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小さな容器の物語 (2000-02-11)

 目の前にヤクルトの容器がある。

 空っぽのヤクルト容器を見ていると、さまざまなことを思い出す。たとえば、夏休みにでた工作の宿題でヤクルト容器をたくさん集めて接着剤でつなぎあわせロボットをつくった安部君に「乳酸菌」というあだ名をつけてからかっていた川口君と仲がよかった坂本君が同じ工作の宿題で「夜中に光る貯金箱」というのをつくってきたのだけど単に貯金箱に豆電球がついているだけで寝る前にスイッチをいれなければ光らないというどう考えても世の中をなめきっているとしか思えない課題を提出したことなどを思い出す。

 容器を眺めると、「内容量65ml」と書かれている。通常の缶飲料と比べると、ずいぶん少ない。しかし、飲んでみると、ちょうどよい。以前「ビックル」という、乳酸菌系ビン飲料があったが、あれは飲むたびに「多い!」と思っていた。あまりに多いので、飲んだあと腸でうごめく大量の乳酸菌を想像して、すこし気持ち悪くなってしまった。まして、ヤクルト容器には「生きて腸で働くヤクルト菌」と書かれている。あまり大量に飲むと、徒党を組んだヤクルト菌たちが腸の中でよからぬことをたくらむのではないかという懸念があるので、これぐらいの量がちょうど良いのだろう。

 さて、目の前の容器はフタが破られている。破ったのは私だ。世の中には、フタを端から綺麗にはがして飲む人もいると聞いているが、私は思い切り良く破る。人差し指を立てて頭の上にかかげ、上空からヤクルトのフタめがけて一気に突き落とす。そのとき、「アチョー!」と心の中で叫ぶ。うまく照準があっていれば、ヤクルトのフタに指が突き通る。うまくいかなければ、フタのふちに指があたって痛い思いをする。万が一それで突き指などをしても、病院に行って「ヤクルトのフタを開けるのに失敗しました」と言うのは格好悪いので、「『ケンシロウごっこ』をしてたのさ」と格好よく言おうと思っている。

 しかし、フタをこのように思いきりよく開けるのは、最近になってからである。以前は、つまようじやシャープペンの先で小さな(直径0.8mm程度の)穴をあけて、そこからヤクルトを飲んでいた。これは、私が貧乏だからではなく、貧乏性だからである。しかし、成長するにつれ、穴の数をふやし、サイズを広げ、そしてついには、現在のように大きな穴をひとつ開けるにいたった。これは、私か裕福になったからではなく、裕福になった気分を味わいたいからである。

 ここまで読んで「おそらく、この人はヤクルトが好きなのだろうな」と思ったかたがおられるかもしれないが、そのとおりである。どれぐらい好きかといえば、よくヤクザのことを「ヤのつく職業」というふうな言いまわしで言うことがあるけれど、私はそれを聞いて「ああ、ヤクルト配達のおばさんのことか」と思うぐらい好きであるというのは嘘だ。

 こんな私の夢は、風呂桶いっぱいにヤクルトを張り、そこに跳びこんで心ゆくまでヤクルトを堪能する美女を見ながら日本茶をすすることである。




いじわるな月と私 (2000-02-08)

 月が怖かった。小学校の低学年の頃、近所の公民館に子供たちを集めて、米国人が英会話教室を開いていた。私もそこに通っていた。英語のカルタなんぞをして、非常に楽しませてもらった覚えがある。ところが、その教室が終わるのは夜の七時ぐらいで、外に出ると空には月が昇っていた。公民館から家までは、百メートルほどの距離なのだけど、その道のりがひどく怖かった。なにしろ、月が私を追いかけてくる。歩けば、まわりの景色はすぐに後方に過ぎ去って行くのに、月だけはぴたりと私の横について、離れようとしない。歩いても、走っても、月と私の位置関係は変わらない。ぴたりとつきまとう月を見て、私は恐怖におののいた。当時は初歩的科学知識が足りなかったため、月が得体の知れないものに見えた。追いかけてくる月が、いつか襲いかかってくるのではないかと思った。あまりに怖くて、いつも全力疾走で家に帰った。息せき切って玄関にたどりつき、乱暴にドアを開けて家の中に逃げ込んだ。

 一度、家族がうっかりしてドアの鍵をかけてしまっていたことがある。全速力で駆けてきて、家に飛び込もうと思ったら、扉が開かない。これにはあせった。「開けてえ!」と泣きださんばかりに叫び、ドンドンとドアをたたいたら、異変に気づいた父上が鍵をはずしてくれた。疾風のごとく飛び込んだ私を見て、父上は目を丸くしていた。しかし、危ないところだった。あと一瞬ドアに飛び込むのが遅かったら、私は今ごろ月に食われて、この世から存在しなくなっていたことだろう。

 この、昔は月が怖かった、ということを話すと、「ああ、オレもそうだった」と言う人は結構いる。あまりに怖くて、見知らぬ家に駆け込んだとか、道の真中でへたりこんで泣き出してしまったとか、そういう「今となっては笑い話」をたくさん聞いた。もちろん、今は月を見て、恐怖に駆け出してしまうようなことはない。

 しかし、今では月がまったく怖くないかといえば、そんなことはない。月をじっと見ていると、不気味に怖くなるときがある。小さい頃の記憶が、軽いトラウマになっているのかもしれない。あるいは、完璧すぎる美女が近寄りがたい雰囲気を持つように、美しすぎる存在に人は何か不気味さを感じ取るのかもしれない。現に、私もまわりから不気味がられている。

 だが、月が怖いのはそれだけの理由ではない。異論もあろうが、太陽は燃える父性の象徴であり、月は柔らかな母性の象徴である。そして、我々は「母性」という言葉を聞いたとき、ある種の恐怖を感じざるを得ないのである。なぜ「月=母性」が我々を恐怖させるのか。長々と説明しても良いが、ここはひとつ「黒後家蜘蛛の会」からヘンリーのセリフを引いておこう。

「わたくし思いますに、大方の男子は幼少の折、最大の権威としてまず母親を意識いたすものでございます。なるほど、正体の知れぬ、ただ鬼のように恐ろしい懲罰人として父親という存在もございますが、しかし、現実に子供が何かをしようとする時、常にその前に立ちはだかるのは、大仰な金切声を発し、邪険に手を引っ張り、背中を小突き、時には平手打を食わせる母親でございます。わたくしどもは終生その脅威を忘れ得ぬのでございます」

アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会3』(東京創元社)

 「いや、そんなことはない」とおっしゃるかたもいるだろう。我が国では「太陽こそ母性の象徴である」という考え方もある。しかし、我が国に古来より伝わる民間伝承を思い出していただきたい。「竹取物語」は月から来た女性が間の抜けた男性たちに無理難題を押し付け、多くの男性の人生を台無しにする、という話だった(ような気がする)。また、近年にも、月より現われた少女が、地球で思うままにその妖力をふるい、その肢体に惑わされた多くの男性の人生を台無しにしていた。決めゼリフは「月に代わって、おしおきよ!」だったか。

