星飛雄馬は極めて珍しい名前であるけれども、「ひゅうま? どう書くの?」と問われたときは案外説明しやすい。「飛ぶ雄の馬と書きます」と言えば、それで通じてしまう。
名前に使われている漢字を説明するのが難しいケースとしては、「難しい漢字を使っている場合」「特殊な読み方をしている場合」などがある。顕(アキラ)という友人がいるが、同じアキラでも「明」などと違ってめったに使うことのない漢字だから、いつも「顕微鏡の顕です」と説明している。「春樹顕秘抄の顕です」とか「開権顕実の顕です」とかいっても通じないのだからやむを得ないのかもしれないが、理科の実験器具に頼らざるを得ない名前というのは、どこか不本意そうであった。
しかし、名前に使われている漢字を説明するのが難しいケースはそれだけではない。もっと切実なのは「自意識がジャマする場合」だろう。
たとえば、「聡」という名前を説明するときにいちばん簡単なのは「聡明の聡です」と答えることである。しかし、ここで自意識センサーが反応する。「聡明の聡です」なんていったら、「こいつは自分のことを『聡明』だと思っている」と思われるんじゃないか。
実際には、そんなことを気にするのがばかげているのであり、「聡明の聡です」と答えて「こいつ、自分のことを聡明と思ってやがるのか」と思う人などはいないだろうが、どうにも答えられなくて「耳へんにハ・ム・心です」などとわかりにくい説明をしてしまう。
そういう意味で、名前の漢字というのは実に気を使うものであって、親は子の名前にあまり過剰な期待や願望を背負わせるのはどうかと思わなくもないが、別に安藤美姫の両親を責めているわけではない。彼女などは成功した稀有な例であって、同じく「美姫」と名づけられた女の子が「美しい姫と書きます」と答えるたびに、心のどこかが傷ついているのではないかと心配になるのだが、そんな悩みを相談するとそれがまた自意識過剰に思われそうだし、せいぜい牛乳に相談するぐらいしかできないだろう。
そういうわけで、名前はできるだけフラットな説明ができるものが望ましいように思うのだが、生まれたときに「どういう名前がいいか」ということを本人が希望するわけにもいかない。赤子の産声が「はじめまして、ぼくは小五郎ー!」だったりするはずもなく、選択の余地は生まれたばかりのこの手の届く距離にはない。つけられた名前はそれを受け入れるのしかないのだから、いっそ開き直ってしまうのも手ではないかと考えられる。
「サトシさん、どういう漢字か教えていただけますか?」
「えっと、『な、何すんのよ』『あれ? 寒いっていったじゃん』『だからって、なんで急に抱きついてくるのっ』『いやだった?』『それは…』『我慢できなかったんならもうやらないよ? でも、俺は千佳ちゃんみたいに聡明じゃないですから、ちゃんといってくれないとわかんないなー』『もう…ばかっ』という一連の会話にでてくる『聡』ですね」
と、ここまでやってしまえば、相手も漢字がどうだとか自意識がどうだとか、そういう瑣末なことを気にしたりはしないだろう。
「…なるほど聡さんですね。で、出身はどちらの星?」
上の文章は「第九回雑文祭」に合わせて書かれたものです。文章を書くにあたっての縛りは、以下のとおり。
・題名:「星」を含むこと。
・書き出し:書き出しをひらがなにしたとき「ほし」と表記できること。
・文中に以下の3つの縛りワードを含むこと。
縛りワード1:「この手の届く距離」
縛りワード2:「我慢できなかった」
縛りワード3:「牛」
・結び:「星」で終わる。ただし、句点(。)、疑問符(?)、三点リーダ(…)、その他の文章記号をつけてもOK。
星を語尾につける効果について、私は考えていた。
できれば、もう少しマシなことを考えたいものだ。「じゃあ、ちょっとぐらいあたしのことも考えてほしいな」という脳内幼馴染のつぶやきにニヤニヤしつつ、やはり私は星を語尾につける効果について考えていた。
自分で書く文章では、語尾によく星をつける。
「牛馬のごとく働け☆」
「そこのメガネ野郎! それどこで買ったか教えて☆」
「将来が不安☆」
と、こんな感じだ。☆をつけると、ちょっとひどいことを言うけど可愛いから許してねという言い訳になるような気する。他人が私を評するとき「いい人だけど…」と前置きするのに似ている(いい人だけど気持ちが悪い、等)。
もちろん、☆をつければなにを言っても許されるわけではない。もし実際の会話において自在に語尾に☆をつけられたとしても(どうやるのかは知らないが)、☆のせいでかえって相手を怒らせてしまう可能性が高いと思われる。
「おまえ、俺のエビフライ食べやがったな」
「我慢できなかった☆」
これぐらいのことなら、☆のニュアンスが上手く伝われば許してもらえるかもしれない。だが、上手く伝わらないリスクを考えれば、すなおに「ごめんなさい」と謝ったほうがいいような気もする。ましてや、もっと大きなトラブルがあったとしたらどうか。
