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若気の痛み (2000-06-20) どうも自転車というものは、人のチャレンジャー精神を無駄にあおるものであるらしい。自転車に乗れるようになった子供がまず憧れるのは「手放し運転」である。両手をハンドルから放し、体でバランスをとりながら走る。そんなことをして、いったい何の特になるのか分らない。ハンドルを放しているのだから、曲がることもできないしブレーキをかけることもできない。いたずらに危険度を高め、自らケガをする機会をふやしているようなものであり、そんなことをするのはよほどバカな人間ではないだろうか。先日も、手放し運転をしたまま道路を曲がろうとして壁に激突し、ますますその思いを強くした。まったく、手放し運転などをする人の気がしれない。 大人でさえこのありさまなのだから、子供はもっとひどい目に合う。昔々、あるところにAという少年がいた。少年Aは、自転車で走りながら鍵をロックしたらどうなるだろうと考えた(なぜそんなことをするのかは考えなかった)。今の自転車は、後輪を輪っかになった鍵でロックするものがほとんどだが、少し前までは前輪に棒状の鍵をさしこんでロックするものが主流だった。あれは、走りながらでも蹴飛ばしてロックすることができる。少年Aはそれに挑戦した。 しかし、自転車をこぎながらだと自由に足を使うことができない。少年Aは、無謀にも下り坂でそれにチャレンジした。軽快に坂道をすべりながら、自由になった足で「えい!」とばかりに鍵を押しこんだ。前輪がガクンと止まり、後輪が浮き上がった。自転車は前のめりに倒れていき、少年Aは前方に投げ飛ばされた。坂道で前輪をロックすればそうなることぐらい分かりそうなものだ。子供というのは、まったく愚かな存在である。「子供」と書いて「バカ」と読むようにしたほうが良いのではないかと思う。 チャレンジャー精神に溢れる少年Aは、次に複数による曲芸乗りに挑戦することにした。二台の自転車を並走させ、それぞれの運転者が相手の自転車のハンドルを握る。むろん、自分の自転車のハンドルからは手を放す。それぞれ、相手の自転車を操作しようという試みである。 はじめの数秒間はまっすぐに走る。まっすぐに走るのははじめの数秒間だけである。ともすれば接触しようとする互いの自転車を一定の距離に保つために、腕に余分な力がかかる。しかし、しょせんは子供の腕力。バランスがとれないままに隣の自転車を制御しようと思っても、無理な話だ。二台の自転車はふらつき、なんとか持ちこたえようとするものの、今にも倒れそうだ。 このとき「危ない」と判断してすぐに手を放せば助かるかもしれないのに、逆に手に力が入ってしまうのは不思議なものである。人間の本能に従えば、より安全な行動をとりそうなものである。しかし、おそらくは「死なばもろとも精神」というか、「どうせこけるならお前も道連れだ精神」とでもいうべきものが、本能を上回ってしまうのである。結果として、二台の自転車は固く結ばれたまま、破滅への道を走り続ける。 さらに不思議なことであるが、結果としてこけるにせよ人間はより安全なこけかたを選びそうなものなのに、そうはならないのである。二台ともその場でこけることができれば、せいぜい膝小僧をすりむくぐらいで済んだだろう。だが、これが宇宙の法則の不思議なところで、自転車は最も被害が大きなこけかたをしようと、その方向を微調整していく。自転車はふらつきながらも道路を乗り越え、二台一体となって田んぼに突っ込んだ。 幸いにして田んぼには水がはいっていたため、ぬかるんだ土が我々の体を受け止めてくれ、少年Aたちがひどいケガをすることはなかった。ところが、不幸にして田んぼに水が入っていたため、少年Aたちの服や体は見事に泥に染まった。いかにも田んぼに落ちましたという格好で家路につくのは、ひどくみじめなことだった(おまけに日はまだ高かった)。少年Aたちは、お互いに責任をなすりあい、泥をなすりつけあった。 後日、それらのことからいくつかの教訓を学んだ少年Aは、滅多なことで無謀運転をしなくなった。目をつぶって自転車を運転するなどもってのほかで、近所では背筋を伸ばして自転車を運転する少年Aの姿が見られたという。
教訓1 自転車でこけても得るものは無い。 |
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心配症の研究 (2000-06-09) 中国の有名な故事に「杞憂」というものがある。むかし杞の国の若者が、毎日空を見上げては「あの空が落ちてきたらどうしよう」と心配したという話だ。しかし、考えてみれば、この若者の家族のほうがよほど心配だったと思う。もし、自分の息子が毎日空を見上げ続けては何事かをつぶやくようになったりしたらどうだろう。近づいて耳をすませば、「落ちる…落ちるんだ…空が…」などと息子はつぶやいている。こちらのことは見向きもせず、ただ、ひたすらに空を見上げつづけている。これは、よほど心臓の強い両親でないかぎり、いったいどうしてよいか分からなくて、途方にくれるだろう。これなら、素直にぐれてくれたほうがまだましだ。 ところで、ここに登場する息子の心配は、いってみれば非現実的な心配である。ふつうに考えれば、空が落ちてくることなどあるはずがない。「抜けるような青空」という言いかたをすることもあるが、実際に青空がすっぽぬけるわけではない。空は、おそらくいつまでも頭上にあるのである。 それに対して、両親の心配は現実的な心配だ。両親にしてみれば、息子がいつまでも空を見上げて暮らすようでは安心して隠居もできないし、近所の人は噂話をたてるし、結婚相手も見つからない。この心労は息子のそれとは比べものにならないだろう。 世の中には現実的な心配をする人間と、非現実的な心配をする人間がいる。たとえば、外出をして家から数百メートルほど歩いたところで、ふと「きちんとアイロンを切ってきたかな」と心配になることがあるが、これは現実的な心配である。万が一、本当に切り忘れていたら、実際に何らかの被害がでるだろう。いったん家に戻って確認すれば、すぐに解決するようなことであるが、それを怠ると、外出中ずっと心配し続けなければならない。こういう現実的な心配は、非常にストレスがたまる。開き直って、それを意に介さないような精神力があればよいのだが、そんな人間はそもそも心配などしないだろう。だから、このような現実的な心配ばかりをする人間は、非常に損をしているといえるだろう。 一方で、非現実的な心配ばかりしている人間もいる。たとえば、私の知っている人に、いつも「宝くじが当たったらどうしよう」と心配している人がいる。つまり、宝くじにあたることによって金銭感覚がおかしくなったり、どこかの宗教団体が寄付を求めて門前に列をなしたり、嫉妬した人間が夜中に無言電話をかけてきたりするようになったらどうしよう、という心配だ。私にしてみれば、非常に馬鹿馬鹿しい心配である。 第一に、宝くじなどそう滅多に当たるものではない。よほど運が強くなければいけないし、運の量などはそうそう人によって差があるものではない。第二に、宝くじが当たることにどれほど嫌な付加要素があるとしても、本質的にそれは嬉しいことである。万が一、心配が実現したとしても、それはそれで心配を上回る喜びがもたらされる。第三に、その人は宝くじを買っていない。そもそも、当たる心配などないのである。 なるほど、このようなありえないことを心配するのは、あまりストレスがたまらないかもしれない。少なくとも、現実的な心配事を気に病んで、ちくちくと体を刺すようなストレスを感じないですむのである。これは、人生を送る上で非常に得な性格かもしれない。私だって、そのような気楽な心配ごとを抱えた人生を送れるのなら、そうしたことだろう。 その人が私の母でさえなければ、こんなに心配はしないのに。 |
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筋こそ通らねど (2000-06-03) 小学校の頃はなにかにつけて集会があった。入学式や卒業式はもちろん全校集会や学年集会、始業式、終業式、校長の説諭やレクリエーション会などなど、月に数回は体育館に集められていたような気がする。体育館に集まると、生徒はクラスごとに並ぶ。並びかたは、たいていは背の低い順だったように思うが、ときには名簿順に並んだりもした。全員がそろうと、先頭に立っている者が号令をかける。 「前にならえ!」 というやつだ。 ところで、私はこの「前にならえ!」という号令の意味がどうもよく分らなかった。「ならえ」とは、いったい何なのか。ひょっとしたら、「習え」なのだろうか。しかし、「習え」と言われたって、何を習えばよいのか。ノートも教科書も持ってきていないし、前にいるのは同級生である。にもかかわらず、先頭に立つものは躊躇無くその号令をかけ、後ろの者は手を前方に差し上げて間隔をそろえるのである。別に、その行動自体には疑問を持たなかったけれど、それに先立ってかけられる号令の意味が分からず、首をかしげながら手を差し上げたものである。 「ならえ」とは「倣え」だ。今でこそ、その意味が分かる。「倣う」とはすなわち「真似をする」という意味であるからして、「前にならえ!」