そういえば、「あのね帳」というものがあった。
電車の吊り広告に夏休みの絵日記を模したものがあって、そこに「先生あのね、きょうは海に行ったよ」といった文章が添えられていた。それを見て「あのね帳」のことを思い出したのだ。「あのね帳」は、小学校低学年ぐらいの子どもが先生とやりとりするためのノートだ。「先生あのね」から文章がはじまるのが特徴で、その後に身の回りの出来事や思ったことなどを書きつづる。
「先生あのね」から文章を書き始めさせるのはよいアイデアだ。その後にどんな文章が続いてもおかしくない。上にあげたような日記調でもよいし、子どもなりに思索めいたことを書いてもよい。他にも、事務連絡だろうと手紙だろうと思いのままだ。これが「先生あの…」だったらなにやら深刻な話がはじまりそうだし、「先生なのね?」からはじまったりすると、先生は「なんか疑われてる?」といつも不安にならなければならない。
「先生あのね、
麻縄を数本キリキリと巻きつかせている夫人の柔らかく盛り上がった美しい乳房がかすかに波打ち、スラリと伸びた陶器の輝きを持つ白い脛、そして、美しい曲線を描く成熟しきった見事な太腿はぴったりと閉じあわされている。その間の悩ましいばかりに形のいい濃密な繊毛は淫らな責めを予知したのかフルフルとかすかに慄えているようだ
ったよ。」
どんな文章が続こうとまったく違和感がないのが、「先生あのね」のよいところだ。バラエティに富んだ内容を期待することができる。私は「先生あのね」に続く様々な文章を考えたが、なかでも、ちょっとした打ち明け話などに「先生あのね」は適している感じがする。
「先生あのね、ぼくはかなこちゃんのことが好きです」
かわいらしいものである。他にも、こっそりいたずらしたことを謝ったり、大っぴらには伝えにくいことを書いたり、「先生あのね」と書けばなんでも打ち明けられそうな気がする。
「先生あのね、ぼくはかなこちゃんのことが好きです。きのう、ぼくはかなこちゃんといっしょに遊びました。うら山にたからものをうめるために、ぼくたちはあなをほりました。すると、あなのなかから女の子の人形がでてきました。かなこちゃんがよろこんでその人形を抱こうとすると、突然、人形の眼は赤く光り、奇妙に点滅し始めた。「クケケケケッ!」。人形は甲高い笑い声をあげ、加奈子の喉に喰らいつこうとする。加奈子は悲鳴をあげた。が、加奈子の口をふさぐように、人形の細い細い髪が伸びて加奈子の顔を覆う。「やめろっ!」と叫んだオラの身体に力がみなぎってゆく。途端にオラの髪は輝き、身体はオーラを発しはじめた。「聡さん…、とうとうスーパーサイヤ人になれたのね…」。加奈子はそうつぶやくと、そのまま気を失った。「地球のみんな、オラに元気をわけてくれ!」。すると、オラに向かって光が集まってきた。掌から放たれた光球が人形に炸裂し、断末魔の声をあげて人形が消滅する。よかった、地球の平和は守られたのだ…。」
――先生あのね、いつもこんなことばかり考えてます。(精神科にて)
動物と人間の違いとして「道具をつかう」「本能より理性で行動する」「すぐに理性を捨てることができる」などがよく挙げられるが、「言葉をつかう」というのもそのひとつだ。人間がいつから言葉をつかうことができるようになったのかは知らないが、人間は言葉によって「現象」を定義し、認識することができるようになったのではないかと思う。
たとえば「くしゃみ」という言葉がなかったらどうだ。「くしゃみ」という言葉があってこそ、くしゃみをしたとき「くしゃみが出た」と思うことができるのではないか。「くしゃみ」という言葉がないときにくしゃみをしたら、何が起こったのかわからないのではないだろうか。
「今、なんか爆発した…。」
そんな感じだろうか。
「ハクション!」
「今の何?」
「ああ、ちょっと爆発しちゃって…」
「爆発?」
「爆発っていうかさ…、口からすごい勢いで七人の小人が飛び出す感じ?」
「小人?」
「だからさ、擬音であらわすとバヒューンって感じでさ…」
話はややこしくなるばかりである。
「くしゃみ」という言葉があれば「くしゃみが出た」で済むことだし、そもそも「今の何?」などとは聞かれないだろう。言葉がないばかりに、いらぬ苦労をしなければならない。くしゃみならまだしも「屁」という言葉がなかったらどうだ。
「(プスー)」
「?」
「あ…空気が漏れる…」
「なんだかにおわない?」
「ごめん…」
「何? 何があったの?」
「たった今、ぼくの身体から悪霊が生まれたのです…」
何が起こったというのか。ただ屁をこいただけなのに。
それでは効率が悪いから、人は「現象」に名前をつける。名前をつけることによって「現象」は一般化され、ひとつの言葉で伝達ができるようになるのである。してみると、言葉というのは偉大である。
それにしても、想像してみるに「はじめてその現象を名づけた人」というのは「よいことをした」という気持ちだっただろう。それまではなんだかまわりくどい言いかたをしなければならなかったのに、これからはひとことで言い表すことができる。これは便利だと思ったことだろう。私もそれにならって「急いでいるときに限ってタンスの角に足の小指をぶつけてしまい、うずくまって小指を抑えているとき全身にめぐる感覚」について、ひとつ名前をつけてみることにする。
「…………。」
言葉にならない。
桜というのはどうにも人を惹きつける力を持っているようで、私も桜を見ると原始の本能が呼び覚まされて、むやみに桜に突進したくなる。どうも桜は人を惑わす力を持っているようだ。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」といったのは梶井基次郎だが、そうでもなければあのような神秘性は生まれまい。
桜というのは、花をひとつ見ただけでは可愛らしい印象だ。ところが、それが数百数千と集まってひとつの樹となると、とたんにまがまがしい印象を持つ。いってみれば、「アルプスの少女ハイジ」は可愛らしいが、「アルプスの少女ハイジの群れ」はなんだか気味が悪いのと同じだろう。ひとつでは可愛らしいものでも、集団になるとそうでもないということだ。
ところで、満開の桜もよいが、やはり桜は散り際がよい。散るからこその桜であり、一年を通して桜が咲いていたら、ありがたみもなにもない。一年中桜を見ていたら、脳から桜が生えてくるんじゃないだろうか。ごく短い命だからこそ、桜は人を惹きつけるのである。春の雪の如く桜は散り、道を彩る。
桜は、人に惜しまれているうちに去る美学を知っている。桜のようになりたいと思う人は多いだろう。全盛期を超えたあと、だらだらと下りつづけるより、最も美しいときにきっぱり姿を消すのである。私もぜひ真似をしたいが、生まれてからずっと下り坂なので散り際がない。
せめて桜の散り際だけでも目に焼き付けておこうと散歩に出た。うちの近くには鎮守の森があるのだけど、そこにはとても立派な桜が一本だけ生えている。あまり人が来ないところなので、じっくりと桜を見るにはもってこいである。腰を据えて散りゆく桜を見ながら、そっと初恋のあの人のことでも思い出そうかと思ったけれど、ダメだ、桜を見ると血がたぎる。どうしても桜に向かって攻撃してしまう。