「おまえ、俺が寝てる間に改造手術して怪人バニーガール男にしやがったな!」
「ほんとは嬉しいくせに☆」
☆が語尾にあるにしても、これほど非道なことをして許してもらうのは簡単なことではない。いかに☆の力が強かろうとも、相手の許しはそれこそ満天に輝く星のようにこの手の届く距離にはないだろう…と思われる。
「そ、そんな、う、嬉しくなんてねーよ!」
「……図星?」
上の文章は「第九回雑文祭」に合わせて書かれたものです。文章を書くにあたっての縛りは、以下のとおり。
・題名:「星」を含むこと。
・書き出し:書き出しをひらがなにしたとき「ほし」と表記できること。
・文中に以下の3つの縛りワードを含むこと。
縛りワード1:「この手の届く距離」
縛りワード2:「我慢できなかった」
縛りワード3:「牛」
・結び:「星」で終わる。ただし、句点(。)、疑問符(?)、三点リーダ(…)、その他の文章記号をつけてもOK。
「このサイト、10周年らしいね」
「ふうん、そうなんだ。近所にメキシコ料理店が開店したときと同じくらいうれしいね。それよりさ、俺の付き合ってる彼女が実はレズだったんだけど、なんか興奮しない?」
「いや、興奮するけどさ。せっかく10周年なんだし、もうちょっとつっこんで聞いてほしいな」
「なに? 10周年? あー、まだやってたんだね。つっても、別に思い入れもないし…。それよりさ、今年のエイプリルフールに俺がついた嘘のせいで友達の家庭が崩壊寸前になってるんだけど、その話聞きたくない?」
「すげー聞きたいけど。とりあえず今は10周年の話を…」
「まあまあそんな話はいいじゃん。それより、俺のとっておきのギャグを言ってもいい?」
「いいけど…」
「『クリオネをクリオネ』」
「……」
「これはさ、『くれ』っていうのと『クリオネ』っていうのをかけたんだよ。つまり、『クリオネをください』っていうのを『クリオネをクリオネ』っていってるわけ。(ブフッ)」
「…なんで吹いてんの? 10周年の話を中断しておいて、なにそれ?」
「あれ、なんか怒ってる?」
「いま、頭の中で戦闘シーンのBGMが流れてるよ」
「そっかー。とっておきだったんだけどなー。ごめん、次はもっとおもしろいギャグを考えとくから」
「いや、そうじゃなくって。それより、今はもっと話題にするべきことがあるじゃん」
「はいはい、わかってるって。10周年でしょ? で、何が? 椎名林檎が?」
「お前、いまググっただろ。だから、このサイトが10周年だって」
「あのさー、俺らが10年前から登場してるようなキャラだったら、そうやって祝うのもわかるよ。だけどさ、俺らって、いま思いつきで書かれてるだけじゃん。なのに、なんで祝わなきゃならないわけ? この文章が終わったら、俺なんて二度と登場しないわけじゃん。それでお前は許せるの? 俺は絶対にそんなの許さねえからな」
「え、なんでキレてんの? あれ?」
「なーんちゃって、はいコレ(花束を差し出して) おめでとう!」
「え? え? なにこの急展開?」
「10周年だけに十分に執念を感じさせるようにお送りしました」
「ええー!?」
「男の人のどんなところが好きですか」っていうたぐいのランキングで、よく上位に入っている「ハンドルを切り返して車をバックさせている姿」ってやつですけど、あれそんなにいいもんなんですかね。
「重い荷物を軽々と運んでいるところ」とかは、なぜそれが好まれるのか分かるんです。このまえ引越ししたとき、フランケンってニックネームをつけたくなるような引越し屋さんが来てくれて、本がぎっしり詰まったダンボール二箱をひょいと左肩にかついで、空いている肩に何か乗せるものはないかと部屋を見渡すのをみたときは、さすがの私もキュンとなって「私でよかったら」って肩に担がれたくなりましたから。
ほかにも、「仕事をしているところ」「紳士的な行動」「機械に詳しいところ」とかの定番は、なぜそれが好ましいのか分かりやすいんですが、そんななかで「車をバックさせている姿」って明らかに浮いている感じがします。なんか、それハードルが低すぎやしませんか。
「車を持ち上げている姿」とかだったらわかりますよ。「振り落とされまいと車の屋根にしがみついている姿」とか「車にしかけられた爆弾を解体する姿」とか「ロボットに変形した車と戦う姿」とかがランクインしているんだったら納得しやすいんですが、「車をバックさせる」ってそんな難しいことじゃないでしょう。
男にしてみても「俺のどんなところが好き?」なんて聞いてみて、「車をバックさせている姿」とか言われても、あまりうれしくないと思うんですよ。ええ、そんなところなの? そんなことでいいの? って。
まあ、単純にしぐさとして好きってことなんでしょうけど、なんとなく、つねづね違和感を感じているので書いてみました。「シートごしに後ろを向いている姿がかっこいいの」とかいっている女性にいっておきますけど、私なんて車をバックさせるときどころか、人生いつだって後ろ向きですからね!
