もし世界が終わるのなら、雄大な景色を眺めながら、そのときを迎えたい。できれば、愛する人が隣にいてほしい。そして、とつとつと世界の終わりについて話すのだ。
「ねえ君。もし世界が終わるとしたらどうする?」
「うーん。いつもどおり、ゴロゴロしてるかな」
「坂道とかで?」
愛する人は、「どうして私はこんな人と一緒にいるの」という顔をするだろう。それが確認できたら、1コンウをゲットだ。コンウとは、「この人とは一緒にいたくないな」と思われるごとにもらえるポイントのことだ。この世界で、この私だけしか集めていない。
それから、愛する人は黙って次第に薄暗くなっていく目の前の景色を眺めていた。一方、私は夢中でハチミツを舐めていた。
「ねえ、何しているの?」
愛する人が、たまらずに声をかけてくる。
「そんな難しいことを聞かれても、僕にはわからない」
そう穏やかに舌をペロペロさせながら答えると、愛する人は私から目をそらし、私は1コンウをゲットした。そして、愛する人は口を閉ざし、前を見つめたままだった。
「見つめる」といえば、こんなエピソードがある。
私は病院のベッドの上で座薬を入れられていた。その日は、たまたま新人研修があって、初々しい看護婦たちが、私を取り囲むように、尻をつきだした私のあられもない姿を眺めていた。思わず、私の口から言葉が漏れていた。「だめ…そんなに…見つめないで…」
私はなぜかそんなことをぼんやりと考えていた。ぼんやりというか、はっきりと考えていた。だけど、今の状況に関係のないその空想を頭から振り払った。
私は、そっと愛する人の肩を抱き寄せた。最後に、ハチミツのような甘いキスをしたいと思った。なぜなら、彼女もまた特別な存在だからです。
そして、特別ではない皆さん。世界が終わることになっても、どうか忘れないでほしい。友人の狭山が先日の飲み会で言った、「好きな娘から来た手紙に貼られた切手をはがして舐めたことがある」という告白を。
<了>
上の文章はRNRC3に合せて書かれたものです。
破滅願望というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるのだと思う。理性ではその行為の愚かしさがわかっているはずなのだが、衝動が理性を超えてしまう瞬間が人にはあるのだ。
・ダメな男に貢ぐ
・借金をしてギャンブルする
・麻薬に溺れる
なんて破滅へ一直線といったものから、
・テスト前に部屋の掃除
・お風呂の前にホラー映画
・くさい場所で深呼吸
という日常レベルのものまで、破滅願望の現れかたは人によってさまざまである。
では、なぜそのような衝動が起こるのか。
たぶん、それは人が無為に耐えられないからではないかと思う。無為な生活、無為な仕事、無為な人生に耐えがたくなって、一瞬でも生の充足感を味わいたくなるのではないか。死と隣り合わせにいるとき、人間は強烈に生を意識するようになる。そんなふうに、破滅に近づくことによって、生きている実感を求めてしまうのではないかと思う。
だが、それが自分でコントロールできる範囲のものであればよいが、エスカレートすると周りの人間を巻き込むような事態になりかねない。破滅を求めるあまり自暴自棄になって放火や無差別殺人などを起こすようになっては、それに付き合わされる人間はたまったものではない。できることなら、あまり深刻な事態を引き起こす前に、できるだけ軽い行為でガス抜きをしたりすることが望ましいだろう。そこで、「ばれたら破滅だ」というシチュエーションを自ら用意することで、破滅願望をある程度満足させてみるのはどうか。
・変装して近所の小学校のプールのそばをうろうろする俺
・部屋着はブルマーの俺
・携帯の待ち受け画像はイキ顔の俺
そんな提言を友人にしたところ、友人いわく、
「それは破滅願望じゃなくて、ただのお前の願望じゃないの?」
「遊園地が閉鎖する」という話を聞くと、たとえそれが自分に縁のない場所であっても、なぜか悲しい気持ちになる。遊園地の閉鎖が、人を格別に悲しい気持ちにさせるのはどうしてなのだろう。
思うに、人は遊園地の閉鎖にドラマを感じるのだ。遊園地には子どもたちの夢が詰まっている。たとえ遊園地が閉鎖する日であっても、子どもたちには最後まで涙は見せられない。「パンダさん、またね!」と手を大きく振って走っていく子どもの後姿を見ながら、着ぐるみのなかで涙をこぼすスタッフ。もう、「また」はないんだよ。
そんな様子をみて、私は思う。どうにかして、笑って閉園を迎えられないものか。
閉園の決まったある遊園地。ある日、館内放送から突然鳴り響く不気味な笑い声。
「フハハハッ。子供たちよ、我ら邪悪団の支配下にあるこの遊園地によく来たな」
そして、どこからか現れた邪悪団の手先たちが、遊園地に来ている子どもたちをさらおうとする。それを止めようとする遊園地のスタッフたち。邪悪団との激しい戦い。あちこちで爆発が起こり遊園地に煙がくすぶる。やがて、劣勢を悟った邪悪団は「おぼえてろ〜」と言いながら逃げていく。戦いは終わり、夕日をバックにポーズを決めるスタッフたち。そこに、館内放送でナレーションが流れる。
「悪は去った。もはや邪悪団の復活は不可能である…」
戦いが終わり、スタッフに「ありがとう」といいながら子供たちは帰っていく。
そうして、遊園地はその役割を終える。やがて閉園時間を迎え、スタッフたちはあちこちが傷んだ遊園地の片づけをはじめる。その表情は、どこかすがすがしいようである。
それを見届けた邪悪団は、やさしく微笑み、次の遊園地へと向かう。
