|-七−| | 2005.12.22 |
困ったことが起きた。白雪姫がモアイだったのである。 何かに導かれるように森の奥を訪れた王子は、仮死状態のモアイを見ながら戸惑っていた。 「どうすればいいというのか」 ここは、やはりキスをするべきなのだろうか。もちろん、王子は人を外見で判断するような男ではない。それを補うだけの美点がありさえすれば、物語の落ちは「ふたりは幸せに暮らしました」で結構。だが、相手はモアイなのだ。これは外見とか、そういう問題ではない。そもそも、キスをすれば、モアイは目を覚ますのか。目覚めたモアイがどのような行動を起こすのか。まるで、予想がつかない。もちろん、話の落ちは未定である。何も見なかったふりができればよかったのだが、悪いことに、そこには七人の小人という目撃者がいた。小人たちは、王子がいったいどのような行動をとるのか、七つの顔に興味深そうな表情を浮かべてうかがっている。 「どうすればいいというのか」 もし、妹に「お兄さまのことが好き」といわれたら、どうすればいいのか。からかうんじゃないよ、シャルロット。本気ですわ…、もうこの想いは止められませんの。バカ、オレたちは兄妹じゃないか。でも…、お兄さまがやさしすぎるのがいけないのです。そんな妄想で目の前の問題から目を背けようとする王子だったが、そこにはやはりモアイがいた。 「いっそ、消すか」 そんな黒いことを考えながら、王子は小人たちを見た。目撃者さえ消してしまえば、自分がモアイを見捨てていったことが世間に知られることはない。そうして、どこかに眠っているドジな眼鏡っ娘の白雪姫と幸せに暮らせるかもしれない。だが、そんなに上手くいくものなのか。 王子が小人たちを抹殺して立ち去ったあと、カッと目を見開くモアイ。その大きな身体を地面にめりこませながら、ゴリゴリと動き出す。ちょうどその日はお城の舞踏会。突然、王城の門前に現れたモアイに門衛が告げる。 「ど、どちらにおいででしょうか。い、石の招待席はありませんが」 慇懃無礼に追い払おうとするのだが、声の震えは隠せない。衛兵がモアイを取り囲むが、モアイの目から照射された赤いレーザーが、彼らをなぎ払う。そのままレーザーは城壁を貫き、天井や壁が崩れ出す。危ない、シャルロット! 倒れてきた柱にシャルロットのドレス(ミニスカート)が挟まれそうだ。とっさにシャルロットの手を引っ張り、胸に抱きとめる。バカ、気をつけろ。シャルロットの目をまっすぐに見つめて叱り付けると、シャルロットは耳まで上気させながらつぶやいた。お兄さま、もう放さないで…。そんな妄想で王族としての自覚を無くしかける王子だったが、焦土と化した王城に聳え立つモアイがふと脳裏に浮かび、背筋を寒くした。 「……」 とんでもない罠にはまってしまったような気持ちで、王子は覚悟を決めた。行くも地獄、戻るも地獄。なら、王子としての役目を果たそう。覚悟を決めた王子がモアイにキスをすると、意外と普通にモアイは目を開けた。王子に気付いたモアイは、頬を染めながら王子に告げた。 「いい年をして恥ずかしいのですが、頬骨が小さいのです。でも、いつか大人のモアイとなって戻ってきます」 そう言い残して、鼻から炎を噴射して大空に飛び立っていくモアイ。何がなんだかわからないまま、呆然とそれを見送る王子。モアイの生態をよく知らない王子には、ただ祈ることしかできない。 ああ、せめて、来年もいい年でありますように。 | |
なぜだか泣きそうになる | 2005.11.05 |
部屋でひとりになった人間は、何か恥ずかしいことをする。この「恥ずかしい」のニュアンスをうまく伝えるのは難しいが、「顔から火が出るほど恥ずかしい」と「うれし恥ずかし」を足して「恥ずかしいから電気を消して…」で割ったような状態であるといえば、誰にでも理解してもらえるだろう。 もっとも、それは人類なら誰でもやっていることなのだから、そう恥ずかしがらずともよいのかもしれない。たとえば、鼻歌を歌っているうちに気分が高揚してきて「カリスマロックンローラーごっこ」をすることぐらい、誰にだってあるだろう。気分が落ち込んでいるときに、鏡に向かって「元気出せよ、オレ」と最高の笑顔でいうことだってあるかもしれない。「バカ、そんなにくっつくなよ」と虚空に向かって語り掛けることなどしょっちゅうだ。誰だって、我に返ると赤面してしまうようなことをしたことがあるはずだ。私は無いが。 そのような行動を取ってしまったあと、ほとんどの人はすぐに我に返る(まれにいつもそんな状態の人もいる)。そして、あたりを見まわして、誰にも見られなかったことを確認する。用心深い人は隠しカメラや盗聴器のチェックもする。さらに用心深い人は国外へ逃亡する。誰にも見られていなかったことを確認して、ようやく安心する。しかし、警戒が足りず、気づかぬ間に誰かに見られていることもある。 北嶋という友人がいる。北嶋はちょいと懐かしさを感じるような古いアパートに住んでいて、私が彼を訪ねたとき通路に面した窓が数センチほど開いていた。呼び鈴を鳴らす前に、ふと部屋の様子を覗きこむと、北嶋は窓に背を向けて「マフィア(?)につかまり、許しを請うが、結局銃に撃たれてしまうごっこ」をしていた。 北嶋は「助けて」という様子で顔の前でふるえる手をかざした。見えない相手に向かって、必死の命乞いをしている。声は出さず、身ぶりでの熱演だ。しかし、相手は冷徹なまなざしで北嶋を見つめたまま、銃弾を発射した(ようだ)。撃たれた北嶋は、腹を押さえてよろめく。信じられない、という顔で架空の相手を眺めた後、ひざをつき、うつぶせに倒れこんだ。指を二三度ぴくりと動かしたあと、彼はこときれた。 見てしまった。「部屋でひとりになった人間は、何か恥ずかしいことをする」。見たあと、こっちが猛烈に恥ずかしくなってしまった。そのまま彼に呼びかけるのがためらわれた私は、一旦アパートを離れ、五分ほど歩き回ってから呼び鈴を押した。北嶋は、何事もなかったように出迎えてくれた。つい先ほど銃弾に撃たれたことなど感じさせない笑顔だった。そのとき、私がどうしても言えなかった言葉がある。 「大丈夫?」 | |
手土産レボリューション | 2005.10.30 |