えへん!
ひとり暮らしをしてると「ペットでも飼おうかな」と思うことがある。飼うとしたら犬を飼いたいが、自分の面倒を見るのにも精一杯なのに、犬の面倒も見られるのかといわれれば疑問符がつくのであり、なかなか思い切ることができない。
犬は「人類の最良の友」といわれる。これこそ、友達のいない私が犬を飼いたくなる最大の理由だ。だが、「友」といわれても様々な種類の友がいることに気づく。漠然と「友」として付き合うのではなく、細かい関係を設定をした上で接することができれば、より深く犬と付き合うことができるのではないか。
たとえば、犬を「久しぶりに再会する無二の親友」とした場合、「お手」という命令は、こんなふうに変えたほうがしっくりする。
「…よっ」
そういって、私は黙って手を差し出す。すると、犬はそこに手を差し出してくる。その手を固く握り返す。男たちに多くの言葉はいらない。ただ、お互いの目を見てそれぞれの歩んできた道程に思いを馳せるのだ。
あるいは、犬を「戦友」とした場合、「お手」はこんなふうにしたほうがよいだろう。
「おたがい生きて帰ることをここに誓おう」
そういって私が手を差し出すと、犬は手を重ねてくる。重ねられた手は、男たちの誓いの証だ。次に会うとき、お互い無事な姿ではいられないかもしれない。そう思えば、この瞬間のかけがえのなさが身に沁みるではないか。
もし、犬を「セックスフレンド」とするならば、「お手」はこんなふうに変わるだろう。
「手相、見てあげようか」
すると、犬は手をこちらに預けてくる。その手をぐいっと引っ張り、そのままなだれ込むのである。なだれこむためのきっかけはなんでもいいのだ。このまま二人はどこに行ってしまうのだろう。本当に。
とまあ、そんなふうにいろんな設定をして犬と親密な関係を結ぶのも楽しそうだな、なんて思ったりするわけだが、犬を飼うのにお手の練習だけをしていればいいというわけではないので、結局、断念してしまう。
そんなわけで、今は犬よりも世話をする手間がかからなそうなオウムなどを飼ってみようかな、などと考えている。そして、「あたしじゃ、だめかな」という言葉を教え込むのだ。
「誰か友だちになってくれないかなあ」
「アタシジャ、ダメカナ…」
個人において、感情ってのは、どういうふうに発見されるのかなと思う。
「嬉しい」とか「悲しい」みたいな単純なのは、なんとなくわかる。覚えてないけど、「ミルクが飲みたいときにミルクをもらえて嬉しい」とか、その逆のパターンで「悲しい」とか、そういうのが感情の発見だったんじゃないかと思う。
でも、もう少し高級な感情、たとえば「嫉妬」とか「羞恥」とか「屈辱」とかになると、どういうときに私はそれを発見したのかよく分からない。
それで、そういう高級な感情を私はいったいどこで身に付けたんだろうということをつらつらと考えてみるに、思い出すのはホノちゃんとのことだ。
ホノちゃんは私の幼馴染で、小さいころは一緒によく遊んでいた。親同士も仲がよくて、何かにつけて交流があったように思う。
私とホノちゃんはいっしょの保育園に通っていたのだけれど、ある日、保育園で学芸会みたいな催しものがあった。学芸会で園児たちはそれぞれ仮装をすることになっていて、仲のよかった私とホノちゃんの母たちは話し合って、せっかくだからペアで仮装させようということになり、仮装のテーマは「かちかち山」になった。
「かちかち山」といえば、登場するのはうさぎとたぬきだ。幼い私は特にどっちがいいということもなかったのだけれど、親同士の話合いにより、ホノちゃんがうさぎ担当、私がたぬき担当になった。
