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名は体、体は名 (2001-06-11)

 ところで、物忘れが良くなる病気に「アルツハイマー病」というのがあるけれど、あの「アルツハイマー」というのは人名なのだろうか。名前の系統としては、「アルプスの少女ハイジ」に出てくるロッテンマイヤーだとか、サッカー選手のベッケンバウアーだとかと、同じである。そういう名前があるのなら、アルツハイマーという名前があってもおかしくない。

 だとすると、アルツハイマー氏は、
「こんにちは、アルツハイマーです」
 なんていうふうに自己紹介をするのだろうか。それだと、妙な誤解をされたりしないだろうか。言ってみれば、私の名前が「糖尿太郎」だったとして、
「はじめまして、糖尿です」
 と挨拶するようなものなのではないだろうか。

 古くから「名は体をあらわす」という。名前というのは単に記号に過ぎないわけではなく、どことなく、その人の人格や経歴を表すように感じるものだ。たとえば「西園寺」とか「綾小路」とかいう姓であれば、その人物はなんとなく「やんごとなき人」という感じがする。一般に、画数の多い苗字にはそういう傾向がある(「綾倉」などの例外もある)。

 他にも思いつくままに挙げれば、「西条」とくればなんとなく「エリート」という感じがするし、「五郎」「小十郎」などと名前に五の倍数が入っている場合は「世に埋もれた天才」という気がする。「綾子」「響子」などは「しっかりものの美人」と感じるし、「月子」「雪子」などは「おっとりした美人」ではないかと思う。

 それらは、こちらの勝手な思い込みなのだから、実際には例外だらけなわけだけれど、たとえば小説中の登場人物などに使われている場合、名前からその人物の役どころが推測できて便利である。自慢ではないが、「小説中の登場人物の名前の見分け」というのは私の最も不得意とするところのひとつだ。私は、かの大作「罪と罰」を読んだときも、主役級人物の「ラズミーヒン」と「ラスコーリニコフ」が最後まで区別できなかった男である。なぜこの「ラ」のつく人は人格や職業が変わるのだろうと混乱していたぐらいだ。

 日本の作品でも、谷崎潤一郎の「細雪」などは名前の見分けが特一級に難しい。主な登場人物は蒔岡鶴子、幸子、雪子、妙子であり、当然のごとく私は読んでいる途中で誰が誰だかわからなくなって、挫折した。これらの名前からは、かろうじて「雪子」にイメージが浮かぶぐらいで、あとは、どれほど努力しても幸子がバナナを半分しか食べられないであろうということぐらいしかわからない。このような名前で四姉妹を区別させようというのに無理がある。そういうのを読むと、「もっと体をあらわすような名を使ってほしいものだ」と思うのである。「ドラえもん」のように、あからさまにわかりやすすぎるようなネーミングもどうかと思うが(特に「ジャイ子」というのはどうかと思うが)、多少は考慮してほしい。

 そういうわけで、名前というものは非常に重要なのである。もっとも、忘れてはいけないのは、名前が良いからといって中身が伴うわけではないということだ。それどころか、中身が伴っていないと、勝手に名前を変えられてしまうこともある。私の最近の愛称は「アルツハイマーさん」である。

 


親愛なるクローン (2001-05-25)

 もし自分の非オリジナルがいたら、という仮定は、もし人生をやりなおせたら、という仮定と大きく重なるところがある。自分とほぼ同じような存在が、自分とほぼ同じような生活を送るのを想像したってしょうがない。どうせなら、非オリジナルは同形異種の存在であってほしいものだろう。

 では、自分とまったく違う生活とはいったいどんなものであるかと想像すると、これがなかなか思いつかないのである。いや、思いつくといえば思いつくのだが、自分がそんな奇妙な生活をしていることを、自分が納得できない、とでもいうのだろうか。

 たとえば、ジェームス・ボンド(007)のような生活がある。スリルがあって、ハプニングがあって、色気がある。そんな生活を送っている自分が存在しうるのであろうか。そのへんは、やってみないとわからない。ただ、私の脳内シミュレーションでは、どうにもそれらしくならない。とりあえず、私は非オリジナルに手紙を書く。

親愛なる非オリジナルへ。

これからは、スリルがあって、ハプニングがあって、色気がある。そんな人生を送ってください。

 まあ、非オリジナルのほうも私の気持ちをわかってくれるだろうから、なんとか努力ぐらいはしてくれると思う。しばらくして、非オリジナルから返事が返ってくる。

親愛なるオリジナルへ。

下着ドロになりました。

 たぶん、こんな感じだろう。確かにスリルもハプニングも色気もある。もっと自分の非オリジナルを買いかぶってあげてもよさそうなものだが、もとのオリジナルがアレだからどうしようもない。もうちょっとアレじゃなかったらいいとは思うのだけれど。

 だが、そんなことでよいのだろうか。人間はもっと前向きでなければならないのではないだろうか。そう自分に言い聞かせる。気をとりなおして、私は再び非オリジナルに手紙を書く。

親愛なる非オリジナルへ。

ちょっと私の考えているのと違います。オリジナルはアレだけど、あなたはもうちょっと頑張ってください。

 非オリジナルは私の気持ちを察することに長けているから、私が何を望んでいるのか、自分のことのようにわかってくれるだろう。要は、向上心である。小学校の通信簿では「向上心」と「整理せいとん」の評価がいつも△だった私だけれど、非オリジナルには同じ轍を踏ませたいとは思わない。そんな私の親心を察した非オリジナルは、きっと一念発起してオリジナルにはないような向上心を見せてくれるだろう。しばらくして、非オリジナルから返事が返ってくる。

親愛なるオリジナルへ。

下着、かぶってみました。

 


ぼくらが山に登るわけ (2001-05-23)

 先の日曜日のことだ。友人の高松が電話をかけてきて、「山に登らないか?」と言った。あまりに突然の申し出なので、当然ながら私は「どうして?」と尋ねた。すると、高松はこともなげにこう言った。

「五月晴れだから」

 だいたい、高松は常に衝動的で、筋道だててものごとを考えることができない。ちょっと考えれば、五月晴れというのは山に登る動機として不十分であるとわかりそうなものだ。「徳川埋蔵金を探しに行く」とか「死体を埋めにいく」とか、そういった明確な動機があれば山登りにつきあう人もいるだろうけど、「五月晴れだから」なんてつまらない理由で付き合うような人間は、おそらく酔ったときに恥ずかしい写真でもとられて弱みを握られている人間ぐらいなものだろう。私は「すぐに行く」といって電話を切った。

 登るのは標高三百メートルほどの、一時間ぐらいで登れる小さな山だ。もちろん、小さいといっても三百メートルの平地を歩くのとはわけが違う。私の計算によれば、三百メートルというのは体長三メートルのキリンを百頭積み重ねたのと同じ高さである。このことから、三百メートルを登るのがいかに大変かわかってもらえるだろう。まず、キリンを百頭つかまえるのが大変そうだ。

 高松は登山靴などを履いてはりきっているが、そもそも私は本意ではない。どちらかといえば、私は日曜日の午後ぐらいのんびりとしていたいと思う。昔から「アホと煙は高いところに登りたがる」というが、むやみに快活な高松を見ていると、昔の人の洞察力に感心する。そういうわけで、快活な高松と対照的に、私は落ち着いて山を登ることを決心した。

 登りはじめると、高松は機嫌よく「歩こう♪ 歩こう♪ 私は元気♪」などと「となりのトトロ」の曲を歌っている。まったく私の理解を超えている。何がそんなに楽しいのだろう。もちろん、私も高松といっしょに合唱したことを否定するつもりはない。また、私のほうが先に歌いだしたということを否定するつもりもない。しかし、あくまでそれはつらい気持ちを和らげるための処置である。私が山登りを楽しんでいたなどと思わないでほしいものだ。

 山頂についた。まったく、高いところに来たからといって何が嬉しいのだ。まったく、私の理解を超えている。しかも、恥ずかしいことに私は高松と一緒に「ヤッホー!」などと叫ぶはめになってしまった。そんな間の抜けたセリフを、どんな顔をして言えばいいというのだ。もちろん、私の声のほうがよくこだましていたことも否定するつもりはない。しかし、私の声が大きかったのは照れ隠しだ。私が山登りを楽しんでいたなどと思わないでほしいものだ。

