『愛少女ポリアンナ物語』から愛らしさが無くなったら

愛少女ポリアンナ物語
1986年1月5日~12月28日放映(全51話)

 「よかった探し」を抜きに、この作品は語れない。「よかった探し」とは、日頃から「よかった」と思えることを探し、いやなことや悲しいことがあっても落ち込みすぎないようにする生活の知恵のことである。主人公のポリアンナは4歳のときの母の死をきっかけによかった探しをするようになった。

 本編における記念すべき第1回目の「よかった」は、次のようなものである。

 外遊びから帰ってきたポリアンナは、父と食卓につく。食卓にはパンと牛乳しかのっておらず、ポリアンナは不平をいう。
「わたしいらない。ハムエッグがないんだったらわたし食べたくない」
 そんなわがままな態度を父は諭し、ポリアンナはすぐに反省する。
「ごめんなさい、おとうさん。このごろ火曜日にはいつもハムエッグが食べられたでしょ。だからわたし“今日も”って思ってたけど、今日だったら当たり前みたいでそんなにうれしくなかったかもしれないわね。きっと今度食べるときは今日の何倍もうれしいわ。よかった!」

 こんな調子で、ポリアンナは鈴のような声で、本編中に何十回と「よかった」を連発するのである。この作品を見終わったあとしばらくは「よかった」という単語を聞くたびに、ポリアンナの笑顔と四頭身の幼児体型が脳裏に浮かぶようになるほどである。


『愛少女ポリアンナ物語』6話 ポリアンナ(8)

 物語が進むと、ポリアンナにはさまざまな事件が訪れる。父の死(2話)や下半身不随になるほどの交通事故(21話)など、ハードな出来事に対しても「よかった」を探そうとするポリアンナの精神力はとても8歳児とは思えず、もしジョジョに登場していたら、さぞ強力なスタンド使いになっていたことだろう。

 ところで、この作品を見てから知ったのだが、心理学用語に「ポリアンナ症候群」というものがあるらしい。過度に楽観的であり、一見前向きだが実は問題点から目をそらしているだけというような症状のことをいう。

 アニメのポリアンナは幼いこともあってそのようにネガティブな印象を受けないのだが、大人になってからもこの調子では確かに困ることがあるかもしれない。仕事でミスをして「でも、おかげでこんなに課題が見つかったわ、よかった!」などと言われたら、上司はグーで殴りたくなるだろう。


『愛少女ポリアンナ物語』11話 よかったを見つけたポリアンナ

 そんなわけで、ポリアンナの将来を思うのであれば、「あまりよかった探しにのめりこむのをやめなさい」というべきなのかもしれない。しかし、ポリアンナにとって「よかった」はもはや口癖のようなもので、忠告されたからといって急にやめるのは難しい。そこで、「よかった」を少しだけ変えてみることにしてはどうか。

「ある意味よかった」

 つまり、最初のよかったはこんなふうになる。

「ごめんなさい、おとうさん。このごろ火曜日にはいつもハムエッグが食べられたでしょ。だからわたし“今日も”って思ってたけど、今日だったら当たり前みたいでそんなにうれしくなかったかもしれないわね。きっと今度食べるときは今日の何倍もうれしいわ。ある意味よかった!」

 思わずこぶしを握る父。

『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』を二回見たくない理由

大草原の小さな天使ブッシュベイビー
1992年1月12日~12月20日放映(全40話)

 1965年ごろのケニア。12歳のイギリス人の少女ジャッキーは、親をなくしたブッシュベイビー(以下、BB)の赤ちゃんを育てることになる。ちなみに、ジャッキーは世界名作劇場で最もグラマーなヒロインだろう。健康的で、イギリス人なのに紅茶より麦茶が似合うタイプである。


左『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』11話 ジャッキーとBB
右『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』25話 水着のジャッキー

 物語の前半ではジャッキーがBBを育てる様子や、ケニアでの生活が描かれるが、あまり起伏がなく退屈なストーリーである。

 物語が面白くなるのは後半からで、ジャッキーがケニア人のテンボと共にサバンナを横断する旅が描かれる。二人が密猟者やワランガ族に追われたり、ヒョウなどの野生動物に襲われたり、野火に巻かれたり、アフリカならではのダイナミックな冒険が繰り広げられる。