私は桜の周りを軽やかなステップでまわって牽制する。桜は動こうとしない。思い切って手を出してみる。そらフックだ、ボディだ、ボディだ、チンだ。私の繰り出す鮮やかなパンチにも、桜は微動だにしない。しかし、まったく反撃がないわけではない。落ちてくる桜の花びらが身体に触れたら私の負けだ(自分ルール)。
私は俊敏に動き回り攻撃を繰り出したが、やはり手数が違う。数分もしないうちに、桜の花びらが肩に乗った。私は吹き飛ばされて、しりもちをついた(一人芝居)。
「負けたよ…」
身を起こして、よきライバルである桜に語りかけた。こいつも強くなったもんだ。だが、来年は私が勝とう。私は身をひるがえして、桜に背を向けた。そして、目を伏せて歩き出した。私は顔を上げることができなかった。悔しかったのではない。負けたことに悔いはない。
ただ、近所の子供に見られていたことに気付いただけだ。
ふと考えることがあるかもしれない。
どうして、野球の一塁手はバッターが走ってきたときベースにおおいかぶさって踏ませないようにしないのか。
どうして、バスケットボール選手は肩車をしてゴールを守らないのか。
どうして、サッカー選手は先制点を取ったあとボールをフィールドに埋めてしまわないのか。
どうして、アイスホッケーのキーパーはゴールの前に溝を彫らないのか。
どうして、ゲートボールの選手は負けそうだと思ったら相手の寿命が尽きるのを待たないのか。
どうして、……。
それぞれに、それを禁ずるルールがあるのかもしれない。私はスポーツのルールに詳しくないので、そのへんはよくわからない。だが、たとえルールに明記されていなくとも、やってはならないプレイというものがある。いつも上のようなことを考えている輩には理解できないかもしれないが、スポーツをやる人間には「スポーツマンシップ」というものが要求されるのである。
無学な人間には、「スポーツマンシップ」といわれてもよくわからないかもしれない。いちおう、私の卓越した教養をもって解説すれば、「スポーツマンシップ」とは「スポーツマン船」という意味である。スポーツマンと船にどのような関係があるのかは私の卓越した教養をもってしても理解できないが、これに反するとされたとき、その選手は「スポーツをやる資格がない」と考えられるのである。
だが、ある人間がスポーツマンシップを持っているかどうかを判断することは難しい。スポーツマンシップを持つ人間とは、いわゆる「卑怯者」の対極にいる人間、すなわち「紳士」のことなのだが、テレビのスポーツ中継を見ても、とても紳士とは思えない選手がたくさん映っている。
そもそも、紳士になるというのはそれほど簡単なことではないのだ。人間とは、自分より高潔な人間のことを決して理解できないものなのである。いくら「紳士とはこういうものだ」ということを説明したとしても、しょせん紳士ではない人間には高潔な人格とはどういうものかを理解することはできない。その証拠に、私もさっぱり理解できない。
ともあれ、スポーツマンは紳士であらねばならない。野獣のようにボールを投げつけたり奪ったりしても、心は穏やかな紳士でなければならないのである。考えてみれば、これは非常に難しいことだ。普段は紳士であっても、勝負事となるとそうでなくなることは多い。よくスポーツ選手に「結果を出せなきゃ意味ないっスから」という輩がいるが、とんでもない。結果は二の次、なにより紳士的であることを尊ばなければならないのである。
自分にボールがやってきたら、相手にゆずるぐらいの気持ちでなければならない。紳士はものに執着しないのである。相手がタックルしてきたら、相手のからだをいたわるぐらいでなければならない。紳士は穏健で親切なのである。そもそも、ユニフォームはスーツにするぐらいがよい。紳士は身だしなみに気をつかうのだ。得点などを気にしてはいけない。むしろ、勝敗は「どっちが紳士か」で決めるべきである。
そんなふうに徹底すれば、あらゆるスポーツで紳士の姿を見ることができるようになるだろう。そうすれば、あらゆるスポーツで私が負けることはなくなるだろう。まともな紳士なら、私に関わろうとしないはずだ。
小学生のころ、昼休みによく「天皇」というボール遊びをしていた。
昼休みに小学生がするゲームといえば、たいていがドッジボールだろうと思うので、「天皇」というのはわりとローカルな遊びなのかもしれない。ふと思いついてインターネットで検索してみたら、「天大」とか「天町」とかいろんな呼び方があって、ルールも少しずつ違っていた。
ルールはテニスや卓球なんかと少し似ているかもしれない。地面に四メートル四方ぐらいの「田」という字を書いて、四人のプレイヤーがそれぞれの四角い陣地の中に入る。四つの陣地にはそれぞれ「天皇」「大名」「武士」「町民」という名前がついている。まずは「天皇」がボールを自陣でワンバウンドさせたあと、ボールをはたいて他のプレイヤーの陣地に入れる。ボールが送られてきたプレイヤーは、ボールが自陣でワンバウンドするのを待ってから、やはりはたいて他のプレイヤーの陣地に入れる。これを繰り返し、送ったボールが「田」の外に出たり、線の上でバウンドしたり、あるいは送られてきたボールを返せなかったりすると負けで、ひとつ下の位に落ちる。
うーん。やればとても簡単なゲームなんだけれど、文章にしてみると、うまく伝わったかな。
ただボールをワンバウンドさせて往復させるだけなんて退屈だろうと思うかもしれないけれど、実際にやってみれば、確かに退屈する。高校生のころ、昔の同級生に「天皇やろーぜ」と誘ったことがある。道路に線をひいて、いざはじめてみると、二分で飽きた。我々はなぜ小学生のころこんなしょうもない遊びに夢中になれたのか真剣に考えてしまった。
小学生のころ僕たちがいかに熱中していたのかは、いろんな「必殺技」があみだされたことからもわかる。「スカシ」といって、地面すれすれの軌道を描くようにボールをコントロールする技や、ボールに高い軌道を描かせて敵陣ぎりぎりにボールをバウンドさせる「オトシ」という技なんかがあった。また、子どもによっては「自分だけの技」を持っていたりした。僕にも「プッシュホン」という必殺技があった。これは僕からゲームを始めるとき、運動着の内側のおなかのところにボールを入れて、その状態で腕組みをし、腕を締め付けることで押出すようにボールをバウンドさせる技だ。何か意味があるんだろうか、この技には。今ではさっぱりわからない。
簡単だし、ドッジボールなんかよりは技術の優劣があまり問われないので、僕たちは「天皇」が好きだった。体育の時間に先生が「今日はドッジボールをしよう」といったときも、僕たちは「天皇のほうがおもしろいのに」と思っていた。先生にしてみれば、ただボールが何の工夫もなく行ったり来たりするだけの遊びを、到底おもしろいとは思えなかったのかもしれない。今なら、私にもその気持ちがわかる。
そんなふうに、僕たちは「天皇」に熱中していたけれど、女の子はあまり「天皇」をやらなかった。女子がどんなふうに昼休みを過ごしていたのか、今ではよく思い出せないのだけれど、たいていは運動場のすみっこのほうにいたように思う。アリの観察などをしていたのかもしれない。