私とホノちゃんとそれぞれの母はひとつの部屋に集まって、母たちははしゃいだ声をたてながら、私とホノちゃんを着せ替えていった。ホノちゃんは白いセーターを着て、白いタイツをはいて、頭には長い耳のついたカチューシャをつけて、すらりとしたうさぎがそこにいた。
それに比べて茶色のモンペをはいて目の周りを黒く塗られた私の姿はいかにも鈍重な感じがして、ホノちゃんのキラキラとはずいぶん違っているように思えた。二人で並び、颯爽とした雰囲気すら漂わせているホノちゃんを横目でみながら、そこで、私は初めて「嫉妬」という感情を発見したように思う。
そうやって、私が軽くテンションを落としていると、
「あと、これをつけたら完成ね」
と、母たちが言った。
母たちが持っていたものは、白いふわふわした毛がついたボールと、茶色い巾着袋にボール2つ入ったもの。それぞれにひもがくっついていた。
まず、母たちはホノちゃんの腰にひもをくくりつけ、ふわふわのボールをホノちゃんのおしりにくっつけた。
「はい、しっぽ」
そして、同じく私の腰にひもをくくりつけ、巾着袋を私の体の前面にぶらさげた。
「はい、キンタマ」
股間でぶらぶらゆれる巾着袋を絶望的な気持ちで見つめながら、私は「羞恥」「屈辱」という感情もまた発見したのである。
2000年にHONDAから発表されたASIMOをみたときは、イヤイヤ踊っているように見えたものだが、それから数年たったいまでも、やっぱりイヤイヤ踊っているように見える。これは、どうしたことなのだろうか。
あの二足歩行ロボットを見たときは、多くの人がこう思ったはずだ。
今はこんなものか→でもこれからどんどん進化して多くの人に役立つロボットがつくられるんだろうな→そうだ、メイドロボ貯金しよう
ところが、現実は動かない巨大ロボットをお台場に設置して喜んでいる始末である。いったい、いつになったら、メイドロボにやさしく起こしてもらう日が来るのだろうか。私の貯金は7万円を超えた。
多くの識者が指摘していることであるが、私もメイドロボの誕生を願う一市民として、ここに改めて指摘をしておく。
・メイドロボはドジでもいい。
ロボットは家電ではないのである。たまに冷えなくなる冷蔵庫やごみを吸引しない掃除機を許容できる人間はいないが、メイドロボについては別だ。ひょっとして、ロボット工学者たちはその認識が甘いのではないだろうか。むしろ、メイドロボがたまにコケたりする機能は必要不可欠であるというのが多くの人にとっての共通認識であり、ロボット工学者は完璧を求めるのではなく、できれば気楽な気持ちで開発を進めていただきたい。
ついでに、もうひとつ指摘しておくならば、
・メイドロボは無愛想でもいい。
ニュースなどで表情を変えて感情を表現するロボットが紹介されていたりするが、見るたびに不気味である。擬似的な感情を求めるのだったら、ペットを飼えばいい。むしろ、ロボットの醍醐味は抑制された感情(および、そこから何らかの感情を読み取る人間の妄想力)にあり、感情が豊かなロボットがかえってうざったく感じるのは以下の検索結果を見ても明らかである。
Googleによるフレーズ検索結果(2009年8月8日現在)
長門有希はオレの嫁:14,900件
コロ助はオレの嫁ナリ〜:0件
ついでに、もうひとつばかりロボット工学者の実用メイドロボに対するハードルを下げておくならば、
・メイドロボは何もできなくていい。
ただ、そばにいればいい。ただ、話しかける相手になってくればいい。最近の私は炊飯器にばかり話しかけている。
唇を奪われた。
親父にも奪われたことないのに。
悟りのきっかけですか?