とはすなわち「前の人の真似をしなさいよ」という意味なのだろう。しかし、この「倣え」という動詞は、どう考えても小学生にとっては難しいのではないだろうか。「飲む」とか「酔う」とか「吐く」みたいに、小学生が日常よく使うような動詞ではなく、しかもその命令形である。およそ号令以外では聞くことのない言葉なのだ。おそらくほとんどの子供たちは、この言葉の意味を知らなかったのではないだろうか。 私も、当時は「倣え」などという言葉は知らず、そもそも「ならえ」が何か意味のある言葉だとは思わなかった。誰もが躊躇なく「前にならえ!」などと言っているけど、それはきっと号令する人が間違っていることを知らないだけで、きっと本当は正しい号令があるのだろうと思っていた。相手が自信たっぷりに間違ったことを言っているときは、なかなかそれを指摘しにくいものである。だから、きっとこの号令は伝統的に間違ったまま受け継がれているのではないだろうか。 では、正しい号令とはどのようなものなのか。私は、それを「前になれ!」だと考えた。すなわち、「前の人のように整然とした状態になれ」という意味の号令である。おそらくは、「なれ」という言葉がどこかで少しずつずれてきて、いつのまにか「ならえ」という言葉になってしまったのだろう。なるほど、こちらのほうがよほど意味が通る。そう私は考えた。 そんなある日、私が列の先頭に立つ機会があった。つね日頃、間違った号令に疑問を持っていた私は、これが千載一遇のチャンスだと考えた。私は革命家だった。旧態依然とした号令制度に風穴を開け、それを正道に戻すという使命を持っていたのである。私の後ろにクラスメイトたちが並んだ。私は大きく息を吸いこみ、ここぞとばかりに大声で号令をかけた。 「前になれ!」 そう言ったとたん、演壇に立っていた校長先生はきょとんとした顔になった。壁際で見ていた担任はぽかんと口をあけた。そして、全校生徒は爆笑した。私が絶大なる自信を持ってかけた号令は、どうやら間違っていたようであった。考えてみれば、「前になれ」という号令から「前の人のように整然とした状態になれ」という意味を読み取るのは少々無理があったかもしれない。笑い声はいつまでもやむことがなく、私は不動であった。 その後教室に戻ると、担任が「前にならえ」の意味を説明した。私は赤面しながらそれを聞いていた。とんだ恥さらしではあるが、おかげでクラスメイトはみんな「前にならえ」の意味を知ったのだから、そう悪いことではなかったのかもしれない。それにしても、つくづく人生というのは教訓に満ちている。余計なスタンドプレーはせず、前任者のやったとおりに言えば良かったのだ。 前にならえ。 |
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コマネズミたちの哀歌 (2000-05-31) 不均一というのは、なんとなく気持ちがわるい。 たとえば、壁にペンキで色を塗ったとき色むらがあったりしたら、すごく嫌というほどではなくても、なんとなくしっくりこない。DIY雑誌なんかでは「その手作りっぽさがいい」なんて書かれているけど、だまされているとしか思えない。 あるいは、スーパーに行ったときに「百円不均一セール!」などという張り紙があったら、やはりなんとなく嫌だ。全ての商品が、中途半端に百二円とか九十六円とかいう値がつけられていたりするのである。どうも、そんなスーパーには行きたくない。 同じように、私がつねづね気になっている不均一というものがある。それは人口密度の不均一というやつであって、といっても社会派なテーマを述べるわけでもなく、電車内でのことだ。 電車というのはバレリーナさえ立てないほど混んでいるときもあれば、相撲取りがしこを踏めるぐらいすいているときもある。こういうときの車内の人口密度は均一である。バレリーナが立てないぐらいに混んでいるときは全ての人が等しく押し合いへし合いしているのだし、相撲取りがしこを踏めるぐらいすいているときなら、わざわざ少ない人数が一ヵ所にかたまろうとは思わない。車両にほぼ一様に人がばらけている。 ところが、ラッシュをほんの少しはずしたぐらいの時間にホームに立つと、そこそこに人が立っていてそこそこにスペースがあるような、中途半端に混んだ電車がやってくる。そんな電車に乗りこんでぐるりと車内を見渡すと、ある場所では異様に人口密度が高く、ある場所では異様に人口密度が低いことに気づく。そういうのを見ると、なんだかちょっと気持ちが悪い。せっかく開いているスペースがあるにも関わらず、人の密集した場所から動こうとしないのが、どうにもよく分からない。あんな空間に身を置いていたら、なんだかイーッ!となってしまうのではないかと思うのだが、それでも人口密度は不均一なままなのである。 それで、そんな電車に身を置きながら、なんとかして車内人口密度を一様にできないものかと考えてみた。 まず初めに思いついたのが、一人当たりに使える面積を決めてしまうという方法である。一人五十センチ四方しか使っちゃいけませんと決めてしまえば、ある一点に人間が集中するということはなくなる。菓子折にはいっているまんじゅうみたいに、およそ五十センチ四方ぐらいの仕切りを電車の床に用意して、そこに一人一人を立たせるのである。べつに、仕切りではなく床に線を引いておくだけでもよい。そうすれば、律儀な人間であれば、その線を踏まないようにして、スペースの中央に立とうとするだろう。また、他人の入っているスペースにわざわざ入りこもうとは思わないに違いない。人間の心理として、自らのエリアを守ろうという本能的な衝動があるのだから、線を引くだけでもわりと効果があると思うのだ。そうすれば、やたらに密集した場所や、閑散とした場所をつくることを避けられるのではないかと思う。 ただ、これは劇的な効果は望めないだろう。そういうルールに無条件に反発する人もいるだろうし、線のことなど気にもとめない人もいる。あるタイプの人間にしか、これは通用しないだろう。世の中には、電車の床に座りこんでものを食べたり化粧をしたりする人間がいて、そのような人間にはおよそこのようなソフトな方法は通じないのではないかと思うのだ。 そこで、さらに考えたのだが、電車の床に靴のかたちをした穴を開けておくというのはどうだろう。ちょうどくるぶしぐらいまですっぽりと足が入るようにして、人々は電車に乗りこむと、その穴に足を突っ込んでいくのである。なんというか、床に枠線を引くよりもずっとバカっぽい方法なので、案外のってくる人も多いのではないかと思う。車内の人がみんな床に足をつっこんで、同じ方向を向いている情景というのは、ちょっとシュールで近未来的でさえある。コツさえつかめば、つり革など無く電車に立てるだろうから、両手を自由にすることもできる。我ながら、ちょっといいアイデアではないだろうか。 ただ、人生ゲームのコマを連想してしまうと、ちょっと悲しくなるかもしれない。 |
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夏の手紙 (2000-05-25) 拝啓 こちらはすっかり暑くなってきました。ついこのあいだまで寒い寒いと震えていたのが嘘のようで、街に出れば猥褻物を陳列する男女の姿が見られます。本当に月日がたつのははやいです。私も、先日久しぶりに半そでのシャツを着て、爽やかな好青年を気取りながら街に繰り出しましたが、予想通り雨が降りました。もうすぐ夏ですね。 このごろはずいぶんと夜が寝苦しくなりました。布団に入るとじっとり汗ばんできて、水分を吸ったそれが私の体にのしかかってきます。おかげで、深夜を過ぎてもなかなか寝つくことができず、すっかり睡眠不足になりました。しかたがないので、このごろは窓を開け放して寝ていますが、まだ深夜は冷え込むらしく、朝起きるとくしゃみを連発してしまいます。とはいえ、冷房器具を出すにはまだ早いようにも思うので、少し困っています。できることなら、深夜に冷え込んでくると自動的に閉まってくれる窓があればいいなと思います。草木も眠る丑三つ時に、誰も触れていないのにスーッと音もなく閉まる窓なんて素敵じゃありませんか? 窓が閉まるときに「ヒッヒッヒッ」と老婆の笑い声が聞こえたりすると、もっと素敵かもしれません。 しかし、窓を開け放してもやっぱり眠りにはいるときは暑いのです。そんなときは、かけ布団を払いのけて涼しさを求めます。涼しくなってから布団をかぶりなおそうと思うのですが、そのまま寝入ってしまうこともしばしばです。かけ布団無しで冷え込んだ夜を過ごすと、朝になってからだの節々が痛みます。できることなら、深夜に冷え込んでくると自動的に私をおおってくれるような布団があればいいなと思います。草木も眠る丑三つ時に、誰も触れていないのにスーッと浮きあがって私にのしかかってくる布団なんて素敵じゃありませんか? 布団が浮かぶときにラップ音が鳴ったりすれば、もっと素敵かもしれません。 でも、そうやってかけ布団をはがしても暑いときってありますよね? そういうとき、私は敷き布団の下にもぐりこんでしまうのですが、これはどれぐらい一般的なことなのでしょうか。かけ布団はすぐに体温で暖められてしまいますが、敷き布団はなかなか暖まりませんよね。だから、敷き布団の下っていうのは、すごくひんやりして気持ちがいいんです。もちろん、冷静に考えてみればかけ布団と敷き布団の重みがからだにかかるわけですから、すぐに息苦しくなってしまうのですが、わずかな冷たさを求めて敷き布団の下にもぐってしまうのは、やっぱり小学生レベルといわれてもしかたがないことなのでしょうか。先日、友人に「暑いときは敷き布団の下にもぐるよなあ」と爽やかに尋ねてみましたところ、その友人は友人ではなくなってしまいました。でも、きっとたいていの人は私と同じことをしていると思います。 今、その寝つけない夜を利用して、この手紙を書いています。時計はもう午前三時を指しています。少しでも寝ておかなければ、きっと明日つらい思いをすると思うのですが、もう眠気のピークなどはとうに過ぎてしまいました。おそらく、明日は赤い目をしながら朝食を食べることになるでしょう。そして、重たいからだをひきずりながら、電車に乗ることでしょう。おそらく、人は私に「きのうは眠らなかったの?」と尋ねるでしょう。おそらく、私はニヒルに笑いながら答えるでしょう。「昨日は熱い夜を過ごしてね…」って。ちゃんと勘違いしてもらえるでしょうか? 敬具 |