 しばらく休憩したあと、山を下りることになった。言わせてもらえば、山登りという行為の虚しさはこの「下山」に集約される。どうせ下りるのだったら、何のために登ってきたというのだ。非生産的行為の極みというものである。高松は跳ねるように坂道を駆け下りている。子どもっぽいやつだ。まったく私の理解を超えている。もちろん、私が「ベベマリコ!(ビリになった者はマリコと結婚しなければならないという意味)」と叫んで先に駆け出したことを否定するつもりはない。しかし、それは単に私がそういう病気だからだ。私が山登りを楽しんでいたなどと思わないでほしいものだ。

 山を下りて、息が整ったころ、高松が私を見て言った。「ひょっとして、山、好きなの?」。いったいこいつは何を言っているのだ。私のどこを見れば、山が好きそうに見えるというのだ。いつ私が山が好きそうなそぶりをしたというのだ。すると、高松はこともなげにこう言った。

「さっきばれたから」

 


基地がいいらしい (2001-05-17)

 小学生のころの私は「秘密基地のプロ」だった、と言っても過言ではないだろう。私は秘密基地を四つ所有していた。ひとつは巨大な土管の中にあり、ひとつは橋の下にあり、ひとつは木の上にあり、最後のひとつは茂みの中につくられたものだった。すべて私が場所を選び、基地らしく仕立てたものだ。

 むろん、秘密基地は四つにとどまらず、五つめも作成途上にあった。先の四つで地上は制覇したと思われたため、五つめは地下につくることにした。私の構想は壮大であった。まずは、直径50cmほどの入り口にあたる穴をまっすぐ掘り進める。ある程度まで掘れたら、そこから部屋になる部分を掘り広げていく。部屋の大きさは八畳ほどになるだろう。できれば、トイレやベッドや核ミサイル発射ボタンも欲しい、なんて子どもらしいことを考えていた。

 もっとも、小学生にそんな大規模な土木作業ができるわけもなく、私の計画は入り口部分を30cmほど掘り進んだところで挫折した。しかし、それはそれで子ども心には嬉しく、私は結構満足していた。そして、自分で掘った穴の底に立っては充実感を味わっていた。30cmぐらいしかない穴に足を突っ込んで、至福の表情で突っ立っている子供。それを世間では「アホ」と呼ぶ。裏庭に掘っていたため、両親にもすぐにばれた。両親は「何をやってるんだ」と私を穴からひっぱりあげた。

 さて、もと「秘密基地のプロ」として語らせてもらえば、秘密基地には大きく分けて二種類ある。ひとつは、基地の存在自体が秘密なもの。もうひとつは、基地の中に秘密があるものである。

 前者の秘密基地は、その所在が秘密なのだから、誰にも見つからないところにつくらなければならない。特に、大人に見つかってはいけない。基本的には家から遠く離れたような場所か、大人が思いもよらないような場所につくるのがよい。あまり家から遠くに行ってしまうと往復が大変なので、できれば近場の意外性のある場所につくるのがよい。田んぼの底にムツゴロウのように隠れ住むとか、洗面台の中にゴキブリのように隠れ住むとか、いろいろ考えられる。

 後者の秘密基地は、その所在自体は秘密ではないけれど、そこに誰にも教えられないような秘密が隠されているような基地だ。隠すものは、0点のテストであるとか、道で拾ったわいせつな雑誌であるとか、後ろ暗いものであればあるほどよい。もっとも、私は裏表のない正直な小学生であったため、後ろ暗くて隠すようなものは数えるほどしかなかった(数えるのには三日ほどしかかからなかった)。そのためか、あまり後者の秘密基地に関しては詳しくない。

 そして、両者の特徴を兼ね備えたのが「究極の秘密基地」ということになる。誰にも見つからない場所に、誰にも知られないものが隠された基地。しかし、そのような基地をつくるのは難しい。総じて小学生というのは単純なものであるからして、誰にも思いつかない場所というのを思いつかないし、あまり隠すような秘密を持っていないものだ。高校生ぐらいになれば、頭脳と資金を駆使してそれなりのものをつくることができるのだが、残念なことに高校生はあまり秘密基地をつくることに興味を持たないものだ。

 もっと大きくなって、潤沢な資金を用意することができれば、「究極の秘密基地」らしきものをつくることはかなり容易になる。景気のいいころなら、どこぞのマンションの一室を買い込んで「秘密基地」と称していたようなやからがごまんといただろう。それが一応「究極の秘密基地」の条件を満たしていた場合もある。

 だが、もと「秘密基地のプロ」としては、そのようなものはとうてい認められるものではない。秘密基地と言うのは、もっと夢のあるものでなくてはいけないと思う。金に物をいわせたような基地は、よろしくない。だから、もし私がとても裕福になって、ゴージャスな秘密基地をつくれるような身分になっても、やはり30cmの穴に立って至福の表情を浮かべるような、そんな人間ありたいと思う。

 それに、今度は両親も見ないふりをするだろう。

 


かつてない勝利 (2001-05-12)

 俗によく言われる言葉に「試合に負けたが、勝負に勝った」というものがある。つまり、スポーツでもゲームでも、本来のルールでは負けているにも関わらず、ルールとは関係ない部分(愛、人間性、非人間性など)で優れているということをあらわす言葉である。

 とあるマンガで以下のようなシーンがあった。競われていたのは「新幹線を思い切り押して、どこまで遠くに走らせることができるか」という競技である。その競技に、おでこに「米」という文字を書いた男が挑戦した。米男は入賞確実と言われている男である。彼は新幹線を思い切り押した。すごい勢いで新幹線は走った(米男は力持ちである)。しかし、新幹線の前方に一匹の仔犬が! 米男は駆け出して、自ら押した新幹線を仔犬の目前で食い止める。もちろん、米男は入賞ならずの予選落ち。しかし、米男はいとおしげに仔犬をなでるのであった。と、少々長くなってしまったが、このような状況が「試合に負けたが、勝負に勝った」といわれるものである。米男は結果を残すことができながったが、高潔な人格であることを自ら証明した。

 上のパターンを踏襲すれば、いくらでも「試合に負けたが、勝負に勝った」という状況をつくりだすことができる。たとえば、柔道の試合。男は実力伯仲の相手と試合をしている。まさに一進一退という状況だが、男は若干リードされている。試合時間残り二秒というところで、相手が隙を見せる。すかさず投げ技を仕掛ける男。そこにさりげなく紛れ込んだ一匹の仔犬が! このままでは相手を仔犬の上に叩きつけてしまう。そう判断した男は、結局技を止め、そのまま時間切れ負け。こんなのも、「試合に負けたが、勝負に勝った」という状況だ。

 特にスポーツに限らなくても良い。たとえば、男がチェスの試合をしているとする。二人の実力は伯仲、まさに一進一退という勝負。しかし、形勢は次第に男に傾き、男は最後の一手を放とうと、駒をつかみあげる。そこになぜか一匹の超仔犬が! このままでは駒を盤に降ろせば、超仔犬をつぶしてしまう。男は駒を降ろすことができず、そのまま試合放棄。これは「試合に負けたし、アル中も末期」という状況だ。

 一般に、試合に勝つことと勝負に勝つことを比べた場合、当然ながら試合に勝つことが重視されるのだが、結果としては勝負に勝ったほうが「真の勝者」であると認められることが多い。試合に負けることによって、懐の深さを見せたというわけだ。しかし、試合に勝ったほうにしてみれば、たまったものではない。せっかく勝った試合なのに、「真の勝利者は相手だ」などと言われてしまうのである。

 しかし、これを逆に応用することもできる。要するに、試合に勝てそうもないときには、はじめから勝負に勝つことを目的とするのである。よく長距離走などでも、クラスで一番走るのが遅い人間が周回遅れでゴールに入ったとき、拍手喝采が送られる。これなども「試合に負けたが、勝負に勝った」というひとつの例であろう。これを目的とするのである。

 一位になるのは困難であるが、下位になるのは容易である。しかも、一位になるよりも賛辞を送られるのである。最初に述べた「仔犬法」を応用すれば、自由自在に「真の勝利」を得ることができるのだ。あらかじめ仔犬を用意しておき、いざ負けそうになれば、さりげなく「自分が勝つと仔犬が危機に陥るような状況」をつくりだすのである。そうして、試合が負けたあとに涙を隠しながら「よかった…」などとつぶやいて仔犬をなでればよい。それだけで、勝利はあなたのものだ。