ある日、僕たちはいつものように運動場で「天皇」をやっていた。勝負は勝ったり負けたり。「天皇」には、絶対的な強者というのはいなくて、参加者にほぼ等分に勝つチャンスがある。だから熱中する。そんな僕たちのようすを見て興味を持ったのかもしれない。ひとりの女の子がふいとやってきて、「混ぜて」と言った。彼女はホノちゃんといって、からだを動かすのが好きな、ちょっと勝気な女の子だ。僕たちは、女の子が「天皇」をやることをちょっと意外に思って、ホノちゃんを見た。
――なんだか長くなってきたので、以下次号。
「混ぜて」と言ったホノちゃんを見て、もちろん僕たちはしぶった。女の子だからいやだとかではなくて、単に人数の都合からだ。「天皇」はふつう四人でやるもので、僕たちはすでに四人いた。五人以上でやるときは、ひとり陣地の外で待っていて、いちばん位が低い「町民」が失敗するのを待たなければいけなかった(待っている人は「乞食」と呼ばれていた)。でも、長いあいだ待たなければいけないことが多かったし、待つのは退屈だから、僕たちはたいてい四人ちょうどでやっていた。ホノちゃんは、そういうルールをよく知らなかったみたいだ。僕たちは「だからきっと退屈だよ」というようなことを言った。それであきらめるかな、と思ったけれど、ホノちゃんはちょっと考えたあと「じゃあ」とばかりに言った。「じゃあ、すぐに交代しましょう」。
なぜだかわからないけれど、僕たちはその条件を飲んだ。ひょっとしたら、僕たちは頭が悪かったのかもしれない。ひとりが「乞食」になって(僕じゃなくてよかった、と思った)、ホノちゃんが混じった。やってみると、ホノちゃんは実にえげつない手をつかってきた。
「天皇」には「オチョコ」という技があった。ボールがやってきたらうまく勢いを殺して、センターラインぎりぎりで数センチぐらいしかバウンドしないように返すという技だ。ついでにボールの方向を陣地の外に向けて返せば、ボールを返すことは不可能に近い。僕たちはあまりに凶悪なこの技を「封じ手」としていたのだけれど、ホノちゃんはこの技を平気でつかってくる。僕たちが「それは使っちゃだめだよ」というと、ホノちゃんは「わざとじゃない」と言う。わざとじゃないのなら仕方ないので、僕たちはどこかふに落ちないものを感じながらも、次々と負けた。ひょっとしたら、僕たちは頭が悪かったのかもしれない。
やがて、女性天皇が誕生した。今にして思えば、僕たちは時代を先取りしていたのかもしれない。ホノちゃんは、たしかに「女王」の風格を持っていたのだった。
昼休み終了のチャイムが鳴り、ホノちゃんは教室へ駆けていった。僕たちはその背中を見ながら、なんだか納得がいかなかった。負けたのは、きっと僕たちが本気を出さなかったから、手加減していたからだ。僕は、汗だくになった額をぬぐいながら、そう思った。次にやるときは負けない。
放課後になって、僕たちは作戦会議をした。どうやればホノちゃんに勝てるのか。四人は頭を寄せあって考え、やがて仲間のひとりから意見がでた。ホノちゃんは強い。だけど、それはホノちゃんが「オチョコ」を使ってくるからだ。だったら、僕たちも使えばいいじゃないか。それを聞いたとき、なんて頭がいいんだろう、と僕は思った。仲間のすばらしい知性を頼もしく思いながら、僕たちは雪辱を誓った。
翌日の昼休み、僕たちはホノちゃんを誘おうとした。ところが、ホノちゃんはまだ給食を食べていた。その日は小麦粉を固めただけみたいな、ひどくまずいパンが出ていた。僕たちは昼休みに遊ぶために無理して飲み込んでしまったけれど、何人かの女の子がパンとにらめっこしていた。ホノちゃんもそのひとりだった。
教室に残っていた先生が、ホノちゃんに「ちゃんと食べなきゃだめだろう」と言っていた。ホノちゃんは、うつむいて顔を赤くしていた。いつもの勝気なホノちゃんとはまるで違っていた。僕たちは声をかけることができなくて、結局、いつもどおり四人で遊んだ。翌々日には、雪辱のことなんか忘れていて、ホノちゃんと「天皇」をすることはもうなかった。
今にして思えば、ホノちゃんは言うべきだったのだ。
「パンが食べられないから、ケーキを用意しなさい」
だって、ホノちゃんは王妃なんかより偉いのだから。
昨日は久しぶりに銭湯に行った。別にたいした理由があるわけでもない。帰宅途中に電車で友人の高松とばったり会って、近所に新しい銭湯ができたそうだから行ってみようということになったわけだ。
いったん家に帰って、必要なものを用意した。聞けば石鹸やシャンプーなどは完備されているそうなので、いるものといってもたいしたことはない。からだを拭くためのタオルと、支払いのための小銭と、他の客がいなかったときのための潜水艦のオモチャを持っていけばいいだけだ。
しばらく待っていると、高松が車で迎えにきた。銭湯までは車で二十分ぐらいかかったので、あまり近所というわけでもなかった。まわりに一軒家が多かったので、たいして流行っていないだろうと思ったけれど、なかなかどうして駐車場はほとんど満車だったので、潜水艦は車に置いて銭湯に入った。
ちょっと目をひいたのは、入り口にこんな看板が立てられてあったことだ。
次の方は入浴をお断りします。
・ 暴力団の方
・ 暴力団風の方
私は暴力団に属していないけれど、暴力団風かどうかと問われると、ちょっと考えてしまう。人相が悪いわけではないけれど、私の全身からにじみでる風格からすれば、マフィアのボスと思われてもしかたがない。見咎められずに入れてもらえるか不安になった。いちおう高松に聞いてみたら「ジャージで銭湯にくるボスはいないだろう」とのことだったので、少し安心して入場した。
新しいだけあって、浴室はたいへんきれいで、珍しい設備もいくつかあった。特に電気風呂というのは初めてだったので、楽しめた。電気風呂というのは、浴槽の左右に電極があって、電気が浴槽内をたえまなく走っている風呂だ。思っていたよりあからさまに電気を感じる。電気風呂にはいったことがある人にはわかってもらえるような気がするけれど、風呂にはいっているというよりも、なんだか改造人間になるための手術をうけているような気分になる(そういう手術を受けたことはないが)。きっとからだに良い作用があるのだとは思うけれど、しばらく入っているとなんだか不安な気持ちになるのも特徴のひとつだ。
それにしても、「銭湯は社会の縮図だ」と言った人がいたけれど、本当に銭湯にはいろんな人がいる。幼児もいれば、老人もいる。太った男もいれば、やせた男もいる。君たちがいて、僕がいる。
浴槽の側面から吹き出すジェット噴流にじっと股間をあてがっている人や、サウナ室で椅子を背中にあてがってブリッジしている人なんかがいて、後者は目のやりばに困った。高松は電気風呂で「やめろ、ショッカー」とつぶやいていた。
たぶん一時間ぐらい銭湯を満喫して、私と高松は浴室を出た。出たとき、高松とちょっと議論になった。高松が言うには、銭湯では風呂上りに腰に手をあてながらコーヒー牛乳を飲むのが、正式な作法だそうだ。私はフルーツ牛乳が正しいと主張したので、それぞれ自分の主張がいかに正しいかを言い争ってしまった。でも確かめようがないから、結局水かけ論。いや、銭湯だからお湯かけ論かな。
以前、寝ているときにまくらカバーが破れるということがあったのだけれど、今度はかけぶとん用のふとんカバーが破れていた。それも足元から胸元にかけて引き裂かれている。私は寝ているときにいったい何をしているのだろう。