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白きたおやかな峰 (2000-05-20) 今、私の左手には包帯が巻かれている。てのひらにすり傷ができたので、自分で巻いたものである。包帯を巻くのはおそらく数年ぶりだと思うのだが、今、左手を見ながら私はつくづくと思う。「包帯はいい…」と。 包帯がこんなにもいいものだとは知らなかった。包帯を巻くだけで、これほどドキドキできるとは思わなかった。そうと知っていれば、十数年間も包帯なしで暮らしたりはしなかったものを、つくづくもったいない時間を過ごしたものだ。 まず、包帯を巻くときがよい。広く傷ついたてのひらをそっと包んでいく包帯は、やさしさに満ち溢れている。それは決してきつすぎず、しかしゆるすぎず、強い日差しを覆い隠す木もれびのように、やわらかにてのひらを包んでくれる。一度包帯をつけると、普段身につけている洋服がとんでもなく野蛮なものに思えてくる。そっと巻かれた包帯は、まさに天使の抱擁という言葉がふさわしい。 そして、包帯の色がよい。包帯の色は、純白である。それ以外の色は見たことがない。ひょっとして包帯のフェティシストが集う店に行けば、ピンクやブルーやスケルトンの包帯があるのかもしれないが、私はそれらを包帯とは認めない。包帯とは、あくまで純白なのである。 純白は、その清らかさを我々に連想させる。あたかも、降り積もったばかりの新雪のように、美しくも可憐な印象を見る人に与える。包帯をてのひらに巻くだけで、そこに一種の聖地が浮かび上がるのである。しかも、その純白の包帯の下には、肉色も鮮やかな傷口が広がっている。その肉感的な色合いの傷口と、清純な純白の包帯のアンバランスは、清楚な見かけとはうらはらに淫靡な心を持つ女性のように、私にはこのうえなく魅力的なものに映るのである。 さらに、包帯をはずすときがよい。数時間も包帯を巻いていれば、それは傷口とからみあい、一体化したかのようにしっかりとくっつき合う。それをはがすとき、ぺりぺりと小さな音を立てながら、包帯はてのひらから離れていく。それは、決して不快な感覚ではない。はずす前は、傷口から包帯がはがれていくのはさぞかし痛かろうと思うのだが、実際にはずしてみると、その感覚は実に繊細な痛痒感を与えてくれるのである。足がしびれたとき、それが覚めていくときは苦しいながらも気持ちがよいものであるが、それをずっと微妙にしたような感覚である。しかし、あまり気持ちよいからといって、たびたび包帯をはずすわけにもいかない。包帯は、しばらく放っておかなければ傷口にくっつかない。だから、はやくはがしたいと思いながらも、じっと包帯を見つめていなければいけない。そのじらしかたもまた一流なのである。 こんなにも、包帯がいいものだとは知らなかったし、思いつきもしなかった。これは、無上の快楽である。このまま素直に傷を治してしまうのがもったいなく思えるほど、包帯は魅力的である。しかし、おそらくは数日もすれば傷は治る。傷もないのに、包帯を巻くわけにはいかない。本来なら、ずっと包帯を巻いて生活したいぐらいなのだが、傷もないのに包帯を巻くのは、ただの変な人と思われるのがオチなのである。 とはいえ、そのように変人扱いされるのは今だけで、いずれはその偏見も打破されるだろう。今でこそ、無傷で包帯を巻いている人というのは少ないが、ひょっとしたら、この文章を読んで包帯の快楽に目覚めてくれる人もいるだろう。そして、その人たちはきっと「傷がないときでも包帯を巻こう」と思ってくれるはずだ。初めのうちは世間の無理解と闘わなければならないかもしれない。それは、きっとつらい闘いになるだろうが、おそらくは一流の風流人ならそれを理解し、「無傷で包帯巻き」という行為に一種の権威を与えてくれるだろう。そうなれば、真似したがりで権威に弱い俗人たちも、われさきにと包帯を巻きだすに違いないのである。ことわざにもいうではないか。「長いものには巻かれろ」と。 |
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歌おう、感電するほどの喜びを (2000-05-18) 最新の調査によれば、世の中のほとんど全ての人は「電気が好き」であるということが判明している。 たとえば、子供はたいてい電池を使うのが好きである。彼らは、電池と豆電球があれば必ずそれを接続し、ついたり消えたりする豆電球を飽くことなく眺めている。理科の授業で豆電球を光らせたり、電磁石を作ったりする実験があったりすると目を輝かせる。そんなことはしなかったという人も、少なくとも下敷きをこすって静電気を発生させ、髪の毛を逆立てたことぐらいはあるだろう。そして、その行為がとてつもなく楽しかったことを覚えているはずだ。 青年も電気が好きである。青年がエレキギターや電気蓄音機を欲しがるのは、決して音楽が好きだからではなく、電気が好きだからに他ならない。青年が夜中にコンビニエンスストアや自動販売機の周辺に群れるのは、そこに「灯かり」という電気的なものが存在しているからだという説もある。そして、家では夜な夜な自家発電に励んでいる。 大人だって電気が好きだ。銭湯には電気風呂などというものがあるし、疲れてくると整骨院に行って、体に電流を流して欲しくなる。健康診断などで心電図や筋電図を測ってもらい、「あなたの体に流れている電流は○○アンペアです」などと言われると、なんとなく嬉しくなるはずだ。心臓が停止した人だって、電気ショックを与えられると跳ねあがって喜ぶ。米国では電気イスによって死刑が執行されるが、あれは死刑囚に対するせめてものサービスであるという説もあるぐらいだ。 さて、ご多分に漏れず、私も電気というものには小さいころから非常に興味があった。電気とはいったい何なのか。目に見ることも手に触れることもできない。父上や母上に「電気とはなんでしゅ?」と聞いてみても、いまひとつ要領をえない。それは、実に不思議な存在だった。疑問を解決すべく、私は頭をひねった。いったい電気とは何なのか。電気をつかまえることはできないから、じっくり眺められない。そこで思いついたのがコンセントである。 コンセントというのは外から見る限り、二つの縦長い穴が開いているだけである。だが、そこにプラグをさしこむと、今まで沈黙していた機械が動き出す。そして、プラグを抜かない限り、半永久的に機械は動き続ける。ということは、コンセントからは常に電気が出ているということであり、これは、じっくり観察するのに非常に都合がよい。ゆえに、電気を知るためにはコンセントを調べなければならない、というのは子供にしては妥当な結論だろう。 では、どのようにコンセントを調べるのか。第一に思いつくのは、じっとコンセントを眺めつづけるという方法だが、コンセントというのはたいてい部屋のすみっこにあるものだし、子供がじっと部屋のすみを見つめ続けていると、あらぬ誤解を受けかねない。そこで、私のとった行動は実に短絡的だった。すなわち、コンセントにプラグを半分ぐらいさしこみ、プラグの一部が目に見えるようにしておく。その状態でプラグの見えている部分を触れて、電気の存在を確かめることにしたのである。むろん、電気は非常に危険であるというぐらいの知識はあるので、私はゴム製のにぎりがついたドライバーを持ち出して、それをそっとくっつけた。 結果はいうまでもない。ドライバーは、プラグと接触すると同時に、すさまじい閃光を発した。私は「うひっ!」と叫んで、慌ててドライバーを手放した。幸いにして怪我はなかったが、ドライバーのプラグがあたった部分は焼け焦げていた。鉄製のドライバーでさえこのありさまなのだから、素手で触ったりしていたらただではすまなかっただろう。心臓を激しく鳴らしながら、私は黒く焦げたドライバーを見つめていた。おしっこを漏らさなかったのは快挙だ。 さて、無謀なる実験の結果、私はコンセントからは目に見えないまでもすさまじい電気が通っていることを確認した。電気の正体を確認したとはいえないが、少なくとも電気とは恐ろしいものであるということは分かったのである。そのときは本当にびっくりしていて、今後はこれほど恐ろしい電気を目にすることはないだろうな、と思ったものだ。 もっとも、その考えは、直後に否定された。焼け焦げたドライバーを見て、母上の落とした雷は、もっとすごかった。 |