「つまらないものですが…」 それは甘えだ。自分の持ってきたものを卑下することで、相手を喜ばせようとする自信が足りない言い訳しているだけだ。本当に相手を喜ばせる自信があるのなら、つまらないなど口をつくはずがない。また、そんなことをいわれて嬉しいはずがあろうか。 だが、謙遜の美徳を忘れてはいけない。たとえ相手をどんなに喜ばせる自信があろうとも、「すばらしいものですが…」とは口に出せないものだ。誰がそんな偉そうな贈り物を贈られたいと思うのだ。 つまりは、新しい常套句が必要なのである。相手に期待を抱かせつつ、決して過剰に自信を覗かせないようなオブラートに包んだいいまわしとともに、手土産は渡したいものだ。そこで、こんないいまわしはどうか。 「やわらかいものですが…」 過剰に自信をのぞかせるわけでもなく、しかし相手は期待を抱かずにはいられない。「やわらかいもの…。ふつうに考えれば和菓子とか…だけど、あえてやわらかいというからにはもっと…ふわふわ…ぷにぷに…ぷるぷるーん…」と、もはや相手のハートをわしづかみにして離さない。うるんだ目をした相手のななめ上にはポワンポワン(妄想中に出る雲のような物体)が浮かんでいる。 だが、この言い回しに欠点があるとするならば、それはやわらかくなければならないということである。つまり、せっけんや木彫りの熊など、手土産としてはよくあるパターンが使えないのであって、もう少し汎用性のある表現が望まれる。そこで、次のいいまわしだ。 「国家間の憎しみを感じさせないものですが…」 壮大な自信を覗かせつつ、実はたいしたことがないものでも一向に構わないといういいまわしである。相手は「国家間の憎しみを感じさせるもの」がどんなものかすらわからないのであって、しかしこの言葉が持つ重みが相手にそんなことすら考えさせない。気分は大統領閣下である。 だが、冷静に考えてみて、やはり大げさな表現であることは否めない。相手に過剰な期待を抱かせてしまう危険がある。誰が、本当は中身がバナナだと想像するだろうか。やはり、手土産にはそれ相応の表現というものがあり、たしかに自分の手土産に自信を見せるのは悪いことではないが、相手の期待と実際の中身のギャップが生じないように気をつけたいものだ。そこで考えられるのはどんなセリフか。 「すごくよかったですが…」 使用済みか…。 | |
泣かないで | 2005.10.23 |
誰しも「一度は言ってみたいセリフ」があるが、役者でもないかぎり、そんなセリフをいう機会には恵まれない。だが、それでよいはずがない。いいたいセリフひとついえないようでは、ブラジャーをはずし忘れたまま外出したときのように、なにか胸にひっかかりを感じながら日々を過ごすことになる。余計なストレスを感じないためにも、セリフを口にする機会は逃さずにいたいものだ。 たとえば、一度は言ってみたいセリフとして、こんなものがある。 「これ以上、お前の好きにはさせない!」 想定される状況としては、自分より強い相手に立ち向かうようなときであろうか。だが、いざ日常でこのセリフをいおうとしても、いう機会に恵まれない。それはそうだ。このセリフをいうには、まず自分が「好きにされる」必要があるが、そんな支配欲に満ちた知人はなかなか見つからないのである。 ではどうすればよいのか。ここで代替案として提案したいのがコタツである。あの、心も身体も思うがままに蹂躙する悪魔の装置。おシャレな雑誌のような生活に憧れる田舎の女子中学生の夢を打ち砕く存在。そいつにいってやるのだ。 「これ以上、お前の好きにはさせない!」 そうして、コタツから颯爽と立ち上がる。強い意志を浮かべた眼でコタツをにらみつける。そのまぶしい姿は、思わず皆が目をそらすほどだ。 他に、こんなセリフも言ってみたい。 「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」 おそらく、状況は敵の幹部にもう少しでたどりつきそうなとき。我々には果たさねばならない任務がある。こんなところで足止めをくらうわけにはいかない。そう、ここで誰かが犠牲になる必要があるのだ。そこで上記のセリフを言い放つのである。「しかし…」とためらう仲間に向かって、「きっと、また会おうぜ」とかいいながら、敵の渦中に飛び込んでいくのだ。そんなかっこいいセリフをいってみたい。 だが、それには何が必要か考えるのが面倒なくらいの準備が必要であり、そもそも、どうして私がそんな危険なシチュエーションに会わなければならないのか。そういうわけで、もっと手軽にいえるシチュエーションはないかと考えてみるに、こんなセリフをいってもおかしくないのは、屁だ。 それも、ただの屁ではない。大を我慢しているときの屁だ。とてもおなかが痛くて、もう少しで漏れそうだけど、たぶん、いま出口にいるのは屁。慎重にコントロールすれば、大を出さずに屁だけを出して、少しおなかが楽になる。だが、これは賭けだ。括約筋を緩めすぎると、屁だけではなく、混沌が生まれる。まさに生と死の狭間。私は全神経を括約筋に集中させ、言い放つ。 「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」 そうして、見事に気体のみを出すことに成功する。この達成感。自らが閉じ込められたままであることを知っていても、それでも友を脱出させるためなら、どんな危地をも厭わない。これが人間の証というものか。 見事、友の脱出に成功させた私は下腹に意識を集中させる。成功した以上、ただ犬死するわけにはいかない。きっと安全圏で脱出しようと、私はトイレの個室に急ぐ。だが、友は去り、敵の攻撃は苛烈である。無事、脱出できるのか。 あと数歩のところで、どこからともなく声が聞こえてくる。 「約束どおり、戻って来たぜ…」 煙が目にしみただけだ。 | |
やさしい世界の呪いかた | 2005.06.19 |
世界は愛おしくて抱きしめずにはいられない。
ヘルシンキの動物園にいる動物の種類はけっして多くない。(中略)その代わりに、フクロウとトナカイがやたらとたくさんいる。もちろん学術的にはそれらはみな違った種類のフクロウであり、違った種類のトナカイであるにちがいないのだが、素人目には要するにみなフクロウでありトナカイである。動物園にはちゃんと順路が設けられていて、順路どおりに進んでいくと、まずフクロウがいて、トナカイがいる。次にまあ何か別の動物がいて、それからまたフクロウがいて、トナカイがいる。でまた別の動物がいて、それからフクロウ、トナカイ……と、どうやら、フクロウとトナカイがかなり大きな割合を占めているという事実を隠蔽すべく涙ぐましい努力がなされているらしい。 柴田元幸『生半可な学者』(白水社)
穂乃香はエレベーターに乗りあわせた小さな女の子に笑顔で告げた。
あのカップルがポッキーだと思って両端からくわえているものは鉄串です。
「ごめ〜ん、待った?」とブリッジで高速接近してくる亜沙子
「ごめ〜ん、待った?」とマンホールから突然飛び出す亜沙子
キリンさんが好きです。でも、ゾウさんの方がもっと好きで…私、もうどうしていいのかわからないのよ。ああん!