 もっとも、それがうまくいかないときもある。「仔犬法」を用いるときは、あくまでさりげなくなければならない(仔犬を仕込んだことがばれたら、とてもヒーローではいられないだろう)。仕込みが足りなくて、仔犬がうまく動いてくれない時もある。悪くすれば、相手にその仔犬を利用されて、「試合に負けて、勝負にも負けた」という状況になりかねない。

 そのとき、人は「負け犬」という言葉の意味を知る。

 


咳をしてもひとり (2001-04-21)

 どうやら春風邪を引いてしまったようである。「はるかぜ」と口に出してみれば、どっきりどんどん不思議な力がわいてきそうな爽やかな響きを持っているが、そんなのんきなものではない。セキは止まらないし、頭はガツンガツンと痛むし、たまったものではない。

 それにしても無念なのはこの私の病弱な身体である。調べてみると、以前に風邪をひいたのはほんの四ヶ月ほど前である。よほど風邪ウイルスは私が好きなのだろうか。なぜ風邪ウイルスは私にまとわりつくのか。私にはウイルスにのみ作用するようなフェロモンが備わっているのだろうか。

 春に風邪をひくというのは、冬にひくのと違って不愉快なことが多い。冬の風邪は、まるで珍しくないから誰もたいして気にしないが、春の風邪はいらぬ注意をひいてしまう。悪くすれば、ちょうど暖かくなってきた時期だけに「夜中に素っ裸で公園をうろついていたんじゃないのか?」などとあらぬ疑いをもたれてしまうのである。まったく、名誉毀損もいいところだ。私にだって、靴下をはくぐらいの慎みはあるのである。

 そもそも、風邪によいところがあるとすればそれは「人に伝染すことができる」ということだ。たとえば腹痛や寝違えなどは人に伝染すことができない。だから、ちっとも楽しくない。つらい思いをするのが自分だけなんて、非常に理不尽である。しかし、風邪はセキやくしゃみやウイルス混入によって、他人へと伝染すことができる。風邪にかかったときの数少ない救いのひとつである。

 ところが、一般に風邪というのは空気が乾燥しているときに伝染する。春先の、空気がぬるくなってきたような時期には、そう簡単に伝染すことができない。人間というのは冷淡なものだから、自分が伝染されるかもしれないという懸念があれば、たとえ表面上だけにしても心配をするふりをするものだ。ところが、自分が伝染されないと思えば、鼻にもひっかけないことが多い。今なら「咳をしてもひとり」という句を残した俳人の気持ちがよくわかる。

 要するに、風邪をひくにはそれに適した時期があるということだ。冬以外にひく風邪には、冬に食べるそうめんぐらいの価値しかないのである。春に風邪などをひいている場合ではない。人は、冬場に風邪をひくために最大限の努力をしなければならない。冬は寒いからと公園に行くのを躊躇している場合ではない。

 


春の手紙 (2001-04-15)

 拝啓

 四月も半ばをすぎました。お元気ですか。

 私は春という季節が好きです。すべての季節から好きな季節を選んだとき、五本の指にはいるぐらいに春という季節を慕っています。残念ながらベスト3に入れるほどではないのですが、それでもそれなりに春が好きです。

 春だから、辞書で「春」をひいてみました(いつもそんなことをしているわけではありません)。春をつかったことばには、「春の目覚め」というものがありました。引用しますと、「青春期になって、性欲を感ずる情態になること。春機発動」とありました。この「春機発動」というところで、思わず笑ってしまいました。「春機発動」って、なんだか格好良くありませんか? 年頃の男の子が「春機発動ッ!」と叫んで発情するようすが目に浮かんで、ほほえましくなりました。なんだか不気味ですね、私は。

 春が嫌いな人もいます。たとえば花粉症の人などはあまり春を好ましく思っていないんじゃないかと思います。そんな人たちにとっては、今は苦難の季節でしょう。街でも大きなマスクをつけた人を、よく見かけます。マスクをしたのは小学生のとき給食当番になったときぐらいという私は、なんだか申し訳ないように思います。

 それにしても、マスクというのは似合う人と似合わない人がいますね。口と鼻が隠れてしまうわけですから、目の印象が全てになります。きりりとした眉と瞳を持つ人は、マスクがよく似合うと思います。いっそ、一年中マスクをしていたほうがいいのではないかと思ったりもします。一方で、どんよりとした目の人がマスクをつけていると、思わず警察に通報したくなっちゃいますね。

 他にも春を好ましく思わない人はいると思います。使い古された言葉ですが、春は別れの季節です。思い出の風景、親しい人、愛着ある持ち物、臭い枕など、さまざまなものとの別れを告げなければなりません。そして、見知らぬ土地で、一から自分をつくっていかなければなりません。当事者にとっては大変なことだろうと思います。

 そんなふうに新しい環境でとまどっている人がいたら、どうぞ優しく声をかけてあげてください。それが異性だったりしたら、絶好のチャンスですよ。「この時期は花粉症がつらいですね」なんてさりげない話題で、徐々に親しくなっていきましょう。そして、四月も半ばをすぎたころ、突然「春機発動ッ!」なんていいながら押し倒してしまいましょう。

 春は別れの季節ですね。

敬具
 


あいまいな境界線 (2001-03-28)

 果物と野菜をどこで分けるか。そのことに、多くの人は頭を悩ませる。それというのも、トマトやらユズやらクリやらウメやら、果物か野菜かはっきりしないものがたくさんあるからで、人それぞれに自分なりの分類をするものの、その分類に確信を持っている人はほとんどいないのである。同じように境界線があいまいなものに「セーターとカーディガン」「テロリストと自由戦士」「妄想と現実」などが挙げられる。

 むろん、果物と野菜を明確に分ける方法はある。果物あるいは野菜を定義することができれば、その定義にそって二者を分けることができる。その点、幼い子どもは単純である。『甘いほうが果物である』『色鮮やかなほうが果物である』などと、気楽に定義してしまう。しかし、言うまでもなくこれらの定義はまちがっている。

 世の中には甘くない果物(レモンなど)もあれば、色鮮やかでない果物(イチジクなど)もある。甘くもなく色鮮やかでもない果物すらあるのだ(イチジクとレモンの合成食品など)。要は、果物と野菜を定義するのはそれほど簡単なことではないということだ。もっと学術的なアプローチが必要になるであろう。だからといって、ここで植物分類学の講釈をするつもりはない。なぜなら、第一にそれは煩雑であり、第二にそれは非実用的であり、第三によく知らないからである。定義はすべからく単純でなければならない。

 この問題について、友人と議論する機会があった。彼はわが国における植物分類学の第一人者であり、殊に植物と野菜の分類に関しては誰一人およぶ者がないと言われるような人とは特に関係のない、ごく普通の男である。我々は舌鋒を交え、はたして果物あるいは野菜の定義はなんぞやと思案し、実に二時間ものあいだ議論を交わしたのであった(途中休憩の一時間五十分を含む)。

 結果、私と彼が得た結論は異なったものであった。私は『果物とはおにぎりの具にならないものである』と定義した。彼は『果物とはお弁当箱に入っていて嬉しいものである』と定義した。いずれも甲乙つけがたい。そこで冷静な第三者に判定を求めることにした。ただし、どちらか一方のみの知り合いだと、その判断が偏ってしまう恐れがある(私の知り合いなら私の考えを支持したりはしない)。そこで、私も彼も知らない知り合いを探すことにしたのだが、残念なことに、私も彼も知らない知り合いは見つからなかった(知らない人はたくさんいるはずなのに、なぜだろう)。やむをえず、次善の策として私も彼も知っている知り合い(仮にA氏とする)に電話をした。我々の交わした議論を伝え、どちらの定義がより優れているのかを判定してもらうよう頼んだ。A氏はしばし黙考したあと、電話を切ってしまった。

 結局、結論は出なかった。私と彼は「引き分け」ということで議論をおさめることにした。根拠はないが、ほとんど私の勝ちに等しい引き分けだと思う。彼は負けに等しい引き分けに打ちのめされているかと思ったが、それなりに満足そうな顔をしている。ひょっとしたら、根拠もないくせに「自分の勝ちだ」と思っているのかもしれない。こんなあいまいなことでよいのだろうか。