考えられる可能性はいくつかある。こう見えても、私は和製シャーロック・ホームズと呼ばれたいと思っているほどの男である。ホームズはこう言った。
「あらゆる可能性を消去して、最後に残ったものが真実である」
だから、まず考えられる可能性をあげてみよう。
(1)私がふとんカバーを破るほど激しい寝返りをうっている。
(2)私は深層意識でふとんカバーを憎んでおり、眠りながら引き裂いている。
(3)ふとんカバーが呪われている。
(4)私が呪われている。
(5)かけぶとんから何かが生まれた。
それでは、可能性を検証してみよう。まず(1)私がふとんカバーを破るほど激しく寝返りをうっている、というのはどうか。もし、それが真実ならふとんカバーの心配をするより私のからだ(と脳)を心配したほうがよいような気がするが、私がそのような寝返りをうっているわけがない。考えてみれば、私ほど寝姿が美しい男はいないはずだ。その証拠に、たとえば寝る前にベッドの上を散らかしておいても、目覚めたときにはそれらは綺麗さっぱりベッドの上から無くなり、床に散らばっている。これは、私が寝ているときにもベッドの上を整理しているからだろう。
(2)にあるように、私が無意識にふとんカバーを引き裂いている可能性がないわけではない。とはいえ、しょっちゅうふとんカバーが破られているのならともかく、そうではないのだから、私がふとんカバーを憎んでいる可能性は低い。また、ふとんカバーを憎むようになるような体験(ふとんカバーに恋人を奪われた、友情を裏切られた、など)をしたことはない。
(3)(4)(5)についてはどうでもよい。ホームズは科学的捜査を何より重んじた。はっきりいって、こんな非科学的なことをいちいち考えるのはばかげている。こんな可能性があるなどと誰が言い出したのか。私は何より科学を重んじる男なのである。
以上で、考えられる可能性は消去された。むろん、「ただの寿命」とか「何かに引っかけただけ」とかいう可能性もないわけではないが、ここまで書いてそんな単純な理由であるはずがないだろう。おそらくは知られざる未知の要因、たとえば妖怪ふとんカバー裂きでもあらわれたのだと推理できる。ホームズは知らなかっただろうが、日本には他人に砂をかけるだけの「砂かけ婆」や、あずきを洗うだけの「あずき洗い」などの妖怪が存在するのだ。日本をなめるな。
問題はこれからどうするかである。妖怪ふとんカバー裂きが存在するとすれば、ふとんカバーを新しく買ったとしても、その無事を期待することはできない。何とかしてそいつに対抗しなければならないのだろうが、妖怪にどう対抗すればよいというのか。せいぜいホームズのように注意力を研ぎ澄まし、ふとんカバー裂きがあらわれたら、これが私の所有物であることを主張するぐらいか。それでも切り裂こうとするのなら、奴に渡さぬよう必死でつかむ。
「このふとんカバーはワトスン!」
なぜだかとある外国人の面倒をみなければならなくなった。仮に彼の名前をジョン・メロンとしておく。問題は、ジョンが英語を得意としており、私は日本語を得意としていることだ。
実を言うと、私は英語を話すことができない。誤解してほしくないのだが、語学力がないから話せないというわけではなく、話さないのは別に理由がある。考えてみてほしいのだが、ギリシャ彫刻のような端正な顔立ちとたくましい肉体を持ち、ノーベル賞級の知性を持ち、高潔で素直な性格を持つ人物が、そのうえ英語まで流暢に話すとしたら、周りの人はあまりいい気はしないのではないだろうか。はっきりいえば、そのようなできすぎの人間は存在自体がイヤミだろうし、嫌われるに違いない。私は、そのように周りの人を不愉快にさせる事態をできることなら避けたく思う。幸いにして、私は容貌・知性・性格のすべてに問題があるが、万が一にもイヤミな野郎だと思われないように英語も話さないようにしている。
とはいえ、やはり日本語と英語では会話にならないことが多いので、しょうがなく英語を使うときもある。いくら英語が話せないといっても、まるきり話せないわけではない。実はそれなりに話せたりもするので、いちおう私が語学力の無いジョンに合わせてやっている。そんなときは、私の語学力もまんざらではないと思う。ただ、私の語学力はふたつ以上の単語をしゃべろうとするときに限界が訪れるため、できるだけ用件は単語ひとつだけですませるようにしている。
たとえば、「あなた宛に電話がありましたよ」というときも、「電話をつかった新しい健康法を考えました」というときも、「テレフォン」とだけ言う。心をこめて話せば、それなりに通じるものだ。たとえジョンが「この電話はバター味です」だと誤解して電話を舐めはじめたとしても、たいして実害はないわけで、それほど気にする必要もないと思う。
それにしても、このように必要に迫られてから困っても遅いのだが、なぜ私は英語ごときを流暢に話せないのか。なんのために何年も学校で英語を習ってきたのだと情けなくなるが、考えてみればあのような生ぬるい教育で英語が身につくわけもなく、ひょっとしたら学校教育は英語が話せない人に「私が悪いのではなく、学校教育が悪いのだ」という言い訳を用意してあげるために存在しているのではないかと思えてくる。
思うに、仮に学校教育によって英語を話せるようにさせようと思えば、もっと楽しく、もっと真剣に学ばせる工夫が必要だろう。先日テレビで見たが、クイズ形式で英語のレッスンをするのは楽しそうだった。「『彼は、はみだし刑事です。』を英訳せよ」などという問題が次々と出題されて、それに即答することで反射的語学力を身につけるのである。それだけではあまり真剣味がないので、回答者の頭上には二十トンの鉄球を用意しておく。正解すれば次の問題へ。間違えれば、鉄球が頭上に落ちてくるようにする。そうすれば、今までとは段違いの真剣さでレッスンにのぞむだろう。正解を続ければ自然と語学力は向上し、英語がペラペラになる。たとえ間違えたとしても、ペラペラになれる。
友情をつくる方法はさまざまである。代表的な方法としては、友情を深めたい人と同じ趣味・嗜好を持つ、ともに困難に立ち向かう、団体競技で協力しあう、女性から「ずっと友達でいたいの…」と言われる、などの方法があげられる。いずれの方法も、特に難しい技術を必要としない。
そういうわけで、友情をつくるのはさほど困難なことではない。最悪の場合でも、裏から手を回して友情を深めたい人に莫大な借金を負わせ、「生命保険で支払うか、友達になるか」と脅せば友情は深まるだろう。それすら通用しないなら、三日ほど監禁してリンチすれば、ばっちりだ。
問題は、いかにして友情を持続させるか、ということである。普段から接することが多い人であれば、友情は自然と持続する。しかし、地理的・社会的な距離が遠く離れた人との友情を持続させるのは、実に困難だ。一般に、距離が離れてしまえば友情も薄まってしまうことが多い。
とはいえ、友情を持続させる方法は多数あり、ここではいちいち書かない。考えるのが面倒だから書かないわけではない。そういったさまざまな方法の中で、私が実体験を通して優れていると感じたものがひとつある。