Q1 : 赤い顔して紙ばかり食べる街角に立っているものな〜んだ?
「だけど、そんなことでうまくいくわけがないじゃないか」
私が少女漫画のヒロインに抜擢ですか!? でも…私みたいに平凡でお人よしでおっちょこちょいで…でもそんなところが魅力的な私にそんな大役ができるんでしょうか。
「ねえ、琴子ちゃん。失敗したとき、自分の頭をコツンって叩くことあるじゃない?」
俺、今、ブルマー!
「あはは」
デビューのきっかけですか? 友達と遊びに行ったら、そこがオーディション会場だったんですよね。友達が勝手に履歴書を送っちゃってたらしくて…しょうがなくステージに立ったら、ショッカーの幹部のかたに「君は怪人イソギンチャク女の素質がある」っていわれて、びっくりしました。でも、今はライダーの方と戦うの、すっごく楽しみなんです。私の触手フラッシュを受けてみよ、えいっ、なんちゃって(テヘッ☆)
神 様 の 鼻 毛 の び ろ
ぼくらのなまえはぐりとぐら
「いらっしゃいませっ」
目のやり場に困る転校生がやってきた。
ケンカするバカップル
すごく嫌なことがあったスーパーマンが空を裸で
「あれ、お母さんは? お買い物?」
「もう踏んだり蹴ったりね」
「痛っ! トゥシューズに画鋲が!」
「じゃあ、今日は私が夕ごはんつくりにいってあげる。あんただけじゃ、どうせカップラーメンなんでしょ」と、思い切っていってみた琴子。つっけんどんな言い方をしたけれど、心拍数は二万を超えていた。彼は私のことを幼馴染としか見てないのかもしれないけど、私だって女の子っぽいところがあるんだから――と、ありがちな経緯であいつの家にあがりこんだ琴子だが、とんでもない窮地に陥っていた。うっかり「トイレ貸してね」といったのが運のつき。すっきりしてから気がついた。そう、今日は断水の日。近所に住んでいるのに、どうしてそこに気がつかなかったのか。自ら生み出したものを見つめて途方に暮れる琴子。ああ、どうしたらいいの。神様、助けて。
「ねえ、おデブちゃん」
「ほーら、出してる出してる」
飛 ん で 火 に 入 る 花 キ ュ ー ピ ッ ト ♪
「やあ、みんなおはよう。今日もいい天気だなあ」
「きゃっ」
「センパイッ! これ、受け取ってください」
その感触は、「ちびった」というようななまなかなものではなかった。「洩らした」というほどサッパリしたものでもなかった。あえて率直に、正確にその感触を描写するのなら、「うんこが出た」としか表現のしようはない。 浅田次郎『勇気凛々ルリの色 満天の星』(講談社)
世界が待っている? | |
ぬ菓子 | 2005.02.27 |
たとえばアーモンドチョコなどが代表的なものでしょうが、たいていの人は、口にいれてチョコレートが溶けるのを待ったりせず、チョコとアーモンドをともに噛み砕いたりもせず、チョコレートが乾いているうちに歯をつかってチョコとアーモンドを分解してしまう。もちろん、ポッキーはチョコレートのコーティングを歯でこそいでしまうし、きのこの山はえの部分がうまく抜けて、チョコレートにつるんとした穴があくと、なんだかうれしい。 このように、たいていの人は、チョコレートとそれ以外がくっついたお菓子を食べるときに、両者を分解すると思います。ところが、このような行為は極めて一般的なのにもかかわらず、その行為を何と呼ぶべきなのか、それを適切に指し示す名称がありません。しからば、このような行為に私が適切な名称を与えようと思いまして、どうして私がそのようなことを考える必要があるのかは自分でもわかりませんが、ときどき自分はバカなんじゃないかと思うことがあります。 では、どのような名称がよいかと考えますと、その名称を聞けば誰でも上記の行為を思い浮かべることができるような、そんな名称が好ましい。そこで考えましたところ、よほどの性倒錯者でもないかぎり、たいていの人はチョコレートを分離するときに女性の衣服を脱がすことを想像していますから、そのような名称が好ましいのではないかと思いました。たいていの人は、きのこの山は故郷の幼馴染だとか、ポッキーはバイト先の女学生だとか、エリーゼはいつも公園で犬の散歩をしている白いワンピースのお嬢さんだとか、勝手なシチュエーションを想像しながらチョコレート部分を脱がしていますよね。アポロチョコは色違いのチョコをきれいに二つに分けるという変り種なので、ちょっとした異国情緒を楽しんだり。それから、変り種といえば忘れてはいけないのがあのお菓子。 そう、ルマンドです。 あのただよう気品は、やはり学園のマドンナといったところでしょうか。きのこの山などにはみられない複雑なコーティングは、あたかも乙女心。ルマンドに挑むときは、ちょっぴり気取った顔をして、「君の生まれたままの姿がみたいんだ……」なんてつぶやきながらやさしく表層のチョコレートを脱がします、たいていの人は。ところが、チョコレートをはがすと、その下には薄いパイ生地のような層があり、それをはがすとまた新しい層が。夢中になっていると、いつのまにか消えてしまうのは、女性の神秘というやつでしょうか。 さて、少し話がそれましたけど、このような行為をなんと呼ぶべきかと考えていたのですが、ああ、そういえば、こういうのは「妄想」と呼ぶのでした。 | |
身も心もスゥイーツに | 2005.02.07 |