彼女が「絶対にこっち見ちゃだめだからね」って言ったときですかね。
そのとき、心眼が開いたんですよ。
「会話はキャッチボールだよ。全力でフォークボールを投げないで」って言われた。
魔王「メル友が見つかるまでは…世界の支配を…やめないっ…!」
とあるアダルトビデオを見ていたら、女優が「アッ、アッ、アッー、やってらんなーい!」って言った。ホントに。
「営業部の橋本は二人おりますが…」
「いつもひとりごとをつぶやいているほうの橋本さんです」
新春 ヘビーメタル祭
オレに手を出したら仲間が黙っちゃいないぜ。
森の仲間が。
小さいころ、母は私がお手伝いをするたび「ありがとう、10ポイントね」とポイントをくれたが、何に使えるのかは未だにわからない。
好きな娘から来た手紙に貼られた切手をはがして舐めたことがあるという友人の狭山くんは、好きな娘から借りたCDについている指紋を採取したことがあるそうです。
もし世界が終わるのなら、雄大な景色を眺めながら、そのときを迎えたい。できれば、愛する人が隣にいてほしい。そして、とつとつと世界の終わりについて話すのだ。
「ねえ君。もし世界が終わるとしたらどうする?」
「うーん。いつもどおり、ゴロゴロしてるかな」
「坂道とかで?」
愛する人は、「どうして私はこんな人と一緒にいるの」という顔をするだろう。それが確認できたら、1コンウをゲットだ。コンウとは、「この人とは一緒にいたくないな」と思われるごとにもらえるポイントのことだ。この世界で、この私だけしか集めていない。
それから、愛する人は黙って次第に薄暗くなっていく目の前の景色を眺めていた。一方、私は夢中でハチミツを舐めていた。
「ねえ、何しているの?」
愛する人が、たまらずに声をかけてくる。
「そんな難しいことを聞かれても、僕にはわからない」
そう穏やかに舌をペロペロさせながら答えると、愛する人は私から目をそらし、私は1コンウをゲットした。そして、愛する人は口を閉ざし、前を見つめたままだった。
「見つめる」といえば、こんなエピソードがある。
私は病院のベッドの上で座薬を入れられていた。その日は、たまたま新人研修があって、初々しい看護婦たちが、私を取り囲むように、尻をつきだした私のあられもない姿を眺めていた。思わず、私の口から言葉が漏れていた。「だめ…そんなに…見つめないで…」
私はなぜかそんなことをぼんやりと考えていた。ぼんやりというか、はっきりと考えていた。だけど、今の状況に関係のないその空想を頭から振り払った。
私は、そっと愛する人の肩を抱き寄せた。最後に、ハチミツのような甘いキスをしたいと思った。なぜなら、彼女もまた特別な存在だからです。
そして、特別ではない皆さん。世界が終わることになっても、どうか忘れないでほしい。友人の狭山が先日の飲み会で言った、「好きな娘から来た手紙に貼られた切手をはがして舐めたことがある」という告白を。
<了>
上の文章はRNRC3に合せて書かれたものです。
破滅願望というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるのだと思う。理性ではその行為の愚かしさがわかっているはずなのだが、衝動が理性を超えてしまう瞬間が人にはあるのだ。
・ダメな男に貢ぐ
・借金をしてギャンブルする
・麻薬に溺れる
なんて破滅へ一直線といったものから、
・テスト前に部屋の掃除
・お風呂の前にホラー映画
・くさい場所で深呼吸
という日常レベルのものまで、破滅願望の現れかたは人によってさまざまである。
では、なぜそのような衝動が起こるのか。
たぶん、それは人が無為に耐えられないからではないかと思う。無為な生活、無為な仕事、無為な人生に耐えがたくなって、一瞬でも生の充足感を味わいたくなるのではないか。死と隣り合わせにいるとき、人間は強烈に生を意識するようになる。そんなふうに、破滅に近づくことによって、生きている実感を求めてしまうのではないかと思う。
だが、それが自分でコントロールできる範囲のものであればよいが、エスカレートすると周りの人間を巻き込むような事態になりかねない。破滅を求めるあまり自暴自棄になって放火や無差別殺人などを起こすようになっては、それに付き合わされる人間はたまったものではない。できることなら、あまり深刻な事態を引き起こす前に、できるだけ軽い行為でガス抜きをしたりすることが望ましいだろう。そこで、「ばれたら破滅だ」というシチュエーションを自ら用意することで、破滅願望をある程度満足させてみるのはどうか。