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肩は笑う (2000-05-15) ちょっと自分でもきまりが悪いなと思っているようなことってあるでしょう。すごく恥ずかしいことじゃなくて、ちょっと気恥ずかしいなと思うようなこと。よく分からないけど、これってひょっとしたら変なんじゃないだろうかと思うようなこと。 どんなことかっていえば、私にとってそれは、肩をもまれることにあるんです。まだ小さい頃に、友人と肩をもみあったことがあるでしょう。別に、肩がこっているというわけでもなくて、じゃれあいみたいなもんです。それで、その頃は肩をもまれるととてもくすぐったくて、クヒックヒッと笑い声をもらしながら身をよじったでしょう。 だけど、大人になると、肩をもんでもくすぐったがらないんです。祖父や祖母はもちろん、父上や母上の肩をもんでも、体をよじるどころか、アハァとすごく気持良さそうな顔をして、リラックスしているんです。これが不思議で、なんでくすぐったくないんだろうと思ったでしょう。それで、きっと大人になれば肩をもまれてもくすぐったくなくなるんだろうな、という結論に落ちついたと思うんです。 ところが、大人になってもやっぱりくすぐったいんです。たとえば、イスに座ってだるそうに肩をまわしているときなんか、となりに座ってる人が「肩こってるんですか?」とか聞いてくるでしょう。世話焼きの人なら、「よかったら、もみましょうか?」なんて尋ねてくれるんですけど、私は首をふって断るんです。なぜかっていえば、すごくくすぐったいんです。もう、肩に触れられただけで、体がビクッってふるえて、ぎゅっと肩の肉をつかまれた瞬間に、全身に鳥肌がたつぐらいのくすぐったさが駆け抜けるのです。ウヒャハハハと気味の悪い笑い声をあげて、全身タコ体操をしたくなるんです。 だけど、大人は肩をもまれてもくすぐったくないものと決まっていますから、ぐっと我慢をするわけです。本当は踊りたいぐらいなのに、ぐっと笑いをこらえるのです。それどころか、気持よさげにリラックスしているような表情までするわけです。内心では、もう、身をよじって逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、それでもじっと肩をもまれるままにされていなければならない。こういうとき、「大人って寂しい生物だね」と誰かに語りかけたくなるのです。 本当は、肩をもまれる前に「くすぐったいから嫌です」って言えればいいんです。そうすれば、ああそうかと納得して肩をもむのをやめてくれるでしょう。だけど、それを言うのはやっぱり勇気が要るんです。大人なのに肩をもまれるとくすぐったいだなんて、ちょっときまりが悪いのです。だから、ちょっとすました顔で「結構だよ」という具合に断るのです。でも、それはちょっと感じが悪いですよね。だから、なんだか悪いことをいったなあという気になって、疲れるんです。こうやって気を使うのって、結構肩がこるんですよ。 |
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光のはやさで (2000-05-12) からだが勝手に反応してしまうことを反射という、と教わったように思う。たとえば、レモンを見ると唾液がでたり、急に明るいところに出ると目の前が真っ暗になったりするのは反射だ。鼻の穴から大脳をズルズルッと引き出して、それでも起きるような反応が反射だ、と私は理解している。 今日の夕食はエビフリャー(エビフライ)であった。大皿に箸を伸ばしてエビフリャーをつかみ手元に引き寄せると、エビフリャーはつるりと箸から逃げた。あ、落ちる、と私が思ったかどうかはさだかでないが、エビフリャーが箸からこぼれたまさにその瞬間、私の右足と左足がものすごい勢いで閉じ合わされた。それは自分でも驚くほどの、普段の挙動からは想像できないようなスピードだった。その閉じ合わされた足の上にエビフリャーはキャッチされて、床に落ちるのは避けられた。 なんだか、大山鳴動して鼠一匹的行為をしてしまったようで、妙に恥ずかしかった。たかがエビフリャーひとつが床におちたところで何ほどのことがあろう、というのはあくまで冷静なときに言えることで、実際にエビフリャーが落ちそうになれば「バシッ!」と音が響くほどの勢いで足は閉じられるのだ。家族で食卓を囲んでいるのだからよかったけど、たとえば初めて恋人の両親にあいさつをしにいって、よかったら夕食をごいっしょにと言われ、ともに食卓を囲んで、そんなときにこれほどすごい勢いで足が閉じられるところを見られたら、さぞきまりが悪かろうなと思った。自分が大変ないやしんぼになったような気がした。 それで思ったのだが、はたして私の今の行動は「反射」だろうか。私が足を閉じようとした行動は、はたして大脳が命令したことなのだろうか。 普通に考えれば、おそらくは「反射ではない」という結論が導かれる。さしたる根拠はないが、鼻から大脳を引き出した状態で同じ行動ができるかといえば、ちょっと自信がないからだ。しかし、思い返してみるに、私の足の動きは速すぎた。私の大脳がそんなに速く判断ができるほど発達しているとは思えない。だが、実際に足は動いている。とすると、脳というものは、危急の事態に際したとき案外素早く回転するものなのかもしれない。エビフリャーの危機程度でこんなにはやく足が動くなら、たとえば、カニコロッケが落ちそうになったときなど音速を超えるスピードで足は閉じるのではないだろうか。ましてや、カニクリームコロッケが落ちそうになれば、大脳は恐るべき速度で判断をくだし、足の動きは光速を超えるだろう。 と、考えるのはやはりエビフリャーをもったいなく思うような庶民であって、きっと上流階級の人はスゴイ勢いで足を閉じたりはしないんだろうな、と思う。たぶん、上流階級の人が受けるテーブルマナーの作法書には「足を素早く閉じてはいけない」なんていう一項があって、幼い頃から足を閉じないためのギプスなどをつけられて、本当は足を閉じたくてたまらないのに必死でこらえているんだろう。 しかし、足を閉じるのが品のない行為だとすれば、上流階級の人はずっと足をおっぴろげたまま食事をしなければならないのだろうか。それとも、はじめから足を閉じていて、決して開くことがないのだろうか。女性はそれでよいような気もするが、一生懸命足を閉じ合わせながら食事をする中年紳士の姿はあまり格好がよくないように思ったりもする。 と、書いているうちに、だんだんまとまりがなくなってきた。一応、反射というものの本質を探ろうと思っていたのだが、なんだか方向がずれていってる。分かったのは「カニクリームコロッケはおいしい」ということぐらいだ。どうやら、現在は大脳のはたらきが鈍っているらしく、論理的な文章展開ができない。もし、カニクリームコロッケが落ちそうなときに文章を書けば、きっとそのときは頭がフル回転しているはずだから、すごい文章を書けるはずなのだが。 |
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老いの心理学 (2000-04-20) ほとんど全ての人は老いる。一般的に、人間は一年経てば年齢がひとつ増える。もちろん、例外もあるが(二十五歳以上の女性など)、少なくとも、永遠に生き続けることがないという点は全ての人に共通している。しかし、「老いた」と感じるような状況は、まさに十人十色である。(余談であるが、「十人十色」と打とうとしたら、打ち間違えて「十人トリオ」になった。個人的に、とても面白かったので、ここに記す)。「老いの兆候」とされることはたくさんあるが、それが全ての人にあてはまるわけではない。 たとえば、「老い」の兆候は身体的特徴にあらわれる。眼のまわりに細かいしわが現われ、髪の毛は薄く細く白くなり、声はしわがれる。そのような特徴を自分で見つけたとき、人は「老いた」と感じるのかもしれない。あるいは、老いは精神的特徴にあらわれる。頑固で自説を曲げないようになり、物忘れが激しくなり、すぐに昔を回顧する。そういうとき、人は「老いた」と感じるのかもしれない。 むろん、これらはあくまで一般論であり、これらの特徴が備わったとき、ただちに「老いた」と言い切ることはできない。人によっては「物忘れが激しくなった」ということを「余計なことを覚えずにすむようになった」と解釈するだろうし、「髪の毛が次々と抜け落ちる」ことを「進化の究極形態にはいった」と解釈するだろう。つまり、「老いの兆候」と呼ばれるものがあったとしても、それがそのまま「老い」につながるわけではなく、その基準は人によって大きく異なるということだ。 また、「老いた」と感じるのは、なにも老年や壮年にはいってからだとは限らない。たとえ二十代の若者でも幼稚園児に比べれば「老いた」といえるし、幼稚園児でも胎児に比べれば「老いた」といえる。したがって、「老い」というのは年齢に関わらず、万人が共通して感じることができるものだといえる。 だから、若さと活力に満ちあふれる私のような人間であっても、ふとした拍子に「老い」を感じることがある。特に、私のような繊細な人間はちょっとしたことで、自分が老いたと感じてしまうのである。 では、どんなときに「老い」を感じるのかといえば、目が疲れたので目の体操(目玉をぐるぐるまわすこと)をしていたら酔ってきたときとか、風呂にはいったら妙にシャンプーの泡立ちが悪いときとか、雑誌のページをめくろうとしたら指先がうまく動かず一ページずつめくれないときとか、そんなささいなことで「老い」を感じてしまうのである。つくづく、繊細な神経をもつ自分がうらめしい。 かくて、一日中老いにさらされた私は、寝る前などすっかり老い疲れてしまい、よたよたと布団にもぐりこむ。眠りながらも老い続け、朝起きたときにはすっかり老成している。そして、日中はボケている。 |