そもそも、私は人を不愉快にさせるのが嫌いだ。そして、バレンタインデーにチョコレートを大量に受け取るような男子を見るのは、とても不愉快なことである。したがって、私は他の男子を不愉快にさせないために、チョコレートを受け取らないことを決意している。不思議なのは、誰にも口外していない私の密かな決意を、なぜ女子があらかじめ知っているのかということだ。 そんなわけで、今ではバレンタインデーよりも節分にそわそわできるほど徳の高い人物になった私だが、別にバレンタインデー自体を否定しているわけではない。私も徳の低かったころは、告白だとかデートだとか、そんなチャラチャラしたことを気にしていたものだ。 「バレンタインデーは好きな人に告白する日」 誰が考えたのか知らないが、すばらしいアイデアではないか。ちょっぴり内気だったり、素直に自分の気持ちを伝えられない、そんな少女が年に一度勇気を出せる日。それがバレンタインデーである。 「バレンタインデーは好きな人を告発する日」 こんな日には誰も幸せになれない。朝からとてもイヤな気分で過ごさなければならない。ああ、バレンタインデーが告白の日でよかったことよ。 さて、こういうことを書くと自慢話になるのかもしれないが、私も徳が低かったころは、バレンタインデーともなればよくターゲットにされたものだ。 放課後の教室。夕陽に黄昏る私。やがて、教室の外から数人の女子の押し殺した声が聞こえてくる。ねえ、チャンスだよ。いっちゃえ、ほら。友人たちに背中を押され、教室に一人の少女が飛び込んでくる。私がそちらを目をやると、少女は手を背中に回し、ぱっとうつむいた。少女の顔が赤く染まっているのは夕日のせいか、鬱血性赤面症のせいか。しばらくの沈黙のあと、意を決したように少女は私の顔を見つめ、言葉を発する。あっ、あのっ……。 「私、あなたの病名を知っているんです」 なぜ、そんな重い告白を。 | |
ほのか | 2004.06.25 |
洗濯物を干し忘れて、数日ほど洗濯機に放置していたら、なにやら変なニオイを発している。干せば消えるだろうと思って干してみたが、やはりニオイは残っている。仕方がないので洗いなおすことにしたが、洗う前にあらためてよく嗅いでみると、変なニオイには違いないのだが、どこか懐かしさを感じるニオイである。タオルなどで顔を覆ってスンスンと臭いを嗅いでいると、やけに安らいだ気持ちになる。さて、このニオイは何のニオイだったかと考えているうちに、はたと思い当たった。
「これは雑巾のニオイですか?」 雑巾のニオイに郷愁を感じている自分に気付き、暗澹たる気持ちになった。すると、私の故郷はバケツか。 街、家、人にはそれぞれ特有のニオイがある。友人の家にいくと友人の家のニオイがしていたし、嗅ぎなれたニオイで自分の街に帰ってきたことを実感したりもする。こればかりは真似することができない。たとえば友人とニセ友人がいたとして、外見や質感はそっくりだとしても、ニオイだけはどこか違う。本物のほうが、靴下がちょっとクサイとか、必ずそういう違いがあると思う。 それだけに、ニオイは他人との相性を探る上で重要である。どこかニオイにしっくりこないものがあると、それだけで友情や愛情の障壁となる。嗅覚など、五感のなかで最もとらえどころのないものなのに、しっかり人間の原始的な部分と結びついているようだ。 返して言えば、ニオイさえしっくりとくるのなら、他の部分は、たいした問題じゃない。たとえ見た目や声や味やさわり心地に難があろうとも、その人のニオイが自分にぴたりとはまれば、その人とは一生の友人か、あるいは一生の恋人かになれるかもしれない。さしずめ、私の一生の恋人は雑巾の香りがする人だろう。 どうか、一生、出会いませんよう。 | |
シャンリン問題 | 2004.06.10 |
シャンプーとリンスの容器を見分けるために、よく一方の容器にはギザギザがつけられていたりするが、バカじゃないかと思う。そんなさりげない工夫をしたところで、ギザギザがあるのはシャンプーかリンスか覚えていられるほどの知能が私に備わっていれば、いまだにナイフとフォークを持つ手で悩んだりしない。――本当に、バカじゃないかと思う。 そもそも、メーカーに頼ろうとするのが間違っている。医者が元気な病人の増加を望み、弁護士が無罪の犯罪者が増えるのを望むように、メーカーは消費者がシャンプーとリンスを間違えて、その消費量が増えればよいと思っている。それを、つまらないギザギザなどをつけて「間違えにくくしました」などというのは欺瞞である。必要なのは、メーカーに工夫を促すことなどより、我々の意識改革である。 では、なぜ我々はシャンプーとリンスを間違えてしまうのか。それは、「間違えてもたいしたことではない」という甘えがあるからにほかならない。いきなりリンスをしようが、シャンプーを二度しようが、困るわけでも、死ぬわけでも、そのとき歴史が動くわけでもない。運任せで当たればいいやといった甘ったれた態度のせいで、いつまでもシャンプーとリンスを間違える人間が後を絶たず、「昨日、シャンプーとリンスを間違えちゃってね」などというおもしろトークを何度も聞かされるはめになるのだ。 つまり、シャンプーとリンスを間違えないためには、運任せでどうにかなるなどという意識を捨てさせなければならない。そのために、たとえば洗髪に用いる手順を複雑にしてみてはどうか。シャンプー→リンス→ドラマチック→スパイラル→ガンダム→ファイナンシャルプランナーと、複雑な手順をもってはじめて洗髪が完成するようにすれば、誰も運任せで容器を選んだりはしない。おそらく、面倒になって洗髪などしなくなるだろう。 あるいは、注意深くならざるを得ない状況にするということも考えられる。我が家の浴室にはポンプ式のシャンプーとリンスが並んでいるが、そっくり同じ形状で、となりに自爆スイッチを並べてみてはどうか。これで1/3の運試しをしようとするものがいるであろうか。誰もが、いったんポンプを押そうとする手を止め、はたして自分が押そうとしているのがシャンプーなのか自爆スイッチなのか確かめるだろう。ついつい押してみたくなるという欠点を除けば、完璧な解決策といってよい。 このように、我々の意識改革を促す工夫こそがシャンプー・リンス問題の解決のために必要なことである。いっそのこと、一気に考えを改め、シャンプーとリンスなどを使うのをやめてしまってもよい。強い意思をもってすれば、水があたかもシャンプーのようになるかもしれない。そうなれば、メーカーの戦略も水の泡となる。 | |