 ところで、この物語で最も印象に残るキャラクターは、主人公のジャッキーでも、タイトルにもなっているBBでも、相棒のテンボでもない。ジャッキーのクラスメイトのミッキーである。


『大草原の小さな天使ブッシュベイビー』4話 ミッキー

 ミッキーは、ジャッキーの友人ヅラした性格の悪い肥満児である。なぜこんなにウザい性格のキャラクターを出したのか理解できない。ジャッキーに蛇を突き付けたり(3話)、わざとサッカーボールをぶつけたりしたときは(4話)、いじわるで女子の気を引こうとする不器用な男子ポジションなのかと思ったが、ジャッキーの兄を本人のいないところで笑い者にしていたあたりからは(10話)、さすがにうっとうしい奴としか思えなくなった。嫌われ者を集めたグループの中でも嫌われそうな男である。

 ミッキーはジャッキーの飼うBBをやたら欲しがるのだが、BBが川に落ちておぼれたときはガクガク震えながらボートの上で見ているだけである。泳げないテンボが川に飛び込んでBBを助けようとするのが、ミッキーのヘタレっぷりと対象的である (26話) 。もし世界中が敵になっても、こいつにだけは味方になってほしくない。

 ジャッキーとミッキーが密猟者に捕まったときは、ジャッキーに「俺を置いて逃げたりしないよな」とやたらに訴える(31~32話)。「お前とは違うんだよ」と言ってやりたい。ミッキーが嫌いになれるエピソードは書ききれないほどである。ディズニーはこいつにクレームをつけるべきだと思う。

 主役でもないのにここまで存在感のあるキャラクターは珍しい。

 なによりミッキーを見たくないがために、再び見ることをためらってしまう作品である。

『わたしのアンネット』における善良の意味

アルプス物語 わたしのアンネット
1983年1月9日~12月25日放映(全48話)

 私にとっての“神様”のイメージといえば、八百万の神である。

 つまり、大部分の生物や一部の無機物には神様が宿っていて、米には一粒当たり八十八柱の神様がいる。全知全能ではない。たくさん集まって「ちいちい」と鳴いたりする。なかには勘違いして人間のことを神様と思っているような神様もいる。神様なのでうんちはしない。もちろん、全知全能でないからといって侮ったりする存在ではない。

 そういうゆるい宗教観しか持たない私にとっては、このアニメはわりとハードだったりする。

 タイトルの「アルプス物語 わたしのアンネット」の「アンネット」は主人公の名前だが、「わたし」が誰なのか作中では明らかにされない。しかし、全話を見終わったうえで察するに、おそらくはキリスト教の神のことだろうと思われる。つまり、珍しいくらいにキリスト教を推してくる作品なのだ。

 このアニメでは、アンネットと幼馴染のルシエンがお互いに罪を犯し、それをいかに許しあうのかということがテーマになっているのだが、終盤は怒涛の宣教セリフが連発される。


『わたしのアンネット』10話 アンネットとルシエン

「イエス様…イエス様、私はいま私の心の扉を開きます。今まで心の扉を閉めたままでいたことをお許し下さい。どうぞ、私の心の中にお入り下さい。そして…そして、私があの木彫りの馬を壊した事をルシエンに正直に話すことが出来るよう、勇気をお与え下さい。ルシエンを私のところにお送り下さったことを感謝します。」(35話)

「アンネット、私は嬉しいよ。よくそこまで決心してくれたね、これも神様のご加護があったからだよ。イエス様はお前の心の中にも、ルシエンの心の中にも同時に入っておいでになった。本当にありがたいことだよ。でもアンネット、大事なのはこれからだよ。お前達は真剣にお互いのことを考えて、何が大切かを一生懸命に考えるようになった。そして、その結果お前達は仲直りすることが出来ました。でもそのうちにまた醜い心、怒りの心、自分勝手な心がお前の心の中に起こるかも知れない。そうなったとき、お前は今の素直な心を忘れないでいることが大切なんだよ。イエス様が深い愛をお持ちになってお前をお守り下さったように、お前も深い愛で答えなくてはならないよ。このことを忘れないようにね。」(37話)

