえば、少なくとも優れた研究成果を出すことではないと思う。おそらくは「何かやり遂げる」という教育的効果を狙って出される課題ではないかと思うのである。したがって、途中で投げ出すのはよくない。きちんと夏休み中に自分の始めた研究をやり終えなければならないのである。

ルール5…完結させること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「アサガオの観察(序章)」

空も飛べるはず

 「想像力の限界」という言葉がある。しかし、人間は「ウンコ味のカレー」や「カレー味のウンコ」すら容易に想像してしまう。その気になれば「ウンコ味のカレー風味のグラタン」や「ウンコ味の私」なども想像することができるだろう。はたして本当に「想像力の限界」などというものが存在するのであろうか。

 人はさまざまなことを想像する。楽しいことや悲しいことや怖いことなど、想像する範囲は広い。私は「人間コンピュータ」と呼ばれるほどリアリスティックな男だが(正確には「人間コンビーフ」だが細かいことはどうでもよい)、それでも想像力を持っている。ふだんから色々なことを想像する。「ランドセルが突然ジェット噴射して飛んでいった小学生の表情」とか「ふと窓を見たらエスカレーターのパントマイムをしている人がいたときの恐怖」とか、それなりに難しいことを想像する。だが、いまだに「想像力の限界」に達したことはない。

 「想像力の限界」というからには「これ以上想像できない、ぎりぎりの領域」であるだろう。いったいどの領域がそれにあたるのかはわかりにくい。ここは段階をおって考えるべきだろう。何かについて想像をする。そして、次第に難しい想像に進めていく。「これ以上は想像できない」という段階に達したら、そこが「想像力の限界」だ。目の前にパソコンがあるので、それに関して想像を進めていくことにする。

「普通のパソコン」

 これは想像するまでもない。目の前にあるのだから、それが普通のパソコンだ。「想像力の限界」まではまだまだ遠い。

「突然笑い出すパソコン」

 この程度ならまだまだ簡単に想像することができる。たぶん、誰だって想像をすることができるだろう。その笑い声まで想像することができる。そのときの私のあっけにとられた表情だって想像することもできる。あっけにとられていてもかっこいい。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコン」

 まだまだ「想像力の限界」は遠い。これぐらいなら朝飯前とはいわないけれど、それほど難しくはない。こんな調子で「想像力の限界」に達することができるのだろうか。どうやら、もっと複雑に難しくしなければいけないようだ。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵」

 一気に難しくなった。いったいどこから卵を産むのだろう。卵を産むのにふさわしいのは、パソコン前面部のイヤホン端子穴ぐらいしかない。ここから卵が出てくるのだろうか。ずいぶん小さい卵だ。それともカエルの卵のようにウニョウニョと出てくるのか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさん」

 これはかなり「想像力の限界」まで近付いているのではないだろうか。ただのおっさんの涙でもそれなりに難しいが、この想像にはさらに難しい要素が加わっている。ややもすれば「オレは何を想像しているんだ」と叫び出しそうになるのをおさえつつ想像を続けなければならない。果てして次の段階に進めるだろうか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさんからのビデオレター」

 ここらあたりが限界か。もうこの時点で想像するのがかなり困難になっている。はっきりいって、この時点でおっさんが克明に想像できる人は、自分自身が想像力の産物でないか確かめたほうがいい。少なくとも私が想像できるのはここまでだ。

 …そうすると、これが「想像力の限界」というやつなのか。意外と人間の想像力などたいしたことがないみたいだ。それとも、人間の想像力があまりに暴走しないよう、ある程度におさえられているのだろうか。ひょっとしたら、「想像力の限界」を超えてしまうと、現実と想像の区別がつかなくなってしまうのかな。

 ねえ、おっさん。

買いざまを見ろ

 十一月も半ばをすぎて、冬物の服を買いにいってきた。相変わらず、洋服屋の店員はエネルギッシュでアグレッシブだ。店舗に入ったとたんに目をつけられる。こちらが目を合わせないようにしているにもかかわらず、すりよってきて「何をお探しでしょうか?」と尋ねてくる。そんなことは、私だって知らない。何を買うかしっかり決めて服を買いにくる人もいるのだろうけど、そんな人はそれほど多くはないはずだ。だいたい、私が「黄色の布にピンクの水玉が入っている、昇り竜の模様がはいった網タイツをください」といったら、それを出してこれるのか。出してこれないだろう。貴様は私が欲しいものを選ぶのをじっと見ていればいいのだ。

