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冷たい方程式

2002.01.03


 私は雪が好きだということを知っている人のあいだでは周知の事実なのだが、私は雪が好きである。

 ただ、残念なことに私が住む地方は冬にしか雪がふらない。むろん、一年中雪がふる地域に住む人には、また違った思いがあるのだろうが、率直にいって寂しく思う。

 少年のころ、一年中雪を見ていたいと思った私は、雪を保存しようと考えた。もっとも、大量の雪を保存できるような設備を持たなかったので、ほんの一握りだけである。ガチャガチャ(地方によってはガシャポン)の丸いプラスチックカプセルに雪を詰め込んで、冷凍庫に保存した。以来十数年たつが、いまだにそのカプセルは冷凍庫に鎮座している。

 あまり知る人もいないことだが、雪というのは冷凍庫に入れてしばらくすれば、ふわふわの原型をとどめず、ただの白濁した氷のようになってしまう。元の姿を知らない人が見れば、ただの小汚い氷を詰め込んだカプセルが置かれているだけだと思うだろう。だが、私はそれがいかに美しく輝いていたかを知っている。ときおり、私は冷凍庫の前で小汚い氷を見てうっとりと目をうるませる。両親は、そんな私の姿を見て目をうるませている。

 カプセルを保存してから冷凍庫が壊れてしまったことが一度ある。そのときは、友人の家まで行ってカプセルを保存してくれるように頼みにいった。小汚い氷を後生大事に抱え込んで、息をきらしながら「これを頼む」と言った私を見て、彼はどう思っただろうか。こればかりは想像するしかない。おそらく、友情にあつい彼は、「何も言うな、オレにまかせろ」という気持ちだったのではないだろうかと思う。実際、彼は何も言わずカプセルを受け取ってくれた。それ以来、彼が何も言わない日は続いた。

 こうやってカプセルのことを書きながら冷静に考えてみると、どうしてあんなものを私は保存しているのだろうと思わなくもない。冬を待てば雪はふるのだ。わざわざ保存しておかなければならないほど貴重なものではない。思えば、冷凍庫が壊れたときに、思い切って下水にでも流してしまえばよかったのかもしれない。はっきり言えば、今の私は「雪が好きな人」というより「小汚い氷が好きな人」にしか見えないのではないだろうか。

 だが、これほど長く保存したものを下水に流してしまうのは、ひどく残念な気もする。死ぬまで保存するわけにはいかないのだから、いずれ捨ててしまうにせよ、もっと愛のこもった最期を送らせてやりたい。できることなら、私がその小汚い氷を飲み込んでしまってやりたいと思う。これが愛なのかしら。

 唯一問題があるとすれば、この雪が十年以上の時を経たものであるという事実だろう。いくら冷凍庫にいれておいたとはいえ、そこらの生水などよりよほどあたる可能性が高い。下痢になるぐらいならまだしも、とんでもない菌が繁殖しており、ばったり倒れてしまうかもしれない。その後、わたしが生きて帰れるかどうかは、運を天にまかせるしかない。これがほんとの雪あたりばったり。

 


密やかな密やかな

2001.12.18


 夢を他人に伝えることは難しい。なぜなら、第一に、夢は荒唐無稽であり、筋道だったストーリーを持たない。第二に、夢は映像主体であり、ことばだけでは表現しきれない。第三に、誰も私の話を聞いてくれない。

 それでも努力はしてみるべきだと思う。先日、非常に怖い夢を見た。夢のなかで私は散歩をしていた。すると、大量の肉まんに襲われた。私はぐるりと肉まんたちに取り囲まれた。

「――でさあ、もうやばいと思ったわけ」
「へえ…」
「ホカホカの湯気とかたてやがってさ」
「へえ…」
「逃げ道もふさがれて、これは勝負するしかないな、と」
「へえ…」
「よーし! おしくらまんじゅうで勝負だ!」
「ごめん、ちょっとトイレ…」

 そして誰もいなくなった。

 私のつたないことばでは理解されないが、私の夢は確かに怖かったはずなのである。しかし、なかなかその怖さが伝えられず、もどかしい思いをすることが多い。もし私と同じ夢を見させることができれば、私が恐怖でおねしょしてしまうことをも辞さない覚悟で眠りにのぞむ理由もわかってもらえるだろう。

Ψ

 それはそうと、怖い夢というのは、見ているうちは嫌な夢であっても、夢から覚めてみればなんだか物足りないことが多い。覚めてみれば、どうせ夢のなかだったのだからもっと自分を怯え苦ませてやればよかったと思うこともままある。これは、自分をいじめるのが好きなのか、それともいじめられるのが好きなのか、どっちなのかは知らないが、どっちにしろ友達になりたくないタイプではある。本人でよかった。

 ところが、そんなふうに夢のなかで自分を追い詰めようと望んでも、夢をコントロールすることはなかなか難しい。夢というのはコントロールできないからこそ夢なのであって、自由にコントロールできる夢は、世間一般には妄想と呼ばれている。そして、妄想は悪夢に比べて不健全なことだと考えられているのである。別に、妄想で自分を痛めつけようとは思わないから、それはそれでいいのだけれど、やはり夢を自由に操ることができないのは悔しい。

 もっとも、まるで夢をコントロールできないかといえばそういうわけでもない。夢というのは日常体験に深くかかわっているものであるからして、日常を限りなく悪夢に近づければ夢でも悪夢を見ることができるのだろう。つまり、悪夢のような生活を送れば、思い通りの夢を見るという希望が叶うのである。

 ――夢も希望もないはなしではあるが。

 


動詞の活用

2001.12.09


 動詞からつくられた名前というのはわりと多い。耳慣れている名前だけでも、ワタル(渡)、ススム(進)、サトル(悟)、シゲル(茂)、トオル(通)、マモル(衛)、タモツ(保)、ミチル(満)、ノボル(昇)、アユム(歩)、メグム(恵)、ユズル(譲)、マサル(勝)、ヒカル(光)、ミノル(実)、カオル(薫)、トム(富)、などなど数えあげればきりがないほどである。

 もっとも、名前として違和感がない動詞が多いからといって、あらゆる動詞が名前に適するはずもない。上に挙げたような、名前に適した動詞もあれば、適さない動詞もある。では、その境界線はどこにあるのだろうか。日常生活では食う、寝る、漏らすの三種類ぐらいしか動詞を必要としない私なのだが、ここぞとばかりに脳内データベースをフル稼働させて、さまざまな動詞から名前をつくってみた。

 いちおう、私が「これならいいんじゃなかろうか」と思ったものがいくつかある。
・ セメル(攻)くん
・ イドム(挑)くん
・ モエル(萌)ちゃん
 あまり聞き慣れたものではないけれど、何度か聞いていれば違和感を感じなくなるような名前だろう。実際にこういう名前の人がいたって、私はちっとも驚かない。こういうのが、名前に適した動詞である。

 逆に、私が聞いて違和感を感じるものをいくつか挙げてみるならば、次のようなものがあるだろう。
・ ムレル(蒸)くん
・ クサル(腐)くん
・ ハラム(孕)ちゃん
 発音はさして悪くないような気もするのだけれど、やはり動詞のインパクトが負の方向に強すぎて、名前としては一般受けしないかと思う。ようするに、しごく当たり前の結論になるのだけれど、もとの動詞のインパクトが正の方向性を持っていれば、多少発音がおかしくてもそれなりに一般受けするし、そうでなければそうでないということなのだろう。