「この聖書に書かれているように完全な愛は恐れをとりのぞくのです。イエス様は完全な愛で私たちをお守りくださっています。イエス様が愛してくださっていることを心の底から信じていれば、なんにもおそれるものはないのです。どんなものもわたしたちを傷つけることができないように守ってくださるのです。ルシエンは自分の罪の償いとして、このように危険なおこないをしました。でも、ルシエンの心の中には尊い愛があります。ダニーやお前のために尽くそうとする愛が。だからこそ、ルシエンは危険を恐れず峠を越えようとしているのです。ルシエンは恐れてはいません。私たちはそれを信じましょう。そして、ルシエンの帰りを待つのです。ルシエンの勇気を信じて。」(40話)

 いいたいことは理解できるが、こうも強くキリスト教を推されると、「別にキリスト教徒でなくても善良な人はたくさんいるんだけどな」と考えてしまう。やはり、クリスチャンのほうが楽しめる作品だろう。

『愛の若草物語』 目立たぬ長女メグに愛を込めて

愛の若草物語
1987年1月11日~12月27日放映(全48話)

 南北戦争中のアメリカ北東部に住むマーチ家の四姉妹が、父の出征で女ばかりの家の留守を預かり、お互いに助け合いながら成長していく姿を描いた物語である。


『愛の若草物語』24話 左上メグ(16)、右上ジョオ(15)、左下ベス(10)、右下エイミー(7)

 見終わって思ったが、長女メグのあつかいが悪くないか。

 次女ジョオは文学、三女ベスは音楽、四女エイミーは絵画とそれぞれに特技が設定されているのに、メグには何もない。

 メグに関するエピソードも、舞踏会デビューしようとしたら戦火に巻き込まれてできなかったとか(6話)、念願の舞踏会デビューを果たしたら足をくじいたとか(19話)、舞踏会で着飾ったら「孔雀みたい」と言われたとか(31話)、あまりメグの魅力を伝えるものがない。

 ほかの3人については、それぞれに印象的なエピソードがある。

 次女のジョオは37話で、戦地でケガをした父親のために自らの髪を売る。家族の前では、あっけらかんと「もじゃもじゃのときよりきっと頭がよく働くわ。軽くてひんやりして気持ちがいいのよ」と笑う。しかし、乙女が髪を切って平気でいられるわけがない。部屋に戻ったジョオは、ひとり枕を濡らす。思わず、頭を撫ぜながら、「だいじょうぶ? おれと結婚する?」といいたくなるシーンである。

 三女のベスは11話で空想のピアノを弾き、本物が弾きたくて涙を浮かべるほどのピアノ好きである。いろいろあって、隣家の老紳士ローレンスからピアノを贈られる。ふだんは冬眠中のシマリスよりおとなしく、マメ科の花より目立たないベスが、「私、幸せすぎて倒れそうなの…」とからだを震わせ、ひとりローレンスのもとへ出かけ、抱きついてお礼をいうシーンに、視聴者は萌え狂わざるを得ない。好きである。


『愛の若草物語』26話 ローレンスとベス

 四女のエイミーの42話における健気さは特筆すべきことである。ベスが病気で倒れ、感染しないように大叔母の家に預けられたエイミー。自宅には近づかないように言われるのだが、ある雪の日にがまんできずに自宅の庭先まで来てしまう。いつもはでしゃばりで我の強いエイミーが、ただ心配そうに家を見上げて雪の降る庭先にたたずんでいるところは、家族愛の象徴ともいえるシーンである。

 あと、メグはボンレスハムみたいな髪をしている。

 ――と、澤選手のようにオチ担当になってしまうのがメグなのである。若草物語で人気投票をしたら、ほかの三姉妹が上位に食い込む中、ひとりだけ9位とか微妙な順位になって、視聴者をいたたまれない気持ちにしそうなのがメグなのである。

 メグは47話でプロポーズされるのだが、最初は断ろうと思っていたのに、大叔母から「あんな貧乏人はやめておけ」と言われて、「そんなことないわ、彼はいい人よ!」とプロポーズを承諾してしまう。そんな勢いで決めて後悔しないか、老婆心ながら心配である。

 とにかく、どうか彼女に幸せがめぐってきますように。(メグだけに)