 これで、結論は出ただろう。すなわち、人間(特に男性)には、生来的に月を恐れる習性が備わっているのである。これは本能の衝動であり、理性で押さえようと思っても人知の及ぶところではない。なぜ、月曜日がこんなに憂鬱なのか。やっと分かった気がする。




洗いかたの問題 (2000-02-06)

 おばさんとは、なぜかくもあつかましいのか。かつて、オバタリアンなどという美しくない日本語があった。しかし、昨今この言葉は臨終を迎え、それとともに、自然にオバタリアンに属する人類は衰亡したのではないかと思っていた。いや、そのような淡い希望を抱いていた。

 しかし、その夢は今日打ち砕かれた。

 土曜日の朝、いい歳をした若者(私のことだ)が、うつらうつらとベッドでまどろんでいると、玄関のチャイムが乱暴に鳴り響いた。それにしても、なぜチャイムというのは、私がパジャマでいるときに限って鳴るのか。また、そういうときに限って、家には私しかいない。たまに私がパリッとした服を着ていると、ピンポンダッシュに興じる子供たちすら寄りつこうとしない。そのときも、運悪くチャイムの音に気づいた私は、パジャマのまま寝癖のついた頭をかきながら玄関にでた。

 扉を開けると、そこには近所に住むおばさんが立っていた。「朝早くから、ごめんねえ」と言いながら、全く申し訳無く思っていない顔つきでパジャマ姿の私を一瞥したかと思えば、「いい若いもんが、休みだからってグダグダして、ああヤダヤダ」という表情で、ぬけぬけと扉のうちに入りこんできた。一体何事か、と見守っていると、ヌッとカゴを突き出して「悪いけど、洗濯させてくれへん?」と尋ねてくる。一瞬、頭が混乱した。私が寝ている間に、我が家は転業してクリーニング屋にでもなったのか。

 聞けば、おばさんの家の洗濯機があいにくと故障してしまったらしい。しかも、折り悪く洗濯物がたまっており、どうしても今日洗濯をしたい、と言う。そうか、それじゃあ仕方ない、なんて思う人間がどこにいるのか。何のためにコインランドリ−と呼ばれる建造物があるのか。お金がもったいないのなら、近くの川で洗濯をしてこい。ついでに、桃のひとつも拾ってこい。と怒鳴りつけてやりたいところだが、そこはそれ、ご近所さんである。丁重に断って、帰っていただいた。

 応対したのが私だったから、あっさり引き下がったのだろう。もし、母上あたりが応対していたら断り切れなかったように思う。どうも、おばさん同士は「連帯感強くあるべし」という義務感でもあるらしく、内心いやだなと思っていても、ついつい応諾してしまうという傾向があるからだ。おばさんがおばさんに何か頼むとき、そこに選択の余地はない。たとえ、洗濯の余地がなかろうとも。




願い、叶えます (2000-02-04)

 「紅茶王子」というマンガに、カップにはいった紅茶に満月を映すと、紅茶の中から紅茶王子があらわれて三つの願いを叶えてくれる、という設定がある。むろん、願い事ならなんでも良いというわけではなく、

「あまり極端な願い事だと、他のいっぱいの方達にまで影響が出てしまいます。もっとささやかなこと…。たとえば、『とびばこ6段跳べたらいーな』とか…」

山田南平『紅茶王子1』(白泉社)

ということである。

 こういうのを読むと、ついつい真剣に三つの願いを考えてしまったりするのだけれど、でてくる願い事はグルグルと私のドス黒い情念が渦巻くような願いばかりで、たとえば「○○を○○の格好で○○してやりたい」などと書くと、私の人格までが否定されかねないので、そっと心のなかにとどめておこう。

 しかし、「ひとつだけ、なんでも願い事が叶うなら何がいい?」という質問は非常にポピュラーであり、おそらく多くのかたが一回や二回や百回ぐらいは似たような質問をされたことがあるのではないかと思う。そういうときに、思ったことをそのまま口にだす豪胆な(あるいは脳の神経回路が捻じ曲がった)かたもいるが、たいていは、「その質問をされた用の解答」を用意しているのではないかと思う。

 最も一般的な解答としては、「叶えられる願い事を百個にしてほしい(ふやしてほしい)」というものがある。古今東西老若男女に親しまれている解答である。しかし、この解答をするのはひとつの賭けであり、「え〜、そんなのズルい〜」なんて可愛く返してもらえるのなら御の字だが、多くの場合「ケッ、くだらねえ答えだぜ」と腹の底で嘲笑されるのがオチなので、できることなら避けたいところである。

 では、どんな解答が良いのかといえば、私がしょっちゅう使う解答としては「世界中のナメクジを絶滅させてほしい」というもので、これはなかなか優れた解答である。本心は別にしても、あまりドロドロした欲望を感じさせないし、共感を得られやすいし、そこはかとなく無邪気さが漂っているので好感がもてるし、と思わず自我自賛してしまうような爽やかな解答なのである。中には、「ナメクジだってひとつの生命だから…」と同情をする人もいるだろう。しかし、ナメクジは草木を荒らす害虫。死滅に躊躇する必要は無い。

 ちなみに、ナメクジを駆除する方法としては塩をかける手段が有名であるが、体の二分の一程度の量が必要なので、大量のナメクジを殺そうとするならば、それなりの量が必要なことを覚えておくとよいだろう。あと、ナメクジはビールに誘引されるという性質を持っているので、ナメクジの通り道にビールを置いておいて溺死させるという手段もある。なお、寝る前にビールを飲んだら、それは残しておかないほうがよい。ひょっとして、あなたが寝ているとなりに、ナメクジがビールを飲みにきているのかもしれないのである。

 あと、あまり知られていないことだがバナナの皮や酒粕などにもナメクジの誘引効果がある。そういったものでナメクジをひきつけておいて、一気に焼却するなどという手も有効だ。しかし、より確実な方法はナメキールなどの薬剤によってナメクジを殺してしまうことだろう。ナメクジが十分に摂取すれば、確実に殺すことができる。

 以上、ナメクジ講座でした。




姿の見えないあなたから (2000-01-29)

 半年ばかり前から、インターネットで本を買うようになった。欲しい本を選んで「購入」ボタンを押せば、一週間もしないうちに我が家に送られてくる。これは楽しい。何が楽しいかといえば、送られてくるのをわくわくと待ち望んでいるのが楽しい。小学生の頃「学研の科学」を購読していて、月に一度学研のおばさんが教材を届けてくれるのを「まだかなまだかな〜、学研のおばさん、まだかな〜」と待ち望んでいた気持ちに似ている。

 では、書店の棚をひやかして買うのとどちらが楽しいかといえば、これは微妙な問題である。確かに重い荷物をかついで、ひいこらと歩くのに比べたら、勝手に送られてくるほうが格段にありがたい。しかし、その犠牲を伴っても、書店に行くべき価値というものは存在するのだ。