 


エレメンタルアンケートの結果 (2001-03-05)

先日はアンケートにご協力いただきありがとうございました。以下に集計された結果をお知らせします。

●性別を教えてください。

女性…81%
男性…9%
急性…5%
悪性…3%
相対性…2%

●職業を教えてください。

サラリーマン…4%
大学生…3%
主婦…3%
スマップ…90%

●在住している都道府県を教えてください。

香川県…99%
わからない…1%

●年齢を教えてください。

奇数…50%
偶数…50%

●このサイトをどこで知りましたか。

新聞で…0%
雑誌で…0%
ラジオで…0%
テレビで…0%
イベントで…0%
車内吊り広告で…0%
街の噂で…0%
神の啓示で…0%
遺伝で…0%
ブランデー…0%
いつかどこかで…100%

●次回作に追加して欲しい内容を教えてください。

香川県…99%
わからない…1%

●サイトをご覧になる目的を教えてください。

就職準備に…1%
仕事の上で必要…2%
常識・教養を身につけるため…1%
ニュース・時事問題を理解するため…3%
人生には無為に過ごす時間が必要だと思っているため…93%

●このサイトは10点満点で何点ですか。

評価不能(良い意味で)…0%
評価不能(悪い意味で)…100%


以上、たいへん参考になりませんでした。

 


そう明日は晴れ (2001-02-23)

 天気予報のナレーションをしている人のことを何て呼んだらいいのかわからないので、仮に「天気マン」としておくけれど、あれはあれでけっこうストレスのたまる仕事なのだろうなと思う。夜の九時ごろに明日の天気がテレビに流れたのだけれど、明日の天気はどこもかしこも晴れだった。天気マンは「明日の大阪は…晴れでしょう。明日の京都は…晴れでしょう。明日の滋賀は…晴れでしょう。明日の三重は…晴れでしょう。」と延々と晴れでしょう晴れでしょうとしゃべっていた。

 彼は必死に自分の感情を押し殺して、淡々とした口調で「晴れでしょう」なんて言っていたけれど、私には彼の気持ちが痛いほどにわかった。ちくしょー、オレはなんでこんなに晴れでしょうばっかり言ってるんだよ。晴れでしょう晴れでしょうってオレは晴れでしょう星人か。あー、この天気予報を聞いてるやつはオレのこと晴れが好きだとか思ってるんだろうな。オレだってこんなに晴れでしょうばっかり言いたかねえよ。と、彼がそんなふうに思っていることが手に取るようにわかった。

 天気マンにとっては晴れ晴れ言うのは不本意だろう。もっと激しい変化をつけたいのだろうと思う。たとえ明日が一日中日本中晴れだとしても、「明日は晴れでしょう」だけで終わってしまってはおもしろくもなんともない。「午後三時ごろまでは晴れ、明け方も晴れでしょう。朝のうち晴れ、昼前からも晴れ、昼過ぎからも晴れるでしょう。夕方は晴れ、宵のうちには晴れ、夜遅くからは晴れきっています」ぐらいは言いたかろうと思う。本当は「晴れ」というのもやめて、いっそ全然違う予報をしてやろうとすら思っているのだけれど、そこは仕事だからぐっと我慢をする。

 日本はまだましなほうだろう。それなりに天気の変化がある。砂漠の天気マンは、きっとストレスで爆発寸前だろう。毎日が晴れだ。シベリアに住む人たちには雪を表す単語が数十種類もあるという。しかし、晴れでは変化のつけようがない。雲ひとつない青空を見て、いったい何を言えというのだろう。「来年は晴れでしょう。季節によっては雨季でしょう」ぐらいで十分だ。

 個人的には天気マンに深く同情するけれど、それでも視聴者としては「我慢してください。がんばれ」というしかない。放送中に突然「あー、こんな仕事やってらんねーよ。テメー晴れ晴れって言ってるオレのことおめでたいとか思ってやがんな。オレだって落ち込むことのひとつやふたつはあるんだよ。今日も朝っぱらから課長が『ハレてきたなあ…腫瘍が』なんて笑えねぇギャグを飛ばすから嫌な気分になってんだよ。オレは繊細なんだよ。耳掃除してたらでかい耳クソが取れたって一日中幸せそうな顔をできるお前とはレベルが違うんだよ!」なんて言われても、私にはどうしようもない。

 でもまあ、どうしても我慢できないのだったら、一年に一回ぐらいはそういう日があってもいいんじゃないかと思う。でないと、彼があまりにもかわいそうだ。年に一度ブレイクする日。それが彼の晴れの日だ。

 


ウはうろ覚えのウ (2001-02-21)

 英単語がなかなか覚えられなくて苦しんだ経験を持つ人は多いだろう。「 cat 」や「 dog 」といった単純な単語ならまだしも、「 incomprehensible 」などといった極めて複雑な単語にでもなると「理解しがたい」とでも言うしかない。

 普段は覚える必要性がなくても、たとえば試験前ともなるとそうはいかない。たとえ覚えがたい単語であろうとも、なんとかして覚えてしまわなければならない。この私も同じような悩みを抱えていたこともあった。しかし、そのようなつまらない悩みをいつまでも抱えている私ではない。森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』のなかで「人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない」と書いているが、鴎外ほどの人物にとって「英単語が覚えられない」などというのは思わす笑っちゃうような悩みなのである。こんなつまらないことで悩むのは、凡俗の人間がやることなのである。私も鴎外と同じく、暗記で悩んだりはしなかった。「暗記パンがあればなあ」と思いながら、はやばやと全てを諦めてしまったのである。

 とはいえ、いつもいつも諦めていたわけではない。ときには執念深く暗記をすることもあった。私が愛用していたのは「連結式暗記法」と名づけられた由緒正しい暗記法である。私が勝手にそう名づけた。

 もう少し詳しく言うと、たとえば「environment(環境)」という単語がある。暗記者にとっての目的は「environment」と「環境」を結びつけることであるが、どう考えてもこのふたつは結びつきそうにない。そこを無理やり結びつけてしまうのである。

 まず「environment」を口に出してみる。「えんびろーんめんと」である。最も特徴があるのは「びろーん」の部分なので、そこに注目をする。「びろーん」とするものは「鼻の下」だ。「鼻の下」にあるのは「髭」だ。「髭」を持っているのは「船長」だ。「船長」がいるのは「艦橋」だ。と、見事に「environment」と「艦橋」がつながってしまうのである。

 他に、たとえば「correspondence(通信・手紙)」という単語がある。「correspondence」を読めば「これです。ポンです」となる(強引)。「これです。ポンです」とくれば、容易に手紙をポストにポンといれる情景が浮かび上がってくるだろう(無理矢理)。こんなふうにして、またひとつの単語を覚えることができるのである。

 この方法が簡単にできる単語もある。「impossible(不可能な)」などは非常に簡単だった。私が「impossible」と「不可能な」をどうつなげたかは容易に想像することができるだろう。一方、「serious(本気の・まじめな)」は難しかった。「serious」を「尻アス」から始めてしまうと、どうやっても「本気の・まじめな」に結びつかなくて困った。

 そのようにして私は数多くの単語を覚えてきた。この方法で私が暗記した単語は十指が余るほどもある。この方法を用いれば、英語の試験などは恐れるに足らずである。猫の額のように広い心を持つ私は、今この「連結式暗記法」を広く世の中に公開する。アイデア料やチョサッケン料などを徴収するつもりはないので、自由に使われると良い。この「連結式暗記法」の欠点といえば、暗記することが余計に増えるということぐらいだ。

 


空も飛べるはず (2001-01-15)

 「想像力の限界」という言葉がある。しかし、人間は「ウンコ味のカレー」や「カレー味のウンコ」すら容易に想像してしまう。その気になれば「ウンコ味のカレー風味のグラタン」や「ウンコ味の私」なども想像することができるだろう。はたして本当に「想像力の限界」などというものが存在するのであろうか。

 人はさまざまなことを想像する。楽しいことや悲しいことや怖いことなど、想像する範囲は広い。私は「人間コンピュータ」と呼ばれるほどリアリスティックな男だが(正確には「人間コンビーフ」だが細かいことはどうでもよい)、それでも想像力を持っている。ふだんから色々なことを想像する。「ランドセルが突然ジェット噴射して飛んでいった小学生の表情」とか「ふと窓を見たらエスカレーターのパントマイムをしている人がいたときの恐怖」とか、それなりに難しいことを想像する。だが、いまだに「想像力の限界」に達したことはない。