 「冬物をお探しですか?」
 当たり前だ。何を好きこのんで冬場に夏物を探さなければならないのだ。だいたい、店には冬物しか置いてないじゃないか。寂れた商店街の二十年前からいつでも同じ夏冬の服が吊るされているような洋服屋ならいざしらず、冬物しか置いていない店でそんなことを聞くんじゃない。肉屋が「肉をお探しですか?」と聞いてきたらおかしいと思うだろう。パン屋が「パンをお探しですか?」と聞いてきてもおかしいと思うだろう。カメラ屋で「『投稿写真』の今月号は置いてますか?」と尋ねた友人の北嶋の頭はおかしいと思うだろう。わかったら、口をつぐんでるんだ。

 「今年は少しゆとりのあるセーターなんかが、よく出てますよ」
 ああ、そうですか。それがどうしたっていうんだ。私にそれを着ろっていうのか。その、すきま風がよく入ってきそうなセーターを。その、そで口が妙に長いセーターを。それを着て私にどうしろっていうんだ。下着姿で、その大きめのセーターを着てベッドに寝そべれとでもいうのか。そして「恥ずかしい…」なんて頬を染めながら言えとでもいうのか。なんて破廉恥なやつだ。助平な野郎だ。お前はそんなことばかりを考えていて恥ずかしくないのか。

 「ブラウンのパンツなんかはお好きじゃないですか?」
 「ブラウンのパンツ」ってなんだよ。気取りやがって。「茶色いズボン」って言えないのか、お前は。それに、勝手に人の好みを当て推量するんじゃない。私のどこをどうみたら茶色のズボンが好きそうに見えるっていうんだ。たしかに茶色のコートを着て茶色のマフラーして茶色の靴を履いているけど、それはいつも着ている黒いコートがクリーニングから返ってこなくて、いつも巻いている紺のマフラーを電車に置き忘れて、いつも履いているグレーのスニーカーを裏口に取りに行くのが面倒だったからじゃないか。それぐらい、見てわからないのか。それでもプロか。それすらわからないで茶色いズボンを勧めるなんて百年早い。

 「このジャケットは襟のファーが簡単に取り外せるんですよ」
 「ファー」ってなんだよ。その気の抜けた音はなんだよ。男がそんなことを口にして恥ずかしくないのか。おととい栓を抜いたコーラでも、もうちょっと気合がはいってるぞ。男は「ファー」なんて口に出さないもんだ。ドレミソラシドだ。わかったか。それから、その「ファー」とやらをつけたりはずしたりするのはやめろ。楽しそうじゃないか。ホックがはずれる軽快な音を聞いていると、なんだか嬉しくなってくるじゃないか。やってみたくなんかないぞ。やってみたくなんかないんだからな。

 ……というようなことがあって、今日はゆったりセーターとブラウンのパンツとジャケット(ファー取り外し可能)を買いました。

沈黙のメッセージ

 発車五秒前。ドアはいまにも閉まりそうだ。階段を三段とばしで駆け下りているときに、足を踏み外してしまう。あっと思ったときにはもう遅い。バランスを立て直す間もなくしりもちをつき、三段とばしの勢いで、そのままデクのように階段をすべり落ちる。およそ五段ほどすべり落ちた後にからだは停止し、やっとの思いで立ち上がって痛む尻を押さえながらドアが閉まる寸前の電車に駆け込む。

 このような状況におちいったとき、いったいどのようにふるまえばいいのかということは、古来より多くの賢人たちにより考え尽くされてきた。いわく、「口笛を吹くとよい。そうすれば、その澄んだ音色が気まずい空気を和ませてしまうだろう」。いわく、「車内をぐるりとにらみわたせばよい。そうすれば、その威圧感があなたの恥ずかしいシーンを忘れ去らせるだろう」。いわく、「スキップをすればよい。そうすれば、その珍妙な行動がすぐ以前の滑稽なあなたを覆い隠すだろう」。賢人たちは、階段からすべり落ちた我々を救うべく、さまざまな解決策をあみ出してきた。

 とはいえ、別に賢人たちの知恵に頼るまでもない。たいていの人はちょっと照れ笑いを浮かべながら車内に乗り込んでくる。入ったときは車内からの注目を浴びることになるが、すみっこのほうでおとなしくしていれば、すぐに車内の空気は平常に戻る。気まずい空気があとあとまで残ることはない。電車から降りるころには、階段からすべり落ちたことなど全ての人が忘れてしまうだろう。

 しかし、賢人たちは「階段からすべり落ちた人間がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれるが、「階段からすべり落ちた人間を見ていた人がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれない。自然にふるまえばいいだろう、と言う人もいるだろう。私だって、昨日まではそう思っていた。しかし、すべり落ちた人間が何事もなかったように車内に乗り込んできて、よりにもよって私の隣に腰をおろしたとき、私はいったいどのような反応をすべきなのだろうか。