 書店で本を買うという行為には、純粋に「読む本を買う」という目的のほかに、「本を買う自分に酔う」という重要な役割もある。チャコールブラウンのスーツに身をつつみ、ブランデーグラスを片手に岩波文庫や講談社学術文庫の棚を面白くなさそうな顔で眺めながら「純粋現象学及現象学的哲学考案(フッセル)」などをスッと抜き取ってレジに持っていく。そして、そういう自分に酔いしれる、という楽しみが無くなってしまう。

 あるいは、いいおとなが買ってはいけないような本、たとえば「ミンキーモモのへんしんきせかええほん(たの幼TVデラックス)」などを手に取り、レジに思わず憧れを持ってしまうような綺麗なお姉さんがいるときを見計らって、焦点のあわぬ目つきで持っていき、「贈り物ですか?」と聞かれたら「いえ、家で使います」と答え、ちょっと薄気味悪いまなざしで見られるのを楽しむという、自虐的な快感も無くなってしまう。

 つまるところ、買った本に対する反応が無いのは非常に寂しいことであって、本とは読む楽しみ以上に買う楽しみというものがなければならないと思うのである。

 そこで提案なのだが、本を送るときに簡単でもかまわないので「このセレクトをどう思ったか」という感想メモを添えていただけないだろうか。宅配便のダンボールを破ると、一枚の紙片に「ちょっと偏ってると思います」とか「わりといいセレクトじゃない?」とか「○○さんのこと、みなおしちゃいましたっ」とか書かれてあるのだ。これなら、自宅にいながら買う楽しみが味わえる。個人的には、そのようなサービスに三百円ぐらいだしてもよい、と考えている。ついでに言わせてもらえば、その紙片さえ送ってもらえれば、買った本を送ってくる必要もないぐらいだ。楽しみは、それで充分に味わえるのだから。




愛に餓えるコンピュータ (2000-01-21)

 他人のパソコンは嫌いだ。私が触ると、すぐにハングアップをする。自分のパソコンが凍ってデータが壊れたりしても、どうせくだらないデータばかりなのだから気にすることはないが、他人のパソコンが凍ったときは、本当に身も凍る思いをする。

 どうも、パソコンとは長い間使っているうちに、所有者特有の癖がつくようで、赤の他人が触ると機嫌を悪くする。本体の中に入っているこびとさんの性格にもよるのだろうけど、たとえば中に面食いのこびとさんが入っていたとすれば、顔に自身のない人は注意しなければならないだろう。逆に、嫉妬深いこびとさんが入っているときは、顔の良い人が要注意である。うっかりすると、いじわるをされてしまう。たいていのパソコンは、私が触るとすぐにふてくされてしまうので、世の中には嫉妬深いこびとさんが圧倒的に多いようである。そのために「他人のパソコン恐怖症」が私の中にすっかり根付いてしまって、あまり癖のついていない新しいパソコンか、「どうしても!」というときしか他人のパソコンには触れないようにしている。

 ところが、世の中にはパソコンに対する恐怖心というものが全くない人もいるようで、私にとっては非常にうらやましい。そういう人は「ちょっと貸して」というような感じで、やすやすと他人のパソコンを借りる。いつ爆発するかびくびくしながら借りる私とは、えらい違いだ。

 インターネットエクスプローラーで重いサイトを読みこみながら、ワードの文書のセーブとロードを繰り返したりして、私がやれば三割の確率で何らかのエラーがでるようなことを、そういう人はやすやすとこなしてしまう。これは尊敬に値する。

 鮫島さんという人がいる。鮫島さんは、いわゆるパソコンと相性の良いひとで、私の知る限り、他人のパソコンを凍らせたことがない。私とはえらい違いである。どうしてこうも違いがあるのか不思議に思い、鮫島さんがパソコンを扱うところを観察していた。ひょっとして、何かおまじないでもあるのかと思ったのだ。

 鮫島さんは、おもむろにソフトを立ち上げる。お供え物をしたり、何か呪文をつぶやいたようすはない。鮫島さんは、マウスを操る。好運のブレスレットや指輪(エミールストーン付き)はつけていない。鮫島さんは、キーボードを叩く。「ホワアァァ」と気を送りこんだりしている様子はない。鮫島さんは、ソフトを終了する。パソコンを拝んだり、なでさすったり、ぷにぷにしたりしていないようだ。

 結局、鮫島さんは、普通にパソコンをあつかっていた。私となんら変わりない。使い方が同じなのに、なんでこんなに差がでるのか。普通につかってエラーがでないなんて…。

 そんな非科学的なことがあってよいのだろうか。




思いこみたい (2000-01-18)

 「思いこみ」ということばがある。辞書には『そうだと信じてしまうこと』と載っている。

 思いこみというのは非常に多様である。黒豆の原料はおたまじゃくしだと思いこんでいたり、「ジャムおじさん」のことを「シャブおじさん」と思いこんでいたりする人は多いはずだ。しかし、そういった思いこみは、成長するにしたがって薄れてゆく。あるいは、誰かに矯正されてしまう。しかし、目立たない思い込みというのは、なかなか気づかない。

 たとえば、私はつい先ごろまで「スガシカオ」は「スガシ顔」だと思いこんでいた。スガシとは何か知らないが、そういう流行語なのだと思っていた。こういう、音が同じ思いこみは気づきにくい。誰かが「スガシカオ」のことをしゃべっていても、まさか自分が間違っているとは思わないので、明らかに文脈として変であっても聞き逃してしまう。こんな具合に、「思いこみ」は世の中にあふれている。

 さて、ここからが本題。いまひとつ説得力がないような気もするが、私はあまり「思いこみ」が激しくないほうである。少なくとも、私はそう思いこんでいる。しかし、最近になって「思いこみたい」が激しくなってきたように思う。辞書には載っていないが、『そうだと信じたがること』という意味である。

 たとえば、私は「欠陥住宅」というのを「血管住宅」と思いこみたい。普通に「欠陥住宅」ということばを聞いても、心を震わせる人は少ないだろう。むしろ、なんだか嫌な気分になると思う。しかし、「血管住宅」と思いこんだとたん、私はなんだかドキドキしてしまう。壁にはツタのように静脈がはしり、中にいればバクンバクンという脈動が聞こえる。そんな家を想像するだけで興奮する。したがって、私は「欠陥住宅」ということばを聞いたときは「血管住宅」と思いこむようにしている。

 「合唱コンクール」は「合掌コンクール」と思いこむようにしている。「合唱コンクール」と聞くと、小中学校時代の思い出がよみがえってきて、うえっ、という感じになるのだが、それを心のなかで「合掌コンクール」と思いこむだけで甘美な響きとなる。舞台に並んだ合掌隊が、指揮とともに一斉に合掌する。じんわりと心をうつ美しさがある。「ウィーン少年合掌団」とかの公演があれば、必ず私は駆けつけるだろう。

 一応言っておくと、「思いこみ」と「思いこみたい」は全くの別物である。間違っていることに気づかないのと、間違っていると知りつつ間違えるのには、天と地ほどのひらきがある。