ギャグでつながった友情。実のところ、これほど結束の強い友情はないのではないだろうか。誰しも、小さいころには友人とともにギャグを考えたはずだ。それは、友情確認のためのキーワードとなる。ともに頭をひねって考えたギャグを相手がおぼえていれば、時を飛び越えて当時の友情を蘇らせることができる。
なぜそう言えるのかといえば、かくいう私がまさにそのギャグによって友情を再確認することができたからだ。仮に、その友人をヤマモトとしよう。ヤマモトと出会うのは、十数年ぶりのことだ。そのあいだは、さっぱり連絡をとっていない。こんな状況であれば、友情は薄まり、どこかぎこちなくなってしまってもしかたがない。にもかかわらず、私とヤマモトがともにつくりだしたギャグが二人の絆をほどかないのである。
そのギャグは、実に単純なものだ。それは、ふたりが向かい合うことから始まる。ヤマモトが右の拳を握り締める。そして「ウルトラパンチ!」と言いながら、私の頬を殴りつけるふりをする。すると、私は「ミラクルパンツ!」といいながらズボンを脱ぐ。
ただ、それだけである。
実に単純にして明快。ただこのギャグひとつで私とヤマモトの友情は深まるばかりだ。ヤマモト以外の人との溝は深まるばかりだ。
私は雪が好きだということを知っている人のあいだでは周知の事実なのだが、私は雪が好きである。
ただ、残念なことに私が住む地方は冬にしか雪がふらない。むろん、一年中雪がふる地域に住む人には、また違った思いがあるのだろうが、率直にいって寂しく思う。
少年のころ、一年中雪を見ていたいと思った私は、雪を保存しようと考えた。もっとも、大量の雪を保存できるような設備を持たなかったので、ほんの一握りだけである。ガチャガチャ(地方によってはガシャポン)の丸いプラスチックカプセルに雪を詰め込んで、冷凍庫に保存した。以来十数年たつが、いまだにそのカプセルは冷凍庫に鎮座している。
あまり知る人もいないことだが、雪というのは冷凍庫に入れてしばらくすれば、ふわふわの原型をとどめず、ただの白濁した氷のようになってしまう。元の姿を知らない人が見れば、ただの小汚い氷を詰め込んだカプセルが置かれているだけだと思うだろう。だが、私はそれがいかに美しく輝いていたかを知っている。ときおり、私は冷凍庫の前で小汚い氷を見てうっとりと目をうるませる。両親は、そんな私の姿を見て目をうるませている。
カプセルを保存してから冷凍庫が壊れてしまったことが一度ある。そのときは、友人の家まで行ってカプセルを保存してくれるように頼みにいった。小汚い氷を後生大事に抱え込んで、息をきらしながら「これを頼む」と言った私を見て、彼はどう思っただろうか。こればかりは想像するしかない。おそらく、友情にあつい彼は、「何も言うな、オレにまかせろ」という気持ちだったのではないだろうかと思う。実際、彼は何も言わずカプセルを受け取ってくれた。それ以来、彼が何も言わない日は続いた。
こうやってカプセルのことを書きながら冷静に考えてみると、どうしてあんなものを私は保存しているのだろうと思わなくもない。冬を待てば雪はふるのだ。わざわざ保存しておかなければならないほど貴重なものではない。思えば、冷凍庫が壊れたときに、思い切って下水にでも流してしまえばよかったのかもしれない。はっきり言えば、今の私は「雪が好きな人」というより「小汚い氷が好きな人」にしか見えないのではないだろうか。
だが、これほど長く保存したものを下水に流してしまうのは、ひどく残念な気もする。死ぬまで保存するわけにはいかないのだから、いずれ捨ててしまうにせよ、もっと愛のこもった最期を送らせてやりたい。できることなら、私がその小汚い氷を飲み込んでしまってやりたいと思う。これが愛なのかしら。
唯一問題があるとすれば、この雪が十年以上の時を経たものであるという事実だろう。いくら冷凍庫にいれておいたとはいえ、そこらの生水などよりよほどあたる可能性が高い。下痢になるぐらいならまだしも、とんでもない菌が繁殖しており、ばったり倒れてしまうかもしれない。その後、わたしが生きて帰れるかどうかは、運を天にまかせるしかない。これがほんとの雪あたりばったり。
夢を他人に伝えることは難しい。なぜなら、第一に、夢は荒唐無稽であり、筋道だったストーリーを持たない。第二に、夢は映像主体であり、ことばだけでは表現しきれない。第三に、誰も私の話を聞いてくれない。
それでも努力はしてみるべきだと思う。先日、非常に怖い夢を見た。夢のなかで私は散歩をしていた。すると、大量の肉まんに襲われた。私はぐるりと肉まんたちに取り囲まれた。
「――でさあ、もうやばいと思ったわけ」
「へえ…」
「ホカホカの湯気とかたてやがってさ」
「へえ…」
「逃げ道もふさがれて、これは勝負するしかないな、と」
「へえ…」
「よーし! おしくらまんじゅうで勝負だ!」
「ごめん、ちょっとトイレ…」
そして誰もいなくなった。
私のつたないことばでは理解されないが、私の夢は確かに怖かったはずなのである。しかし、なかなかその怖さが伝えられず、もどかしい思いをすることが多い。もし私と同じ夢を見させることができれば、私が恐怖でおねしょしてしまうことをも辞さない覚悟で眠りにのぞむ理由もわかってもらえるだろう。
それはそうと、怖い夢というのは、見ているうちは嫌な夢であっても、夢から覚めてみればなんだか物足りないことが多い。覚めてみれば、どうせ夢のなかだったのだからもっと自分を怯え苦ませてやればよかったと思うこともままある。これは、自分をいじめるのが好きなのか、それともいじめられるのが好きなのか、どっちなのかは知らないが、どっちにしろ友達になりたくないタイプではある。本人でよかった。
ところが、そんなふうに夢のなかで自分を追い詰めようと望んでも、夢をコントロールすることはなかなか難しい。夢というのはコントロールできないからこそ夢なのであって、自由にコントロールできる夢は、世間一般には妄想と呼ばれている。そして、妄想は悪夢に比べて不健全なことだと考えられているのである。別に、妄想で自分を痛めつけようとは思わないから、それはそれでいいのだけれど、やはり夢を自由に操ることができないのは悔しい。
もっとも、まるで夢をコントロールできないかといえばそういうわけでもない。夢というのは日常体験に深くかかわっているものであるからして、日常を限りなく悪夢に近づければ夢でも悪夢を見ることができるのだろう。つまり、悪夢のような生活を送れば、思い通りの夢を見るという希望が叶うのである。
――夢も希望もないはなしではあるが。
動詞からつくられた名前というのはわりと多い。耳慣れている名前だけでも、ワタル(渡)、ススム(進)、サトル(悟)、シゲル(茂)、トオル(通)、マモル(衛)、タモツ(保)、ミチル(満)、ノボル(昇)、アユム(歩)、メグム(恵)、ユズル(譲)、マサル(勝)、ヒカル(光)、ミノル(実)、カオル(薫)、トム(富)、などなど数えあげればきりがないほどである。
もっとも、名前として違和感がない動詞が多いからといって、あらゆる動詞が名前に適するはずもない。上に挙げたような、名前に適した動詞もあれば、適さない動詞もある。では、その境界線はどこにあるのだろうか。日常生活では食う、寝る、漏らすの三種類ぐらいしか動詞を必要としない私なのだが、ここぞとばかりに脳内データベースをフル稼働させて、さまざまな動詞から名前をつくってみた。