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夜明けのダザイスト (2000-04-17) 前にも書いたような気がするけど、うちには太宰治の『人間失格』が、それこそ売るほどある。 たとえば、デパートの六階ぐらいで「古本市」なんてのが開かれてたとして、そこにはいくつかのワゴンなんかが置いてあって、ワゴンにはたいてい茶色くなった分厚い本がびっしり並んでたりする。そして、そのワゴンのひとつには文庫本がぎっしりつまってる。そういうのを見つけると、ついつい眉毛を吊り上げて隣にいる人を威嚇しながら『人間失格』がないかと探してしまう。一冊が五十円とか百円とか、たいして懐が痛むような金額でもなし、見つけるたびに買っていたら、いつのまにやら『人間失格』がずらり本棚に並ぶようになったわけだ。 じゃあ、そもそもなんでそんなに『人間失格』を買うのかっていえば、もちろん自分が人間として失格だからってわけじゃなくて、それには深い深いわけがあれば面白いんだけど、実のところたいして深いわけでもなく、とにかく高校生の頃だ。 まあ、どこの世界にもダザイストってのはいるもんだ。統計をとったわけじゃないけれど、ただなんとなく感覚的に、およそ二百人にひとりぐらいの割合でダザイストってのがいるんじゃないだろうかと思う。それで、高校二年生のときのクラスが妙にダザイ密度が濃かったりして、ふと見渡せばクラスにふたり、仮に清水君と大木君としておくけど、そういう人がいたわけだ。 こいつら、ダザイの本なら何でも読んでるらしくて、「俺って道化なんだよな」だとか「人生は虚構だ」だとか、二人で顔を寄せて嬉しそうにダザイの話をしている。そういうことをひっそりと話すだけなら、別に気になるようなことでもないけど、たまに仲間をふやそうと思うのか、まわりに「ダザイってどう思う?」なんて問いかけてきたりする。それで、うっかり目を合わせたりすると、これは大変なことになって、まあ一人の人間をよくもこれだけ崇拝できるよなってな感じでとにかくダザイダザイとしゃべりまくる。こっちはダザイのことなんてたいして知らないけど、まあなんとなく「ああいう悲劇ぶったやつはヤダよな」なんて生理的嫌悪感があって、三島由紀夫なんかは「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」なんて言ってのけていて、これはどっちもどっちだという気もするけれど、とにかくあまり関わりたくはないわけだ。 で、その日もしつこくつきまとってくる駅前の宗教の人を、「あ、興味ないですから」ってすり抜けて行くときのような気分で、ふたりの話を聞いていた。で、ここからが肝心なところなんだけど、そんなふうに、こっちが死んだ魚の目をしながら話を聞いているのを見て張り合いが無くなったのか、ふたりは一旦口を閉じて物足りなさそうにしてたんだけど、そのとき清水君がクチビルの右のほうだけで笑いながら、 「ま、お前には分かんないか」 なんて言ったときには、こっちもだいぶカチンときた。ああ、俺にはお前の言うことなんてこれっぽっちも分かんないけど、それじゃお前は分かってるっていうのかよ。だいたい、お前みたいにダザイにいれこんでやつは、自分がダザイみたいな悲劇の主人公に自分を重ね合わせてるんだろうけど、そんなふうに思いこむのは、それこそ恥ってもんだぜ。と、口に出してはいわなかったけど、まあ露骨に表情に出してみたわけだ。むろん、死んだ魚の目のままで。 さて、それが『人間失格狩り』のはじまり。「何が『恥の多い生涯を送って来ました』だ。『恥の多い人間をつくってきました』の間違いじゃねえのか」なんてぶつぶつつぶやきながら、まあ今から思えば「お前は何様だ」ってな感じだけど、そのときは「このままじゃおさまりがつかない」ということで、とりあえず古本屋に飛んでいって『人間失格』を買ってきた。ここらあたりの心理が、自分でもよく分からないところなのだけれど、ダザイを嫌いだからダザイの本を読まないってのは、どうも「自分のイヤ度を表現しきれてない」って気がしたのだ。ただ読まないのなら、それは無関心というやつで嫌いとは違う。やっぱり、嫌ってるならそれなりの意思表示をしとかなきゃと思ったのだ。それで、『人間失格』の古本を見かけたら、とにかく買いまくることにした。買うときには、心の中で「やい、俺はお前なんか嫌いなんだぞ」と言ってやるのだが、はた目には「好きで買ってる」としか思われないのがくやしいところだ。そんなふうに、とりあえず『人間失格』を買いこんでる間に数年もしたら、いつのまにやら、そんな「ダザイを嫌う」なんて決意もすっかり薄れてきて、いまじゃダザイに関しては幸福も不幸も無く、ただ、一さいは過ぎて行くのだ。 |
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医学部演劇科 (2000-04-14) 最近、医学会では「全ての医科大学に演劇科を設けるべきである」という提案が論議を呼んでいる、と聞けば驚かれるかたは多いだろう。私も初めて聞いたときは「なんだそれは」と思ったものだ。しかし、その筋の詳しい人の話を聞いていると、なかなか納得させられる部分が多い。今は一部の専門家の間で話題になっているだけなのだが、いずれみなさんの耳にも入るかと思うので、それにさきがけて、ここでひとつその提案を紹介しておこうと思う。
たとえば、あなたが原因不明の腹痛に襲われて病院にかけこんだとする。そして、こんな会話がかわされるとしよう。
「先生。腹がキリキリ痛むんですが、大丈夫でしょうか?」 この瞬間、医者は「しまった」という表情をするはずだ。こんなシリアスな場面で舌がもつれて「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまった。これでは、場の雰囲気がぶちこわしである。緊張感は抜け、医者の権威が失墜してしまう。あなたは「ちゅじゅちゅ」と言う医者を見て、それでもその医者を全面的に信頼することができるだろうか。病気の治療とは、医者との信頼関係である。それが壊れてしまっては、治る病気も治らなくなってしまう。 これは「スズツ」と言ってしまった場合でも同じである。「そうです。スズツです」などと言われたら、なにやら、東北地方の怪しげな呪術医療が始まるのではないかと身構えてしまう。やはり、信頼関係を保ち続けることは難しい。 そこで、演劇科を設けるべきだという提案が登場する。医師のタマゴたちが、深刻な雰囲気の中で緊張して「手術」を「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまわないように、「声楽」の授業で練習をするべきだというのである。きちんと練習しておけば、舌がもつれる可能性はぐっと低くなる。医者の威厳も保たれる。ひいては、あなたも医者を信頼したまま手術をうけることができるのである。この一件を聞いただけでも、「医大には演劇科を設けるべき」という主張がいかに理にかなったものであるかが分かるだろう。
医者の仕事で最も重要なことは何かといえば、それは癌にかかった患者に「癌なんかじゃありませんよ」ということである。「癌です」とはっきり言ってしまうと患者は一気に気力を失ってしまうかもしれないし、へたをすれば死にいたる。それはあまりに残酷である。そこで、癌患者には、その気持ちを配慮して「癌ではない」と言うことが普通である。 しかし、少し考えれば分かるように、これには卓越した演技力が必要である。「癌なんかじゃありませんよ」という一言を言うだけであるが、実際に患者は癌にかかっているわけである。もし「癌ではない」と言うために深刻すぎる表情をしていたら、患者に「ああ、俺は癌なのか」と悟られてしまうし、「癌なんかじゃないぶー」とおどけて言ったりしたら、やはり医者の権威が失墜してしまう。つまり、「癌なんかじゃありませんよ」と言うためには、深刻すぎず、明るすぎず、説得力をもった声と表情をつくる必要がある。しかし、素人の医者がそんなにうまい演技をできようはずがない。 そこで、必要になるのが演劇科の存在である。患者の信頼をそこなわず、説得力をもった声と表情がだせるように「演技」の授業を設けて練習すべきだというのである。きちんと練習しておけば、無駄に患者を不安に陥れることなく、残った余生を安楽に過ごさせることができる(かもしれない)し、うまくすれば希望を持った患者は気力をふるいおこして、病気が快方に向かう(かもしれない)だろう。やはり、「医大に演劇科を」という提案は、理にかなっている。