 もちろん、後者は人間として間違っているので、なおたちが悪い。




北というほどでもない国から (2000-01-15)

 なんだか、全然雪が降らない。クリスマスごろに初雪が降ったのは憶えているけど、それ以来降るのは雨ばかり。雪が降ったら庭を駆けまわりまくり、こたつで丸くなりまくり、ここぞとばかりに冬を満喫してやろうかとまちかまえているのに、一向に雪が降りそうな気配が無い。いったい私はどうしたらいいんだろうか。いや、別に何もしなくていいんだけど。

 雪が降れば、様々なレジャーを楽しむことができる。たとえば、スキーができるようになる。白銀の世界を、雪煙をあげながらハヤブサのようにすべる私の姿を誰かに見せたいものだ。ひとすべりするだけで、「娘さん、俺に惚れるなよ」状態になることは間違いない。スキーをしたことがないのが、つくづく残念である。

 あるいは、雪だるまをつくったり、雪合戦をしたりできる。ビニル製の手袋をつけて、無限に広がる材料を見やりながら、冬を満喫できるのだ。もっとも、これは友達がいないとできない。雪だるまをひとりで眺めたり、自分に雪玉をぶつけて遊んだりするのはちょっと寂しい。したがって、私はしない。

 さらに、雪を見ながら風雅に酒を飲んだり、酒を見ながら優雅に雪を食べたりすることができる。これならひとりで楽しむことができる。実際には、雪をつまみに冷えたビールを飲んで、腹をこわすのが精一杯だろうけど。

 まあ、特に楽しみがなくても、私は雪が好きである。寒さに弱いのに雪が好き、というのは矛盾しているようだけど、雪と私は非常に似たところがあるので、相性が良いのだろう。可憐で、儚(はかな)くて、幻想的で、けがれがないところなど、私にそっくりである。これは、私のうぬぼれではない。ためしに、まわりのひとに聞いてみてもよい。

 私「ねえ、俺って雪っぽいよね?」

 Aさん「まあね」
 Bさん「そやな」
 Cさん「確かに」

 ほら、やっぱり。私と雪は似ているのである。これからは「白雪王子」とでも名乗ろうかな。

 私「どんなところが?」

 Aさん「見ると踏みつけたくなるところ」
 Bさん「すぐ蒸発しそうなところ」
 Cさん「寒いところ」

 …やっぱり、やめときます。




いつか使う左手 (2000-01-04)

 誰しも、左手で字を書く練習をしたことがあるのではないかと思う。

 小さい頃したという人も、今現在しているという人もいるだろう。私は、とうに「左手でものを書く」という努力を放棄してしまったが、きっとめげずに練習して修得してしまった人もいるはずだ。

 今ではキーボードで文章を書く(打つ)ことが多くなったので、両手をつかうのが普通なのだが、それでも「左手で字が書けたらなあ」と思うときはよくある。たとえば、マウスを操作しているときに、ちょいとメモ書きをしたくなったりしたら一旦マウスから手を離さなくてはならない。こんなときに、左手でちょちょいと字を書くことができれば便利だろう、と思う。

 他にも、右手でソロバンをはじきながら左手で計算結果を書くとか、右手でカエルを切開しながら左手で記録するとか、右手で皿まわしをしながら左手で書初めをするとか、いろいろ左手で字をかけたら便利であろう状況がある。もちろん、たびたび機会があるわけではないが、万が一のためにも左手で字を書く練習をしておくべきなのだろうか、と思う。

 そこで、久しぶりに左手で文字を書いてみた。相変わらずヘタだ。文字として読めないことはないのだが、ちゃんとした字を書くためにはもっと練習が必要だろう。

 さらに思いついて、ためしに口で字を書いてみた。口にペンをくわえて「あいうえお」と書いてみる。が、どうみても日本語には見えない。腰を痛めた寄生虫にしか見えない。これは、左手以上の練習が必要だ。せめて、「あ」の文字をきちんと書けるようになろう。

 「あ」…「あ」…「あ」…

 顔を前後に動かして、よだれが落ちないように気をつけながら「あ」を書きつづけること十数回。ふと、「この技術を使う機会はあるのだろうか」という思いが頭をよぎる。……。なんだか虚しくなって、口にくわえたペンをとり落とす。よく考えると(よく考えなくても)、手以外の場所で文字を書く機会は、ありそうもない。

 尻で挑戦する前に気づいて良かった。




奇跡のガビョウ (1999-12-31)

 小学校四年生のとき、「画鋲まわし」に爆発的なブームがおとずれた。

 「画鋲まわし」とは、画鋲の針を指でつまんで回転を与え、コマのように回す遊びであり、通常ふたりで行われる。勝負の方法は簡単。合図とともに、二人のプレイヤーがそれぞれの画鋲をまわしはじめ、長くまわっていたほうが勝ちだ。画鋲が机から落ちたり、先に回転が止まったら負け。単純な遊びだけに白熱する。相手の画鋲に息をふきつけたり、机を叩いたりするのは反則である。

 「画鋲まわし」において、もっとも重要なのは、良い画鋲を手に入れることである。画鋲は規格品とはいえ、微妙に針の位置などがずれており、当然ながらバランスの良い画鋲のほうが好まれる。皆、掲示板に刺されている画鋲をとっては、一秒でも長くまわり続ける画鋲を選び、それぞれのお気に入り画鋲を確保していたのである。

 さて、「画鋲バトル」が激化するにつれて、一番強い画鋲はどれなのか、ということが疑問視されるようになってきた。強い画鋲というのは漠然と分かっているが、最強の画鋲となると、甲乙がつけがたい。いったい誰の画鋲が最強なのか。疑問の声は高まり、やがて、「第一回画鋲バトルトーナメント大会」の開催が決定されたのである。

 昼休みを前にトーナメント表がつくられ、組み合わせが決定された。大会は昼休みをフルにつかって繰り広げられる予定だ。ついに、最強のプレイヤーが決定されるのである。いやがうえにも皆の興奮が高まる。事前にたてられた下馬評で、私が所持する「スクリュードライバー2号」と山口の擁する「ウルトラハリケーン」が優賞候補に挙げられた。

 私が所持していた「スクリュードライバー2号」は、芸術的画鋲の異名を持つほどで、その完璧なバランスは皆の羨望の的であった。一方、山口の「ウルトラハリケーン」は驚異的な回転力がウリである。もちろん、「スクリュードライバー2号」と「ウルトラハリケーン」の直接対決はいままでにも幾度か行われていた。しかし、勝敗はほとんど五分であり、この大会に勝利をおさめた方こそが最強の画鋲である、ということが暗黙のうちに皆に了解されていたのである。

 昼休みになり、一回戦が開始される。予想通り、私の「スクリュードライバー2号」は順当に勝ち進む。しかし、山口も負けてはいない。弱小画鋲どもを蹴散らして、次々にトーナメントを昇ってゆく。トーナメントは次々に消化され、大きな波乱もなく、決勝戦は「スクリュードライバー2号」対「ウルトラハリケーン」の究極のカードが実現したのであった。