 ちなみに、選考の過程で「動詞からつくられた名前で、日本一カッコいいのは何だろう」ということも考えていた。検討の結果、次の名前が日本一だろうという結論に達した。

ホトバシル(迸)くん

 なんか、いっしょに歩いていて、とつぜん飛び散りそうなところが好き。

 


注文の多い両手

2001.12.07


 人はさまざまな状況で両手をあげる。

 たとえば、自分の存在をアピールしたいとき、人は両手をあげる。たいへんに混雑した場所で、待ち合わせの相手が自分を探しているときなど、人は両手をあげ目立つようにし、自分がそこにいることをアピールする。あるいは、テレビカメラが大勢の群集を写したとき。そんなとき、人は両手をあげて自分が田舎者であることをアピールする。

 喜びを表現するときも、人は両手をあげる。国家的な慶事があったときなどは、大勢の人が「ばんざい」と叫びながら両手を上下させる。個人的なことであっても、たとえば胴上げをされている人を見れば、必ずといっていいほど両手をあげている。腕組みをしながら胴上げされる人などいない。手を合わせて胴上げされる人は、そんなに仲間が信頼できないのだろうか。

 また、相手に降伏するときも両手をあげる。銀行強盗は決り文句のように「手をあげろ!」と言う。強盗を取り囲んだ警察も、強盗に向かって「手をあげろ!」と言う。「手を叩け!」という強盗はいない。「手がかゆい!」という警官もいない。

 他にも、球技場でウェーブをするとき、旗揚げゲームをしているとき、ラジオ体操で深呼吸をするとき、両隣の人にわきの臭いをかがせたいとき、元気玉をつくるときなど、両手を挙げる機会は数え上げればきりがない。

 このように「両手をあげる」という行為はさまざまな意味を持っている。目立ちたいときも、嬉しいときも、脅されたときも、人は両手をあげるのである。これで混乱しない者がいるだろうか。誰しも両手をあげるときに、自分がいったい何のために手をあげているのか不安に思いながらあげているのである。

 しかしながら、手をあげる状況がそれぞれ単独で起きたときならば、人はそれほど混乱しない。手をあげなければならない状況が複合的に襲ってきたときこそ、混乱の真骨頂である。たとえば「銀行強盗に襲われているとき、赤ちゃんが誕生したことを告げられた」という状況はどうか。そんな状況におちいったとき、人は両手をあげながら、喜んでいいのかおびえていいのかわからなくなるだろう。ましてや「銀行強盗が赤ちゃんを産んだ」ときにはどうすればいいのか。

 あるいは、「暴漢に襲われながら撮った記念写真で目立ちたい」という場合はどうか。自分が暴漢におびえて両手をあげているのか、目立ちたくて両手をあげているのかわからない。そもそも何のために記念写真を撮るのかわからない。混乱である。

 どうも、この「両手をあげる」という行為にはさまざまな意味が付け加わりすぎていて、複雑な状況に対応するのは難しい。考えれば考えるほど、自分がどのような状況でどのような意味をもって両手をあげればよいのかがわからなくなり、うっかり手をあげることもままならない。……どうしていいかわからなくて、どうにもならなくなった人にできることは、ただ「お手上げ」である。

 


小粒でもピリリ

2001.11.08


《食べられません》と書かれた小さな袋

 気のせいかもしれないが、あれを見ることが少なくなってきていないか。本当に気のせいかもしれないし、食品を密封する技術などが発達してその必要性が薄らいできたのかもしれない。

 昔、あれのインパクトには、なかなかに強烈なものがあった。中には乾燥剤が入っているだけなのであり、食品といっしょに入れるぐらいだから、それほど致命的に毒性が強いというものではないだろう。ただ、小さいころに「絶対食べちゃだめだからね!」ときつく叱られたのかもしれないが、どうもあれは「ものすごい毒だ」という感じがしていた。

 とはいえ、そういうインパクトは歳とともに薄れてきて、人間のからだが意外にじょうぶであることもわかり、あまり「恐れ」というようなものを抱かなくなってきた。「よくわからないものに対しておびえる」という年齢ではなくなったのだろう。しかし、こんなふうに悪慣れしてしまって、子どものころあの袋に感じたおどろおどろしさを忘れてしまうのは、少し寂しくもある。

 では、現在の私にとってインパクトのある袋とはいったいどういうものなのか。

《許せません》と書かれた小さな袋

 こんなものが食品に入っていたら、そうとう怖いだろう。後ろ暗いことのある人間は、とてもその食品を食べることができないはずだ。あのことだろうか、それともこのことか、と想像力は止まらなくなる。幸いなことに、私には後ろ暗いことは片手で数えるほどしかない(ただし、片手に生えているうぶ毛を用いて数える)。それでも、そんな食品は食べたくない。

《見てません》と書かれた小さな袋

 あ、こいつ見てるな、と直感的にわかる。人は「見てない」と言いながら見ているのだ。指のすきまからそっと覗くのだ。いったいどこから見ているんだ。そこか、それともあそこか。オレを見るな、見るんじゃない。人をどこまでも追いつめる力を、この袋は持っている。

《わかりません》と書かれた小さな袋

 何がわからないのか。「私は三たす二がわかりません」といった、まるで自分と関係のないことならよい(よくないが)。しかし、そんなものをわざわざ食品に仕込むわけがない。きっと何かその食品に関係があることには違いないのである。ひょっとしたらつくるときに「何だかよくわからないもの」を入れてしまったのではないか。「ちょっとぐらいならいいか」と、そのまま放置してしまったのではないか。そんないいかげんな。「わかりません」と書いたからそれですむものでもないだろう。これはとても食べられたものじゃない。

 そうして人を疑り深くさせたあとで、そっと次のような袋を入れておく。

《食べられます》と書かれた小さな袋

 本当に食べられるのか。

 


ポエム

2001.11.04


 疲れたときにはポエムを書かなければならない。いまふうにいうと、ポエマらなければならない。なぜポエマらなければならないのか、私にはわからない。ただ一言だけいえることは、「ポエー」と鳴く動物がいたらかわいいだろうということだ。

題 幸子

幸子よ…!
バナナが半分しか食べられない幸子よ!
ああ!

(寸評)幸子さんへの素直な情熱が伝わってくるようで、たいへんほほえましい作品です。最終行の「ああ!」がいいですね。

題 相撲取り

相撲取りは、
塩を投げて風向きを調べている。
そして、
風と語る。

「風さん、こんにちは」
「うふふ、こんにちは」

(寸評)相撲取りへのほのかな憧憬が伝わってくるようで、たいへんほほえましい作品です。頭はだいじょうぶですか?