しかし、それらの無理解を無視してでも、医学部には演劇科が必要であると、私は断言することができる。四年間、しっかり「医学部演劇科」で修練を重ねてこそ、自信をもって演劇界へデビューできるのではないだろうか。 |
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科学的にも実証されてます (2000-04-11) かねてより、なぜミミズに小便をかけるとチンチンが腫れるといわれるのか不思議だった。迷信であるとは知っているが、言い伝えられているからにはそれなりの根拠があるはずだ。小さい頃から禁則のみを教えられて、その理由は聞かなかったため、以来十数年悩み続けていた。 先日、ようやくこの疑問が解けた。中野宏『人はなぜ迷信が気になるのか』(河出夢新書)を読むと、「ミミズは田畑にとって大事な生き物であり、小便をかけたりするものではないという禁忌である」と書かれている。田畑の恵みを受ける人間にとっては、なるほどミミズは尊い生物なのであり、それを汚すことは許されないのだろう。それならそれで、ミミズを大事にしなさいといってくれればよいものを、なまじ「チンチンが腫れる」などというから、かえってミミズの社会的地位がおとしめられてしまうのだ、という気がしないでもないのだが、一応は理由づけがなされたので納得できた。 ところで、この『人は〜』を読んでいると、世の中には他にも様々な迷信・俗信があることが分かる。「お雛様は早くしまわないと、娘が縁遠くなる」「茶柱が立つと縁起がよい」など、我々のよく知っているものもいくつかある。しかし、多くは聞いたこともないものばかりで、世の中にはこんな迷信があったのかと驚かされるものが多い。 たとえば、「人に砂をかけると、身体がグニャグニャになる」というのは初めて聞いたが、本当にこれが信じられている地域があるのだろうか。砂をかけたらグニャグニャになるのだったら、砂場で遊んでいる子供たちはもはや軟体動物のようになっているのであろうか。それとも、それを通り越して内臓がドロドロになっているのだろうか。外見上はそう見えないし、本人もそう気づいていないようであるが、実は子供たちはゼリーのようになっているのだろうか。身体がグニャグニャになるのだったら、やはり、バレリーナや新体操をする人々は、演技をするまえに砂をかぶったるするのだろうか。客席には「砂かぶり席」なども用意されているのだろうか。疑問は尽きない。 「アリジゴクを枕に入れておけば、夫婦の仲が和合する」というのもある。私は妻帯者ではないのでよく分からないのだが、やはり寝る前に妻がアリジゴクを入れていたりすると、よし今日はやるぞ、という気分になるのであろうか。夫婦の仲が冷めてきたことを感じたら、アリジゴクをつかまえてくるのだろうか。それとも、世間一般の家庭ではアリジゴクを飼っていて、いざというときに備えているのだろうか。これまた、疑問が尽きない。少なくとも、私はアリジゴクを飼うような(ましてや、枕にいれるような)人とはお近づきになりたくないのだが。 さらに、こんなものもある。「朝焼けと姑の笑い顔は油断するな」。これは、ある程度分かる気がする。解説すると、朝焼けは雨の前触れだから気をつけなければならないし、姑の笑い顔はいやがらせの前兆(かもしれない)から同様に気をつけるにこしたことはない、ということだ。一応、頭では納得できるのではあるが、なにも「朝焼け」と「姑の笑い顔」を結び付けなくてもよいのではないだろうか。なんだかオヤジ的センスがただよう迷信である。だいたい、相手に笑いかけて警戒されるのでは、姑の底意地が悪くなるのも当たり前である。 迷信や俗信の類はこのようなものなのかもしれないが、解説なしで聞かされると納得できないものが多い。むろん、それなりの理由がそれぞれの迷信にはあるのだろうが、いまだに理由が解明されていないものも多いのである。初めて聞いた迷信の中で、まともに納得できるものは数えるほどしかない。一例を挙げると、 「便所に落ちると、出世しない」 まったくそのとおりだと思う。 |
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縦横無尽 (2000-04-07) 多くの人が指摘していることではあるが、ウェブブラウザの文字は読みにくいものである。行間がつまっているとか、文字が小さいとか、ブラウザの横幅いっぱいに文字が往復するとか、そういう単純な理由もあるのだが、根本的な原因として「文字が横書きである」というのがある。 ボクシングの有効な戦術に、横の動きから縦の動きへの移行、というものがある。サイドステップで牽制しながら、相手の目の動きを横方向への移動へ慣らしておく。そうしておいて、突然身を沈めるなどの縦の動きをとりいれることによって、相手の目を混乱に落とし入れるという戦術だ。横の動きに慣らされていた相手は急激な縦の変化についていけず、一撃必殺アッパーカットをくらうことになる、という算段である。 それと同じで、普段から縦書きの文章に慣れている目にとって、横書きの文字は読みにくいものだ。むろん、日本語は縦にも横にも書くことができる便利な言語ではあるが、通常は縦書きで書くことが多い。そこに、いきなり横書きの文章をぶつけられると、脳がその変化にたえられず混乱を起こす。そうして、面白い文章を読み飛ばしてしまったり、つまらない文章が非常に印象に残ったりしてしまうのである。その意味では、私のサイトには横書きが都合がよいのだが、やはり他のサイトの文章は縦書きのほうが嬉しい。 また、横書きの文章といえば、なんといっても専門書や技術系の書物の類が多い。書店の専門書コーナーに置かれてあるような本は、半分以上が横書きである。しかも、たいていが難解な内容だ。ゆえに、横書きの文章を見ると専門書漬けになっていた頃を思い出して、「うえっ」と心理的なブレーキがかかり、余計に読みにくいような気がするのかもしれない。 むろん、解決策はある。わざわざ苦労して文章を縦書きに直す必要などない。単に、パソコンのモニタを横に倒してしまえば良いのである。デスクトップパソコンの大きなモニタを横に倒すのは大変だが、ノートパソコンなら手軽に横に倒すことができ、そのまま安定した状態を保つことができる。そうしておいてから文章を読めば、あら不思議、横書きの文章が縦書きの文章になっているのである。 もちろん、文字も一緒に横に向いているという欠点もないわけではない。しかし、そんなのは小さなことだ。今は、縦書きか横書きかを考えるべきなのであって、文字が縦向きか横向きかなどは、コーラを飲んだらゲップがでた、などということよりもつまらない事柄である。もしどうしても気になるのであれば、フォントの向きを変えればよいし、それすら面倒くさければ視神経を横につけかえる手術を受けるなどの措置をとれば、すぐにでも解決する問題なのである。 他にも欠点がないわけではない。たとえば、マウスの動きがそうだ。通常、マウスを前後に動かせば、カーソルは画面上を上下に動く。しかし、ノートパソコンを倒した状態でマウスを前後に動かすと、カーソルが左右に動いてしまうのである。考えてみれば、当然の話だ。コーラを飲んだらゲップがでるというぐらい、当然の話だ。だからといって、キーボードを使って操作しようにも、キーボードはノートパソコンごと横倒しになっているためボタンが押しにくい。これはちょっとした欠点である。 欠点といっても、マウスが使いにくくてしょうがない、ということではない。むしろ、その逆で、楽しすぎるのである。マウスを前後に動かすと、カーソルが左右に動く。これは非常に新鮮な感覚である。ただ単にパソコンを横に倒すだけで、マウスを動かすという単純で無機質な作業が、あたかも新しいゲームのように楽しめるようになるのである。そして、夢中になってマウスを操作しているうちに、当初の目的がなんであったかということはすっかり頭から抜け落ちてしまう。どこをクリックするつもりだったのか、どのボタンを押すつもりだったのかを忘れてしまう。 他にもいくつか小さな問題点がないわけではない(パソコンが不安定、横に倒したら部品がはずれる音がした、突然強制終了する、など)。しかし、そのように縦書きの欠点ばかり気にしていてもしょうがない。それらの欠点を補ってあまりある利点が縦書きにはある。 その利点の効果は絶大で、読みにくいうえに使いづらい縦書きに十数分も耐えていれば、今度は横書きがすばらしく思えてくるのである。おかげで、すっかり横書きが楽になった。 |