いちおう、私が「これならいいんじゃなかろうか」と思ったものがいくつかある。
・ セメル(攻)くん
・ イドム(挑)くん
・ モエル(萌)ちゃん
あまり聞き慣れたものではないけれど、何度か聞いていれば違和感を感じなくなるような名前だろう。実際にこういう名前の人がいたって、私はちっとも驚かない。こういうのが、名前に適した動詞である。
逆に、私が聞いて違和感を感じるものをいくつか挙げてみるならば、次のようなものがあるだろう。
・ ムレル(蒸)くん
・ クサル(腐)くん
・ ハラム(孕)ちゃん
発音はさして悪くないような気もするのだけれど、やはり動詞のインパクトが負の方向に強すぎて、名前としては一般受けしないかと思う。ようするに、しごく当たり前の結論になるのだけれど、もとの動詞のインパクトが正の方向性を持っていれば、多少発音がおかしくてもそれなりに一般受けするし、そうでなければそうでないということなのだろう。
ちなみに、選考の過程で「動詞からつくられた名前で、日本一カッコいいのは何だろう」ということも考えていた。検討の結果、次の名前が日本一だろうという結論に達した。
ホトバシル(迸)くん
なんか、いっしょに歩いていて、とつぜん飛び散りそうなところが好き。
人はさまざまな状況で両手をあげる。
たとえば、自分の存在をアピールしたいとき、人は両手をあげる。たいへんに混雑した場所で、待ち合わせの相手が自分を探しているときなど、人は両手をあげ目立つようにし、自分がそこにいることをアピールする。あるいは、テレビカメラが大勢の群集を写したとき。そんなとき、人は両手をあげて自分が田舎者であることをアピールする。
喜びを表現するときも、人は両手をあげる。国家的な慶事があったときなどは、大勢の人が「ばんざい」と叫びながら両手を上下させる。個人的なことであっても、たとえば胴上げをされている人を見れば、必ずといっていいほど両手をあげている。腕組みをしながら胴上げされる人などいない。手を合わせて胴上げされる人は、そんなに仲間が信頼できないのだろうか。
また、相手に降伏するときも両手をあげる。銀行強盗は決り文句のように「手をあげろ!」と言う。強盗を取り囲んだ警察も、強盗に向かって「手をあげろ!」と言う。「手を叩け!」という強盗はいない。「手がかゆい!」という警官もいない。
他にも、球技場でウェーブをするとき、旗揚げゲームをしているとき、ラジオ体操で深呼吸をするとき、両隣の人にわきの臭いをかがせたいとき、元気玉をつくるときなど、両手を挙げる機会は数え上げればきりがない。
このように「両手をあげる」という行為はさまざまな意味を持っている。目立ちたいときも、嬉しいときも、脅されたときも、人は両手をあげるのである。これで混乱しない者がいるだろうか。誰しも両手をあげるときに、自分がいったい何のために手をあげているのか不安に思いながらあげているのである。
しかしながら、手をあげる状況がそれぞれ単独で起きたときならば、人はそれほど混乱しない。手をあげなければならない状況が複合的に襲ってきたときこそ、混乱の真骨頂である。たとえば「銀行強盗に襲われているとき、赤ちゃんが誕生したことを告げられた」という状況はどうか。そんな状況におちいったとき、人は両手をあげながら、喜んでいいのかおびえていいのかわからなくなるだろう。ましてや「銀行強盗が赤ちゃんを産んだ」ときにはどうすればいいのか。
あるいは、「暴漢に襲われながら撮った記念写真で目立ちたい」という場合はどうか。自分が暴漢におびえて両手をあげているのか、目立ちたくて両手をあげているのかわからない。そもそも何のために記念写真を撮るのかわからない。混乱である。
どうも、この「両手をあげる」という行為にはさまざまな意味が付け加わりすぎていて、複雑な状況に対応するのは難しい。考えれば考えるほど、自分がどのような状況でどのような意味をもって両手をあげればよいのかがわからなくなり、うっかり手をあげることもままならない。……どうしていいかわからなくて、どうにもならなくなった人にできることは、ただ「お手上げ」である。
《食べられません》と書かれた小さな袋
気のせいかもしれないが、あれを見ることが少なくなってきていないか。本当に気のせいかもしれないし、食品を密封する技術などが発達してその必要性が薄らいできたのかもしれない。
昔、あれのインパクトには、なかなかに強烈なものがあった。中には乾燥剤が入っているだけなのであり、食品といっしょに入れるぐらいだから、それほど致命的に毒性が強いというものではないだろう。ただ、小さいころに「絶対食べちゃだめだからね!」ときつく叱られたのかもしれないが、どうもあれは「ものすごい毒だ」という感じがしていた。
とはいえ、そういうインパクトは歳とともに薄れてきて、人間のからだが意外にじょうぶであることもわかり、あまり「恐れ」というようなものを抱かなくなってきた。「よくわからないものに対しておびえる」という年齢ではなくなったのだろう。しかし、こんなふうに悪慣れしてしまって、子どものころあの袋に感じたおどろおどろしさを忘れてしまうのは、少し寂しくもある。
では、現在の私にとってインパクトのある袋とはいったいどういうものなのか。
《許せません》と書かれた小さな袋
こんなものが食品に入っていたら、そうとう怖いだろう。後ろ暗いことのある人間は、とてもその食品を食べることができないはずだ。あのことだろうか、それともこのことか、と想像力は止まらなくなる。幸いなことに、私には後ろ暗いことは片手で数えるほどしかない(ただし、片手に生えているうぶ毛を用いて数える)。それでも、そんな食品は食べたくない。
《見てません》と書かれた小さな袋
あ、こいつ見てるな、と直感的にわかる。人は「見てない」と言いながら見ているのだ。指のすきまからそっと覗くのだ。いったいどこから見ているんだ。そこか、それともあそこか。オレを見るな、見るんじゃない。人をどこまでも追いつめる力を、この袋は持っている。
《わかりません》と書かれた小さな袋
何がわからないのか。「私は三たす二がわかりません」といった、まるで自分と関係のないことならよい(よくないが)。しかし、そんなものをわざわざ食品に仕込むわけがない。きっと何かその食品に関係があることには違いないのである。ひょっとしたらつくるときに「何だかよくわからないもの」を入れてしまったのではないか。「ちょっとぐらいならいいか」と、そのまま放置してしまったのではないか。そんないいかげんな。「わかりません」と書いたからそれですむものでもないだろう。これはとても食べられたものじゃない。
そうして人を疑り深くさせたあとで、そっと次のような袋を入れておく。
《食べられます》と書かれた小さな袋
本当に食べられるのか。
疲れたときにはポエムを書かなければならない。いまふうにいうと、ポエマらなければならない。なぜポエマらなければならないのか、私にはわからない。ただ一言だけいえることは、「ポエー」と鳴く動物がいたらかわいいだろうということだ。
題 幸子
幸子よ…!
バナナが半分しか食べられない幸子よ!
ああ!