題 女の人生

三歳で巨乳。
四歳で不倫。
五歳で助産婦。

(寸評)とりあえずほほえましい作品です。だいぶ病んでますね。

ポエー。

 


あの蓋の向こうには

2001.10.18


 マンホールのふたを独力で開けるのは困難であり、また、誰に言われたわけでもないのに「マンホールは開けてはいけないものだ」という観念が人々につきまとっている。たまに黄色いヘルメットをかぶったおじさんがマンホールを開けていたりするが、他人を遠ざけるかのように周囲を柵で取り囲んでいる。隠されると見たくなるのが人情というものだが、実際のところ、マンホールの中に何があるのかを知っている人はごく限られている。

 ではマンホールの中には何が入っているのか。「マンホール」は「マン」+「ホール」だから、あの中にはきっと男の人がいるのだろう。ふたをあけたらコンニチワ、ぼくときみとがコンニチワ、と思っている人は多いだろう。ただ、それはあまりに単純な発想であり、あの闇に閉ざされたマンホールがそのような単純なものであってはいいはずがない。そもそも、なぜ男の人が入っているのを隠さねばならないというのか(隠さねばならないような気もするが)。思うに、マンホールにはもっと魅力的なものがはいっているべきではないか。

 では「マンホール」を「マンホ」+「ール」と解釈すればどうだろう。あいにく私は「マンホ」とは何か知らないが、名前の響きから察するにどうやら楽しそうなものであることは間違いない。「マンホ!」と叫びながらラベンダー畑を白馬で駆け抜ける王子さまの姿が目に浮かぶようである。その「マンホ」が「ール」なのである。「ール」が何なのかは「マンホ」以上によくわからないが、名前の響きから察するに「ール」であることは間違いない。それらをあわせて考えれば、「マンホール」とは「マンホ」が「ール」をするところなのではないだろうか。少なくとも「マン」+「ホール」と解釈するよりはずっとマンホールらしい。

 さらに推論をすすめれば、「マンホール」は「マンホ」+「売る」ではないかという可能性に気づく。あいにく私は「マンホ」とは何か知らないが、楽しげなものであることはその名前の響きから明らかであろう。「マンホ!」と叫びながら踊るタカラジェンヌの姿が目に浮かぶようである。その「マンホ」を「売る」のである。マンホールが日本全国に存在することからも、マンホがいかに人々に愛されているかわかるというものだ。私がマンホのことを知らないのが不思議なくらいである。

 つまるところ、マンホールでは「マンホ」を「売る」のであり、中には「マンホ売り場」があるのであり、あまつさえ「松マンホ」「竹マンホ」などといった品揃えがあるのだろう。このことに気づいた私はすぐさま三百円を握りしめて家の前にある「マンホ売る」をノックしてみたのだが、あいにくと返事がない。さらには、かすかに水の流れる音がするのである。これで真実に気づかない者がいるだろうか。誰がマンホールにはマンホが売っているなどと言ったのだろう。水びたしのマンホなどあるものか。

 言うまでもなく「マンホール」とは「マンボウ」+「売る」がなまったものである。

 


戦え! 何を!? 人生を!

2001.10.09


 私は怒っているのである。

 どいつもこいつも油断しすぎだ。もっと緊張感を持って生きられないのか。そう怒っているのである。

 今日、私はトイレの個室に入っていたのである。すると、あわてた足どりでひとりの男がトイレに入ってきて、私のとなりの個室に入ったのである。男はベルトをガチャガチャいわせながらズボンをおろし、洋式便器に腰掛けたのである。そして、充実感いっぱいの声でこう言ったのである。

「あ〜、うんこ〜」

 いくらなんでも、それはないじゃないか。そりゃ、うんこだろうよ。だけどさあ。おまえ、油断しすぎだよ。となりに人がいるんだよ。もっと他に言うべきことがあるだろう。いや、トイレの個室ではなにも言わなくていいんだけどさ。

 そして、私は怒りを感じてしまったのである。それは、なんだか悲しい怒りなのである。世界には緊張感があふれているのである。テロリストには報復が、砂漠には飢餓と死が、スラムには犯罪が、地球には人類のエゴが、笑う角には福が、可愛い子には旅が待ちかまえているような世の中なのである。なのに、となりの個室の男はこう言うのである。

「あ〜、うんこ〜」

 こんなことでいいのか、と思ったのである。我が怒りはとなりの個室の男だけに飽きたらず、この安穏とした現代社会にまで向けられるのである。それが冒頭の怒りなのである。

 別に油断するのはいいよ。人間だもんな。だけど、油断するときは常に緊張してなきゃいけないんじゃないのかい。

 そして私は個室を出たのである。怒りにうちふるえていたのである。こんなときは、おもわず悪態が口をつくのである。

「くそっ」

 同レベルなのである。

 


一番星になりたい

2001.09.24


 それが多数派に属するのか少数派に属するのかわからないが、私はレジを打ったことがない。全国には数百万台というレジスターがあるのだろうし、それぞれの前には少なくとも一人の店員がいるはずである。しかし、私は常にその外側を通りすぎるだけであり、内側から客を迎えたことがないのである。

 レジ打ちを避けて生きてきたわけではない。レジを打たなければならない理由があれば、特にそれをためらうことは無かっただろう。たとえば、祖父が死の床で息をあえがせながら、「わしの果たせなかった夢を…、レジ打ち業界にひときわ輝く一番星になるという夢を…、きっとお前が果たしてくれい…、これがほんとのレジスター、なんちゃって…、ガクッ」と言い残して亡くなったのだとしたら、私の手でとどめを刺したあと、死者に敬意を表してレジを打ちにいったことだろう。

 もっとも、レジ打ちに向き不向きというものがあるとするならば、私はレジ打ちというものに向かないようにも感じられる。レジ打ちは誰にでもできるというわけではない。少なくとも、現金を見るのが嫌な人、現金にアレルギーを持っている人、現金にマヨネーズをかけてしまう人などは、レジ打ちには不向きだろうと思う。さらに、細かく考えてゆけばレジ打ちに必要な能力というのは多くある。

 たとえば、レジを打つ人間は計算が速いほうがよさそうだ。九百円の買い物に千円札をさしだされたとき、釣銭の計算ぐらいはできたほうがいいだろう。計算できないからといって、キレていきなり千円札をやぶってしまったりするのは、ただのバカだろう。少なくとも「やぶっていいですか?」と聞くぐらいの分別は必要だ。

 また、客をスムーズにさばいていく能力も必要だろう。客から受け取った品物を吟味したり、「もっと安いお店が他にありますよ」とアドバイスしたり、「少しは家計のことも考えてください」と諫言したり、「これを買ったことは誰にも秘密にしておきますから…」とイヤな気配りをする店員は、レジ打ちには不向きだろう。

 他にも、長時間立ちつづける持久力や、営業スマイルをつくるための表情筋力や、レジスターの現金皿が飛び出してくるのを素早くかわすための瞬発力や、強盗にも動じない精神力や、毎日コンビニ弁当を買ってゆく寂しい客を癒すための包容力など、数え上げればきりがない。そう考えると、とても私に適性があるとは思えず、一流のレジ打ちになるのはまず無理だろうと思う。

 とはいえ、一流のレジ打ちは無理にしても、ふつうのレジ打ちならやってやれないこともないかもしれない。もっとも、それは私に現金を預けて大丈夫だと判断できる雇用主がいればの話であり、そんな判断力の無い雇用主のもとでは働きたくないものだ。

 


深海のお姫さま

2001.09.17


 むかしむかし、小さな王国がありました。かねてより、小さな王国の海にはたいそうかわいらしい少女がすんでいました。しかし、王国の人びとは、そのことを知りませんでした。びっくりすることに、少女は人間と魚のハーフだったのです。わかくてかわいらしいその少女は、立派な出目金魚の頭と、人のからだを持っていて、なかまからは「魚人姫(ぎょじんひめ)」と呼ばれていました。

 こどものころから、魚人姫は泳ぎがじょうずでした(エラ呼吸だし)。たった三歳のころには、海の中を自由自在に泳ぎまわることができました。わたしってグッピーよりすごいかも、と魚人姫が思っていたかどうかはわかりません。

 ある日、魚人姫が海の中で遊んでいると、嵐が起きました。とつぜんの嵐を魚人姫は静かな海の底からながめていました(魚眼で)。いろんなものが嵐に翻弄されています。うみうしや、カーネルサンダースや、浮気性の男とつき合う少女の乙女心などが翻弄されていました。めっぽう太ったミミズが流されてきたときは、思わずパクリと食べてしまいました。だって、食べ盛りの女の子なんだもん。