 バランスでは私の「スクリュードライバー2号」のほうが若干すぐれていた。しかし、「ウルトラハリケーン」には、それを補ってあまりある回転力がある。勝負はどちらに転ぶか分からない。昼休みもあと五分となったころ、かけ声とともにお互いの画鋲が机に放たれた。

 決勝戦にふさわしく、お互いの画鋲にはベストの回転が加えられた。ごく静かな回転音をたてて画鋲がまわる。通常の画鋲が持つ標準記録などあっというまに突破してしまう。お互いの意地をかけたぶつかり合いである。私と山口は、相手の画鋲を倒すために、必死で念力を送っている。ギャラリーたちは、息を殺して勝負の行方を見守っている。

 じりっと時間が進む。少しずつ、画鋲の回転が衰えてゆく。先に速度をゆるめはじめたのは、私のほうだった。少し画鋲の回転がブレているのがわかる。山口の方はほとんどブレがない。「スクリュードライバー2号」のブレは、少しずつ大きくなっていく。…このままでは負けてしまう! そう思ったとき、奇跡が起こった。私の念力が通じたのか、中国で蝶が羽ばたいたせいか、山口の「ウルトラハリケーン」がすうっと位置を変えた。そこに彫刻刀で刻まれた相々傘がうっすらと浮かび上がっていたのだ。「ウルトラハリケーン」の針が相々傘のハートの部分にひっかかった。カリカリカリカリと静かな音をたて、「ウルトラハリケーン」に微妙な抵抗が加えられる。「ウルトラハリケーン」の回転が急速に衰えはじめる。

 …コロン。息がつまるような沈黙のあと、「ウルトラハリケーン」は安定を失って、横向きに倒れた。その直後、私の「スクリュードライバー2号」も力尽きた。

 熱き戦いは終わった。私と山口はがっちりと握手を交わし、お互いの善戦をたたえあい、次の再戦を約束した。私は念願の初代王者に輝いたのであった。ありがとう、山口。ありがとう、みんな。この日のことは決して忘れない…。

Ψ

 しかし、残念ながら再戦の約束は果たされなかった。その日の「かえりの会」で、女子の学級委員長が発言をしたのだ。

 「せんせー、男子が画鋲で遊ぶのは良くないと思いまーす」

 翌日から「画鋲禁止令」がだされたのは言うまでもない。




冬の蝿 (1999-12-27)

 部屋に入ると、蝿がいた。

 残念ながら、私は蝿があまり好きではない。積極的に嫌っているわけではないが、蝿が出迎えてくれて嬉しいと思ったことはない。したがって、蝿を見たら、殺すか、追い出すか、どちらかの行動をおこす。

 もし蝿を殺そうと思ったら、それなりの道具を用意しなければならない。「蝿たたき」「蝿とり紙」「殺虫剤」などである。しかし、あいにくとそんなものは常備していない。となると、丸めた新聞紙などで勝負を挑むことになるのだが、迫力不足であることは否めない。

 蝿に勝つことはたいへん難しい。まず、蝿を射程距離にとらえるのが一苦労である。相手は飛べるのに、こちらは飛べない。ドタドタと部屋をかけまわるしかない。照準を定めても、蝿は手を振り上げたわずかな動きを察知して逃げてしまう。振り下ろしたときには、蝿はもういない。

 持久力でも負けている。およそ、蝿というのは疲れを知らないように飛びまわる。人間の方は体力が続いても、集中力が続かない。持久戦に持ちこまれたら、まず勝ち目はない。判定負けは必至である。

 蝿は攻撃してこない。逃げ回りながら、こちらが自滅するのを待つ。蝿を追って部屋中をかけ回っていれば、足元がおろそかになる。そこでタンスの角に足指をぶつけたりして、非常に痛い思いをする。蝿は自分から手をださずに勝つ方法を知っているのである。おそらく、世の中には蝿を追っているうちに、うっかり足をすべらせてテーブルの角に頭をぶつけ、亡くなった人もいるだろう。その中には蝿を逃がさないよう部屋を締めきっていた人もいるに違いない。世の中の密室殺人の三パーセントは、蝿のしわざであると私はにらんでいる。

 やはり、ろくな道具も無く蝿と戦ってはいけない。だいたい、今日は疲れているので積極的に蝿を追う気力がない。結局、窓を開け放して蝿が出て行くを待つことにした。

 寒気のはいりこんでくるなか、じっと待つ。しかし、なかなか出て行こうとしない。ブゥンゥンゥン。静かに羽音をたてて蝿は飛んでいる。

 …五分待った。まだ出て行かない。よほど、この部屋が気に入ったのだろうか。部屋をぐるぐる回るだけで、窓に近づこうともしない。

 ……十分待った。まだ出て行かない。部屋はすっかり冷えきってしまった。しかたがない、今日はあきらめよう。たかが蝿一匹我慢できなくてどうするのだ。自分がウンコだと思えば、蝿の一匹くらいどうということもない。

 あきらめて窓を閉めにいったとき、二匹目の蝿が静かに舞い込んだ。




ななくせ無くせ (1999-12-22)

 「なくてななくせ」という。誰でも七つぐらいはクセを持っている、という古人の教えである。

 クセというのは、いろいろ種類があるようだ。ドラえもんの中で「クセをおおげさに見せる道具」という役にたつんだか、たたないんだかよく分からない道具がでてきたことがある。そのとき、パパは貧乏ゆすり、ママは舌なめずり、のび太は鼻くそをほじるというクセがあった。他にも、鉛筆を指先でくるりとまわすクセとか、人差し指でメガネをくいっと上げるクセだとか、そういうのはよく見かける。あと、裸のうえにコートを着て、夜の公園でガバッと開けるクセだとか、電車のつり革で懸垂するクセだとか、そういうクセもたまに見かける。

 私はといえば、つい首の骨を鳴らしてしまうクセがある。あごに手を添えて、頭を横に倒すと「ゴキゴキゴキッ!」と冬眠中の熊も目覚めるほどのすごい音がなる。はじめのころは首から音が鳴るのが面白くてやっていたのだが、近頃は無意識のうちに首の骨を鳴らしてしまうようになった。

 どちらかといえば、あまり良いクセとはいえない。赤い羽根を見ると無意識に小銭を取り出してしまうとか、献血車を見ると無意識に腕まくりをするとか、そういうクセならすばらしい。しかし、「首の骨を鳴らすクセ」というのは見ていて心地よいものではない。まわりの人はぎょっとしてしまう。「骨折れてないの?」とまで聞かれる。いずれ折れるかもしれないが、今は大丈夫だ。

 「やめようやめよう」と思うのだがなかなか直らない。無意識にでてしまうので、鳴らしてしまってから自分の挙動に気づく。もう、どうにもとまらないのである。実害がないことだけが救いだ。

 しかし、もし私の職業が忍者だったらどうだろう。天井裏に忍び込んで、ふし穴から部屋の様子をうかがっているとき、ついいつものクセがでてしまう。

 天井から聞こえる「ゴキィッ!」という音。当然、下で密談をしていた越後屋は、何者かが潜んでいることに気づく。槍を手に取り天井に突き立てて一言、

 「クセ者!」

 …はやく、なおそうと思う。

 