・変装して近所の小学校のプールのそばをうろうろする俺
・部屋着はブルマーの俺
・携帯の待ち受け画像はイキ顔の俺
そんな提言を友人にしたところ、友人いわく、
「それは破滅願望じゃなくて、ただのお前の願望じゃないの?」
「遊園地が閉鎖する」という話を聞くと、たとえそれが自分に縁のない場所であっても、なぜか悲しい気持ちになる。遊園地の閉鎖が、人を格別に悲しい気持ちにさせるのはどうしてなのだろう。
思うに、人は遊園地の閉鎖にドラマを感じるのだ。遊園地には子どもたちの夢が詰まっている。たとえ遊園地が閉鎖する日であっても、子どもたちには最後まで涙は見せられない。「パンダさん、またね!」と手を大きく振って走っていく子どもの後姿を見ながら、着ぐるみのなかで涙をこぼすスタッフ。もう、「また」はないんだよ。
そんな様子をみて、私は思う。どうにかして、笑って閉園を迎えられないものか。
閉園の決まったある遊園地。ある日、館内放送から突然鳴り響く不気味な笑い声。
「フハハハッ。子供たちよ、我ら邪悪団の支配下にあるこの遊園地によく来たな」
そして、どこからか現れた邪悪団の手先たちが、遊園地に来ている子どもたちをさらおうとする。それを止めようとする遊園地のスタッフたち。邪悪団との激しい戦い。あちこちで爆発が起こり遊園地に煙がくすぶる。やがて、劣勢を悟った邪悪団は「おぼえてろ〜」と言いながら逃げていく。戦いは終わり、夕日をバックにポーズを決めるスタッフたち。そこに、館内放送でナレーションが流れる。
「悪は去った。もはや邪悪団の復活は不可能である…」
戦いが終わり、スタッフに「ありがとう」といいながら子供たちは帰っていく。
そうして、遊園地はその役割を終える。やがて閉園時間を迎え、スタッフたちはあちこちが傷んだ遊園地の片づけをはじめる。その表情は、どこかすがすがしいようである。
それを見届けた邪悪団は、やさしく微笑み、次の遊園地へと向かう。
先日、映画ドラえもんの『のび太と鉄人兵団』において登場するロボットは「サタンクロス」だったか「サンタクロス」だったか友人と口論になった。今日になってウィキペディアで調べたところ、正解は「ザンダクロス」だった。つまりは、二人とも間違っていたわけだ。そうと知っていたら、彼と絶交することもなかったのに…。
まあ、そんなことはどうでもいい。
映画ドラえもんといえば、幼いころは春休みになるたびに楽しみでしょうがなかった。映画ドラえもんのほかに楽しみといえば、ベルマークを集めることぐらいしかなかった。
なので、春休みになると友だちと誘い合い、電車に乗って映画館まで行った。余談だが、そのとき行っていた映画館の草津シネマハウスは2007年に閉館した(滋賀県湖南地域出身者はこの一文だけで一時間ぐらい感傷にひたれるので書いた)。
それからずいぶんと月日が経った。驚いたことに、ウィキペディアを見るとまだ映画ドラえもんは続いている。2008年に公開された『のび太と緑の巨人伝』で28作目だ。
こうなると、のび太たちのことがさすがに心配になってくる。私が知っているだけでも、彼らは太古の地球で恐竜ハンターと戦ったり(『のび太の恐竜』)、魔界で魔王と戦ったり(『のび太の魔界大冒険』)している。その後も、タイトルを見るかぎり日本を誕生させたり(『のび太の日本誕生』)、王座についたり(『のび太の太陽王伝説』)、よくわからない経験をしたり(『のび太のワンニャン時空伝』)している。
若いうちからこんな刺激的な経験を繰り返していて、はたして彼らはまともな大人に育つのだろうか。大人になって、あまりに平凡な人生に絶望しないだろうか。何度も地球を救ったことを思い出して、自分が特別な存在と勘違いしたり、根拠のない万能感を持ったりしないだろうか。過去の思い出を振り返るばかりで、未来を切り開く気力に欠ける人間になったりしないだろうか。
もはや手遅れかもしれない。だが、4人の子どもの未来がかかっていることを思えば、あきらめるわけにはいかない。彼らにあまり派手な経験をさせるのはやめて、少し抑えてみよう。とりあえず、今年分の映画のタイトルは私が決めておいた。
『のび太のベルマーク集め』
自分で自分の限界を決めてしまい、可能性を信じないことはよくない。そう思い、少ない可能性にかけてここに書かせてもらう。
蒼井優よ。岡田准一とは別れて、私と結婚しよう。
見てるー?