耳をすませば | 2004.05.16 |
「ひとりごと」とは一人でいうから「ひとりごと」なのであって、「誰かが聞いているかも」と意識した時点で、それはもう純粋なひとりごととはいえない。 このことがひとりごとの研究を難しくする。純粋でないひとりごとを研究するのは、それほど難しいことではない。「ふだん、どんなひとりごとを言っていますか」と聞けばよい。気のいい人であれば、おもしろひとりごとのひとつふたつは教えてくれるだろう。しかし、そこで教えてもらえるのは、いってみれば「公開することのできるひとりごと」なのであって、思わずつぶやきもれる「真のひとりごと」ではない。 「真のひとりごと」はファンタジーである。「真のひとりごと」は私の気持ちを狂おしいまでにゆさぶる。もし、「真のひとりごと」ばかりを集めた本があれば、迷わず立ち読みするだろう。それぐらい、私は真のひとりごとを愛すのである。 先日、ひさしぶりに「真のひとりごと」に触れることができたので、ここに報告しておく。深夜、電車に乗っていた。座席には、私とサラリーマンが座っていた。サラリーマンはくたくたのよれよれだった。ぼうっと窓の外を見ている。目の焦点が合っていない。かなりお疲れのようだ。そんなとき、彼がふとつぶやいた。 「ブッチャーですか…」 これこそが真のひとりごとである。信じられないくらい無意味だ。彼は、自分がたった今ひとりごとを言ったことすら気づいていないのではないだろうか。私は心の中の「真のひとりごとのたからばこ」に、大切に彼のひとりごとをしまいこんだ。 「真のひとりごと」を得ることは難しい。かろうじて、真のひとりごとは油断している人間がつぶやきやすいということがわかっているが、気づかれないように油断した人間に近づけるのは、ほんの限られた機会しかない。人は、ひとりごとを聞かれるほど他人に近づかれて、そうそう油断していないのである。真のひとりごとを聞くのがいかに難しいことか、やってみなければわからないが、やってみなくてもいいと思う。 研究の難しさから「真のひとりごと研究家」は、まだほとんどいない。私の知る限り、私だけだ。しかし、今はそれでもいいと思う。私は私なりに、自らの研究を進めていこう。いずれ、私の後を継ごうとする、若い研究者が現れるだろう。そのとき私は、自らの研究成果をあますことなくその弟子に伝えようと思う。ひとりごとで。 | |
グッドモーニング
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2004.01.18
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いつもさわやかな私だが、寝起きは機嫌が悪い。もし、「世界寝起きが悪い選手権」があれば、寝起きだったら出場すらしないだろう。 寝起きは悪いよりも良いほうがよい。できることなら、私も起きた瞬間から好青年でありたいと思っている。朝、窓を開けて「おはよう、小鳥さん」と快活に微笑み、「行くぞ! ジョン」と飼い犬とともにジョギングに駆け出すような青年になりたいものだと思う。ところが実際はといえば、起きると「おはよう、小人さん」と幻覚に悩まされ、「行くぞ! ジョン」と犬のようにいたぶられる毎日なのだ。 なぜ寝起きというものは、人によって良かったり悪かったりするのか。もしかしたら、寝起きが悪いというのは、目覚めると良くないことが起こることを本能が察知して起こる現象なのかもしれない。もし、いつでも快晴で、角を曲がるたびに私に恋心を抱いている少女がぶつかってきて、街を歩けば青い鳥が肩にのっかってくるような毎日を送っているのであれば、とても寝起きが悪くなるとは考えられない。毎日が楽しくて、もちろん快活に起きることができるだろう。 もっとも、寝起きが悪いからといって、私の日常にそれほど悪いことが起こっているのかといえば、そういうわけでもないような気もする。確かに上述したようなことはないが、まんざら悪いことばかりというわけでもない。とすると、ひょっとして「私は寝起きが悪い」という認識のほうが間違っていたのだろうか。自分の寝起きは悪いと思っていたけれど、本当はそれほどでもないのだろうか。実は、(薄々気付いていたことだが)朝からさわやかな好青年なのだろうか。 さて、どちらだろう。私は毎日が幸せだけど朝は非さわやかなのか、たいして幸せなことはないけれど朝からさわやかなのか。こういうことは自分ではわかりにくいもので、他人に聞いてみた。 「いつでもさわやかじゃないよ」 そうか! | |
エレメンタル放送 | 2003.12.14 |
07:00 【N】今日の出来事 | |
三年の芸 | 2003.11.30 |