しびれるほどの快楽(1999-11-22)

 以前、「耳いじり」こそ究極の快楽である、ということを書いたのだが、最近はアレのほうが、もっと気持ちいいような気がしてきた。「耳いじり」が上半身における究極の快楽であるとすれば、アレこそは下半身における至高の快楽といえるだろう。

 もちろん、アレとは「足しびれ」のことである。あの、足がしびれたときの足全体に伝わる痛痒感。歩くたびに体の内部からわきあがる刺激。「耳いじり」が外部からの快楽なのにたいして、「足しびれ」は内部からの快楽なのである。

 わざと、血流を止めるような姿勢をとり、充分にしびれたところを見計らって、そっと足をもどす。そして、痺れた足をペンでつついてみたり、わざと体重をかけてみたりする。「うりうり、どうだ」「あんっ」と一人芝居をしてみたりする。その痛しかゆしのバランスは、まさに至高の快楽というにふさわしいのではないだろうか。

 ただ、残念なことに「足しびれ」は「耳いじり」ほどに市民権を得ていない。おそらく、過去に「足しびれ」によって苦い経験をしたことが偏見になっているのだろう。

 たとえば、お見合いのとき。珍しく着物などを着て、慣れない足をふたつに折って、ちょこんと座っている男女がいるとする。世話好きのおばさんが「それじゃ、あとは若いおふたりにまかせて…」と心得顔で言い、あなたは立ち上がろうとする。ピリッ。足がしびれていることにあなたは気づく。

 しかし、ここで相手に無様な姿を見られたくない。あなたは平静な顔をつくろって、立ち上がろうとする。しかし、しびれの波はすごい勢いで迫ってくる。もう一度座ろうかと思うが、相手はすでに部屋を出ようとしている。遅れをとるわけにはいかない。

 あなたは無理に一歩を踏み出すが、案の定しびれに耐えかねてバランスをくずしてしまう。倒れて行く先は、偶然お茶を運びに来た仲居さんである。突然、仲居さんにしなだれかかったあなたを見て、お見合いの相手は「なんて無節操なの!」と、あなたに幻滅。そして破談。

 なんていうことが、あったのかもしれない。

 しかし、私に言わせれば、そんなことで「足しびれ」を見放すなど、見当違いもはなはだしい。「足しびれ」のプロは、そういうピンチのときこそ快楽を味わうのだ。やはり、「足しびれ」には、日頃の特訓がかかせないのである。

 あ、そろそろしびれてきたので、このへんで。

 


伝承文化(1999-11-17)

 朝、小学生が学校へと急ぐ様子をベランダから眺めていたら、驚いた。なかのひとりが「ベベマリコ!」と叫んで、突然皆が駆け出したのだ。

 何が驚いたって、「ベベマリコ」というフレーズがいまだに残っていることに驚いた。おそらく、この言葉は私の地元だけで使われているものだと思うのだが、私が小学生だったころ、さかんに使われていた言葉なのだ。

 意味は単純で「べべ(ビリの意)になるとマリ子さんと交際しなければならないよ」という言葉の略である。つまり、「マリ子さんとつき合いたくなければ、必死で競争しなければならない」という含みがある。

 マリ子さんが、いったいどういう人物なのか私もよく知らないのだが、噂によれば「身長五尺、体重百貫、一重まぶた、二重あご、三段腹。とにかくデカい!」という人物であるらしい。ただし、彼女を実際に見たものはおらず、実は伝説上の人物だと思われるふしもある。まるで、学校の怪談だ。

 友達数人と道を歩いていると、突然ひとりが「ベベマリコ!」と叫ぶ。そうすると、何の脈絡も無く突然競争がはじまるのである。当時は、たとえどんな事情があろうとも「ベベマリコ」という言葉を聞いたら駆け出さなければならなかったのだ。

 別に、ビリになったからといって、実際にマリ子が待っているわけではないのだが、それでもこの言葉を聞くと条件反射的に「ビリになるのはいやだ!」と思ってしまうのだ。

 それにしても、こんな意味すらもよく分からない言葉が、脈々と受け継がれているのを聞くと、感慨深いものである。くだらないことではあるが、時代を超えて言葉が受け継がれるのを聞くのは嬉しいものなのだ。

 ひょっとしたら、犬糞をボール代わりにして遊ぶ「ババサッカー」とか、人差し指で浣腸したまま相手を持ち上げる「ストロングカンチョー」も脈々と受け継がれているのだろうか。だとしたら、嬉しさのあまりに私は涙を流すだろう。当時は、情けなくて親が泣いていた。

 


一歩先は闇(1999-11-08)

 広く閑散とした道路に立つと、目をつぶりたくなる。そして、そのまま歩きたくなる。

 やってみると、意外に難しい。二、三歩だけなら簡単だが、十歩以上になると、急に恐怖心が芽生えてくる。駅のホームじゃあるまいし、広い場所だと分かっているんだから、危険なんてあるわけないじゃないかと思うかたは、ぜひ試していただきたい。もちろん、電柱にぶつかるとかドブにはまるとか、その程度の危険はあるにしても、人通りの少ない道を選べば、とりあえず致命傷になるような事故は避けられると思う。それでも怖いのだ。何か、偶発的な事故でも起きやしないかと。

 そこをぐっと我慢して歩く。すると、単純にして本能的な恐怖を味わうことができる。ホラー小説を読んだり、絶叫マシンに乗ったりする手間を省いて、ごく簡単に、わきあがる恐怖を味わうことができるのだ。実際、これほどの娯楽はないのではないかと思う。

 はじめの九歩は全く怖くない。平気な顔をして歩くことができる。最初の恐怖がおそってくるのは十歩目からである。まっすぐ歩いているつもりで、危険な場所に向かっているのではないか。知らないうちに周りに脅威が発生したのではないか。そんな疑心暗鬼にとらわれる。そして、目を開けたくなる。

 しかし、そこで目を開けてしまうと真の恐怖を味わうことはできない。また、その恐怖を乗り越えることができれば、五十歩ぐらいはほぼ確実に歩くことができる。そして、五十歩目を越えたときに本格的な恐怖がおそってくる。それを乗り越えられるかどうかがこのゲームの分かれ道になる。

 慣れればまっすぐに歩くことはそれほど難しくない。大きな荷物を持たず、また太陽光などに惑わされないようにすれば、あとは気持ちの問題である。自分がまっすぐ歩いていると信じ込めば、実際にまっすぐ歩けているものだ。しかし、そこに恐怖心との相克がある。恐怖心が産む疑心暗鬼に負けないぐらい自分の感覚を信じることができれば、どこまでも歩いて行くことができるのだろう。

 私の自己記録はちょうど百歩。他人の記録は聞いたことがないので、この記録が良いのか悪いのかは分からない。しかし、自分ではそれなりに満足している。正確な記録者がいないので、無意識に二、三歩ごまかしているかもしれないが、まあ、そのあたりには目をつぶっていただきたい。