 「想像力の限界」というからには「これ以上想像できない、ぎりぎりの領域」であるだろう。いったいどの領域がそれにあたるのかはわかりにくい。ここは段階をおって考えるべきだろう。何かについて想像をする。そして、次第に難しい想像に進めていく。「これ以上は想像できない」という段階に達したら、そこが「想像力の限界」だ。目の前にパソコンがあるので、それに関して想像を進めていくことにする。

「普通のパソコン」

 これは想像するまでもない。目の前にあるのだから、それが普通のパソコンだ。「想像力の限界」まではまだまだ遠い。

「突然笑い出すパソコン」

 この程度ならまだまだ簡単に想像することができる。たぶん、誰だって想像をすることができるだろう。その笑い声まで想像することができる。そのときの私のあっけにとられた表情だって想像することもできる。あっけにとられていてもかっこいい。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコン」

 まだまだ「想像力の限界」は遠い。これぐらいなら朝飯前とはいわないけれど、それほど難しくはない。こんな調子で「想像力の限界」に達することができるのだろうか。どうやら、もっと複雑に難しくしなければいけないようだ。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵」

 一気に難しくなった。いったいどこから卵を産むのだろう。卵を産むのにふさわしいのは、パソコン前面部のイヤホン端子穴ぐらいしかない。ここから卵が出てくるのだろうか。ずいぶん小さい卵だ。それともカエルの卵のようにウニョウニョと出てくるのか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさん」

 これはかなり「想像力の限界」まで近付いているのではないだろうか。ただのおっさんの涙でもそれなりに難しいが、この想像にはさらに難しい要素が加わっている。ややもすれば「オレは何を想像しているんだ」と叫び出しそうになるのをおさえつつ想像を続けなければならない。果てして次の段階に進めるだろうか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさんからのビデオレター」

 ここらあたりが限界か。もうこの時点で想像するのがかなり困難になっている。はっきりいって、この時点でおっさんが克明に想像できる人は、自分自身が想像力の産物でないか確かめたほうがいい。少なくとも私が想像できるのはここまでだ。

 …そうすると、これが「想像力の限界」というやつなのか。意外と人間の想像力などたいしたことがないみたいだ。それとも、人間の想像力があまりに暴走しないよう、ある程度におさえられているのだろうか。ひょっとしたら、「想像力の限界」を超えてしまうと、現実と想像の区別がつかなくなってしまうのかな。

 ねえ、おっさん。

 


新年のごあいさつと長い前置き (2001-01-03)

 小さいころ中耳炎にかかったことがある。それで医者にかかったのだけれど、そのとき「鼻がつまっているのがよくない」というようなことを言われて、鼻づまりを取ってもらうことになった。どうやるかというと、鼻の穴に二本のチューブを突っ込んで、食塩水を流し込むのである。そうすると、逆流した鼻水が食塩水とともに口から流れ出してくるのだ。

 絵的には変な感じもするが、これが思った以上に気持ちよいのである。おそらく同じ経験をした人もわりといるだろうから、その気持ちよさがわかってもらえることだろうと思う。聞いた話では、そのようなことを家庭でも行えるような器具が発売されているらしい。私は買っていないけれど、結構売れてるんじゃないだろうかと思う。お客さんが来たときなんかも「ひとつすっきりしてみませんか」なんて感じでもてなせるし、外出時に持ち歩けば「おねえさん、いっしょに口から鼻水出しませんか」なんて気軽に声をかけることができると思う。

 基本的に、身体から排泄物や老廃物を取り除くのは気持ちいい。もちろん、世の中には私の想像も及ばないような趣味の持ち主がいるのだろうけど(三段腹に挟まった垢を見ると興奮するとか)、たいていの人はそういう行為を気持ちよく感じているのではなかろうかと思う。鼻の毛穴に詰まった老廃物を取り除く「毛穴すっきりパック」や、眼球をすっきりさせたければ「アイボン」などは、ちょっとしたヒット商品になっている。

 あと、口の中はこれといった商品がないけれど、古くから「歯ブラシ」というものがあるし、たいていの飲食店には「つまようじ」が置かれていて口の中をすっきりさせようと待ち構えている。「浣腸」なんかも「すっきり商品」のロングセラーだろう。あれにはいろんな楽しみかたがあるけれども、基本はやはり「腸をすっきりしたい」という願望から生まれてきたものだと思う。

 と、ここまで読んで多くの人が思うことだろうけど、「耳」に関する分野が極端に劣っているのである。むろん、「耳かき」「綿棒」というロングセラー商品があるけれども、本当にあれで「すっきりした」と思うかといえば、どこか物足りない人が多いのではなかろうか。いわば「すっきり商品」の最後の砦が耳に関する商品なのだ。

 中耳炎の治療で「鼻づまり」は治ったけれども、肝心の耳はあまりいじってもらえなかった。右耳から食塩水を注入すると、左耳から脳漿が流れ出てくるとか、そういうすごい器具があるのかと言えば、ないのである。耳というのは、なかなか「すごくすっきり」という実感を味わうことができない。私はわりと耳かきが好きだから、毎夜毎夜耳に耳かきを突っ込んでいるけれども、掘り尽くしたという充実感を味わったことはない。

 そういうわけで、耳垢をすっかり取り除くことができるような器具ができればすごく売れるのではないかと思う。と言うのは簡単だけれど、つくるのは難しい。耳はひどく脳に近いので、うっかりすると鼓膜を突き破って昇天してしまうかもしれない。どこの企業だって、「全自動耳垢取り除き装置」なんてものを発売するだけの勇気はないと思う(発売されたとしたら、私はそれをはじめて人体実験した人に拍手を送りたい)。

 ではどうすれば「すごくすっきり」という感覚を味わえるのかといえば、私の考えるのは「取り外し可能耳」だ。どうも、そうでもしないと耳を満足いくまで綺麗にすることはできないのではないかと思うのだ。どうすればそんなことができるのかは専門家に任せるとして、耳をカコッと取り外して掃除することができれば、さぞかしすっきりするのではなかろうかと思うのだ。そして入念に掃除をしたあと、新品のような耳を再び取り付ける。もう、想像しただけで気持ちよくて叫びたくなる。

「ア・ハッピー・ニュー・イヤー!」

 そういうわけで、今年もよろしく。

 


コレクター (2000-12-23)

 世の中にはコレクターと呼ばれる人がいて、何をするかというと、ものを集めるのである。当たり前だ。しかし、その集めるものというのはあまり当たり前ではない。マッチ箱とか割り箸の袋とか本のしおりとか、実にどうでもよさげなものを集めるのである。そういうコレクションを見せられると、よほど家庭がうまくいっていないのかと心配になってしまう。とにかく、そんなふうにものを集めるのがコレクターである。

 とはいえ、ものをたくさん持っている人が、みんなコレクターかといえば、そんなことはない。コレクターがコレクターであるためにはいくつか条件がある。まず、コレクターたるためには「ものを集める意思」がなければいけない。自然に集まってくるようなものをたくさん持っていても、あまりコレクターとは言われない。たとえば歳をとると病院へ行ったときたくさんの薬をもらうけれども、これはコレクターではない。勝手に医者が種類を決めるのだから、その人に「薬を集める意思」がないからである。また、夏にキャンプなどをすると異常なほどに周囲に蚊を集めてしまう人がいるけれど、これもコレクターではない。その人に「蚊を集める意思」がないからである。さらに、私が街を歩くと異常なほどに女どもが集まってくるけれど、これもコレクターではない。ただの妄想だからである。

 コレクターたるためには「ものを集める意思」だけではいけなくて、さらに「ものを愛でる意思」がなければならない。たとえばリンゴ農園のおじさんはリンゴを育てて実ったリンゴを集めているけれども、それはコレクターではない。もちろん集めたリンゴに愛着はあるのだろうけど、それは自然な感情の発露であってコレクターの持つ愛着とは違う。コレクターにとっての愛着はもっと粘着質だ。おじさんにとっての愛着が砂漠のオアシスを見つけたときのようなものだとすれば、コレクターにとっての愛着は砂漠で砂地獄に入ったときのようなものだ。ずぶずぶとのめりこむように抱きしめるようにからみつくように愛するである。そうでなければコレクターとはいえない。