と、こんな感じで文章をはじめてみました。上のことが書きたかっただけなので、もう書くことはありません。
けど、これだけではアレ(な人)なので、もうちょっと書きます。
女の子だったらプロポーズされることに憧れますよね。私は女の子ではないのでよくわかりません。
プロポーズをどうやってするかっていう決まりはありません。「このまえ親切な人に幸運の壷を売ってもらったんだけど、そんな俺と結婚していっしょに幸せにならない?」とか「お願いします、二ヶ月でいいんで、新聞とってください。おまけに婚姻届をつけますから」とかでもOK。
でも、プロポーズは一生で何度もできることではないので、なるべくドラマチックにしたいものです。夜景のきれいなレストランで向かいに見えるビルの窓に「ケッコンシヨウ」と表示させたり。
でも、はっきりいって、そんなやりかたは今では陳腐。
私の理想としては、小さなケーキに婚約指輪を仕込んでおいて「(カチッ)あら、何か入ってる…指輪?」とかやってる男女をどっかの広場にたくさん集めて、そいつらを並べて人文字で「ケッコンシヨウ」と書く。
それを恋人といっしょに上空から眺めながら、「ごらん、人がゴミのようだ…結婚しよう」
いかがですか。
ここまでの文章を自分で読み返してみて、「なんか疲れてんのかな…」と思いました。
いやいや、私、元気です。心配しなくて大丈夫!
三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』を読んだ。主人公は多田さんと行天さん。作中で行天さんがチンピラにナイフで刺されるシーンがある。駆けつけた多田さんはそれを見て叫ぶ。
「行天ー!」
思わず笑ってしまった。「(びっくり)仰天ー!」と叫んでいるみたいだから。そんな場合じゃないだろう。友人が刺されているのに、ちょっと昭和のテイストを交えながら驚いている場合か。
でも、考えてみればこのように名字が違った意味にとられるようなことは現実に起こりうることだ。たとえば、病で倒れた友人を見舞ったとき。
「井上、しっかりしろ! 病気になんて負けるな!」
「食道ガンって言われたよ…。ところで食道といえば…?(ガクッ)」
「胃の上ー!」
せっかくのシリアスなシーンが台無しだ。
あるいは、フラれた友人をなぐさめているとき。
「小池、女なんて星の数ほどいるんだしさ」
「畜生! 胸毛がキモいとかそんな理由でフラれるなんて、やってらんねえよ!」
「濃い毛ー!」
友人の気持ちをここまで逆なでして何が楽しいのか。
飲み屋で女の子と話をしているときも注意が必要だ。
「黒田さん、それ以上セクハラ発言したらキレますよ」
「ウヘヘ、そういうなよ。今、何色のブラジャーしてるの?」
「黒だー!」
女の子は怒りのあまり興奮。黒田さんも興奮。
考えてみるに、つくづく名字は大切だ。簡単に変えられないだけに、名字によっては無用な苦労を一生背負わなくてはいけなくなってしまう。もし名字を選べるのであれば、自分の名字が叫ばれることを考慮して、自分にもっともふさわしい名字を選ぶ必要がある。私だったら飯野とかがいい。
私「すいません、とんでもないことをしてしまって…」
上司「いいのー!」
もしも私がピノキオだったら、ウソをつくたび鼻が伸びるからイヤです。
「あ、髪型変えた? 似合ってるね」
ニョキニョキ
「すげー! マジ、ウケる!」
ニョキニョキ
「納期の遅れは先方のトラブルのせいでして…」
ニョキニョキ
「はあ? オレがロリコンのわけないじゃん」
ニョキニョキ
「お前の気持ち、すごくよくわかるよ…」
ニョキニョキ
「英検2級です」
ニョキニョキ
「風邪ひいちゃって…」
ニョキニョキ
「女なんて鬱陶しいじゃん」
ニョキニョキ
「あ、あんたのことなんて全然気にしてないんだから!」
ニョキニョキ
「タイプ? やっぱり性格が大事かな」
ニョキニョキ
神さま、お願いです。私をピノキオにしないでください。
むかし読んだマンガで「発言内容のうち意味のある部分だけを抽出する機械」というものがでてきたことがあった。とある官僚の発言をその機械にかけてみると、「私は○○だと思いますが、△△という点も否定できないわけで…」と発言のなかで内容が打ち消しあい、結局、その人は言質をとられるようなことは何も言っていなかったとか。