 そんなこと気にする必要なんてないんじゃないの、と思う人は同じ経験をしたことがない人だ。乗り込んできた人がてれ笑いのひとつもしてくれて、うつむきかげんにしてくれれば、こちらも救われる。相手が「ちょっと失敗しちゃった。エヘ」と思っていることがこちらに伝わるからだ。しかし、相手がそのような「気まずさ解消行動」をとらなかった場合、どうも妙な気分なのである。なぜこの人はこんなに堂々としていられるんだろうか。なんだか得体の知れない人物だという印象を受ける。ひょっとしたら苦痛をこらえていたりするのだろうか、という推測をしてみるが、それをじっくり観察するのも趣味が悪い。かくして、うっかりその人のほうに顔を向けられない。首がこり固まったようになってしまうのである。単に、階段からすべり落ちた人がとなりに座っただけなのに、すごいプレッシャーだ。このようなとき、私はどうすればよいのだろうか。

 「大丈夫ですか」と声をかけるのはどうか。「だいぶ尻を打ったみたいですけど、よかったらさすりましょうか」と親切で言ってみるのはどうだろう。相手は受け入れてくれるだろうか。そこから「ええ、大丈夫です。優しいんですのね」なんて和やかな雰囲気が流れるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンの尻をさするのは嫌だ。

 「どうです、今の心境は」と聞いてみるのはどうか。そうすれば、「ええ、五段は新記録でした」なんて思わぬ話を聞くことができるかもしれない。それどころか「よかったら、明日の朝はごいっしょしませんか」なんて友情が深まるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンとそろって階段をすべり落ちるのはごめんだ。オッサンとじゃなくたってごめんだ。

 「いやあ、あそこは危ないですよね。僕も先日すべったばかりで」なんて気さくに話し掛けるのはどうか。「あれじゃあ誰だってすべっちゃいますよ。あはは」と乾いた笑いをたててみるのはどうか。いや、ダメだ。「バッカじゃない」なんて軽蔑の目で見られたりしたら、立ち直れない。

 結局、言うべきことは何もないのだろうか。なぜ私がこんなことで悩まなければならないのか。こいつが慣例通り、てれ笑いをしてうつむいていれば、無駄に頭をつかう必要もないのに。そんなことを思いながらちらと隣を見たら、ばっちりと目が合ってしまった。私は、ちょっとてれ笑いをしてうつむいた。

あなたはだんだん眠くなる

 あくびとははたして「すう」ものであるのか「はく」ものであるのかという疑問は、古来より多くの賢人たちを悩ませてきた。むろんいうまでもないことであるが、我々があくびをしたときに、空気の流れはいったん我々の体内に侵入したあと、放出される。すなわち、あくびをしたとき我々は空気を「すった」ということもできるし「はいた」ということもできる。しかし、それは冒頭の疑問に対する答えにはなっていない。我々が疑問としているのはあくまで「あくび」の動きであって、「空気」の動きではないのである。

 我々が大きく口をひらき「あくび」をしたとき、はたしてそれは我々の体に入ろうとしているのだろうか。それとも我々の体からでていこうとしているのだろうか。「あくび」をするときに大きく口を開けることからすれば、「あくび」が我々の体内に侵入または放出のいずれかの動きをしているかは明らかである。にもかかわらず、我々はその二者択一を特定できないでいるのだ。

 「あくびとは『すう』ものである」と主張する賢人の一人は言う。「我々は夜眠らなければならないが、なぜ眠らなければならないのかは解明されていない。つまり、我々の内側に『眠り』というものは内在していない。しかし、理由がないにも関わらず、眠気というものは訪れる。だとすれば、我々は眠る前に外から『眠り』を取り入れているに違いない。それこそが『あくび』ではないだろうか」

 確かに、我々は眠らなければならない理由などないにもかかわらず、毎日のように床につく。それは我々が「あくび」をからだに取り入れているからだとすれば、説明がつく。賢人はさらに言う。「眠気というのは、従来までは単に『眠くなる気分』のことだと思われてきたが、眠気とは一種のエーテル体であり、あくびとはそれを指すに他ならない。したがって、あくびとは『すう』ものである。そうでなければ、我々が眠る理由がないではないか」

 一方、「あくびとは『はく』ものである」と主張する賢人の一人は言う。「あくびとは声のようなものだ。たとえば、我々が足をおもいきり岩にぶつけたとき、思わずうめき声がもれる。親しい友人が亡くなったとき、思わず嗚咽がもれる。つまり、我々は内なる衝動を声に託して外に出す。あくびもその類型である」