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恐るべき家電たち (2000-03-31) 「二大恐怖家電」といわれるものがある。冷蔵庫と電話機である。電話機が家電かについては異論があるかもしれないが、少なくともうちの電話機にはコンセントが付いているので家電といってもさしつかえはないだろう。なお、「二大恐怖家電」という言葉は今私がつくったばかりの言葉なので、知らなくても気にする必要はない。 冷蔵庫は不気味である。常にヴーンとうなっているのも不気味なら、ドアをあけると黄色い光を発するのも不気味である。夜中にドアが開いた冷蔵庫から光が漏れ出ているのを見ると、まるで異界への門であるような気がしてくる。 また、冷蔵庫はふだん使っていないと、何が詰まっているか分からない。ふだん使っている冷蔵庫ならば、おそらくいつもどおり、卵とたこ焼きソースぐらいしかはいっていないことが予測されるが、たとえば数年間空家に放置されていたような冷蔵庫だったらどうだろう。どこか不気味な印象を抱くと思う。ドアを開けたとたんに妖怪が飛び出してきてもおかしくないし、切り刻まれた死体が入っているかもしれない。あるいは、数年前につくられたカレーの残りが入っているかもしれない。いずれも、空けた途端に生涯忘れることのできない恐怖を味わってしまうことになる。 電話機も恐怖家電だ。携帯電話の普及により、その神秘性はかなり薄れてしまった感があるが、それでもその地位は健在である。電話というのは、相手側の姿が見えないのに、声だけが届く。それだけに、ダイアルをまわしたら、相手がとんでもない人物(ヤクザ、警察、宇宙人、腹話術師など)かもしれない。これは、電話を受けるときもかけるときも変わらない。電話というものは、ひとつ番号を違えるだけで、決して覗いてはいけない世界にかかるかかるかもしれないものなのである。 しかし、いくら怖いからといって、冷蔵庫や電話機を避けて暮らすわけにはいかない。それは、現代生活に不可欠とは言わないまでも、あれば格段に利便性が向上する製品であるからだ。標準的な生活を営む以上、使わずにはいられない。したがって、冷蔵庫や電話機を使うときは、できるだけ脳の想像力の回路を閉じてしまう必要がある。 そういえば、少し前に怖い話を聞いた。ピルルルピルルル、と電話機が鳴る。慌てて電話台に駆け寄ると、電話機が置かれていない。しかし、電話機は鳴り続けている。おかしい。どこに置いてあるのか、と探していると、どうやら台所から聞こえてくるようである。不審に思いながらも台所に入ると、冷蔵庫の中から音が漏れ出ている。冷蔵庫の中に電話機が入っているなんて考えられない。不気味に思いつつ、冷蔵庫を開けると、そこには切り刻まれた死体が押しこまれていた。その死体の首が、目を開いてこちらを見ながら、ピルルルピルルルとベルの真似をしていたのである。 これは怖かった。個人的には「怖い話ランキング」の中でもベスト3にはいるような怖さだ。二大恐怖家電がともに登場するだけに、身も凍るような怖さである。それを一緒に聞いていた友人も、震えながら言った。 「そんな電話には、誰もでんわ…」 このときは、本当に身も凍った。 |
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夜伽ばなし (2000-03-23) 我がまくらが反乱を起こした。 朝起きると、体のまわりに水色のプラスチック片が散乱していた。一瞬、何かの病気かと思ったが、そんなふうに考えるほうが病気だと思い直して、原因を調べた。原因は非常にあっさり見つかって、プラスチック片はまくらの中身であることが判明した。寝ている間に、私の頭の動きに耐えかねたまくらは破れてしまったようだ。繊細な人は、まくらが替わると寝られない、とよく言うけれど、この一件で自分が繊細ではないのだな、ということを改めて確認することができた。少なくとも、ベッドの中では。 それにしても、羽毛とかもみ殻の詰まった枕でなくて良かった。もし、そんなものが入っていたら、おそらく起きたときは大惨事だっただろう。朝起きて、もし羽毛が体のまわりに飛び散っていたら、自分が鶴にでもなったのかと勘違いしたかもしれない。それで、「ついに私の正体を見てしまいましたね、ヨヒョー」とか言って、ベランダから飛び出してしまったかもしれない。つくづく、羽毛まくらでなくて良かった。 気をとりなおして、飛び散ったプラスチック片を集め、まくらに詰めこみ直した。忘れないうちにまくら袋を買いなおすことにして、とりあえずはガムテープで補修をしておいた。「まくら袋」というものは、どこに行けば売っているのかよく知らないが、おそらく寝具売り場にでも売っているのだろう。「まくら袋」が単体で売っていなければ、まくらをまるごと買えばよい。
「いらっしゃいませ、何をお探しですか」 そのような展開は、千パーセントの確率でありえないと断言できるが、色々なまくらを見てまわるのは意外に楽しそうである。 そういえば、だいぶ前にニュースで「まくらの展示会」なるものが紹介されていた。全国のまくら製造業者やまくら職人が腕をふるってつくったまくらを一堂に集め、その性能を紹介する、というイベントだ。その中に「腕まくら」という商品があったことだけ覚えている。本当の商品名はもっと愉快なものだったと思うが、かたちはそのまんま「腕」だ。リアルな質感をもった腕型のまくらを頭に敷いて寝るのである。業者は「ひとり身の寂しいかたに」とか言って紹介していたけど、そんなまくらを買ったら余計に寂しさがつのるだろうと思ったものだ。それを手にしていたレポーターも、どこか嘲弄の目つきをしていたことが、深く印象に残っている。 しかし、考えてみるに、そのような「まくらの展示会」が開かれるということは、世の中にはそのイベントに出かけるような「まくらマニア」というものが存在するのではないかと思われる。「まくらフェチ」と言いかえてもいいかも知れない。そもそも「まくら」とは夜の生活に欠かせないものであるからして、熱狂的なフェティシストがいて当然だろう。人には見せられないような抱きまくらとか、人には触らせられないような質感のまくらとか、人には舐めさせられないような味のまくらとかがあるのだろう。いろいろ想像力をかきたたせてくれる。できることなら、まくらフェチのかたが薦める「至高のまくら」というのを一度使ってみたいような気もする。きっと、そのまくらは夜も眠らせてくれないに違いない。 |
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星ぼしの荒野から (2000-03-16) 今、手元に「ウルトラ怪獣大全集」がある。幼少のみぎりに買ってもらった本だ。おそらく、十歳になるまでに、二万回以上読んだであろうと思われる。表紙はぼろぼろ、後半部分は破り取られてすっぽり抜け落ちている。随所で補強のために貼られたテープは黄色く変色している。十歳を越えてからは、せいぜい二回ぐらいしか読んだことは無い。 パラパラとページをめくる。「これがウルトラの国だ!」という扇情的なタイトルとともに、「ウルトラの国」の写真が掲載されている。見たとたん、衝撃を受けた。すごくチャチだ。写真の中央には、どうみても厚紙でつくられているとしか思えないビルがまばらに立ち並び、遠景には、どう見てもダンボールを切り抜いたとしか思えない山々がそびえている。どうみても哺乳瓶のフタとしか思えないロケットが飛び、どうみてもサラダボウルを伏せたとしか見えないドームがたっている。 ……。 いや、こんなことを書きたかったのではない。とある小説に「ウルトラマンに出てきた何某」という記述があって、それが妙に気になった。その怪獣がどんな姿形をしているのかが知りたくなったのだ。以前クローゼットを整理したときに、視界の片隅に「ウルトラ怪獣大全集」を見たような記憶があり、苦労して捜し出してきたのである。「ウルトラの国」に関してはチャチかもしれないが、怪獣のことに絞れば、まさにこれは大全集だ。シリーズに登場した怪獣一匹ずつに、分類や説明、写真などが付けられている。 例えば、有名な「バルタン星人」の分類は「宇宙忍者」である。そういえば、そうだったような気がする。宇宙の忍者である。「宇宙」も「忍者」も、子供たちの憧れである。これでは人気が出ないわけがない。今更ながら、私は深く納得した。「有翼怪獣ドラゴ」「灼熱怪獣ザンボラー」「宇宙恐竜ゼットン」など、名前を見るだけでかっこいい怪獣が目白押しである。なんだか、ビデオでも借りてきて、鑑賞してみたい気分になった。 一方で、これはどうかと思うような分類や名前も多い。「潮吹き怪獣ガマクジラ」。これはどうだろう。「潮吹き」という時点で、もうダメである。決して子供たちが憧れるものではない。「ガマクジラ」という名前もいけない。どう考えても、ガマとクジラの合いの子のイメージしか思い浮かばない。しかも、写真を見ると本当にそうなのだから、フォローのしようがない。 解説もふるっている。「真珠の光を見ると、口から長さ50mのホース状の舌を伸ばし、真珠を吸い込む」と書いてある。何を考えてるんだこいつは、という気分になる。お前は怪獣なんだろう。隠し芸大会じゃないんだから、もっと怪獣らしいことをしろよ。 いいかげんな名前もたくさんある。「ヤドカリ怪獣ヤドカリン」「河童超獣キングカッパー」「泥棒怪獣ドロボン」。姿かたちもそのまんまだ。やる気があるのだろうか。それとも、子供相手だからこんなものでいいと思っているのだろうか。あるいは、この名付け方には、何か製作者の思想でもあるのだろうか。なんにせよ、こんなものに夢中になっていた十歳以前の自分が憎らしいような、可愛らしいような、複雑な気分である。 ページをめくっているうちに、目的の怪獣を見つけた。しかし、もはや探すまでも無かったかもしれない。「さぼてん超獣サボテンダー」は、やはりサボテンの形をしていた。 |