 そうやって「ものを集める意思」と「ものを愛でる意思」というものがあって、ようやくコレクターとしては半人前というところで、あとは「ものを評価する能力」というのが必要になってくる。これはコレクターじゃなくてもたいていの人が持っている能力なのだけれど、やはり能力だけに高い人と低い人がいる。高い人はものの価値がよくわかっているひとだから、つまらないものを集めたりはしない。時計とか宝石とか稀覯本とか、一般の人にも訴求力があるようなものを集める。能力の低い人は、何を考えているのかわからない。非常につまらないものを集める。空き缶とか女性の枝毛とか瓶詰めの蛇とか、スレスレのものばかり集める。そういう人たちは自分の「ものを評価する能力」が低いとは思わないで、自分が不当におとしめられているだけだと思い込むようにしている。

 で、どちらがコレクターとして上なのかといえば、もちろん後者だ。言わせてもらえば、前者のほうは何の独創性もない。ただ、価値があるといわれているものを集めているだけだ。しかし後者は違う。周囲の偏見と内面からわきでてくる疑問を押さえつつ、強い意志ととほうもない労力を費やしてものを集めているのである。後者こそが人類の文化をその土台から支えてきたといっても過言だろう。

 そんなふうにいくつかの条件を満たしてやっとコレクターになれたとしても、いつまでもコレクターでいられるとは限らない。いろいろな出来事によって、コレクターを廃業することを余儀なくされることはよくある。結婚とか就職とか、そういった人生の転機で挫折するコレクターはよくいる。また、人生観や価値観が変わると、いままで集めていたものがクズ同然に見えてしまうこともある(実際にはクズ以下なのだが、そこまでは気づかない)。周囲に反対されて挫折する人もいる。人はそうして大人になっていくのである。そういうわけで、一生をコレクターとして過ごす人は少ない。実際、一生をコレクターとして過ごすことは、周囲が妙な趣味に理解があって、人生の転機(結婚、就職など)がおよそ一度もなくて、いつまでたってもクズ同然のものを宝と思えるような、選ばれし人間のみに許されることなのである。

 できることなら選ばれたくないものだ。




くれゆくひととせ (2000-12-20)

 私の通っていた小学校では、クリスマスを前に「合奏コンクール」というものがあった。クリスマスにちなんだ曲をクラスのみんなと合奏するというものだ。小学生のやることだからサックスとかホルンといった複雑そうな楽器を奏でたりはしなかった。合奏コンクールの花形は、なんといっても「木琴」だったと思う。花形にしては地味だけど、少なくとも私はそう思っていた。指揮者やシンバルも目立ってかっこいいけれども、やはり木琴の魅力にはかなわない。軽快な音を響かせ二本のばちを自在に操る姿は、まさに合奏コンクールの主役であった。

 こうやって木琴を持ち上げておいて言うのはなんだか恥ずかしいのだけれど、私の役割はその合奏コンクールの主役ともいえる木琴奏者のすぐ隣でトライアングルをたたく係だった。トライアングルとは、細長い鉄の棒を三角形に曲げて、それを同じく細長い鉄の棒でたたく、という楽器だ。たたくと「チーン…」という音がする。わりとみじめだった。

 ポコポコと軽快な音を響かせる木琴。その隣で「チーン…」。はじめは誰かの陰謀かと思ったものだ。トライアングル奏者は三人いた。ポコポコと軽快な音を響かせる木琴。その隣で「チーン…チーン…チーン…(ハーモニー)」。あとには誰かの陰謀であることを確信したものだ。

 一応、楽器別に練習などをした。部屋の片隅でトライアングルを手にとり寄り添う三人。無言である。「チーン…」という音だけが響く。そこだけ別世界だ。遠くから木琴の軽快な音が聞こえてくる。先生はたいていそっちにいる。たまにこちらの世界にやってきて、我々の練習ぶりを観察する。三人は並んで「チーン…チーン…チーン…」。先生は満面の笑顔で「上手い、上手い」と言ってくれた。とても嬉しくなかった。

 そんなこんなで、トライアングルにいやけがさしていたころ、転機がやってきた。「木琴奏者をもう一人増やそう」と先生は言った。「どうも音のバランスが悪い」らしいので「トライアングル奏者をひとり減らしたい」そうだ。なかなか失礼なことを言う先生だ。ともあれ、われわれ三人のうちから一人が抜けることになった。三人はにわかに活気付いた。そう、これでこそクリスマスである。

 先生はいまだ三人のうち誰を木琴奏者にするのか考えていないようであった。この数少ないチャンスをなんとかつかもうと、私は必死でアピールした。先生の目に止まらんとして、発情した猿のようにトライアングルを激しく打ち鳴らした。幸せは自らの手でつかみとらなければならない。そして、それは効を奏した。先生は私の激しいアピールに心を打たれて、こう言った。「トライアングルが好きみたいだね」。その後、木琴奏者に選ばれた裏切り者を横目で見ながら思った。「けっ、先公に媚びやがって」

 それから、ますます練習は暗くなった。二人で向かい合ってトライアングルをたたく。あちらから「チーン…」。こちらからも「チーン…」。托鉢僧だってもう少し元気に行脚するだろう。ともかく我々は沈み込むばかりであった。おそらく、先のようなチャンスはもう二度と巡ってこないだろうと思っていた。小説じゃあるまいし、そうそう都合のいい展開にはならないだろう。まったくそのとおりで、そのまま本番がやってきた。

 私の晴れ舞台にふさわしく、空はどんよりと濁っていた。たった数分間のことだ。これぐらいでくじけたりはしないぞ。そう自分に言い聞かせた。それに、私はひとりじゃない。ひとりでトライアングルをたたくのは猛烈に寂しいけれど、私には仲間がいる。合奏コンクールで目立つことなんかより、私はもうひとりのトライアングラーとの友情を大切にしたい。きれいごとかもしれないけれど、私は彼を裏切ったりしない。そう思っていたら、彼は本番を欠席した。

 ひとりでトライアングルを持たされた私がどうしたかといえば、もちろん立派に舞台をつとめあげた。二台の木琴の横に立ち「チーン…」。一人ではハーモニーも何もあったもんじゃない。季節はずれの風鈴のように、虚しく音が響く。

 チーン…。




ほめ称えよ (2000-12-05)

 優しくほめればつけあがる。むりやりほめれば角が立つ。甘くほめれば流される。意地でほめれば窮屈だ。とかくにほめるのは難しい。

 うまくほめるというのも難しいが、うまくほめられるというのも難しい。まず、ほめられるようなことをしなければならない。一口にほめられるようなことといっても、たくさんある。横断歩道で立ち往生しているおばあさんの手をひいて渡ったり、坂道で疲れきってしまったおばあさんを背負ってあげたり、エスカレーターになかなか乗れなくて困っているおばあさんの背中を一押ししてあげたり、そういうのはほめられるようなことなのかもしれないが、善行としては弱い。

 だからといって国際テロ組織が国連ビルに仕掛けた爆弾を解体したり、宇宙から来襲した宇宙怪獣を巨大化してやっつけたり、銀行強盗が人質を楯に銀行に立てこもっているのを見かねて銀行業務を手伝いにいったりするのは、ほめられるようなことなのかもしれないが、強すぎる。

 そのへんのさじ加減が難しい。あまりに貧弱な善行ではほめられるのが照れくさい。あまりに強力な善行ならばほめられるまでもない。ほめられるにちょうどよい善行というものがある。それを実行するのはなかなか難しい。

 また、ほめられたときの反応も難しい。「よくやった」とほめられて仏頂面をしているのは、いかにも感じが悪い。本心では素直に嬉しいのだけれど、それを表に出すのが照れくさくてブスっとしているだけなんです、と心で訴えても通じはしない。本心では素直に嬉しいのだけれど、ただ単にブスなんです、と心で訴えても通じはしないけど、それはわかってもらえる。

 一方で、「よくやった」とほめられて大げさに喜ぶのもみっともない。「いやあ、そんな、当然のことをしたまでですよ。ハハハ(笑い声)」なんて言うと、逆に品性を疑われる。ほめられたのだから喜ぶのが正しいはずなのだけれど、それがそのまま通用するほど世の中は甘くない。喜んでも、喜ばなくても、どっちにしろはかばかしい反応は得られないのだから、難しい。