 確かに、我々があくびを出すのは極端な眠気をもよおしたときである。その衝動こそが「あくび」であるというのも、理にかなっている。賢人はさらに言う。「我々が大きくあくびをしたときに、思わず声がもれるのは誰しも経験したことがあるだろう。これこそ我々が衝動を外に出していることの証拠に他ならない。我々は眠りの衝動を『あくび』というかたちで外に放出しているのである」

 この二者択一は、現代の科学をもってしても解決していない。賢人たちは疑問を解決すべく白昼から幾度となくあくびを繰り返し、はたして自分が今あくびを「すって」いるのか、それとも「はいて」いるのかということを考え、そのまま寝入ってしまうのであった。

医学部演劇科

 最近、医学会では「全ての医科大学に演劇科を設けるべきである」という提案が論議を呼んでいる、と聞けば驚かれるかたは多いだろう。私も初めて聞いたときは「なんだそれは」と思ったものだ。しかし、その筋の詳しい人の話を聞いていると、なかなか納得させられる部分が多い。今は一部の専門家の間で話題になっているだけなのだが、いずれみなさんの耳にも入るかと思うので、それにさきがけて、ここでひとつその提案を紹介しておこうと思う。

 まずは、「手術」という言葉を十回続けて言ってほしい。きちんと言えただろうか。おそらく、言えなかっただろうと思う。たいていの人は、「手術」が「ちゅじゅちゅ」になってしまったり、「スズツ」になってしまったりしたのではないだろうか。それがどうした、と思われるかもしれないが、少し説明すれば、これがいかに大きな問題か分かっていただけると思う。

 たとえば、あなたが原因不明の腹痛に襲われて病院にかけこんだとする。そして、こんな会話がかわされるとしよう。

「先生。腹がキリキリ痛むんですが、大丈夫でしょうか?」
「これはいけない。すぐに切開しないと命に関わります」
「えっ! 手術ですか!」
「そう! ちゅじゅちゅでちゅ!」

 この瞬間、医者は「しまった」という表情をするはずだ。こんなシリアスな場面で舌がもつれて「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまった。これでは、場の雰囲気がぶちこわしである。緊張感は抜け、医者の権威が失墜してしまう。あなたは「ちゅじゅちゅ」と言う医者を見て、それでもその医者を全面的に信頼することができるだろうか。病気の治療とは、医者との信頼関係である。それが壊れてしまっては、治る病気も治らなくなってしまう。

 これは「スズツ」と言ってしまった場合でも同じである。「そうです。スズツです」などと言われたら、なにやら、東北地方の怪しげな呪術医療が始まるのではないかと身構えてしまう。やはり、信頼関係を保ち続けることは難しい。

 そこで、演劇科を設けるべきだという提案が登場する。医師のタマゴたちが、深刻な雰囲気の中で緊張して「手術」を「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまわないように、「声楽」の授業で練習をするべきだというのである。きちんと練習しておけば、舌がもつれる可能性はぐっと低くなる。医者の威厳も保たれる。ひいては、あなたも医者を信頼したまま手術をうけることができるのである。この一件を聞いただけでも、「医大には演劇科を設けるべき」という主張がいかに理にかなったものであるかが分かるだろう。

 あるいは、こんな問題もある。

 医者の仕事で最も重要なことは何かといえば、それは癌にかかった患者に「癌なんかじゃありませんよ」ということである。「癌です」とはっきり言ってしまうと患者は一気に気力を失ってしまうかもしれないし、へたをすれば死にいたる。それはあまりに残酷である。そこで、癌患者には、その気持ちを配慮して「癌ではない」と言うことが普通である。

 しかし、少し考えれば分かるように、これには卓越した演技力が必要である。「癌なんかじゃありませんよ」という一言を言うだけであるが、実際に患者は癌にかかっているわけである。もし「癌ではない」と言うために深刻すぎる表情をしていたら、患者に「ああ、俺は癌なのか」と悟られてしまうし、「癌なんかじゃないぶー」とおどけて言ったりしたら、やはり医者の権威が失墜してしまう。つまり、「癌なんかじゃありませんよ」と言うためには、深刻すぎず、明るすぎず、説得力をもった声と表情をつくる必要がある。しかし、素人の医者がそんなにうまい演技をできようはずがない。

 そこで、必要になるのが演劇科の存在である。患者の信頼をそこなわず、説得力をもった声と表情がだせるように「演技」の授業を設けて練習すべきだというのである。きちんと練習しておけば、無駄に患者を不安に陥れることなく、残った余生を安楽に過ごさせることができる(かもしれない)し、うまくすれば希望を持った患者は気力をふるいおこして、病気が快方に向かう(かもしれない)だろう。やはり、「医大に演劇科を」という提案は、理にかなっている。