 たかい波をしばらく見ていると、どこからかやってきた、小さな船が嵐に翻弄されていました。なんと、船首には王家の紋章が描かれてありました。いずれ沈没してしまいそうなようすです。ばりばりと音を立てながら、船の外板がはがされています。しばらくのあいだ、船は嵐と戦っていましたが、大きくゆれた拍子に一人の青年が海に投げ出されました。

 ようやく嵐がやみそうだというのに、運のない青年です。がんばって海面でもがく青年でしたが、やがて力つきて波に飲み込まれ、海中に沈んでしまいました。あわてて魚人姫は沈んでいく青年を抱きかかえました。りっぱな身なりから、青年は王国の王子さまだということがわかりました。まっすぐ海面へと上昇し、王子さまを近くの海岸へつれてゆきました。

 しばらくのあいだ、魚人姫は王子さまを介抱してあげました。てあてをしているうちに、魚人姫は王子さまのエラのはったステキな顔に恋をしてしまいました。だけど、王子さまは人間で、魚人姫は魚人です。「け…、結婚してちょんまげ」なんて、言えるわけがありません。どうしてよいかわからなくて、魚人姫は王子さまが目を覚ます前にその場を離れました。

 いろいろ悩んだすえ、魚人姫は海底にすむまほう使いのおばあさんに頼んで、人間にしてもらうことにしました。

「まほう使いのおばあさん、どうか私を人間にしてください。」
「やあいいだろう、お前のきれいな声と引き換えでね。」

 なんとも厳しい条件ですが、魚人姫はそれでもいいと答え、まほう使いのおばあさんは魔法をかけました。くるくると杖をまわしながらおばあさんが呪文をとなえると、魚人姫はしだいに眠くなり、やがて目覚めたときは人間の姿で海岸に横たわっていました。

 なんともかわいい人間の少女の姿で砂浜に倒れている魚人姫を、近くに住む漁師が見つけました。つかのま月の光に照らされたその美しさを見て、これはきっと名のある家のお嬢さんに違いないと考えた漁師は、魚人姫をお城へと連れて行きました。ていねいに頭を下げてあいさつする魚人姫を一目見て、王子さまは恋に落ちました。「しりあったばかりだけれど、どうか結婚してほしい」と、王子さまは言いました。まことに物語がご都合主義のような気がしますが、気のせいだと思います。いきなりの申し込みに、魚人姫はうれしくて歓声をあげたかったのですが、声が出せませんでした。まるで声が出せないので、しかたがなく、魚人姫はジャスチャーで喜びで表現することにしました(どんなジェスチャーか想像してみてね)。

「(しんじられない、コンニチワ、わたしは元魚人姫です、うれしいよ〜)」
「たわわに実ったバナナにフライングチョップ…ですか?」

 かわいい少女が自分の恩人だと知り、王子さまはますます魚人姫にほれ込みました。わりと何の障害も無く、ふたりは式を挙げました。いずれも永遠の愛を誓い合いました。

 それから長い年月が経ちまして、やがてふたりの間に赤ちゃんが生まれました。うれしくて、赤ちゃんの顔をのぞきこんだ魚人姫はおどろきました。なんと、赤ちゃんは魔法をかけられる前の魚人姫にそっくりだったのです。

 目出たし、目出たし。




「深海のお姫さま」追記

 


夢のかけら

2001.09.11


「ガキの頃俺はね」
「はあ」
「パイロットになりたかったんだよ」

 という会話文を読んで思い出したのだが、実は私もパイロットになりたかったのだ。パイロットといっても文房具メーカーのことではない。ましてや文房具になりたかったわけではない。飛行機の操縦士のことである。

 なぜパイロットになりたかったのかは、よくわからない。身近に航空関連の仕事をしている人はいなかったし、乗り物のなかでは電車が好きだった。今にして想像するに、おそらく大空高く飛ぶ飛行機に乗り、地上を見下ろして、
「ふっ…愚民どもがっ…」
 とつぶやいてみたいという、少年らしい爽やかな動機だったのではないかと思う。

 多くの少年がそうであるように、私も小さいころは「夢見がちな少年」と言われたものだ(今では夢遊病と疑われている)。夢というのは重要なものである。確信をもって言わせてもらうが、少年は夢を糧に生きているのである、といっても過言ではない、ような気がしないでもない。

 なぜ夢が重要なのか。たとえば、将来、息子に夢を尋ねられたらときのことを考えてみればよい。「ねえ、パパは子どものころどんな夢を持っていたの?」「うーん。パパには夢なんか無かったんだ」「えっ、なにそれ。つまんないやそんなの。そんなの僕のパパじゃない。きっと僕の本当のパパはどこか遠くにいるんだ。僕は本当のパパを探すぞ。いくぞ、パトラッシュ!」と旅に出てしまうかもしれないのである。かくして、夢のない少年は寂しいパパとなる。

 そんなわけで、少年のころから夢を抱くことは重要なのである。少年にはたくさんのよい夢を抱いて欲しいものだ。思い返せば、私も「パイロット」だけではなく、さまざまな夢を持っていた。なかには子どもっぽいものもあった。「ドラえもんのひみつ道具で、たのしいことをしたい」などというのもそのひとつだ。このリアリスティックな私が、よくそんなロマンチックな夢を抱けたものだと思う。もちろん、幼稚園を卒園するころには、そんな子どもっぽい夢は捨てた。小学生になったころには「ドラえもんのひみつ道具で、エッチでたのしいことをしたい」という夢を持っていたものである。

 そんなふうに夢を捨てたり、ふくらませたりして、今の私があるわけだ。タイムマシンに乗って、幼い頃の私に会い、ぜひ言ってあげたい。
「きみがたくさん夢を持ちつづければ、きっと私みたいになれるんだよ」
 幼い私は、感動のためか目にうっすらと涙をうかべ、からだをふるわせながら言うのだろう。

「夢だよね…」

 


滋賀県

2001.08.29

滋賀県というのは、福井県と岐阜県と三重県と京都府に囲まれた県で、琵琶湖のまわりにへばりつくように人が住んでるところだ。そんな説明はないか。あー、琵琶湖にへばりついてないところもありますが、そこには忍者が住んでいます。

堀井憲一郎『東海道五十三次を歩く』


 生まれてすぐに引っ越してきたので、故郷といえば滋賀県のことである。日本地図のまん中にあるのだから多少の知名度はあるというものの、どことなく華やかさに欠けることは否めない。なんというか、漠然とした印象しか持たないところだと思う。

 「良くも悪くも琵琶湖」という言葉があって、滋賀県に住んでいない人に「滋賀県といえば?」と質問すれば、92パーセントぐらいの人は「琵琶湖」と答える。ひとつ目立つものがあるのはいいのだが、言い換えれば琵琶湖以外はあまり認知されていないということでもある。「良くも悪くも琵琶湖」なのである。もちろん「西堀栄三郎記念館」とか「イーゴス108」とかマニアックなスポットを答えられても、それはそれで何だか馬鹿にされているような気がしないでもないけれど、ちょっと「琵琶湖」と答えられるのに飽いているのも事実なのである。