 ほめられたあとの人生をどう送るかも難しい。ほめられたからには、きっと「いい人」と思われているはずだ。一度「いい人」になってしまうと、悪いことをするのが難しくなる。ふだんは冷たい人がたまにやさしい面(仔犬とたわむれるなど)を見せると、その行為以上に「いい人」に見える。逆に、ふだんはやさしい人がたまに邪悪な面(仔犬をたわませるなど)を見せると、その行為以上に「やな奴」に見える。したがって、「いい人」は邪悪な行為がやりにくい。一度ほめられただけで、その後もほめられつづける人生を歩まねばならないのは、わりとつらそうだ。

 これだけほめられるのは難しいというのに、得られるものはほとんど何もない。せいぜい「ほめられた」という満足感ぐらいのものであって、それすらも「ほめられてしまった」という後悔に変わってしまうかもしれないのだ。それだったら、はじめからほめられないほうがいいのかもしれない。ほめられてストレスをためるのもバカらしいし、それがもとでストレス死してしまうかもしれない。今度からはほめられたら相手が自分を殺そうとしているのではないかと疑ったほうがいいかもしれない。なるほど、これがほめ殺しというやつか、と。




ツメと会議 (2000-12-02)

 人はたまに果てしなく くだらないことを考え出してしまうときがあり、果てしなく くだらないことはわかっているのに自分ではどうしても止まらないということがある。たとえば、ツメを切っているときに、ふと「どうしてツメは伸びるのだろう」という疑問が頭をよぎる。一度よぎってしまうと、もう取り消すことはできない。結論が出るまでツメを切ることも忘れて考え込んでしまうことになるのである。

 そんなくだらないことを考えている暇があったら、もっと実のあることを考えるべきなのである。アフリカの大地に埋まる地雷をどうやったら撤去できるのかとか、南米の熱帯雨林をどう保護していくのかとか、魚の目はどういじったら気持ちいいのかとか、そういう地球規模で重要な問題は山ほどあるのだ。にもかかわらず、くだらない思考は止まらず、あまつさえ「ツメ伸びどうして会議」などを頭のなかに作り出してしまい、議論をさせはじめてしまうのである。

 「ツメ伸びどうして会議」の出席者の一人は言う。「ツメというのは人間の指先にあり、多くのものに触れる。したがって、ツメの磨耗を補うためにツメは伸びるのだ」と。しかし、この主張は他の多くの出席者たちの失笑を買っただけであった。「では、どうしてあれほどツメが伸びる必要があるのか。ひと月に三度も切らねばならぬほどツメは伸びるのに、すりへっているのはわずかではないか」。その指摘に答えられなかった発言者は顔を赤らめ、自らの主張をひっこめたのである。

 次の発言者は言う。「猛獣にとってのツメは、武器のひとつである。人間にあっても同じだ。我々が他人を傷つけ、その肉に深く食い込ませるために、ツメは伸びるのである」。この主張は先ほどよりも多くの出席者を納得させたものの、それは発言自体の説得力によるものというより、発言者の顔に刻まれた三本のみみずばれの功績が大きかった。発言者に昨夜何があったのかを聞くものはいなかった。

 次の発言者は言う。「ツメとは『時間』というものを可視化すべく伸びるのである。我々はこの手で『時間』をつかみとることはできない。だが、空間的存在である我々が時間的不連続体でないことを、ツメが日々伸びることによって確認することができる。それこそがツメの役割なのだ」。この発言は「何を屁理屈を言ってやがる」という罵倒の末に退けられた。

 次の発言者は言う……。

 と、こんな具合に会議は果てしなく続いていく。こうなっては、もう私には止められない。なんらかの結論めいたことがでてくるのを待つだけである。だが、議論の果てに建設的な結論がでてくることは皆無に近く、最終的にはくだらない疑問にふさわしく、くだらないシャレで会議が終わってしまうのが常である。「結局、あなたがた発言はツメが甘かったということで…」という感じに、うやむやのうちに終わるのである。どうせたいした結論がでないんだったら、はじめからこんな会議を開かなければいいのに、と会議が終わったあとにいつも思うのだが、失った時間は取り返しようもなく、私はツメを噛んで悔しがるしかないのだ。

 そうか、このためにツメは伸びるのか。




買いざまを見ろ (2000-11-20)

 十一月も半ばをすぎて、冬物の服を買いにいってきた。相変わらず、洋服屋の店員はエネルギッシュでアグレッシブだ。店舗に入ったとたんに目をつけられる。こちらが目を合わせないようにしているにもかかわらず、すりよってきて「何をお探しでしょうか?」と尋ねてくる。そんなことは、私だって知らない。何を買うかしっかり決めて服を買いにくる人もいるのだろうけど、そんな人はそれほど多くはないはずだ。だいたい、私が「黄色の布にピンクの水玉が入っている、昇り竜の模様がはいった網タイツをください」といったら、それを出してこれるのか。出してこれないだろう。貴様は私が欲しいものを選ぶのをじっと見ていればいいのだ。

 「冬物をお探しですか?」
 当たり前だ。何を好きこのんで冬場に夏物を探さなければならないのだ。だいたい、店には冬物しか置いてないじゃないか。寂れた商店街の二十年前からいつでも同じ夏冬の服が吊るされているような洋服屋ならいざしらず、冬物しか置いていない店でそんなことを聞くんじゃない。肉屋が「肉をお探しですか?」と聞いてきたらおかしいと思うだろう。パン屋が「パンをお探しですか?」と聞いてきてもおかしいと思うだろう。カメラ屋で「『投稿写真』の今月号は置いてますか?」と尋ねた友人の北嶋の頭はおかしいと思うだろう。わかったら、口をつぐんでるんだ。

 「今年は少しゆとりのあるセーターなんかが、よく出てますよ」
 ああ、そうですか。それがどうしたっていうんだ。私にそれを着ろっていうのか。その、すきま風がよく入ってきそうなセーターを。その、そで口が妙に長いセーターを。それを着て私にどうしろっていうんだ。下着姿で、その大きめのセーターを着てベッドに寝そべれとでもいうのか。そして「恥ずかしい…」なんて頬を染めながら言えとでもいうのか。なんて破廉恥なやつだ。助平な野郎だ。お前はそんなことばかりを考えていて恥ずかしくないのか。

 「ブラウンのパンツなんかはお好きじゃないですか?」
 「ブラウンのパンツ」ってなんだよ。気取りやがって。「茶色いズボン」って言えないのか、お前は。それに、勝手に人の好みを当て推量するんじゃない。私のどこをどうみたら茶色のズボンが好きそうに見えるっていうんだ。たしかに茶色のコートを着て茶色のマフラーして茶色の靴を履いているけど、それはいつも着ている黒いコートがクリーニングから返ってこなくて、いつも巻いている紺のマフラーを電車に置き忘れて、いつも履いているグレーのスニーカーを裏口に取りに行くのが面倒だったからじゃないか。それぐらい、見てわからないのか。それでもプロか。それすらわからないで茶色いズボンを勧めるなんて百年早い。

 「このジャケットは襟のファーが簡単に取り外せるんですよ」
 「ファー」ってなんだよ。その気の抜けた音はなんだよ。男がそんなことを口にして恥ずかしくないのか。おととい栓を抜いたコーラでも、もうちょっと気合がはいってるぞ。男は「ファー」なんて口に出さないもんだ。ドレミソラシドだ。わかったか。それから、その「ファー」とやらをつけたりはずしたりするのはやめろ。楽しそうじゃないか。ホックがはずれる軽快な音を聞いていると、なんだか嬉しくなってくるじゃないか。やってみたくなんかないぞ。やってみたくなんかないんだからな。


 ……というようなことがあって、今日はゆったりセーターとブラウンのパンツとジャケット(ファー取り外し可能)を買いました。




幻の女 (2000-11-12)

 駅のホームに立つと、
「まもなく二番線に列車がまいります。危険ですからご注意ください」
 といったアナウンスが流れる。おそらく、今までに何百回となく聞いている声なのだけれど、いまだにあの声の持ち主がいくつぐらいなのか想像がつかない。十代だといわれれば、そういう気がする。三十代だといわれれば、そういう気がする。五十代だといわれれば、さすがに無理があると思う。とはいえ、年齢不詳の幅はたいへんに広い。