 分かりやすい二例を挙げたが、まだまだこんなものではない。医者に演技力が必要とされる場面は数えきれないほどある。そのような状況になったとき、冷静に局面を乗りきるためには、日頃の練習と教育が必要不可欠である。もしかしたら、「くだらない」という一言で片づけられてしまうかもしれない。当の医大生たちは鼻で笑って、きちんと練習しないかもしれない。先進的な提案は、はじめは常人には理解されがたいものである。

 しかし、それらの無理解を無視してでも、医学部には演劇科が必要であると、私は断言することができる。四年間、しっかり「医学部演劇科」で修練を重ねてこそ、自信をもって演劇界へデビューできるのではないだろうか。

科学的にも実証されてます

 かねてより、なぜミミズに小便をかけるとチンチンが腫れるといわれるのか不思議だった。迷信であるとは知っているが、言い伝えられているからにはそれなりの根拠があるはずだ。小さい頃から禁則のみを教えられて、その理由は聞かなかったため、以来十数年悩み続けていた。

 先日、ようやくこの疑問が解けた。中野宏『人はなぜ迷信が気になるのか』(河出夢新書)を読むと、「ミミズは田畑にとって大事な生き物であり、小便をかけたりするものではないという禁忌である」と書かれている。田畑の恵みを受ける人間にとっては、なるほどミミズは尊い生物なのであり、それを汚すことは許されないのだろう。それならそれで、ミミズを大事にしなさいといってくれればよいものを、なまじ「チンチンが腫れる」などというから、かえってミミズの社会的地位がおとしめられてしまうのだ、という気がしないでもないのだが、一応は理由づけがなされたので納得できた。

 ところで、この『人は~』を読んでいると、世の中には他にも様々な迷信・俗信があることが分かる。「お雛様は早くしまわないと、娘が縁遠くなる」「茶柱が立つと縁起がよい」など、我々のよく知っているものもいくつかある。しかし、多くは聞いたこともないものばかりで、世の中にはこんな迷信があったのかと驚かされるものが多い。

 たとえば、「人に砂をかけると、身体がグニャグニャになる」というのは初めて聞いたが、本当にこれが信じられている地域があるのだろうか。砂をかけたらグニャグニャになるのだったら、砂場で遊んでいる子供たちはもはや軟体動物のようになっているのであろうか。それとも、それを通り越して内臓がドロドロになっているのだろうか。外見上はそう見えないし、本人もそう気づいていないようであるが、実は子供たちはゼリーのようになっているのだろうか。身体がグニャグニャになるのだったら、やはり、バレリーナや新体操をする人々は、演技をするまえに砂をかぶったるするのだろうか。客席には「砂かぶり席」なども用意されているのだろうか。疑問は尽きない。

 「アリジゴクを枕に入れておけば、夫婦の仲が和合する」というのもある。私は妻帯者ではないのでよく分からないのだが、やはり寝る前に妻がアリジゴクを入れていたりすると、よし今日はやるぞ、という気分になるのであろうか。夫婦の仲が冷めてきたことを感じたら、アリジゴクをつかまえてくるのだろうか。それとも、世間一般の家庭ではアリジゴクを飼っていて、いざというときに備えているのだろうか。これまた、疑問が尽きない。少なくとも、私はアリジゴクを飼うような(ましてや、枕にいれるような)人とはお近づきになりたくないのだが。

 さらに、こんなものもある。「朝焼けと姑の笑い顔は油断するな」。これは、ある程度分かる気がする。解説すると、朝焼けは雨の前触れだから気をつけなければならないし、姑の笑い顔はいやがらせの前兆(かもしれない)から同様に気をつけるにこしたことはない、ということだ。一応、頭では納得できるのではあるが、なにも「朝焼け」と「姑の笑い顔」を結び付けなくてもよいのではないだろうか。なんだかオヤジ的センスがただよう迷信である。だいたい、相手に笑いかけて警戒されるのでは、姑の底意地が悪くなるのも当たり前である。

 迷信や俗信の類はこのようなものなのかもしれないが、解説なしで聞かされると納得できないものが多い。むろん、それなりの理由がそれぞれの迷信にはあるのだろうが、いまだに理由が解明されていないものも多いのである。初めて聞いた迷信の中で、まともに納得できるものは数えるほどしかない。一例を挙げると、