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電子的体験 (2000-03-07) なぜ、この世から電子音は消えてなくならないのであろうか。 私は、特に強く電子音を憎んでいるわけでもなく、積極的に「消えてなくなれ」と思ったことはない。しかし、少なくとも耳に快適な音ではない。多くの人にとっても、耳障りな音であると思う。あまり良い音とはいえないのだから、自然消滅してしまいそうな気がするのだが、消えてなくなるどころか、世の中には電子音が増えるばかりである。メーカーの人も、やろうと思えばもっと良い音を出すことぐらいできそうなものである。なのに、なぜわざわざ耳障りな電子音をだす製品をつくり続けるのだろう。 どうも、電子音は、人を「ほんの少しだけ」いらつかせるような効果があるような気がしてならない。例えば、我が家の電子レンジは「チン」と鳴る代わりに「ピピッ」という電子音を発して加熱が終了したことを告げる。これが、どうしても信用できない。はたして、本当に加熱されていたのか。終了音が何であろうとも、途中にやっていることは同じはずである。それなのに、機械音か電子音かの違いだけで、少し電子レンジが信用できない気分になる。すると、それを見越したように、電子レンジは「ピピッ、ピピッ」と鳴る。加熱が終了した後に扉を開けないと、「はやく取り出しなさいよ」とばかりに再び注意音が鳴るようになっているのである。これが私を微妙にいらつかせる。言われなくても分かっている。お前に指図されるいわれはないのだ、という気分になる。しかし、放っておくといつまでも電子音は鳴り続ける。それは、深爪をしすぎて缶ジュースのプルトップがうまく空けられないときのように、私を微妙にいらつかせる。 私の枕元には、ジリジリと鳴る機械式の目覚し時計がある。それ以前には「ピピピッ」と鳴る電子式の目覚まし時計が有ったのだが、今ひとつ目覚まし効果が薄かった。ただでさえ朝は不機嫌だが、電子音が鳴ると、余計に不機嫌になる。ごく、微妙な違いであるのだが、それが気になって、目覚し時計を買い換えた。虫が好かないというだけであって、嫌いと言いきってしまうほどではない。しかし、電子音に目覚めさせられるということは、CDを包むセロファンの剥がし口が見つからないときのように、私を微妙にいらつかせる。 腕時計や携帯電話、メロディ電報など、私を微妙にいらつかせる音にはことかかない。電子音がかくも世間に幅を利かせているのは、あまりにも「微妙」すぎるからだろう。この世から消し去ってしまうほど嫌な音ではなく、積極的に消し去ろうという気にはならない。あまりにも微妙であるがために、「まあ、べつにいいじゃん」的な考えから、現代のような電子音社会が成立しているのだといえる。あるいは、そのようなことは全て私の感覚がおかしいのであり、世の中にいるほとんどの人は電子音を快適に思っているのかもしれないが、私にはおよそ電子音を「良い音だ」と思える人がいるとは思えない。やはり、あまりの微妙さゆえに放置されていると見るのが妥当だろう。 この「電子音とは微妙にイラつく音である」ということを考えると、電子音の違った利用法が見えてくる。たとえば、電子音は精神修養に使える。座禅を組んで、心をからっぽにする。その状態で、間欠的に電子音を鳴らしてやる。これで心が波立つようであれば、まだまだ修行が足りない。電子音ごときで心が揺れてしまうようでは、凡人と変わらない。もし、電子音を聞いても一切が気にならず、いらつきがないようであれば、それこそが無我の境地といえるのかもしれない。 また、電子音は拷問にも使える。その昔、「しずく攻め」と呼ばれる拷問があったという。椅子に縛り付けた人に、不定期に一滴ずつ水をしたたらせ、それをいつまでもいつまでも続けると発狂してしまうのだという。要は、それの電子音バージョンである。拷問したい人間を一室に閉じ込めて、不定期に短い電子音を聞かせる。「ピッ……ピッ…………ピッ……ピッ」と音が鳴り続ける。はじめは、ごく微小ないらだちを感じるだけであるが、続けていくうちに、次第に正常な精神のバランスを失っていく。そして、最後にはキチガ(ピー!)になってしまうのだ。 ほら、こんなふうにも役立つ。 |
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医者はどこだ (2000-02-18) 病院に行ってきた。半年に一回ほど、薬を取りに町立総合病院に行く。本来なら休日に行くところだが、あいにくと休日に診察している科は限定されていて、やむなく平日に訪れるしかない。外にはちらちらと雪が降っていて、出かけるのは億劫だったが、後まわしにするわけにもいかない。 受付時間は午後二時から。だからといって時間ギリギリに行くと、平日の昼間から暇にしている爺や婆に先をこされて、帰るのが午後七時ごろになってしまうので、一時間前から受付のために並ぶ。こうやって早く並べば、五時前には帰れるのである。一時間ばかり爺や婆に混ざって並んでいた。爺や婆はもはや常連であるらしく、仲良く談笑しているが、私がその仲間に入るには、八十年ばかり生まれてくるのが遅かった。 爺や婆の会話を聞くともなしに聞いてたが、あまり面白い話ではない。病院に行くと、患者どうしの不幸話がはじまって、自分がいかに重大な病気を患っているか対抗しだすのが常であるが、今日の爺や婆はそういう気分ではないらしい。ならば、おとなしく天気の話でもしていればよいものの、何を考えたか病院の医師たちの噂話をはじめた。山下先生は大学病院をかけもちしているから腕は確かだとか、植田先生は患者の話を親身になって聞いてくれるとか、佐野先生が患者さんに手を出したとか、独自の情報網から得た噂を延々と繰り広げる。まったく、他人の噂話なんてどうでもいいだろう、と横目で爺や婆を眺めて苦々しく思いつつ、メモをとった。 そうこうしているうちに、二時になった。受付で整理券をもらい、診察室の前に移動する。診察は三時からなので、さらに一時間ほど待つことになる。このあき時間に近くに買い物など行くと、いつのまにか診察が始まり、順番をとばされて、結局午後七時ほどまで待たなくてはならなくなる、ということを経験上知っているので、診察室の正面にどかりと腰を据える。 それにしても、昼間の病院というものは、いる人間の種類が限られている。あたりを見まわしても、爺や婆や子づれの母がほとんどである。妙齢の女性などは、どこを見渡してもいない。妙齢の女性が隣にでも座っていれば、甘酸っぱいラヴストーリーを妄想の中で繰り広げて時間をつぶせるのだが、昼間の病院には素材が少なすぎる。若い看護婦さんもいることにはいるが、看護婦さんを素材にすると、なぜだか官能小説になってしまう。かといって、婆を素材にすると怪奇小説になってしまう。しょうがないので、おとなしく本を読んでいた。 三時を半時間ほどすぎたころに名前を呼ばれる。薬を貰うだけなので、診察はいたって簡単。五分で終わる。処方箋をもらって、会計のためにさらに二十分待つ。結局、待つだけのために三時間近く座っていたことになる。日が傾いて、だいぶ暗くなった空を見ながら病院をでると、昼ごろ降っていた雪はやんでいた。ついでに、長時間座りつづけた私の尻も病んでいた。 |
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吸いこまれるように (2000-02-15) 掃除機をかけていたのだが、どうにもこの掃除機は莫迦なやつである。どれぐらい莫迦かといえば、はじめから吸いこめないであろうと思われる、くつ下やボールペン、みかんといったものを吸いこもうとするぐらい莫迦なのだ。多少の判断力があれば、そんなものを吸いこもうとする前に止まりそうなものだ。私だって、口にみかんを突っ込まれたら、息を止める。 一応、断っておくが、決して掃除機を操っている人間が莫迦なわけではない。その証拠に、私は掃除機ではみかんを吸いこめないことも、掃除機をかける前に大きなものはどけておかなければならないことも知っている。それでも、ついみかんなどを置いたまま掃除機をかけてしまうのは、単に一般のレベルよりもほんの少し私の学習能力が劣るというだけであって、それを莫迦と言いきってしまうのは学問的に良心的な態度とはいえないだろう。それにひきかえ、掃除機は何度同じ失敗をしても、みかんを吸いこもうとする。これは莫迦だ。 しかし、「莫迦な子ほどかわいい」という言葉もある。そう思うと、どうもこの掃除機がいとおしく思えてくるから不思議なものである。何しろ、十年来使っている掃除機なので、彼のことはすみずみまで知っている。腹の中まで知っているし、下の世話もした。ここまで親しい仲の者は、そうはいまい。CDケースを包んでいるセロファンのゴミなどを、「ブホッブブホッ」といいながら、必死で吸いこもうとする姿などを見ると、思わず抱きしめてやりたくなるほどだが、十年来使っているせいですっかりゴミっぽくなってしまったので、あまりさわらないようにしている。 そろそろ、この掃除機も買い替えどきかもしれない。「かわいい子には旅をさせろ」という。「君はいまから『夢の島』に行くんだ」などといえば、莫迦な掃除機は、騙されたとも知らず喜んで旅立って行くのではないだろうか。私ですら騙されそうなほど、『夢の島』という言葉は魅惑にとんでいる。「旅は道連れ、世は情け」ともいう。旅立ってしまえば、同じ境遇にいる者たちと、なぐさめあって生きていくことができるだろう。 それに、夢の島なら現在の状況とさして変わらないような気もする。 |