 もちろん、滋賀県には琵琶湖以外に何もないわけではなく、とりあえず滋賀県に暮らす人間としては「平和堂」の存在を語らずに済ませることはできない。平和堂というのは滋賀県を中心に展開する中規模スーパーマーケットのことである。もし滋賀県を電車で旅する人がいれば、しばらく窓の外を見ているとよい。シンボルマークである白と緑のハトを、必ず十数羽は見つけることができる。ちなみに平和堂は滋賀県に61店舗もある。要するに、滋賀県は平和堂だらけである。県内のあらゆる駅前に平和堂があるといっても過言ではない。そのせいか滋賀県にある駅の出口には「西口」「東口」といった名称がつけられず、「平和堂口」「平和堂逆口」と名づけられたりする、というようなことはないのだが、これは駅の両側に平和堂が建っている場合を考慮してのことである。

 あと、平和堂は「HOPカード」というポイントカードを発行している。恐るべきことに、この「HOPカード」をほとんど全ての滋賀県民が持っている。以前、他府県の人に「滋賀県の人って、なんでみんなそのカードを持ってるの?」と聞かれたので、「これは滋賀県民のIDカードである」と答えておいたが、あながち間違いではないと思う(事実、相手は納得していた)。腰の曲がったおじいさんでもおしゃれをしたお嬢さんでもHOPカードを持っていたりする。恐ろしいことだ。もしあなたの知り合いに滋賀県民かどうか疑わしい人がいたならば、ちょっと財布を見せてもらうといい。「HOP」と書かれた黄色いカードを持っていれば、そいつは「隠れ滋賀県民」の可能性が非常に高いので、厳しく追及してあげるとよい。

 そんな感じに、私は滋賀県といえばつい「平和堂」のことを考えてしまうのだが、他府県の人は平和堂の存在すら知らないのだと思う。それに、「滋賀県といえば?」という問いに対して「平和堂」と答えられても、それはそれで虚しいような気がするので、インターネットを用いて広く世間に「滋賀に平和堂あり」と情報発信するようなことはしないでおこうと思う。やはりここは漠然とした土地なのである。


追伸 上のほうに書いた「イーゴス108」というのは滋賀県内の遊園地にある観覧車の名前である。高さが108メートルというのが日本一(当時、今は知らない)だったのが「スゴーイ」ので「イーゴス」と名づけられたのである。スゴーイ。

 


ああっ神さまっ

2001.08.16

 私がその事実に気づいたのは、駅へと向かう途中のことだった。

 数日前に友人がつまらない病気で入院し、私は見舞いに行くことにした。友人が入院している病院は、駅から二キロほどの場所にある。駅でタクシーをつかまえようかと思ったけれど、二キロ程度なら三十分も歩けば病院に着くだろうと考え、私は歩き出した。実際、ちょうど三十分ほどで私は病院に着いていた。病院の暗い雰囲気に落ち込んでいる友人にファンキーなアメリカンジョークを披露してよけい暗い雰囲気にしたあと、病院を出た。

 時刻はちょうど正午である。正直に言えば、夏の暑い日に二キロの道を歩くのは、いくら若く健康で切れ長の瞳がチャームポイントの私であっても、結構きついような気がした。しかし、たかが三十分のことでもある。考えようによっては(地獄の炎に三十分間焼かれることなどに比べれば)、たいしたことではない。そう思って、私は駅へと歩き出した。

 暑い日差しのもと、私は静かな田舎道を歩いていた。そうして一時間ほど歩いただろうか。そこで、私はあるひとつの事実に気づいてしまったのである。三十分ほど前からうすうす気づいていたのだけれど、なかなか確信が持てなかった。暑い日差しが私の思考力を蝕んでいたのかもしれない。まさか私の身にそんなことがふりかかることなどありえないという固定観念が、私の現状認識を妨げたのかもしれない。しかし、私はひとつの事実を認めざるを得なかった。

「迷子になった」

 周りを見回してもまるで見覚えのない風景である。私は記憶力のいいほうではないけれども、つい一時間ほど前に病院への往路で見た風景の断片ぐらいは覚えている。それが、私の周りにはまったくないのである。情けないことに、私はまぎれもなく迷子になっていたのであった。

 迷子になったことがある人なら、あの独特の不安感を理解していただけることだろう。まっすぐに続く道を、はじめは自信満々に歩いている。しばらくして、どうも辺りの風景に見覚えのないような気がして、ちょっと不安感に襲われる。しかし、「気のせい、気のせい」と無理に不安感を押し殺してそのまま道をまっすぐに歩いていく。やがて、完全に迷子になったことに気づき、狼狽に襲われるのである。ふだんは信じていないのに、動揺して神に呼びかけてしまったりするのである。

 迷子になったと気づいた私に、どこからともなく声が聞こえてくる。
「小学生じゃあるまいし……」
「いい大人が恥ずかしい……」
「馬鹿だ……」
「君が入院したほうがいいんじゃないの……」
「人間失格だね……」
「でも、そんなあなたってステキ……」
 声は私を責めたてる。もし私が幼稚園児だったとしたら、このあたりで泣き出してしまったことだろう。しかし、私は小学生に匹敵する精神力を持つといわれる男である。たかが迷子になったぐらいで泣いたりはしない。冷静になろうと試みた。

 迷子になったときの対処法はいくつかある。地図をさがしたり、太陽などから方角を確かめたり、近くを歩いている大人に泣きついたりすればよい。ただ、辺りを見回しても地図はなく、太陽は私の頭のちょうど真上にあり、道は閑散としているのであった。要するに、どうにも対処のしようがない。むろん、それぐらいで私はあわてたりはしない。迷子でパニックになった子どもは、とにかく知った道を見つけようとむやみに走り回ったりするが、そんな見苦しいまねはしたくないものだ。私は早歩きで知った道をさがしまわった。

 そうしてあっちにいったり、そっちにいったり、ひどく長いあいだ私は迷いつづけたのだが、細かいことは私の名誉のために省略する(すでに地に落ちているような気もするが)。数十分ほど歩いた末に、私の耳にかすかな音が聞こえてきた。踏み切りの音である。踏み切りはたいてい駅のそばにあるものだし、音に向かっていけば少なくとも駅の方角に向かうことができるだろう。そう判断して、私は勇ましく歩き出した。

 やがて駅が見えたときは、心の底からほっとした。うれし涙がこぼれぬよう、上を向いて歩いた。空を見上げながら、無事に私を帰してくれたことを神に感謝した。きっと私が呼びかけたとき、神はあわれな私に気づいてくれたに違いないのである。

「おお、迷子」

 


おまえとふたりきり

2001.08.11

 大阪人が二人寄ればボケとツッコミに分かれるというのはよく言われることだけれど、特に大阪人に限らずとも、全ての人がボケとツッコミの役割を意識しながら生きているのではないだろうか。むろん、職業としてボケやツッコミを選択する人はまれであるにしても、自分の果たすべき役割がボケ寄りなのかツッコミ寄りなのかぐらいは考えた上で周りと接する人は多いだろう。

 簡単に例を挙げれば、ごく普通に「今日はいい天気ですね」と声をかけられたときでもボケ寄りとツッコミ寄りでは反応が違う。ボケ寄りの人はなんとかボケようとして「ハレ〜」と言いながら大空高く飛んでいったりするし、ツッコミ寄りの人はなんとかツッコもうとするのだけれどツッコミどころがないので「ツッコむところがないやん」とツッコんだりする。

 つまりは全ての人がボケなりツッコミなりを意識して生きている、というのが私の主張なわけだけれど、そこにひとつの疑問が生まれる。いわゆる「天然ボケ」というやつである。

 「天然ボケ」というのは、上述したような人為的なボケではなくて、自然体によるボケとされるものである。「天然ボケ」という言葉を聞くたびに思うのだけれど、それって「ただボケている人」なのではないだろうか。意識してボケているなら「もとはちゃんとした人なんだろうな」と思うけれど、自然の力でボケているのはやっぱりただのボケだと思うのだけれど、どのへんで「ただのボケ」と「天然ボケ」を区別しているのだろう。