かつて我が国では「口出し芸」と呼ばれる一種の民俗芸能が広く親しまれていた。他人の会話に口をはさむ「口出し」ではなく、文字通り口から何かを出すという意味の「口出し」だ。現在でも人間ポンプ芸人や手品師の一部に伝わっているものの、少しづつそれは廃れつつあり、その継承者は少数を残すのみである。 口から出すものといえば、まずは「言葉」や「ため息」という無形のものが思い浮かぶが、それらは口出し芸人にとって問題にもならない。むろん、「吐瀉物」「吐血」といったものも論外だ。それらが耳から飛び出してきたのならともかく、口から飛び出すのでは、どうということもない。誰もが驚くようなものを出してこその芸である。口から何かを出すなどたいしたことではないという人もいるかもしれないが、芸を見れば、内心そうだと思い込んでいたことを恥じるだろう。なにしろ、彼らは我々が予想すらしていなかったものを出してくるのだから。 今でも、某会館の地下室で密かに催されている裏の演芸大会の演目のひとつに「口出し芸」は残っている。数少ない口出し芸の継承者たちが、ごく少数の観客を相手に、日ごろ鍛え上げられた芸を披露しているのである。 ある者は口から寄生虫がぴょこんと顔を出して挨拶をする。ある者は口から心臓が飛び出して挨拶をする。達人が牛肉とジャガイモを飲み込めば、口から湯気のたつ肉ジャガが出てきて挨拶をする。いったいどうやっているのかはわからないが、口出し芸の奥の深さを感じさせる。 むろん、最後を飾る技は、やはり「カエルの大合唱」であろう。なにしろ、この芸には手間がかかっている。三年前に飲み込んだ、一匹のおたまじゃくし。それを死なぬよう、消化させぬよう、慎重に体内で成長させる。一年後、おたまじゃくしは小蛙になり、二年後、中蛙になる。そして今日、大蛙が三年の時を経て、初めて口から顔を出す。蛙は急に観客の前にひきだされて、とまどったように一鳴きする。そこで、演者が静かに告げる。 「これが本当の『胃の中の蛙、大会を知らず』です」 会場の盛り下がりはピークに達し、あまりの悪趣味に会場のそこかしこで観客が嘔吐しはじめて完成する大技である。やはり、廃れて当然なのかもしれない。 | |
レイニーブルー | 2003.11.08 |
もし私が小便小僧なら、多くのことで悩むだろう。 まず、存在そのものが悩みだ。自分は、いったい何のためにつくられたのだろう。なにも、あえて小便をしている姿を像にしなくても、他にも愛らしい姿はいくらでもある。好物のバームクウヘンをほおばっているときでもよいし、天使のような寝姿でもよいし、ライバルのハムスターと戦っているときでもよい。いくらでも絵になる姿があろうというのに、あえて小便をしている姿にした製作者の意図はなんなのか。私の小便をしている姿が、それほどまでに製作者の心をゆさぶったのかと思うと、複雑な思いがする。 名前のことも気になる。小便している小僧だから「小便小僧」か。もう少しなんとかならないものだろうか。これがニックネームなら、いじめられているとしか思えない。ましてや、本名だったらどうしようか。
先生「今日はみんなに転校生を紹介する。さあ、自己紹介して」 そんな場面を想像するだけで、いたたまれない気持ちになる。私はそれほど悪いことをしたか。世界はそこまで私を拒むのか。 そして、なにより深刻なのは、自分の将来についてである。 「オレ、このまま大人になったらどうしよう…」 今でこそ、まだ「かわいい」などといってもらえるものの、このまま大人になってしまったら、さすがに周りの人が私を見て微笑んでくれるとは思えない。いや、微笑んでくれるかもしれないが、それがかえってつらい。大人なのに「おしっこ」のときに裸にならなければならないと思われるのも恥ずかしい。きっと、私は一生独身だろう。 考え出すと、ほかにいくらでも悩みはある。小さな子どもにとって、大きすぎる悩みばかりであり、深刻にならざるをえない。どうして、私は生まれてきたのだろう。このまま生きていかねばならないのだろうか。不安で、胸が締めつけられる。悲しくて目を伏せたとき、一粒のしずくがこぼれおちる。 ああ、この歳で、尿漏れまで。 | |
夢みるように恋をしたの | 2003.10.20 |
こんにちは、『とっさのひとこと、日本語会話』の時間です。今日は「変な顔をして遊んでいるのを見られたときのとっさのひとこと」を勉強しましょう。 多くの人は、誰にも見せられないとっておきの変な顔を持っています。そして、ひとりになると、そのとっておきの変な顔をしてみて、「うわ、変」と思いながらも、そのあまりに醜い自分の顔にくすくすと笑っています。はい、隠さなくてもいいですよ。あなたはバカじゃないですよ。 その顔は、見られたら自殺すら考えなければならないような顔です。実際、ふだんは誰にも見られないように警戒しているわけですが、ひょんな拍子に見られてしまうこともあります。たとえば、エレベーターにひとりで乗っているときに思い切り変な顔をして遊んでいたら、急に扉が開いて誰かとばったり出くわしてしまったりとか。はい、私はバカじゃないですよ。 そんなとき、「あ、えっと…」と固まってしまうのでは、では気の利かないことはなはだしいわけです。ここで効果的なひとことがあれば、そのシチュエーションを逆用して、見られたことをフォローするばかりか、相手にステキな人だと思わせることも可能なのです。 それでは、レッスンです。今日は私の都合から、あなたが男性であり、女性に見られたと仮定して講義を進めていきましょう。 まずは、最初のレッスンです。このひとことには、陰影のある顔立ちが必要です。失敗した福笑いみたいな顔をしている人はあきらめましょう。成功した福笑いみたいな顔をしている人もあきらめましょう。もし、あなたが少し影を感じさせる顔をもっていれば、見られたと気付いたときに、うつろな目をしながらつぶやいてください。 「これ、求愛行動です…」 これで、相手はイチコロです。「えっ、急にそんなこといわれちゃって、どうしよう、私。でも…、やっぱりこんな顔を見せられるのは私しかいないってこと? やだ、どきどきしちゃう……好き」となることでしょう。