(寸評)幸子さんへの素直な情熱が伝わってくるようで、たいへんほほえましい作品です。最終行の「ああ!」がいいですね。
題 相撲取り
相撲取りは、
塩を投げて風向きを調べている。
そして、
風と語る。
「風さん、こんにちは」
「うふふ、こんにちは」
(寸評)相撲取りへのほのかな憧憬が伝わってくるようで、たいへんほほえましい作品です。頭はだいじょうぶですか?
題 女の人生
三歳で巨乳。
四歳で不倫。
五歳で助産婦。
(寸評)とりあえずほほえましい作品です。だいぶ病んでますね。
ポエー。
マンホールのふたを独力で開けるのは困難であり、また、誰に言われたわけでもないのに「マンホールは開けてはいけないものだ」という観念が人々につきまとっている。たまに黄色いヘルメットをかぶったおじさんがマンホールを開けていたりするが、他人を遠ざけるかのように周囲を柵で取り囲んでいる。隠されると見たくなるのが人情というものだが、実際のところ、マンホールの中に何があるのかを知っている人はごく限られている。
ではマンホールの中には何が入っているのか。「マンホール」は「マン」+「ホール」だから、あの中にはきっと男の人がいるのだろう。ふたをあけたらコンニチワ、ぼくときみとがコンニチワ、と思っている人は多いだろう。ただ、それはあまりに単純な発想であり、あの闇に閉ざされたマンホールがそのような単純なものであってはいいはずがない。そもそも、なぜ男の人が入っているのを隠さねばならないというのか(隠さねばならないような気もするが)。思うに、マンホールにはもっと魅力的なものがはいっているべきではないか。
では「マンホール」を「マンホ」+「ール」と解釈すればどうだろう。あいにく私は「マンホ」とは何か知らないが、名前の響きから察するにどうやら楽しそうなものであることは間違いない。「マンホ!」と叫びながらラベンダー畑を白馬で駆け抜ける王子さまの姿が目に浮かぶようである。その「マンホ」が「ール」なのである。「ール」が何なのかは「マンホ」以上によくわからないが、名前の響きから察するに「ール」であることは間違いない。それらをあわせて考えれば、「マンホール」とは「マンホ」が「ール」をするところなのではないだろうか。少なくとも「マン」+「ホール」と解釈するよりはずっとマンホールらしい。
さらに推論をすすめれば、「マンホール」は「マンホ」+「売る」ではないかという可能性に気づく。あいにく私は「マンホ」とは何か知らないが、楽しげなものであることはその名前の響きから明らかであろう。「マンホ!」と叫びながら踊るタカラジェンヌの姿が目に浮かぶようである。その「マンホ」を「売る」のである。マンホールが日本全国に存在することからも、マンホがいかに人々に愛されているかわかるというものだ。私がマンホのことを知らないのが不思議なくらいである。
つまるところ、マンホールでは「マンホ」を「売る」のであり、中には「マンホ売り場」があるのであり、あまつさえ「松マンホ」「竹マンホ」などといった品揃えがあるのだろう。このことに気づいた私はすぐさま三百円を握りしめて家の前にある「マンホ売る」をノックしてみたのだが、あいにくと返事がない。さらには、かすかに水の流れる音がするのである。これで真実に気づかない者がいるだろうか。誰がマンホールにはマンホが売っているなどと言ったのだろう。水びたしのマンホなどあるものか。
言うまでもなく「マンホール」とは「マンボウ」+「売る」がなまったものである。
私は怒っているのである。
どいつもこいつも油断しすぎだ。もっと緊張感を持って生きられないのか。そう怒っているのである。
今日、私はトイレの個室に入っていたのである。すると、あわてた足どりでひとりの男がトイレに入ってきて、私のとなりの個室に入ったのである。男はベルトをガチャガチャいわせながらズボンをおろし、洋式便器に腰掛けたのである。そして、充実感いっぱいの声でこう言ったのである。
「あ〜、うんこ〜」
いくらなんでも、それはないじゃないか。そりゃ、うんこだろうよ。だけどさあ。おまえ、油断しすぎだよ。となりに人がいるんだよ。もっと他に言うべきことがあるだろう。いや、トイレの個室ではなにも言わなくていいんだけどさ。
そして、私は怒りを感じてしまったのである。それは、なんだか悲しい怒りなのである。世界には緊張感があふれているのである。テロリストには報復が、砂漠には飢餓と死が、スラムには犯罪が、地球には人類のエゴが、笑う角には福が、可愛い子には旅が待ちかまえているような世の中なのである。なのに、となりの個室の男はこう言うのである。
「あ〜、うんこ〜」
こんなことでいいのか、と思ったのである。我が怒りはとなりの個室の男だけに飽きたらず、この安穏とした現代社会にまで向けられるのである。それが冒頭の怒りなのである。
別に油断するのはいいよ。人間だもんな。だけど、油断するときは常に緊張してなきゃいけないんじゃないのかい。
そして私は個室を出たのである。怒りにうちふるえていたのである。こんなときは、おもわず悪態が口をつくのである。
「くそっ」
同レベルなのである。
それが多数派に属するのか少数派に属するのかわからないが、私はレジを打ったことがない。全国には数百万台というレジスターがあるのだろうし、それぞれの前には少なくとも一人の店員がいるはずである。しかし、私は常にその外側を通りすぎるだけであり、内側から客を迎えたことがないのである。
レジ打ちを避けて生きてきたわけではない。レジを打たなければならない理由があれば、特にそれをためらうことは無かっただろう。たとえば、祖父が死の床で息をあえがせながら、「わしの果たせなかった夢を…、レジ打ち業界にひときわ輝く一番星になるという夢を…、きっとお前が果たしてくれい…、これがほんとのレジスター、なんちゃって…、ガクッ」と言い残して亡くなったのだとしたら、私の手でとどめを刺したあと、死者に敬意を表してレジを打ちにいったことだろう。
もっとも、レジ打ちに向き不向きというものがあるとするならば、私はレジ打ちというものに向かないようにも感じられる。レジ打ちは誰にでもできるというわけではない。少なくとも、現金を見るのが嫌な人、現金にアレルギーを持っている人、現金にマヨネーズをかけてしまう人などは、レジ打ちには不向きだろうと思う。さらに、細かく考えてゆけばレジ打ちに必要な能力というのは多くある。
たとえば、レジを打つ人間は計算が速いほうがよさそうだ。九百円の買い物に千円札をさしだされたとき、釣銭の計算ぐらいはできたほうがいいだろう。計算できないからといって、キレていきなり千円札をやぶってしまったりするのは、ただのバカだろう。少なくとも「やぶっていいですか?」と聞くぐらいの分別は必要だ。
また、客をスムーズにさばいていく能力も必要だろう。客から受け取った品物を吟味したり、「もっと安いお店が他にありますよ」とアドバイスしたり、「少しは家計のことも考えてください」と諫言したり、「これを買ったことは誰にも秘密にしておきますから…」とイヤな気配りをする店員は、レジ打ちには不向きだろう。