 ところで、「天然ボケ」について考えていると気になるのが「天然ツッコミ」の存在である。あまり「あの人は天然ツッコミだから…」なんてセリフを聞いたことがないのだけれど、「あるがままにボケ」の人がいるなら「あるがままにツッコミ」の人がいたっておかしくないんじゃないだろうか。ツッコもうと思っていないのに、無意識にからだがツッコんでしまうのである。道端でバナナの皮にすべって転んだ人を見たら「いつのボケやねん!」と叫びながらトラックでツッコんでいったりするのである。

 余談になるけれど、「天然ツッコミ」について考えていると思い出すひとつの光景がある。そのとき私は駅のホームで電車を待っていたのだけれど、時間になっても電車が来ず、スピーカーからアナウンスがあったのである。
「ただいま人身事故により電車が一時間ほど遅れております。しばらくのあいだお待ちください」
 そのとき駅のホームに立っていた人はいっせいに虚空に向けて横手刀をくりだしながら、「どこが『しばらく』やねん!」とツッコんでいた。誰に言われたわけでもないのに、この一体感。このとき私は皆に天然ツッコミ能力の片鱗をみたように思う。

 で、話をもとに戻すけれど、天然ボケがいるなら天然ツッコミがいたっておかしくない。すると、天然ボケの人と天然ツッコミの人が出会うとどんな感じになるんだろうと思う。まあ、素直に考えれば理想の関係というやつなんだろう。おたがい何も考えることなく、ボケればツッコんでもらえるし、ツッコみたいときにボケてもらえる。自動筆記ならぬ自動漫才である。そんじょそこらの人間では割り込めないほどの深い関係になってしまうのだろう。そうして、二人はどこまでもオチていく、と。

 


自由の示すもの

2001.07.26

 「自由研究」とはその名が示すとおり好きなテーマを選んで研究をすればよいのであるが、いくつかの暗黙のルールがないわけでもない。それは小学校を卒業すればわかるような類のものばかりなのではあるが、あいにくと自由研究とは小学生に課される課題なのである。

 そこで、せっかくの自由研究シーズンが到来したことであるし、ここはひとつ「自由研究における暗黙のルール」について書いておきたいと思う。この文章を読んでいる小学生がはたして何人いるのかは知らないけれど(たぶん一人もいないけど)、小学生の子どもを持つ親御さんには少しぐらい参考になるだろう。

 まず、自由研究が夏休みに課される課題であることに着目したい。なぜ、平時の課題ではなく夏休みを選んで出されるのか。これは、夏休みにおける小学生はヒマだという前提があり、ヒマだからきっと多くの時間を研究に割くだろうということを期待されているのだろう。少なくとも、二秒で飽きるようなテーマを選んではいけない。

ルール1…研究にはある程度時間をかける
良い例「アサガオの観察」
悪い例「輪ゴムの観察」

 もっとも、単に時間をかければよいというわけではない。やたらと時間のかかる分不相応なテーマは避けるべきであろう。自分が小学生であることを忘れてはいけない。簡単すぎる研究は良くないが、難解すぎる研究もあまり歓迎されないものなのである。

ルール2…小学生らしい研究であること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「非イオン性ノニオン活面活性剤の分子構造の観察」

 簡単すぎず、難解すぎず、ちょうどよい加減というものがある。そういうバランスを考えるのが大切なのである。できれば、日常のちょっとした疑問や興味を研究テーマにするのがよい。あまりにも日常と乖離した研究は、少なくとも小学校の先生には受けが悪いのではないかと思うのである。もっとも、日常と密着しすぎた身近すぎる題材を選ぶのも考えものだ。

ルール3…身内の恥をさらさないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「母の脱毛の観察」

 笑いはとれるかもしれないが、両親の目が三角になるのを見たくはないだろう。やはり、あまり自分に近すぎるのはよくない。研究テーマと自分との間にはある程度の距離感があることも大事である。やはり家族のことは自分に近すぎるし、書くことはやめたほうがよい。だからといって、家族以外ならいいというわけではない。

ルール4…公序良俗に反しないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「となりのお姉さんの観察」

 「ストーカー規制法」というものを知っているだろうか。自由研究だから、小学生だからといって何でも許されると思ったら大間違いだ。お母さんに盗聴器やピンホールカメラをねだったりしないように。お母さんは「勉強に使うから」という子どもの言葉に騙されないように。

 だいぶ長くなってきたので、このあたりで最後にしようと思う。最後に最も重要なルールを書いておこう。自由研究の最大の目的は何かといえば、少なくとも優れた研究成果を出すことではないと思う。おそらくは「何かやり遂げる」という教育的効果を狙って出される課題ではないかと思うのである。したがって、途中で投げ出すのはよくない。きちんと夏休み中に自分の始めた研究をやり終えなければならないのである。

ルール5…完結させること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「アサガオの観察(序章)」

 


可愛くて御免なさい (2001-07-21)

 日本語にはひらがなとカタカナと漢字が入り交じっており、それぞれに特徴があるのだが、そのひとつに「ひらがなは可愛い」というものがある。これはまったくその通りなのであり、ひらがながいつごろ考え出されたのか知らないけれど、きっとひらがなというのは「これ、可愛いくない?」「ここを曲げたほうがもっと可愛くなるよ」などという会話とともに生み出されたにちがいないのである。

 「ひらがなは可愛い」というのとは対照的に、「漢字は怖い」というイメージもある。これはたとえばバイキンマンというキャラクターをひらがなと漢字で書き分けてみれば、一目瞭然だろう。ひらがなで書けば「ばいきんまん」である。ちっちゃくてころころしていて、思わずつかまえてケージで飼いたくなるようなキャラクターだろうという感じがする。一方、漢字で書けば「黴菌男」である。この怖さはなんだろうか。どこかの改造人間か細菌兵器かと思う。かように、ひらがなと漢字ではイメージが違う。

 もう一つ例を挙げよう。NHKの「お母さんといっしょ」という番組に「ジャジャ丸」というキャラクターがでてくる。ひらがなで書けば「じゃじゃまる」である。ちょっとやんちゃで生意気盛りで、でもそこが可愛い男の子、というイメージである。一方で、漢字で書けば「邪々丸」である。どう考えても悪役である。時代劇にでてくる忍者のコードネームのようである。「じゃじゃまる ぴっころ ぽろり」と三匹のキャラクターが並べば「子どもと安心して見られる番組」であるような気がするが、「邪々丸 ピッコロ(大魔王) ポロリ(乳)」などというようなキャラクターたちであれば、とてもNHKでは放送できないだろう。

 そういう可愛らしいひらがなの中で、最も可愛らしい言葉はなにかということを考えていた。ひらがなの可愛らしさをもっとも端的にあらわしているような言葉である。いろいろな候補を考えたけれど、私が「これはいい」と思ったのは二つばかりあった。

 ひとつは「ぷんすか」というものである。怒っているときの擬態語である。一般に怒っているときにはきつい文章を書きがちだ。だけど、このぷんすかという言葉をつければ、どんな文章でも可愛らしく思えるから不思議である。

彼は怒りのあまり、拳をたたきつけた(ぷんすか)。

 ほら、可愛いじゃないか。相手は怒っているのに、その情景を想像すると、なんだかほほえましい気持ちにすらなってくるではないか。でも、実際に怒っている人の前で「ぷんすか」を想像して、ほほえんだりすると、余計に怒られるから注意した方がいい。