ひょっとして、相手は逃げ出してしまうかもしれませんが、それは照れているからなので、心配無用です。それより、後からおこなわれる事情聴取のことを心配しておいてください。 さて、上のようなロマンティックなセリフはちょっと気恥ずかしいという人もいるでしょう。そんな人のために、次はあなたの熱い思いのたけをぶつけるためのひとことをご紹介しましょう。このひとことは、顔を見られたときに、できるだけ大声で叫んでみてください。 「こんなの本当の僕じゃない!」 そう叫び、泣きながら地面を叩いてください。想像するだけでくらくらしちゃいますね。これで相手はメロメロです。あなたの悩める姿に母性本能を刺激されない女性はいません。すぐに入院手続きをとってくれることでしょう。 はい、今回は「変な顔をして遊んでいるのを見られたときのとっさのひとこと」を勉強しました。次回、この時間は、番組を「あなたは生きていてもいいのよ」に変更してお送りいたします。お楽しみに。 | |
そっと目を閉じて | 2003.10.18 |
先日、視力検査を受けた。受けるたびに思うのだが、あれはどれくらい本気になっていいのだろう。マークが見えそうで見えないとき、素直に「見えない」というべきなのか、パンチラ・アイを使ってもいいものなのか。どれほど手加減すべきかわからず、余計なところで気をつかわされる。 思うに、上のような迷いが生じるのは、視力検査が単純に「高ければよい」というものではないからだろう。視力検査は視力を測るためにあり、それを競うものではない。実際、視力が高ければよいことばかりかといえば、たとえば鏡を見るときなどは視力が低いおかげで人生に絶望せずにすむ。 もっとも、視力は人間の基本的な身体能力のひとつであるのに、それを競わないのは不自然なことかもしれない。どれだけ速く走れるか、どれだけ重いものを持ち上げられるかなどを競う競技があるのだから、どれだけ遠くのものを見ることができるのかを競ってもよさそうなものだが、実際は、せいぜいとなりの席の人と「視力どれぐらいあった?」などといいあうくらいで、プロが実力を発揮する機会はない。 もし、視力検査の世界大会などがあれば、おそらくは視力10.0くらいのすごい人たちが競いあうことになるだろう。視力検査表を百メートルほど離れた場所に置き、無線で連絡を取り合いながら「はい、これは?」「右です」などと答えあうのだ。地味な大会である。 いや、世界大会というくらいだから、そんな牧歌的なものではすまないかもしれない。凄腕のスナイパーや、チベットの修行僧や、サバンナの狩猟民族など、世界の視力自慢が参加して、常人にはなしえない技を繰り出すことになるかもしれない。ある者は、カメレオンのように眼筋を自在にコントロールする。ある者は、びっくりすると目が数メートル飛び出す。果ては、目からビーム光線をだしたりするようになるかもしれない。 だが、それらの強敵すらも凌駕するすごい男がやってくる。そいつは、検査表を見ることすらしない。用いるのは心眼である。たとえ何キロ離れていようと、どれほど小さいマークであろうと、精神集中すればぴたりと当ててしまうのだという。もはや彼にとって、こんな大会は目じゃない。 | |
愛が目覚める朝 | 2003.06.22 |
目覚し時計は、我々の起床すべき時間を忠実に知らせてくれる。だが、一方で、我々の安眠をとだえさせてしまうともいえる。はたして、彼は我々の味方なのだろうか、敵なのだろうか。多くの人は、こんな目覚ましにどう接すればよいのかわからず、悩んでいる。我々は、彼にやさしく接するべきなのか、つめたくあたるべきなのか、ちょっぴり甘えてみるべきなのか、どうすればいいのだろうか。 私はといえば、あまり目覚ましに寛容とはいえない。そもそも、私はあまり寝起きがよいほうではない。起きてから十八時間ほどはぼんやりとしているし、起きた直後はなおさらだ。目覚ましが鳴ると一応目を覚ますものの、ひどく不機嫌である。目覚ましの役割を考えれば、「今日も起こしてくれてありがとう」ぐらいいってもばちはあたらないだろうが、思わず「うるさい!」と彼の頭を叩いてしまう。逆恨みもいいところだ。 しかし、目覚ましにも非難すべき点がないわけではない。目覚まし時計の発想は、大音量や不快音によって我々を現実世界へ呼び起こそうというものである。なかには、空気圧や電流の刺激で目を覚まさせようとするものまである。このような考えかたでは、逆恨みされて当然だろう。力ずくで人の心は動かせないのだと、非力な私は思う。 したがって、目覚ましはそのアプローチの方法を変えるべきであろう。目覚ましが正当に評価されるためには、「目覚ましに起こされた」と思わせないよう、工夫が必要である。たとえば、音量を極端に弱くして、せつなくなるような仔犬の鳴き声などを用いてみてはどうか。 時間になると、目覚ましから弱った仔犬の声がかすかに聞こえてくる。 「くぅん、くぅん…」 今にも消えてしまいそうな鳴き声である。夢うつつにそれを聞き、始めは無視しようとするが、どうにもおちつかない。がまんしきれず、ふとんからはいだす。目覚ましを見ると、カタカタと針がふるえている。思わず、目覚ましをはげます。がんばれ、目覚ましくん。病気なんかに負けるんじゃない。もっといっしょに過ごそう。神様、こいつの命を助けてくれるんだったら、なんだってします。どうか、助けてやってください。 だが、必死の祈りもむなしく、次第に弱まっていく音量。そして、最後に弱々しくひとなきし、目覚まし時計はその活動を止める。涙をこぼしながら、思わず叫ぶ。 「目覚ましくん! 死ぬんじゃない、目を覚ましてくれっ!」 お前がはやく目を覚ませ。 | |