『ふしぎな島のフローネ』に学ぶ無人島生活の心得

家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ
1981年1月4日~12月27日放映(全50話)

 友人に招かれ、スイスからオーストラリアへ移住することにしたロビンソン一家は、オーストラリア直前で船が難破し、近くの無人島に上陸して生活することになる。

 ロビンソン一家は、船の難破をはじめ、さまざまなトラブルに見舞われる。長男が毒虫によって失明しそうになったり、次男がマラリアにかかったり、オオカミの群れに襲われたり、苦労してつくった船がすぐに転覆したり、世界名作劇場の他の作品と比べてもかなり悲惨な目に会っているのだが、全体としてはフローネがちょっぴり変わった南国リゾート生活を満喫している印象を受ける作品である。


左『ふしぎな島のフローネ』21話 海亀の孵化を見守るロビンソン一家
右『ふしぎな島のフローネ』25話 火おこしをするロビンソン一家

 ところで、せっかくの無人島ものなので、ここであらためて「無人島に何かひとつだけ持っていくとしたら何がいいか」という、いわゆる無人島問題を『ふしぎな島のフローネ』を通じて考えてみたい。

 なんでもありの条件ならば、「フローネのお父さん」が最もよい選択だろう。職業は医者であり、無人島生活で頼りになることは間違いない。しかも、サバイバルの知識が豊富で、力仕事や工作も得意とする。医師不足で困っているオーストラリアの人々のために移住を決意するほど高潔な性格である。状況判断力や行動力にすぐれ、物語を通じて失敗らしい失敗といえば、兄にブスと言われて傷つくフローネに「人間に大事なのは姿かたちの美しさじゃない。気持ちが美しいかどうかなんだ」と言って、余計に怒らせてしまったことぐらいか。

 たしかに、フローネはひょうたんのような輪郭、団子鼻、平安眉という特徴的な容姿を持ち、美人といわれるような顔ではない。しかし、表情が豊富で、小柄な体を大きく動かして木登りしたり転げまわったりする姿はとてもかわいらしく感じられる。作画によっては、たまにドキッとするほどブサイクである。

 物品に限るという条件ならば、ロビンソン一家が無人島に持ち込んだものは、医療品、調理器具、調味料、大工用具、着替え、カーテン、銃、双眼鏡、植物の種、聖書、ナイフなど多岐にわたる。アニメを参考にしても、このうちひとつだけを選ぶのは、どれも一長一短で難しい。

 ただし、無人島問題を考えるとき、つい「どうやって生き延びるか」を考えてしまいがちだが、「どうやって脱出するのか」という視点から選ぶことも大切だということがこのアニメをみるとよくわかる。たとえば、ロビンソン一家は大きい布を縫い合わせて帆布にして脱出船にとりつけたが、あらかじめ用意しておかないと無人島ではそれに代わるものを見つけるのも難しいことから、「ありったけの布」というのも無人島問題の有力な答えのひとつかもしれない。


『ふしぎな島のフローネ』48話 ロビンソン一家の船出

 あるいは、無人島問題の答えは人でも物でもないのかもしれない。ロビンソン一家を見ていてつくづく思うのは、心の強さである。なにしろ、無人島にもかかわらず、フローネは算数の勉強をさせられていた。ふつうの神経なら教える方も教わる方も、この非常事態にそんなことをするのに耐えられないのではないか。だが、ロビンソン一家は決して自暴自棄にならなかった。

 いざ、無人島から脱出するにあたっても、自分の現在位置もわからず大洋に乗り出して無事に陸地につく可能性が高いとは思えない。それでも、島の脱出の成功を信じ、踏み切ることのできる心の強さ。それこそが、無人島問題の答えなのかもしれない。

 余談であるが、無人島に上陸してからフローネは、いつも赤いハイビスカスを髪に挿している。その花ことばは「勇敢」である。


『ふしぎな島のフローネ』12話 ポーズを決めるフローネ

世界名作劇場を全部見た

 アニメ世界名作劇場の全26作品を見た。全1161話である。

 この偉大な偉業の偉さを伝えるべく、よくある言いまわしで「一日中見続けても●日もかかる!」と書こうと計算してみたら、20日というあまりインパクトのない数字になり、もしかしてたいしたことのない偉業なのかもしれないと、とまどっているところである。