 


仮病になりたい(1999-11-03)

 寒くなってきたと思ったら風邪をひいてしまった。今年の風邪は喉にくるらしく、昨日から咳がとまらないのだ。

 それにしても、風邪をひくと自由な時間が奪われる上に、周りの人間に迷惑をかけるので、大変心苦しいものである。風邪をひくのが上手い人などは、忙しくないときを狙ってタイミングよく風邪をひくことができるらしいのだが、私はそれが苦手らしい。今年も早々と風邪をひいてしまい、周りに菌をまきちらすばかりなので、精神衛生上良くないのである。

 もっと小さいとき、小学生のときなんかは今と違って気楽に風邪をひくことができた。風邪をひけば学校が休めるし、ちやほや看病してもらえる。できることなら、今の風邪を中学生の自分にうつしてやりたいとさえ思う。

 小さいときは「風邪をひけたらラッキー」と思っていたので、なんとか「風邪状態」になろうと、涙ぐましい努力をした。息をとめて真っ赤な顔をしたり、わざとらしく咳をしたりして、せこく学校を休もうとしたものだ。もちろん、それだけでは仮病を見破られてしまう。そこで、「風邪である」という客観的証拠をつくるために、なんとかして体温計の数値を上げようとしていた。

 ストーブの近くで体温をはかったり、焼きたてパンに体温計を押しつけたり(これで体温計をひとつ壊したことがある)、涙ぐましい努力をしたものだが、一番多く利用したのが摩擦熱を使う方法である。体温計を脇にじっとはさんでいるふりをして、こっそりと服に体温計をこすりつける。秒間五往復。すると、みるみるうちに体温は上がり、三十七度の熱など簡単に演出できてしまう。

 それを、どうだと言わんばかりに両親なり先生様に見せる。さすがに、両親にはすぐ見破られて、家をたたきだれる可能性が高いので、もっぱら学校の保健室でやることにしていた。朝、学校にいってすぐに保健室に行き、体温を測らせてもらう。数秒こすって数値を見ると、ぴたり三十七度五分である。熟練のなせる技である。今思うと、先生様だって仮病だと見破っていたような気もするが、そこは他人の遠慮か大人の配慮か厳しく追及することもなく、あっさりベッドで眠らせてもらえた。

 そこで、ぬくぬくと怠惰な日々を送っていたわけだが、今思うと、なぜあんなことに熱中していたのかと、ちょっと恥ずかしい。やはり、仮病だけに熱をあげてしまうのか。

 


人類の最良の友(1999-10-15)

 一年に一回ぐらい猛烈に「犬を飼いたい!」と思う時期がありまして、きっかけは大抵くだらないことですけど、犬とたわむれる生活などを想像しては、にへらにへらと笑ったりするのです。小学生とは違って、犬一匹を養う甲斐性ぐらいはあるのですから、犬ぐらいそこらで拾ってくればよいのですが、小学生と違って犬とたわむれる時間が無さそうなので、結局想像だけで満足することにしています。

 その昔、我が家にも犬を飼っていた時期がありまして、私が保育園を駆けずりまわっていたころから、中学校を駆けずりまわっていたころまで、常に一匹の犬が手元におりました。なにしろ、私の年齢が一桁であったころから十年ちかく飼っていたわけですから、私の成長記録そのものとでもいうべき存在で、小学校の卒業文集にも「ぶる(犬の名前)」という作文を書いたことからも、いかに深く私の人生と関わっていたかが分かろうというものです。

 当時、犬を飼うということはさほど珍しいことではなく、クラスの半分ぐらいは庭に犬を飼っていたのではないかと思います。ところが、皆が飼っていた犬は柴犬とかマルチーズとか、妙に小綺麗な犬ばかりであり、うちみたいな雑種の犬は一種異様な雰囲気がありました。

 また、飼い主がいいかげんな人間だったせいか、犬のほうもいいかげんなもので、散歩に出かけるとき以外はいつも惰眠をむさぼっている。それで蓄えたエネルギーを、すべて散歩にふりむけるのですからたまりません。非力な小学生の私が犬を御すことができるほどの力をだせるわけもなく、散歩しているんだかさせられているんだか分からない、ずるずるとそこら中を引きまわされて、へとへとに疲れて家に戻ってくるというのが常でした。

 そんな犬も、父がいっしょにいるときは、わりとおとなしく、犬は犬なりに一家の長に畏敬の念を示しているようでした。うちの父は犬の後足を持ってジャイアントスイングするような、ちょっと屈折した愛情の示したかたをしていましたが、それなりに伝わっていたのでしょう。

 それで、散歩が終わるとエサをやるわけですが、我が家では犬のエサは一日一食ドッグフード(ビタワン)のみと、たいそう粗食でした。ふつうの家ではどんなエサをやっているのかしりませんが、今思えば少々不憫な気もします。

 そこで、たまには変わったものでもやろうかと昨夜の夕食の残り物などを分けてやるのですが、そうするとうちの犬などは飛びあがらんばかりに喜ぶわけです。特に、ちくわが大好きだったようで、冷蔵庫からそっとちくわをとりだして犬の目の前に掲げてやると、ちぎれんばかりに尾をふって、口の端からはよだれがこぼれだします。

 そうすると、つい意地悪がしたくなり、犬の目の前で、私がちくわをたいらげてしまったりするわけです。そうすると、とたんに眼をうるませて、かなしそうな顔になる。どこかにもう一本ぐらい持ってるんじゃないんですか、とじっと私を見つめるわけですが、一本しかなかったんだよ、と手をひらひらさせると、とぼとぼと小屋の中に戻っていく。不憫です。私のせいですが。

 しかし、なかなかこの犬は食わせ者でして…。ああ、犬のことを書いているとキリがないので、このへんでストップ。私が犬を飼いたくなるわけが、ほんの少しでも伝わったでしょうか。

 最後は、「犬が居ぬ」という駄洒落で締めようと思っていたんですが、うまくいかないので、このまま終わっておきます。

 


眠れない日々 (1999-09-24)

 ダメ人間の代名詞であるのび太君ですが、私が彼が「すぐに眠れる」という特技を持っていることを尊敬しています。私などは、生まれてから毎日のように睡眠しているにもかかわらず、いまだに「眠くないときに眠るコツ」がつかめません。

 生活リズムがくずれるのは嫌なので、夜になると布団にもぐりこみますが、よほど疲れているときでもない限りすんなりと夢の世界へ入り込むことができません。

 安部公房のエッセイに「睡眠誘導術」というのがありますが、氏は睡眠を誘うために、西部劇を想像するのだそうです。峡谷の底を走る騎馬隊に向けて、弓矢をつがえ、ひとりひとり狙い打ちしていれば、自然に眠りが訪れると書いています。

 むろん条件によって違うが、調子さえよければ、四、五人目から効果があらわれることがある。二十人を超えることはめったにない。急速で、しかも実になめらかな眠りへの移行。弓をつがえた腕から突然力が抜け、あたりの光景が見るみる凍って、色あせる。そのまま君は深い眠りに落ちていく。