みんなの気持ちはうれしい | 2003.05.26 |
子ども向けのアニメを見ていたら、番組の最後にプレゼントの告知があった。はがきに住所、氏名、年齢、電話番号を書くよう指示されていたのだが、子ども向けなので画面に出るのはすべてひらがなだ。
・ じゅうしょ それを見て、少し違和感を感じた。 「使命?」 少し考えれば、「しめい」が「氏名」であって「使命」ではないことはすぐわかることなのだけれど、子ども向けアニメなどを見ていると脳が退行して、そんなことにすら頭がまわらなくなる。それどころか「この設問で現代の子どもの意識調査をするのだろうか」「番組が子どもたちに与える影響を知りたいのだろうか」などと、設問の裏を読み取ろうとする始末だ。そんなことに頭をつかっている余裕があるのなら、半開きになっている口を閉じたほうがいい。 ところで、考えすぎかもしれないが、はたしてふつうの子どもに「しめい」が「氏名」であり「使命」ではないと気付くことができるのだろうか。私が気付くことができたのは、私が「ひょっとしたら小学生を超えるかもしれない」と評されるほど優れた頭脳の持ち主だからこそである。私より知能が劣っていると考えられる子どもは、全国に三十人はくだらないはずだ。おそらくこの番組には、そのような子どもたちから、勘違いしたはがきが次々と届いているに違いないのである。
・ わたしは世界中をお花でいっぱいにしたいです。 ひとり「しめい」を「指名」と勘違いしているやつがいるのはともかく、こんなふうに全国から使命感に燃える子どもからのはがきが届くのである。考えただけでもわくわくするではないか。番組をつくっている人は、それらのはがきを読んで勇気づけられたり、感動したりすることだろう。そして、最も崇高なる「使命」の持ち主にプレゼントを送るのだ――といいたいところだが、残念ながら「氏名」が書かれていないので送れません。 | |
想い出のほかに何が残るというのか | 2003.05.18 |
卒業式で泣く人と泣かない人がいる。もちろん、私は泣く人だ。「卒業したら、みんなバラバラになっちゃうのかな…」。そんなふうに、猟奇殺人にまきこまれる同級生の姿を想像して、思わず涙をこぼす。 一方で、卒業式に泣かない人もいる。もちろん、人にはそれぞれの感じかたがあり、泣きたくもないのに泣かなければならない理由はない。ただ、それが単に性格上の問題ならよいが、本当は泣きたいのに卒業式があまりに陳腐で泣けないのだとしたら、卒業式運営者には猛省をうながしたい。もっと工夫をこらせば、どんなに冷めた卒業生であろうとも涙をあふれさせずにいられなくなるのだ。 「来賓のウミガメが産卵」 これは効くだろう。卒業生たちは手を握り締めて、親亀に声援をおくるに違いない。そして、親亀の流す涙につられて、思わず目をうるませるのである。無事に出産を終え海へと帰るウミガメにみんなで手をふって見送る感動のシーンもよい。問題があるとすれば、来賓がウミガメということだけだ。 「我が子をかばうため、必死で来賓の目をそらそうとする親鳥」 我が子を思う親鳥の気持ちを考え、思わず心をうたれるシーンである。この卒業式を撮影するだけで、ドキュメンタリー番組が一本とれるほどだ。問題があるとすれば、来賓が小鳥を襲うことぐらいだ。 「生き別れの校長と初めて対面する卒業生たち」 どよめく体育館。入学式のとき「強く生きろ…!」のことばとともに姿を消した校長との再会。卒業生たちは知らないが、実は校長は、卒業生たちの実の弟だという秘められた過去が…! どんな学校だ。 「催涙ガスを投擲して、機動隊が体育館に突入」 卒業生をテロリストあつかい。でも、どんな生徒でも泣く。留置所で家族と対面して、また泣く。一粒で二度おいしいお得なコース。 かように、卒業生たちを泣かせる演出にはことかかない。これらを複合することで、どんな卒業生でも涙をあふれさせて学校を卒業することだろう。ただし、嬉し涙だ。 | |
心配な人 | 2003.02.18 |
もう今年は大丈夫だろうと思っていたら、風邪をひいた。今年は風邪をひいた人が周囲におらず、ひょっとして人類は風邪を克服しつつあるのではないかと思っていた。だが、やはり人類は風邪を克服しておらず、私は風邪をひいた。もしかして、私の周囲にいるのは人類ではないのかもしれない。 正直いって、わざわざ風邪をひいただけのことをWWWに広く公開するのはどうかと思った。意地悪な見かたをする人は、私が同情をひこうとしているのではないかと勘ぐったりするだろう。私のような繊細な心の持ち主にとって、そんなふうに疑われるのは耐え難いことだ。だから、ここで断言しておく。私はただ風邪をひいただけで、咳や熱は(それほど)つらくないし、誰かに「大丈夫ですか?」などとやさしい言葉をかけてもらおうとは(ほとんど)思っていない。おそらく「綾倉さんのことが心配で…」という少女もたくさんいるだろうが、心配無用である。私は、下手な同情をひこうとするような安い男ではないのだ。 繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。 繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。 繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。 ――と、何度も繰り返すと余計に気をつかわせるかもしれないので、もうやめておこう。私は、下手な同情をひこうとするような安い男ではないのだ。さて、話題を変えて… 「…ハクション!」 あ、誰かが私の噂をしているのかもしれないが、どうか気をつかわないでほしい。 | |