「便所に落ちると、出世しない」

 まったくそのとおりだと思う。

夜伽ばなし

 まくらが反乱を起こした。

 朝起きると、体のまわりに水色のプラスチック片が散乱していた。一瞬、何かの病気かと思ったが、そんなふうに考えるほうが病気だと思い直して、原因を調べた。原因は非常にあっさり見つかって、プラスチック片はまくらの中身であることが判明した。寝ている間に、私の頭の動きに耐えかねたまくらは破れてしまったようだ。繊細な人は、まくらが替わると寝られない、とよく言うけれど、この一件で自分が繊細ではないのだな、ということを改めて確認することができた。少なくとも、ベッドの中では。

 それにしても、羽毛とかもみ殻の詰まった枕でなくて良かった。もし、そんなものが入っていたら、おそらく起きたときは大惨事だっただろう。朝起きて、もし羽毛が体のまわりに飛び散っていたら、自分が鶴にでもなったのかと勘違いしたかもしれない。それで、「ついに私の正体を見てしまいましたね、ヨヒョー」とか言って、ベランダから飛び出してしまったかもしれない。つくづく、羽毛まくらでなくて良かった。

 気をとりなおして、飛び散ったプラスチック片を集め、まくらに詰めこみ直した。忘れないうちにまくら袋を買いなおすことにして、とりあえずはガムテープで補修をしておいた。「まくら袋」というものは、どこに行けば売っているのかよく知らないが、おそらく寝具売り場にでも売っているのだろう。「まくら袋」が単体で売っていなければ、まくらをまるごと買えばよい。

「いらっしゃいませ、何をお探しですか」
「まくらをひとつ」
「どんなものをお探しでしょう」
「そうだな…、きみのひざまくらはどうかな」
「やだ…お客さんったら…。ポッ」

 そのような展開は、千パーセントの確率でありえないと断言できるが、色々なまくらを見てまわるのは意外に楽しそうである。

 そういえば、だいぶ前にニュースで「まくらの展示会」なるものが紹介されていた。全国のまくら製造業者やまくら職人が腕をふるってつくったまくらを一堂に集め、その性能を紹介する、というイベントだ。その中に「腕まくら」という商品があったことだけ覚えている。本当の商品名はもっと愉快なものだったと思うが、かたちはそのまんま「腕」だ。リアルな質感をもった腕型のまくらを頭に敷いて寝るのである。業者は「ひとり身の寂しいかたに」とか言って紹介していたけど、そんなまくらを買ったら余計に寂しさがつのるだろうと思ったものだ。それを手にしていたレポーターも、どこか嘲弄の目つきをしていたことが、深く印象に残っている。

 しかし、考えてみるに、そのような「まくらの展示会」が開かれるということは、世の中にはそのイベントに出かけるような「まくらマニア」というものが存在するのではないかと思われる。「まくらフェチ」と言いかえてもいいかも知れない。そもそも「まくら」とは夜の生活に欠かせないものであるからして、熱狂的なフェティシストがいて当然だろう。人には見せられないような抱きまくらとか、人には触らせられないような質感のまくらとか、人には舐めさせられないような味のまくらとかがあるのだろう。いろいろ想像力をかきたたせてくれる。できることなら、まくらフェチのかたが薦める「至高のまくら」というのを一度使ってみたいような気もする。きっと、そのまくらは夜も眠らせてくれないに違いない。

ななくせ無くせ

 「なくてななくせ」という。誰でも七つぐらいはクセを持っている、という古人の教えである。

 クセというのは、いろいろ種類があるようだ。ドラえもんの中で「クセをおおげさに見せる道具」という役にたつんだか、たたないんだかよく分からない道具がでてきたことがある。そのとき、パパは貧乏ゆすり、ママは舌なめずり、のび太は鼻くそをほじるというクセがあった。他にも、鉛筆を指先でくるりとまわすクセとか、人差し指でメガネをくいっと上げるクセだとか、そういうのはよく見かける。あと、裸のうえにコートを着て、夜の公園でガバッと開けるクセだとか、電車のつり革で懸垂するクセだとか、そういうクセもたまに見かける。

 私はといえば、つい首の骨を鳴らしてしまうクセがある。あごに手を添えて、頭を横に倒すと「ゴキゴキゴキッ!」と冬眠中の熊も目覚めるほどのすごい音がなる。はじめのころは首から音が鳴るのが面白くてやっていたのだが、近頃は無意識のうちに首の骨を鳴らしてしまうようになった。

 どちらかといえば、あまり良いクセとはいえない。赤い羽根を見ると無意識に小銭を取り出してしまうとか、献血車を見ると無意識に腕まくりをするとか、そういうクセならすばらしい。しかし、「首の骨を鳴らすクセ」というのは見ていて心地よいものではない。まわりの人はぎょっとしてしまう。「骨折れてないの?」とまで聞かれる。いずれ折れるかもしれないが、今は大丈夫だ。