 職業もわからない。もちろん、駅でのアナウンスを用意するのも彼女の仕事なのだろうけど、それだけではあるまい。それだけで人生がやっていけるとは思わない。やっていけたとしてもやっていこうと思わない。きっと、彼女には他に業務があるはずなのだろうけど、それがいったいどのようなものかわからない。当然ながら、彼女の顔も姿もわからない。その素性のわからなさは「時報の女」に匹敵するといわれる。聞けば聞くほどわからなくなるのが、彼女の声なのである。

 抑揚のない口調が彼女の素性をわからないものにさせているのだろう。もし、彼女が大いなるオバサンだったら、実際にはどんなふうにしゃべるのだろうと想像してみる。
「二番線に電車がくるで〜。はよどきや〜。そこのおっちゃんも、はよどかんと危ないで〜。轢かれても知らんで〜」
 という感じだろうか。そんな感じだったら、たいへんわかりやすい。だが、おそらく彼女の隠れファンクラブは完全に消滅してしまうだろう。私も会員証(自作)を返上する。

 彼女が深窓の令嬢だったとしたら、実際はどんなふうにしゃべるのだろうと想像してみる。
「二番線に列車がまいります。たいへん危険ですので、線路には近付かれないようお願いいたします。みなさま、毎朝ごくろうさまです。みなさまのおかげでこの社会は正常に運営されています。そして、われわれのような、やんごとなき身分の人間を支えてくださいます。賎民のには感謝いたしております。今朝はパンがないのでケーキを食べてまいりました。それでは、ごきげんよう」
 という感じだろうか。きっと出勤する人はいないだろう。

 彼女が私だったとしたら、どんなふうにしゃべるのだろうと想像してみる。
「二番線に列車がまいります。危険ですのでご注意ください。走行中の列車にぶつかったときの惨状は目を覆うばかりです。おそらく原形を残さずして、肉片があたりに散らばることになるでしょう。そこの通学中のお嬢さんの制服にも引きちぎられた肉片がはりつくことでしょう。『はりつく』というより『へばりつく』という表現のほうがよりふさわしいと思われます。引きちぎられた肉片は、駅員がシャベルで集めます。ホームに落ち、踏みつけられた肉片をシャベルでこすりとるように集めます。グチャグチャのドロドロをホームから引き剥がすのは、ホットプレートにはりついたお好み焼きをはがすのに少し似ているかもしれません。そこのお父さん。今夜の夕食はお好み焼きかもしれませんね。もし、そうだったらこのアナウンスのことを思い出してくださいね。それでは、さようなら」

 もし彼女が超能力者だったとしたら、こういうだろう。
「朝っぱらから、つまんないこと考えてんじゃない」
 ホームに立つほとんどの人がギクリとするだろう。




秋の夜長に (2000-10-23)

 秋の夜は長い。

 そのように言われているものの、実際に秋の夜が長いかどうかは、計ってみなければわからない。夜がはじまると同時にストップウォッチを押し、夜が終わると同時に止める。インチキがないように立会人を呼んでおいたほうがよいかもしれない。そうして正確な夜の長さを計り、夏や冬の夜の長さと比較してこそ、秋の夜が長いかどうかはわかるのだろう。

 ただ、このばあい問題になるのは、はたして「夜」というのはいつからはじまるのか、ということである。「夜」とひとくちに言っても、たとえば太陽が地平線に沈んだ瞬間から夜がはじまるのか、街灯に明かりがともったときから夜なのか、一番星が見えたときから夜なのか、いったいいつから「夜」ということができるのかは、素人には判断しにくい。ゆえに、正確に秋の夜の長さを測ろうと思ったら、夜判定協会に協力をしてもらう必要がある。

 夜判定協会というのは、その名のとおり「夜がいつからはじまるのか」という判定を専門にしている協会である。今が夜かどうか判断したいとき、たいていの人は夜判定協会に頼ることになる。「こんにちは」と言うべきか「こんばんは」と言うべきかわからなかったり、「夜のお菓子」をいつから食べたらいいのかわからなかったりするときは、夜判定協会に電話をすればよい。きちんと年会費さえ納めていれば、今は夜かどうかを教えてくれる。今回にように、厳密に夜の長さを計りたければ、専門家を派遣してもらってもいい。夜判定協会はあまり仕事がないそうなので、このような一大イベントになら喜んで来てくれるだろう。

 そういうわけで、今回は特別に夜判定協会の幹事長を呼んである。一般に幹事長といえば肩書きばかりで実力が伴っていないように思われがちだが、夜判定協会の幹事長は違う。先日ストックホルムで行われた「夜判定コンクール」で三位決定戦に負けたほどの実力を持っている。夜に対する感度については折り紙つきだ。ふつうの人であれば、なんとなく部屋が暗くなってきたときに、ようやく「夜だ」と思うぐらいだが、幹事長ともなればもっと早い段階で夜の気配を感じとる。夜を判断するのが得意な動物といえばフクロウだが、フクロウが夜を感じとると同時に、幹事長も感じちゃうのである。正直言って、素人にはいったいどうやって判定しているのはわからない。空気の流れとか、月の引力を六感で感じ取って夜を見きわめているらしいのだが、どうも嘘臭い。とはいえ、幹事長が言うからには「夜」なのである。

 さて、幹事長が夜を告げれば、いよいよ計測開始である。「もうすぐ夜が始まります……、五、四、三、二、一、ゼロ!」というカウントダウンと同時にストップウォッチをスタートさせる。立会人は、確かに不正が行われていないことを確認する。それに加えて、今回は故障に備えて精密機器メーカーのサービスマンも立ち会っている。万が一ストップウォッチに何らかの障害が発生しても対応できるよう、万全の構えをとっている。あとは、見守るだけである。ただ、集中して見守っていればよい。大きな音を立てると夜がおびえて逃げてしまうかもしれないので、じっとしているように幹事長から注意が飛ぶ。動くとほこりや振動で精密機器に微小な狂いが生じる恐れがあるので、できるだけ動かないようにサービスマンからも注意を受ける。立会人と幹事長とサービスマンとあなたは、ただひたすら時が刻まれていくようすを見ているしかない。はっきりいって、これはかなりイライラがつのる。実際にやってみればわかると思うが、夜の間ずっと時計を見ているのはかなりつらい。しかし、そこをこらえなければならない。だから、かなり精神の状態が安定しているときでもないと、この「夜の計測」をこなすのは難しいだろう。ただでさえイライラしているときにこんなことをしていたら、数分ごとに癇癪を起こして、切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだろう。

 そうやってストップウォッチを見守っているうちに、いよいよ夜が終わりそうになる。幹事長が「あと一分で夜が終わります」と言う。幹事長は夜を見守るという仕事があるからまだしも、立会人やサービスマンはただひたすらストップウォッチを眺めているだけなのだから退屈しきっている。ようやく終わるのか、という気持ちをありありと表情に出しながら、ストップウォッチを見つめつづける。いよいよ幹事長が秒読みを開始する。あなたはそっとストップウォッチを手にとる。「あと五秒、四、三、二、一、ゼロ!」。カウントダウンが終了すると同時に、ストップボタンを押す。ようやく終わった。幹事長が大きな拍手をする。サービスマンと立会人は抱き合って喜んでいる。三人とも重責を果たした充実感と開放感からほっとしているようだ。このような苦労を重ねて、はじめて夜の長さというのは測定できるのである。

 さて、いよいよあなたはストップウォッチの記録を確認する。なにしろ、このボタンを二度押すためだけに、一晩を費やしたのだ。そうして、ようやく手に入れた貴重な記録だ。あなたはストップウォッチに目を落とす。そして、愕然とする。ボタンを押し間違えてしまったのだ。あなたがストップボタンのつもりで押したのはライトをつけるボタンだ。明るくしてどうする。時計は止まることなく、相変わらず時を刻んでいる。おそるおそる三人のようすをうかがうと、もうパーティームードである。用意されていたシャンペングラスを片手に、この夜の苦労を語り、喜びを分かち合っている。そんな三人に、あなたは「ごめん。ボタン押し間違えちゃった」なんて言えたろうか。それだけはどうしても言えなかった。あなたはそっとストップウォッチをポケットに隠し、三人の歓談に加わった。ポケットの中では、まだ静かにストップウォッチが時を刻んでいる。

 夜はまだ続く。





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