 もうひとつは「でこつん」である。聞き慣れない人もいるだろう。「でこつん」とは「おでこをつん」の略である。ちょっとふくれっつらをした恋人が「もうっ」と言いながらおでこをつんとつつく情景を「でこつん」という一語で表したのである。

「とんだ失敗をしてくれたもんだね」
韮崎課長は次郎の顔をねめつけて言った。
「なんらかの処分を受けるのは覚悟しておきたまえ…(でこつん)」

 「でこつん」が無ければ、島流しも覚悟しなければならないような場面だ。しかし、でこつんがあるだけで、実にほのぼのとした情景になってしまうではないか。思わずほほえんでしまいそうだ。だけど、実際に上司が怒っているときに「でこつん」を想像してほほえんでしまうと、よけいにきつい処分がくだるから注意した方がいい。また、上司が一子相伝の奥義の継承者だったりしたら、でこつんですら命に関わるかもしれない。

 以上、ひらがなとは可愛いものであり、「ぷんすか」と「でこつん」がその二大巨頭であるということを考察した。この二語の可愛さの前には、人はあまりに無力である。実際に「ぷんすか!」と怒り、「でこつん」で制裁を加える人の前では、とてつもない無力感におそわれるだろう。

 


洗わば洗え (2001-07-15)

 風呂場には一定の手順があり、その手順には、人によってほとんど変わらないものもあれば、人それぞれのものもある。たとえば多くの人は浴槽につかるまえに、服を脱ぐ。これは万人共通だろう。しかし、からだを洗うときどこから洗いはじめるか、などは人によって違う。比較的キレイなところ(胸板、腕、腹など)から洗い始めるのがよいのか。それとも逆に、汚れているところ(股間、足の裏、腹の底など)から洗い始めるのがよいのか。どちらが正しいともいえまい。

 玉のような肌の美人が鏡の前にそっとしゃがみ、いったいどこから洗い始めるのかと思えば、いきなり足指の股を洗いはじめたら、どうにも違和感を感じるだろう。なんだか美人らしくないではないか、と。誰かに見られているわけではないけれど、そういうことにこだわる人も多い。人は、それぞれに確立された「風呂場の手順」というものを持っている。

 ところで、風呂場というのは私的な空間である。親しい人間と入ることはたまにあったとしても、赤の他人と入るということはそう多くない。銭湯や温泉のように見知らぬ人と入る機会がないわけではないけれど、それでも人はその中でそれなりに自分の領域を保とうとする。ひとつのカラン、ひとつの鏡を一定時間占有する。このカランはふたりで仲良くつかいましょうなどと、からだを寄せ合うようなことは、滅多にない。「ご相席よろしいですか?」などと言われて、小さい椅子に尻を寄せ合って、「うふふ…」「あはは…」と笑いあって、しだいに気持ちは高まって、ふたりは見詰め合って、やがて恋に落ちる、というようなことはまずない。

 とにかく、風呂場というのは私的な空間である。そうすると、間違いに気づく機会が少ない。自分がスタンダードと思っている「風呂場の手順」が、まるで常識外れかもしれない。誰かのやりかたをじっくりと眺めるという機会が少ないからだ。きっと世の中には根本的に勘違いしたまま大人になってしまった人もいるのだろうな、と思う。

 タオルの使いかたひとつをとってもそうだ。タオルというのは体を洗ったり、拭いたり、前を隠したりするのに使うと思っている人が多いけれど、あるいは、風呂場でのタオルの使い方は、目隠しをするためだと思っている人もいるだろう。そんな勘違いをしたまま風呂に入っている人もいるはずだ。

 彼はパンツの中からタオルをとりだし(彼はパンツをはいたまま風呂に入る習慣がある)、おもむろにそれで目隠しをする。何のために目隠しをするのかは彼自身も知らない。ただ、そういうものだと思っているのだ。やがて彼はからだを洗いはじめる。石鹸を手につけて、ぬるぬるとなでるように洗いはじめる。そういうものだと思っているのだ。やがて全身を洗い終えた彼は、おもむろに風呂場へのドアを開けるのである(彼は一連の動作を風呂場に入る前にするものだと思っている)。

 そんな勘違いをしている人がいないとはいえないだろう。普通の人だって、自分のやっている手順が正しいと絶対の確信を持つことができるだろうか。いや、できまい。「正しい風呂場の手順」など存在しないのだから、すべてが間違っていると言うことだってできるわけだ。むろん、私は間違ってなどいないが。

 ただ、前述したとおり風呂は私的な空間である。どんな手順だろうが他人がとやかく言われる筋合いはない。いきなり「お前の風呂の手順は間違っているぞ」なんて言われたら、「なんでお前にそんなこと言われなきゃならんのだ」と、わりと親しい人であっても怒り出しそうだ。ましてや、ふだんからいがみあっている奴に電話などをして「お前の風呂の手順は間違っているぞ」なんて言ったりしたら、殴り込みをかけられたって文句は言えない。

 そのときは、まず首を洗っておこう。

 


耳の遍歴 (2001-07-09)

 『耳』という雑誌があったとする。

 たぶん、落ち着いた雰囲気の雑誌だろう。それほど売れているわけではなさそうだし、何かと間違えて買うという人もあまりいるとは思えない。ただ全国の耳愛好家の人々が、どことなく後ろめたいような気持ちで、そっと買うような雑誌だろう。

参考図A  もちろん、記事は耳に関するものばかりだ。たとえば、『耳』には毎号、耳に関するゲストへのインタビューが載っている。医学界での耳の権威であるとか、福耳で有名な経済界の重鎮であるとかが、毎号のように少しとまどったようすで耳に関するインタビューを受けている。たまにネタがなくなるのか、変わったところで「福助」などが登場したこともある。福助さんは無口みたいで、セリフはずっと「…………。」だった。でも、インタビュアーは平然としていた。

 耳の健康に関する情報も、異様なまでに充実している。先月号の特集は「全国縦断、耳鼻科ツアー」だった。画期的なような気もするのだけれど、よく考えてみれば、たくさん耳鼻科を紹介されているからといってどうなのだろう。わざわざ「あそこは名医だ」などといって遠い地方まで出かける人がいるのだろうか。よくわからない。

 もちろん、補聴器や耳栓などの情報も欠かせない。数百円のものから数十万円するものまで、高年齢向きのものから若者むきのものまで、世の中にはこんな種類のものがあったのかと驚くばかりだ。素人にはさして違いがあるとは思えない。しかし、その筋の人が見れば、最新情報の充実した最高のカタログだろう。まさに、耳よりの情報というやつだ。

参考図B  耳グッズに関する情報も充実している。イヤリングやピアスといった装飾品の情報は、おそらく世界有数だろう。もっとも、主眼はあくまで耳だから、顔写真を写したりはしない。ひたすら耳の写真が並んでいるばかりである。装飾品ならまだしも、耳かきも同じようにずらりと耳が並んでいるだけである。耳に耳かきを突っ込んだ写真がずらずらと並んでいるのは、なんだか異様である。素人目には、どこがどう違うのかすらよくわからない。でも、これもその筋の人から見れば、とても興奮できる光景なのかもしれない。

 白黒ページには連載小説も載っている。今、連載されているのはスターウォーズに匹敵するといわれている大作スペースオペラ「世界の中心で愛を叫んだ耳なし芳一」である。ちょっと私のつたない表現力では、この小説のおもしろさを伝えることはできないけれど、地球侵略をたくらむネコ耳型宇宙人ニャーニャーと、山田芳一(23歳・吉野家店員)が世紀末の地球を舞台に繰り広げるバトルには、毎号ハラハラさせられている。