 「やめようやめよう」と思うのだがなかなか直らない。無意識にでてしまうので、鳴らしてしまってから自分の挙動に気づく。もう、どうにもとまらないのである。実害がないことだけが救いだ。

 しかし、もし私の職業が忍者だったらどうだろう。天井裏に忍び込んで、ふし穴から部屋の様子をうかがっているとき、ついいつものクセがでてしまう。

 天井から聞こえる「ゴキィッ!」という音。当然、下で密談をしていた越後屋は、何者かが潜んでいることに気づく。槍を手に取り天井に突き立てて一言、

 「クセ者!」

 …はやく、なおそうと思う。

一歩先は闇

 広く閑散とした道路に立つと、目をつぶりたくなる。そして、そのまま歩きたくなる。

 やってみると、意外に難しい。二、三歩だけなら簡単だが、十歩以上になると、急に恐怖心が芽生えてくる。駅のホームじゃあるまいし、広い場所だと分かっているんだから、危険なんてあるわけないじゃないかと思うかたは、ぜひ試していただきたい。もちろん、電柱にぶつかるとかドブにはまるとか、その程度の危険はあるにしても、人通りの少ない道を選べば、とりあえず致命傷になるような事故は避けられると思う。それでも怖いのだ。何か、偶発的な事故でも起きやしないかと。

 そこをぐっと我慢して歩く。すると、単純にして原始的な恐怖を味わうことができる。ホラー小説を読んだり、絶叫マシンに乗ったりする手間を省いて、ごく簡単に、わきあがる恐怖を味わうことができるのだ。実際、これほどの娯楽はないのではないかと思う。

 はじめの九歩は全く怖くない。平気な顔をして歩くことができる。最初の恐怖がおそってくるのは十歩目からである。まっすぐ歩いているつもりで、危険な場所に向かっているのではないか。知らないうちに周りに脅威が発生したのではないか。そんな疑心暗鬼にとらわれる。そして、目を開けたくなる。

 しかし、そこで目を開けてしまうと真の恐怖を味わうことはできない。また、その恐怖を乗り越えることができれば、五十歩ぐらいはほぼ確実に歩くことができる。そして、五十歩目を越えたときに本格的な恐怖がおそってくる。それを乗り越えられるかどうかがこのゲームの分かれ道になる。

 慣れればまっすぐに歩くことはそれほど難しくない。大きな荷物を持たず、また太陽光などに惑わされないようにすれば、あとは気持ちの問題である。自分がまっすぐ歩いていると信じ込めば、実際にまっすぐ歩けているものだ。しかし、そこに恐怖心との相克がある。恐怖心が産む疑心暗鬼に負けないぐらい自分の感覚を信じることができれば、どこまでも歩いて行くことができるのだろう。

 私の自己記録はちょうど百歩。他人の記録は聞いたことがないので、この記録が良いのか悪いのかは分からない。しかし、自分ではそれなりに満足している。正確な記録者がいないので、無意識に二、三歩ごまかしているかもしれないが、まあ、そのあたりには目をつぶっていただきたい。

仮病になりたい

 寒くなってきたと思ったら風邪をひいてしまった。今年の風邪は喉にくるらしく、昨日から咳がとまらないのだ。

 それにしても、風邪をひくと自由な時間が奪われる上に、周りの人間に迷惑をかけるので、大変心苦しいものである。風邪をひくのが上手い人などは、忙しくないときを狙ってタイミングよく風邪をひくことができるらしいのだが、私はそれが苦手らしい。今年も早々と風邪をひいてしまい、周りに菌をまきちらすばかりなので、精神衛生上良くないのである。

 もっと小さいとき、小学生のときなんかは今と違って気楽に風邪をひくことができた。風邪をひけば学校が休めるし、ちやほやと看病してもらえる。できることなら、今の風邪を当時の自分にうつしてやりたいとさえ思う。

 小さいときは「風邪をひけたらラッキー」と思っていたので、なんとか「風邪状態」になろうと、涙ぐましい努力をした。息をとめて真っ赤な顔をしたり、わざとらしく咳をしたりして、せこく学校を休もうとしたものだ。もちろん、それだけではなく、「風邪である」という客観的証拠をつくるために、なんとかして体温計の数値を上げようとしていた。

 ストーブの近くで体温をはかったり、焼きたてパンに体温計を押しつけたり(これで体温計をひとつ壊したことがある)、涙ぐましい努力をしたものだが、一番多く利用したのが摩擦熱を使う方法である。体温計を脇にじっとはさんでいるふりをして、こっそりと服に体温計をこすりつける。秒間五往復。すると、みるみるうちに体温は上がり、三十七度の熱など簡単に演出できてしまう。