他にも、長時間立ちつづける持久力や、営業スマイルをつくるための表情筋力や、レジスターの現金皿が飛び出してくるのを素早くかわすための瞬発力や、強盗にも動じない精神力や、毎日コンビニ弁当を買ってゆく寂しい客を癒すための包容力など、数え上げればきりがない。そう考えると、とても私に適性があるとは思えず、一流のレジ打ちになるのはまず無理だろうと思う。
とはいえ、一流のレジ打ちは無理にしても、ふつうのレジ打ちならやってやれないこともないかもしれない。もっとも、それは私に現金を預けて大丈夫だと判断できる雇用主がいればの話であり、そんな判断力の無い雇用主のもとでは働きたくないものだ。
むかしむかし、小さな王国がありました。かねてより、小さな王国の海にはたいそうかわいらしい少女がすんでいました。しかし、王国の人びとは、そのことを知りませんでした。びっくりすることに、少女は人間と魚のハーフだったのです。わかくてかわいらしいその少女は、立派な出目金魚の頭と、人のからだを持っていて、なかまからは「魚人姫(ぎょじんひめ)」と呼ばれていました。
こどものころから、魚人姫は泳ぎがじょうずでした(エラ呼吸だし)。たった三歳のころには、海の中を自由自在に泳ぎまわることができました。わたしってグッピーよりすごいかも、と魚人姫が思っていたかどうかはわかりません。
ある日、魚人姫が海の中で遊んでいると、嵐が起きました。とつぜんの嵐を魚人姫は静かな海の底からながめていました(魚眼で)。いろんなものが嵐に翻弄されています。うみうしや、カーネルサンダースや、浮気性の男とつき合う少女の乙女心などが翻弄されていました。めっぽう太ったミミズが流されてきたときは、思わずパクリと食べてしまいました。だって、食べ盛りの女の子なんだもん。
たかい波をしばらく見ていると、どこからかやってきた、小さな船が嵐に翻弄されていました。なんと、船首には王家の紋章が描かれてありました。いずれ沈没してしまいそうなようすです。ばりばりと音を立てながら、船の外板がはがされています。しばらくのあいだ、船は嵐と戦っていましたが、大きくゆれた拍子に一人の青年が海に投げ出されました。
ようやく嵐がやみそうだというのに、運のない青年です。がんばって海面でもがく青年でしたが、やがて力つきて波に飲み込まれ、海中に沈んでしまいました。あわてて魚人姫は沈んでいく青年を抱きかかえました。りっぱな身なりから、青年は王国の王子さまだということがわかりました。まっすぐ海面へと上昇し、王子さまを近くの海岸へつれてゆきました。
しばらくのあいだ、魚人姫は王子さまを介抱してあげました。てあてをしているうちに、魚人姫は王子さまのエラのはったステキな顔に恋をしてしまいました。だけど、王子さまは人間で、魚人姫は魚人です。「け…、結婚してちょんまげ」なんて、言えるわけがありません。どうしてよいかわからなくて、魚人姫は王子さまが目を覚ます前にその場を離れました。
いろいろ悩んだすえ、魚人姫は海底にすむまほう使いのおばあさんに頼んで、人間にしてもらうことにしました。
「まほう使いのおばあさん、どうか私を人間にしてください。」
「やあいいだろう、お前のきれいな声と引き換えでね。」
なんとも厳しい条件ですが、魚人姫はそれでもいいと答え、まほう使いのおばあさんは魔法をかけました。くるくると杖をまわしながらおばあさんが呪文をとなえると、魚人姫はしだいに眠くなり、やがて目覚めたときは人間の姿で海岸に横たわっていました。
なんともかわいい人間の少女の姿で砂浜に倒れている魚人姫を、近くに住む漁師が見つけました。つかのま月の光に照らされたその美しさを見て、これはきっと名のある家のお嬢さんに違いないと考えた漁師は、魚人姫をお城へと連れて行きました。ていねいに頭を下げてあいさつする魚人姫を一目見て、王子さまは恋に落ちました。「しりあったばかりだけれど、どうか結婚してほしい」と、王子さまは言いました。まことに物語がご都合主義のような気がしますが、気のせいだと思います。いきなりの申し込みに、魚人姫はうれしくて歓声をあげたかったのですが、声が出せませんでした。まるで声が出せないので、しかたがなく、魚人姫はジャスチャーで喜びで表現することにしました(どんなジェスチャーか想像してみてね)。
「(しんじられない、コンニチワ、わたしは元魚人姫です、うれしいよ〜)」
「たわわに実ったバナナにフライングチョップ…ですか?」
かわいい少女が自分の恩人だと知り、王子さまはますます魚人姫にほれ込みました。わりと何の障害も無く、ふたりは式を挙げました。いずれも永遠の愛を誓い合いました。
それから長い年月が経ちまして、やがてふたりの間に赤ちゃんが生まれました。うれしくて、赤ちゃんの顔をのぞきこんだ魚人姫はおどろきました。なんと、赤ちゃんは魔法をかけられる前の魚人姫にそっくりだったのです。
目出たし、目出たし。
「ガキの頃俺はね」
「はあ」
「パイロットになりたかったんだよ」
という会話文を読んで思い出したのだが、実は私もパイロットになりたかったのだ。パイロットといっても文房具メーカーのことではない。ましてや文房具になりたかったわけではない。飛行機の操縦士のことである。
なぜパイロットになりたかったのかは、よくわからない。身近に航空関連の仕事をしている人はいなかったし、乗り物のなかでは電車が好きだった。今にして想像するに、おそらく大空高く飛ぶ飛行機に乗り、地上を見下ろして、
「ふっ…愚民どもがっ…」
とつぶやいてみたいという、少年らしい爽やかな動機だったのではないかと思う。
多くの少年がそうであるように、私も小さいころは「夢見がちな少年」と言われたものだ(今では夢遊病と疑われている)。夢というのは重要なものである。確信をもって言わせてもらうが、少年は夢を糧に生きているのである、といっても過言ではない、ような気がしないでもない。
なぜ夢が重要なのか。たとえば、将来、息子に夢を尋ねられたらときのことを考えてみればよい。「ねえ、パパは子どものころどんな夢を持っていたの?」「うーん。パパには夢なんか無かったんだ」「えっ、なにそれ。つまんないやそんなの。そんなの僕のパパじゃない。きっと僕の本当のパパはどこか遠くにいるんだ。僕は本当のパパを探すぞ。いくぞ、パトラッシュ!」と旅に出てしまうかもしれないのである。かくして、夢のない少年は寂しいパパとなる。
そんなわけで、少年のころから夢を抱くことは重要なのである。少年にはたくさんのよい夢を抱いて欲しいものだ。思い返せば、私も「パイロット」だけではなく、さまざまな夢を持っていた。なかには子どもっぽいものもあった。「ドラえもんのひみつ道具で、たのしいことをしたい」などというのもそのひとつだ。このリアリスティックな私が、よくそんなロマンチックな夢を抱けたものだと思う。もちろん、幼稚園を卒園するころには、そんな子どもっぽい夢は捨てた。小学生になったころには「ドラえもんのひみつ道具で、エッチでたのしいことをしたい」という夢を持っていたものである。
そんなふうに夢を捨てたり、ふくらませたりして、今の私があるわけだ。タイムマシンに乗って、幼い頃の私に会い、ぜひ言ってあげたい。
「きみがたくさん夢を持ちつづければ、きっと私みたいになれるんだよ」
幼い私は、感動のためか目にうっすらと涙をうかべ、からだをふるわせながら言うのだろう。
「夢だよね…」