先日、映画ドラえもんの『のび太と鉄人兵団』において登場するロボットは「サタンクロス」だったか「サンタクロス」だったか友人と口論になった。今日になってウィキペディアで調べたところ、正解は「ザンダクロス」だった。つまりは、二人とも間違っていたわけだ。そうと知っていたら、彼と絶交することもなかったのに…。
まあ、そんなことはどうでもいい。
映画ドラえもんといえば、幼いころは春休みになるたびに楽しみでしょうがなかった。映画ドラえもんのほかに楽しみといえば、ベルマークを集めることぐらいしかなかった。
なので、春休みになると友だちと誘い合い、電車に乗って映画館まで行った。余談だが、そのとき行っていた映画館の草津シネマハウスは2007年に閉館した(滋賀県湖南地域出身者はこの一文だけで一時間ぐらい感傷にひたれるので書いた)。
それからずいぶんと月日が経った。驚いたことに、ウィキペディアを見るとまだ映画ドラえもんは続いている。2008年に公開された『のび太と緑の巨人伝』で28作目だ。
こうなると、のび太たちのことがさすがに心配になってくる。私が知っているだけでも、彼らは太古の地球で恐竜ハンターと戦ったり(『のび太の恐竜』)、魔界で魔王と戦ったり(『のび太の魔界大冒険』)している。その後も、タイトルを見るかぎり日本を誕生させたり(『のび太の日本誕生』)、王座についたり(『のび太の太陽王伝説』)、よくわからない経験をしたり(『のび太のワンニャン時空伝』)している。
若いうちからこんな刺激的な経験を繰り返していて、はたして彼らはまともな大人に育つのだろうか。大人になって、あまりに平凡な人生に絶望しないだろうか。何度も地球を救ったことを思い出して、自分が特別な存在と勘違いしたり、根拠のない万能感を持ったりしないだろうか。過去の思い出を振り返るばかりで、未来を切り開く気力に欠ける人間になったりしないだろうか。
もはや手遅れかもしれない。だが、4人の子どもの未来がかかっていることを思えば、あきらめるわけにはいかない。彼らにあまり派手な経験をさせるのはやめて、少し抑えてみよう。とりあえず、今年分の映画のタイトルは私が決めておいた。
『のび太のベルマーク集め』
自分で自分の限界を決めてしまい、可能性を信じないことはよくない。そう思い、少ない可能性にかけてここに書かせてもらう。
蒼井優よ。岡田准一とは別れて、私と結婚しよう。
見てるー?
と、こんな感じで文章をはじめてみました。上のことが書きたかっただけなので、もう書くことはありません。
けど、これだけではアレ(な人)なので、もうちょっと書きます。
女の子だったらプロポーズされることに憧れますよね。私は女の子ではないのでよくわかりません。
プロポーズをどうやってするかっていう決まりはありません。「このまえ親切な人に幸運の壷を売ってもらったんだけど、そんな俺と結婚していっしょに幸せにならない?」とか「お願いします、二ヶ月でいいんで、新聞とってください。おまけに婚姻届をつけますから」とかでもOK。
でも、プロポーズは一生で何度もできることではないので、なるべくドラマチックにしたいものです。夜景のきれいなレストランで向かいに見えるビルの窓に「ケッコンシヨウ」と表示させたり。
でも、はっきりいって、そんなやりかたは今では陳腐。
私の理想としては、小さなケーキに婚約指輪を仕込んでおいて「(カチッ)あら、何か入ってる…指輪?」とかやってる男女をどっかの広場にたくさん集めて、そいつらを並べて人文字で「ケッコンシヨウ」と書く。
それを恋人といっしょに上空から眺めながら、「ごらん、人がゴミのようだ…結婚しよう」
いかがですか。
ここまでの文章を自分で読み返してみて、「なんか疲れてんのかな…」と思いました。
いやいや、私、元気です。心配しなくて大丈夫!
三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』を読んだ。主人公は多田さんと行天さん。作中で行天さんがチンピラにナイフで刺されるシーンがある。駆けつけた多田さんはそれを見て叫ぶ。
「行天ー!」
思わず笑ってしまった。「(びっくり)仰天ー!」と叫んでいるみたいだから。そんな場合じゃないだろう。友人が刺されているのに、ちょっと昭和のテイストを交えながら驚いている場合か。
でも、考えてみればこのように名字が違った意味にとられるようなことは現実に起こりうることだ。たとえば、病で倒れた友人を見舞ったとき。
「井上、しっかりしろ! 病気になんて負けるな!」
「食道ガンって言われたよ…。ところで食道といえば…?(ガクッ)」
「胃の上ー!」
せっかくのシリアスなシーンが台無しだ。
あるいは、フラれた友人をなぐさめているとき。
「小池、女なんて星の数ほどいるんだしさ」
「畜生! 胸毛がキモいとかそんな理由でフラれるなんて、やってらんねえよ!」
「濃い毛ー!」
友人の気持ちをここまで逆なでして何が楽しいのか。
飲み屋で女の子と話をしているときも注意が必要だ。
「黒田さん、それ以上セクハラ発言したらキレますよ」
「ウヘヘ、そういうなよ。今、何色のブラジャーしてるの?」
「黒だー!」
女の子は怒りのあまり興奮。私も興奮。
考えてみるに、つくづく名字は大切だ。簡単に変えられないだけに、名字によっては無用な苦労を一生背負わなくてはいけなくなってしまう。もし名字を選べるのであれば、自分の名字が叫ばれることを考慮して、自分にもっともふさわしい名字を選ぶ必要がある。私だったら飯野とかがいい。
「すいません、とんでもないことをしてしまって…」
「いいのー!」