それとは少し話がずれるかもしれないが、発言というものには多少のオリジナリティが必要であって、誰でも言えるようなことなら何も言わないほうがましともいえる。かつてはオリジナリティの有無は話し手や聞き手の経験の範囲内でしか判断できなかったが、インターネットの普及にともない、キーワードを検索するだけでそれがどれぐらいオリジナリティがあるのかわかるようになった。前述の機械の機能が部分的にせよ実現できているわけだ。
私の場合、ふと駄洒落を思いついたときなどに、それを検索してみたりする。その検索ヒット数を見て、その駄洒落が腐っているかどうかを判定するわけだが、では検索数が少ないほどオリジナリティがある優れた駄洒落であるかといえば、そんなこともない。そこで、ちょっと偉そうながら、私が検索ヒット数による駄洒落のレベル(略してダジャレベル(笑))の判定基準というものを考えてみた。
(※検索ヒット数は2008年5月21日現在、Googleにてフレーズ検索をした結果)
検索ヒット数:10,000〜
レベル:ゲル
解説:一万年と二千年前から腐っています。その駄洒落を口にすることはセクハラまたは羞恥プレイの一部とみなされます。
・ そんなバナナ(そんなバカな) 176,000件
・ フラダンスの犬(フランダースの犬) 17,600件
検索ヒット数:1,000〜10,000
レベル:部長
解説:大半の人が一度は聞いたことがあるレベルです。はやくまわりの愛想笑いに気づいて!
・ キャバクラ幕府(鎌倉幕府) 6,550件
・ 妹コントロール(リモートコントロール) 1,610件
検索ヒット数:100〜1,000
レベル:ふつうです
解説:ちょっと新鮮な視点を感じつつ、老若男女に理解できる優れた駄洒落です。いいところを突いてきましたね。
・ マリファナ海溝(マリアナ海溝) 485件
・ 産婆カーニバル(サンバカーニバル) 332件
検索ヒット数:10〜100
レベル:マニア向け
解説:正直、ちょっとキツイっす。まわりはどう反応していいのか分からないっす。思いついたことを何でも口にするのはやめてほしいっす。
・ パラライズ銀河(パラダイス銀河) 78件
・ のだめガンダーラ(のだめカンタービレ) 31件
検索ヒット数:0〜10
レベル:もう二度と口にしません
解説:もう二度と口にしません
・ アヌスーピー(スヌーピー) 1件
・ 陰茎と快慶(運慶と快慶) 0件
どうも、綾倉です。ニックネームは「世界遺産」です。
性別は男です。なので、基本的に男に厳しく女性にはとてもやさしいです。たとえば、男からのメールは基本的に無視させていただいております(恐縮です)。女性からのメールは下心を込めて返信させていただきます。このインターネットという大海で出会えた運命を祝って、ボクとアバンチュールしないかい?(当方、病気持ち)
年齢は、歳をとると「何歳だっけ?」なんて思うことあると思うんですけど、私は分かりやすいです。なんか、私の生まれたことを記念して西暦を始めたらしいんで。だから、今は2008歳です。
あ、ついでに誕生日は10月1日です。もちろん、だからどうだというわけじゃないです。あつかましい人だったら誕生日に祝福や贈り物を要求したりするんでしょうけど私は謙虚なんで。
話は変わりますけど、10月って宅配便とか送るのに絶好の秋晴れが続きますよね。あ、ところで、もうすぐ知人が誕生日を迎えるので、プレゼントを贈ろうかなって思ってるんですけど、こういうときは「自分がもらって嬉しいもの」を送るのが鉄則ですよね。私がもらって嬉しいのはHDDレコーダーです。おっと、ぜんぜん関係のない話をしてごめんなさい。
ここで、私の人となりを知ってもらうために、簡単に私の日常を紹介しておきます。
私の一日は窓辺の小鳥のさえずりを聴くことから始まります。わたせせいぞうの描くキャラクターのごとく爽やかに目覚めて、熱いシャワーを浴びます。朝のひんやりした空気を感じながらオープンカフェのようなテラスで英国風の朝食をとります。駅に向かう数人の女学生がおしゃべりしながら目の前を通りすぎます。私が朝日を歯に反射させながら笑みを浮かべ「おはよう」と言うと、女学生たちはぽっと顔を赤らめて通り過ぎます。静かな街路をながめ渡し、今日も爽やかな一日が始まりそうだと私は内部に活力がわいてくるのを感じながら朝食を終えます。それから、服を着ます。