 それを、どうだと言わんばかりに両親なり先生様に見せる。さすがに、両親にはすぐ見破られて、家をたたきだれる可能性が高いので、もっぱら学校の保健室でやることにしていた。朝、学校にいってすぐに保健室に行き、体温を測らせてもらう。数秒こすって数値を見ると、ぴたり三十七度五分である。熟練のなせる技である。今思うと、先生様だって仮病だと見破っていたような気もするが、そこは他人の遠慮か大人の配慮か厳しく追及することもなく、あっさりベッドで眠らせてもらえた。

 そこで、ぬくぬくと怠惰な日々を送っていたわけだが、今思うと、なぜあんなことに熱中していたのかと、ちょっと恥ずかしい。やはり、仮病だけに熱をあげてしまうのか。

眠れない日々

 ダメ人間の代名詞であるのび太君ですが、私は彼が「すぐに眠れる」という特技を持っていることを尊敬しています。私などは、生まれてから毎日のように睡眠しているにもかかわらず、いまだに「眠くないときに眠るコツ」がつかめません。

 生活リズムがくずれないよう夜になると布団にもぐりこみますが、よほど疲れているときでもない限りすんなりと夢の世界へ入り込むことができません。

 安部公房のエッセイに「睡眠誘導術」というのがあります。氏は、睡眠を誘うために西部劇を想像するのだそうです。峡谷の底を走る騎馬隊に向けて、弓矢をつがえ、ひとりひとり狙い打ちしていれば、自然に眠りが訪れると書いています。

むろん条件によって違うが、調子さえよければ、四、五人目から効果があらわれることがある。二十人を超えることはめったにない。急速で、しかも実になめらかな眠りへの移行。弓をつがえた腕から突然力が抜け、あたりの光景が見るみる凍って、色あせる。そのまま君は深い眠りに落ちていく。
安部公房『笑う月』(新潮文庫)

 私もさっそく試してみましたが、なかなかうまく行きません。安部式睡眠誘導術をするには、まず舞台をつくる必要があります。私の場合、まず広大なグランドキャニオンを描いて、そこから騎馬隊が通るのに都合のよさそうな渓谷を探します。見つけたら、そこをズームアップします。

 ズームアップすると、ずいぶんと細部がいい加減なことに気づきます。赤いベニヤ板を張り合わせたような粗末な谷です。そこで、まず身を隠す岩場を丁寧に描きます。質感をだすために、草木や苔もついでに描きます。さらに、雲を描き、風を吹かせます。

 舞台が完成したところで、騎馬隊を走らせようとするのですが、せっかく築いた舞台がぼやけてきたことに気づきます。舞台を維持するためには、集中力を保たなければいけません。気を抜くと、せっかく描いた風景が台無しです。

 仕方なく、再び集中して舞台を整えます。だんだん眠くなってきましたが、ここで眠るわけにはいきません。

 騎馬隊をひとりも倒さないうちに、眠るわけにはいかないのです。

携帯電話

 最近の携帯電話の普及率は著しく、おそらくこの調子なら数年後には携帯電話を持っていない人なんて、いなくなるかもしれません。

 ところで、最近は着メロと呼ばれる電話の呼出音が面白くなってきました。「ピピピピッ!」なんて無機質な呼出音ではなく、突然、意表を突くメロディが流れると、普段はマナーの悪さにイライラしているのも忘れて、ニヤリとしてしまいます。

 ある日、夜中の電車に突然流れ出したのが「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソング。おつかれムードがただよう車内に、「さらば~地球よ~」とメロディが鳴り始めます。あわてて持ち主は鞄の中を探り始めますが、なかなか電話は見つからないようです。

 メロディは鳴りつづけています。よどんでいた車内の空気に、ほんの少し活気がでてきたようです。

 持ち主は鞄をかきまわしていますが、なかなか携帯電話は見つからず、曲は流れつづけています。いよいよ曲はクライマックスにさしかかり、ラストの部分の「うちゅう~せんかん~」という勇壮なメロディーにさしかかりました。曲の盛り上がりは最高潮です。

 と、そこで携帯電話が見つかりました。
「ピッ!」
 やっと曲を止めることができた持ち主は、ほっとした顔で電話を持ち、まわりを見まわします。すると、すでに注目の的になっていた彼は、まわりの熱い視線に戸惑ったようです。

 彼は困った顔になりました。自分がまわりの期待を裏切って、一番盛り上がる部分で着メロを切ってしまったことに気づいたのです。しかし、一度止めてしまったものは取り返しようもなく…。

 ――結局、彼はまわりの熱い視線にこたえて、小声で「や~ま~と~」と続きを歌ってくれました。