 もちろん、地味なページばかりでなく、きちんと若者向けのページもある。「今月の耳年増」なども、私が期待してページを開くひとつだ。毎号のように、どこからか見つけてきた耳年増の娘が、ちょっぴり大人の話をしてくれるのである。いやはや、まさかあんな可愛い子があんなことを…、とこれ以上書くのはやめとこう。とりあえず、硬いばかりの雑誌ではないということだ。

 お約束の占いコーナーもある。「今月の耳占い」では、来月の耳の運勢が手にとるようにわかる。ちなみに天秤座の運勢は「ちょっぴり耳かき運が上昇」とのことである。

 とまあ、こういう雑誌なのである。はたして、この雑誌は売れているのだろうか。どうも、売れそうにない。出版社の経営は成り立ちそうもない。一応、この出版社は他にも「月刊 鼻」と「週刊くちびる」を出しているけれど、全部の発行部数をあわせたってたいしたことはないだろう。いったい、いつまでこの雑誌が存続するのか、心配されるところである。できれば、細々とでもいいので、いつまでも『耳』の発刊を継続してほしいと思う。

 もちろん、そんな雑誌があればの話だが。

 


手引きのようなもの (2001-07-01)

 たとえば、あと一分で恋人との待ち合わせの時間がきそうなとき。全力で走るほどではなく、かといってゆっくりと歩いているような場合ではないとき、人は小走りになる。そういうとき腕をどのように振るえばよいのか、私はいつも迷う。

 問題は、どのように腕を振るか、ということなのである。歩いているときはいい。腕を振らなくても不自然ではないし、振ろうとすれば腕を伸ばしてゆっくりと振ればよい。走っているときもいい。ひじを曲げ、元気よく前後に振ればよい。見ていてすがすがしい。問題は、小走りをしているときなのである。

 歩いているときのように、腕を伸ばしてゆっくりと振ればよいのだろうか。いや、だめだ。なんだかバランスがおかしい。せかせかと動く足と、ゆっくりと動く腕だ。せっかちなのか、のんびり屋さんなのかわからない。せっかちなのんびり屋さんだとでもいうのか。そんなのは、恥ずかしがりやの露出狂みたいなもんじゃないのか。どっちつかずで認めがたい。

 走っているときのように、ひじを曲げて大きく振ればよいのだろうか。いや、だめだ。なんか恥ずかしい。やたらにはりきっているみたいだ。全力疾走ならまだしも、小走りなのだ。はた目からは、よほど嬉しいことがあったのかと思われるだろう。やっているうちに、ちょっと嬉しくなってきそうなのが、なおいやだ。

 では、どうすればいいというのだ。これぐらいのことを解決できないのか。何かアイデアはないのか。今こそ頭を使え。私がただのばかではないことを証明するときではないか。そのとき、私の頭に一条の光が差し込んだ。

「手は腰に」

 そうだ、手を腰に当てて小走るのだ。足音も軽やかに小走るのだ。満面の笑みで小走るのだ。これだったら腕をどう振るかなどという瑣末なことに悩まなくて済むぞ。いいじゃないか。すごく、いいじゃないか。さすが私だ。だけど、欠点がひとつだけあるぞ。ばかみたいだ。

 これじゃだめだ。ばかみたいなのは、いやだ。せっかく人知を駆使して考え出した解決法が、ばかに見えては本末転倒ではないか。手を腰に当てるのは、銭湯でコーヒー牛乳を飲むときと、鼓笛隊の指揮者になったときだけで十分だ。私はどちらでもない。何か他の方法はないものか。

「タンバリンをたたきながら小走る」

 こんどこそ、どうだ。なんて画期的なんだ。なんて爽やかなんだ。タンバリンをたたきながら、小走りに駆けていく私を思い浮かべてみるがいい。あたかも、白馬が白樺の立ち並ぶ小道を颯爽と駆けていくかのようではないか。その想像は、自分でもちょっと無理があると思うぞ。それに、やっぱりばかみたいだ。

 いったい、私はどうすればいいのか。このままじゃ、満足に小走ることもできやしない。一生、悩みつづけながら小走りつづけなければならないというのか。かといって、アイデアもまとまらないまま小走ったらばかだと思われる。そんなのはいやだ。ああ、どうすればいいんだ。

「小走るかわりに、スキップ」

 ……たとえば、あと一分で恋人との待ち合わせの時間がきそうなとき。全力で走るほどではなく、かといってゆっくりと歩いているような場合ではないとき、私はスキップをする。待ち合わせ場所には、逃げていく恋人の姿が見える。

 


アクアリウム (2001-06-18)

 人は海で「おしっこ」がしたくなったら、どうするだろうか。わざわざ海からあがってトイレを探すような人はまれであると思う。たいていの人は、海でそのまましてしまうはずだ。上級者ともなると、海ではあきたらずプールや風呂でもやってしまう。海で「おしっこ」をすると、「はわわ〜」という感じに気持ちいいことは、多くの人に共感してもらえるだろうと、私は信じている。

Ψ

 たぶん、小学校の一年生か二年生のころだったと思う。そのころの私は、思わずいたずらをしたくなるような可愛らしい小学生で、よくいたずらをされていた(牛乳を飲んでいるときにくすぐられる、など)。そういう、いとけない子どもをイメージして、この話を読んでもらいたい。

 その日はものすごいどしゃぶりで、私は黄色いレインコートを着て、学校からの帰り道をてくてくと歩いていた。そのときの雨は本当に「土砂降り」という言葉がふさわしい、ビー球のような雨粒がドカドカと体にぶつかってくるような、数十センチ先が見えないような、まるで水の中を歩いているような、そういう雨だった。

 私が激しい雨のなか家路をたどっていると、突然に「おしっこ」がしたくなった。しばらくは「おしっこ」を我慢しながら歩いていたけれど、ふっと海での「はわわ〜」という快感が頭に浮かんだ。というのも、すでに私の全身はぐっしょりとぬれており、海にいるのも同然だったのである。こんなとき、道を歩きながら「おしっこ」をしたら、海と同じく「はわわ〜」と良い気持ちになれるのではないだろうか。普段だったら、いくら子供といえども家まで我慢するだろう。だが、今は海にいるのも同然だ。私は「どんな感じがするんだろう」という好奇心に勝てなかった。

 どうしてこういうつまらないことを覚えているのだろうと思うのだけれど、私はそのときの感覚をなまなまとおぼえている。ふっと膀胱をゆるめたとき、とても「はわわ〜」という感じがした。雨はすでに私の全身をぬらしつくしていた。冷え切った下腹部に、ふと温かみがさすのを感じ、それはじんわりと広がった。それは、海でやるよりずっと背徳的で、刺激的で、そして気持ちのよい行為だった。やがて、雨はすべてを流しさったが、それは「少年の忘れられない記憶」のひとつとなったのである。

Ψ

 梅雨になると、そんなことを思い出す。降りしきる雨を窓からながめながら、あの「はわわ〜」は気持ちよかったよなあ、などと渋く物思いにふける私の横顔は素敵だ。もちろん、もう私は大人だから、当時と同じような状況になっても「はわわ〜」をやったりはしない。いくらやりたいと思っても、やはり大人が「はわわ〜」をやってしまうのは、さすがにまずいと思う。両親に泣かれるというぐらいではすまないだろう。それぐらいならたいしたことはないが、万が一、知り合いに見られたりしたらどうなることだろう。

 こればかりは、水に流してもらえそうもない。





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