安部公房『笑う月』(新潮文庫)

 私もさっそく試してみました。試してみましたが、なかなかうまく行きません。安部式睡眠誘導術をするには、まず舞台をつくる必要があります。私の場合、まず広大なグランドキャニオンを描いて、そこからよさそうな渓谷を探します。そして、騎馬隊が通るのに都合のよさそうな渓谷を見つけたら、そこをズームアップします。

 ズームアップすると、ずいぶんと細部がいい加減なことに気づきます。赤いベニヤ板を張り合わせたような粗末な谷です。そこで、まず身を隠す岩場を描きます。質感をだすために、草木や苔もついでに描きます。さらに、雲を描き、風を吹かせます。

 舞台が完成したところで、騎馬隊を走らせようとするのですが、せっかく築いた舞台がぼやけてきたことに気づきます。舞台を維持するためには、集中力を保たなければいけません。気を抜くと、せっかく描いた風景が台無しです。

 仕方なく、再び舞台を整えます。だんだん眠くなってきましたが、ここで眠るわけにはいきません。

 騎馬隊をひとりも倒さないうちに、眠るわけにはいかないのです。

 


イヤなもの見たさ (1999-07-20)

 「怖いもの見たさ」というのは誰にでもあると思います。スプラッタ映画は嫌いなのに、ついつい真夜中に毛布をかぶりながら見つづけてしまうとか、冷蔵庫の奥深くに眠る賞味期限を1年近く過ぎたシュークリームの中身をついつい確かめてしまうとか、これは人類普遍の心理でしょう。

 同時に、人類普遍の心理として「イヤなもの見たさ」というものがあると思うのです。大嫌いなテレビ番組をついつい予約録画までして見てしまうとか、キライなあいつの一挙一動に注意してしまうとか、そんなことありませんか? 考えただけで鬱陶しいような作家の本をついつい何冊も買い求めてしまうとか…。

イヤなんだけどつい買ってしまうんです(A氏談)

 では、なぜそのようにイヤだと分かっているものを、あえて見てしまうのでしょうか。

「なんでオレがあんなにキライなアレのことを考えなきゃならないんだ。寝てもさめてもヤツのことばっかり――」
「そういうのを恋っていうんじゃないのかしらねえ〜」

佐々木倫子『動物のお医者さん』(白泉社)

 ふと、上記のセリフが思い浮かびました。

 そう、恋だったのです。イヤでイヤでしょうがない。だけど、どうしても否定できない。なぜなら、私が持たない部分をあいつが持っているから。やがて、私とあいつは引き合い、引かれ合い…。

 あ、やっぱり気持ち悪いですね。

 どうも恋ではなさそうです。では、恋ではないとしたら、なぜ人はイヤなものをついつい見てしまうのでしょうか。

 …やっぱり、あんまり「濃い」から、ついつい見ちゃうんですかねえ。

 


耳の快楽 (1999-07-16)

 「この世で一番気持ちのいいことは?」と聞かれたら、おそらく全人類の九割は「耳いじり」と答えるのではないでしょうか?

 なんとなく、耳をいじってるだけで幸せな気持ちになれる人は多いと思います。暑い日には冷たい耳たぶをいじって涼を感じ、寒い日にはやわらかな耳たぶをいじって暖を感じる。なんとも、風流なことです。

 おそらく、どんな方でも「耳いじり」の初歩である「耳掃除」ぐらいは経験されていることでしょう。1人でするのもよし、2人でするのも良し、3人以上で楽しむのも良いでしょう。小さなこけしのついた耳かきが、カサカサという音をたててゆっくり耳の中へと侵入していくのは、思わず口も目も半開きになってしまうほど快感です。

 手馴れた方なら耳に息を吹き込む、「耳吹き」と呼ばれる楽しみをご存知かと思います。ゴム管などを使って一人でやってもいいのですが、それでは少しばかり寂しいです。やはり、「耳吹き」を楽しむには、憎からぬ人が隣にそっと寄りそっているのが一番です。「ふっ」と息を吹き込まれたとたんに背筋を立ち上る快感。ぞわぞわっと、忘れられない味があります。

 さらに、最近玄人衆の間で流行っているのが「寝耳に水」です。ごろりと横になって、ほんの数滴の水をちょいちょいと耳にたらすと、こぽこぽっと水は奥に入り込みます。耳の奥がむずがゆいけど気持ちいい。このもどかしい快感は一度覚えるとやめられません。

 逆に、素人さんでも楽しめるのが「耳の産毛剃り」です。ご存知の通り、耳の産毛はまるで赤ちゃんのそれのように、ほわほわと生えています。安全カミソリを用意して、それをそっと剃ってやる。耳たぶは傷つきやすいですから、決して力をこめてはいけません。そして、剃った産毛を眺め見ます。思うに、剃ったばかりの「ほわほわ産毛」を眺めるときほど人がやさしい目をすることはないのではないでしょうか。

 そう、「耳いじり」こそが人類に許された最高にして究極の快楽なのだ、と私は思うのですが、いかがでしょうか。

 


携帯電話 (1999-06-21)

 最近は誰でも携帯電話を持っているようです。おそらくこの調子なら、数年後には携帯電話を持っていない人なんて、いなくなるかもしれません。そこで私は、携帯電話を持たない最後の日本人になってやろう、と密かに決意し、いまだに携帯電話には近寄らないようにしています。

 ところで、最近は着メロと呼ばれる電話の呼出音が面白くなってきました。「ピピピピッ!」なんて、無機質な呼出音ではなく、突然、意表を突くメロディが流れると、普段はマナーの悪さにイライラしているのも忘れて、ニヤリとしてしまいます。

Ψ

 ある日、夜中の電車に突然流れ出したのが「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソング。お疲れムードがただよう車内に、「さらば〜地球よ〜」とメロディが鳴り始めます。あわてて持ち主は鞄の中を探り始めますが、なかなか電話は見つからないようです。

 メロディは鳴りつづけています。よどんでいた車内の空気に、ほんの少し活力がでてきたようです。

 持ち主は鞄をかきまわしていますが、なかなか携帯電話は見つからず、曲は流れつづけています。いよいよ曲はクライマックスにさしかかり、ラストの部分の「うちゅう〜せんかん〜」が流れ始めました。曲の盛り上がりは最高潮です。

 と、そこで携帯電話が見つかりました。
「ピッ!」
 やっと曲を止めることができた持ち主は、ほっとした顔で電話を持ち、まわりを見まわします。すると、すでに注目の的になっていた彼は、まわりの熱い視線に戸惑ったようです。

 彼は困った顔になりました。自分がまわりの期待を裏切って、一番盛り上がる部分で着メロを切ってしまったことに気づいたのです。しかし、一度止めてしまったものは取り返しようもなく…。

 ――結局、彼はまわりの熱い視線にこたえて、小声で「や〜ま〜と〜」と続きを歌ってくれました。




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