 しかしまあ、せっかく全部見たのだから、忘れないうちに各作品の感想を書いていこうと思っている。

 まず、世界名作劇場とは何か。1975年から2009年まで日曜19時30分から放送されていた外国の児童文学を原作としたアニメ、というのがだいたいの定義だが、定義に当てはまらない作品もいくつかある。ここでは、この文章の最後のリストに挙げた26作品のことを指すものとする。

 なお、『アルプスの少女ハイジ』が世界名作劇場に含まれるかどうかは諸説あるようだが、ふつうは含まないようである。というのも、ハイジはズイヨー映像という会社が、次作の『フランダースの犬』は日本アニメーションという会社が制作した、という違いがあるらしい。

 なぜそんなふうになったのか気になったので、ズイヨー映像設立者でハイジのプロデューサーを務めた高橋茂人氏の評伝を読んでみるとこんなふうに書いてある。

理想の作品を求めて起こしたスタジオに今最高のスタッフがそろっている。これからだと思っていた。だがある日、高橋が海外の出張先から戻ってくると、スタジオはそっくり新会社に移管されていた。高畑ら現場の人間も何が起きたかわからない間の出来事だった。

ちばかおり『ハイジが生まれた日 テレビアニメの金字塔を築いた人々』(岩波書店)

 それぐらいしか書いてない。よくわからないので、次に、ハイジのオープニングの作画などを手掛けた森やすじ氏の自伝を読んでみると、こんなふうに書いてある。

 ズイヨー映像は そこで 働いていた人達からすれば 現在の 日本アニメ―ションと同じです
 でも チンプンカンな出来事がありました 二 三年たって 社長さんが代わられたのです
 新しい社長は 働きものの 庶民的な方でしたから それでよかったのですが 以前の社長が ズイヨーという社名と一緒に その時までに製作したテレビアニメの 「ロッキーチャック」や「ハイジ」の権利も持って行ったのです
 スタッフは そのまま残っているというのに そのときから それらの作品は 他人の家のものになってしまったのです

森やすじ『アニメーターの自伝 もぐらの歌』(アニメージュ文庫)

 やっぱり、よくわからない。肝心の、誰がなぜそうしたのかがわからない。なにかイザコザがあったのだろうか。

 話を戻すが、各作品の感想は順不同で書き、最後におすすめ作品などを挙げてみたいと思っているので、よろしくお付き合いのほど。

【世界名作劇場リスト】
01. フランダースの犬(全52話)
02. 母をたずねて三千里(全52話)
03. あらいぐまラスカル(全52話)
04. ペリーヌ物語(全53話)
05. 赤毛のアン(全50話)
06. トム・ソーヤーの冒険(全49話)
07. 家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ(全50話)
08. 南の虹のルーシー(全50話)
09. アルプス物語 わたしのアンネット(全48話)
10. 牧場の少女カトリ(全49話)
11. 小公女セーラ(全46話)
12. 愛少女ポリアンナ物語(全51話)
13. 愛の若草物語(全48話)
14. 小公子セディ(全43話)
15. ピーターパンの冒険(全41話)
16. 私のあしながおじさん(全40話)
17. トラップ一家物語(全40話)
18. 大草原の小さな天使 ブッシュベイビー(全40話)
19. 若草物語 ナンとジョー先生(全40話)
20. 七つの海のティコ(全39話)
21. ロミオの青い空(全33話)
22. 名犬ラッシー(全26話)
23. 家なき子レミ(全26話)
24. レ・ミゼラブル 少女コゼット(全52話)
25. ポルフィの長い旅(全52話)
26. こんにちはアン ~Before Green Gables(全39話)

俺もおソノさんも山田くんも

 うすうす気付いている人も多いと思うが、いちおう報告しておくと、今回のワールドカップでも私は日本代表に選ばれなかった。

 見たところ、日本代表に選ばれているのはサッカー選手ばかりである。日本を代表する漆塗り職人や三味線奏者であっても、ワールドカップの日本代表には選ばれていない。おそらく、ワールドカップではサッカーの試合が行われるため、サッカー選手を選んでいるのだと思われる。メガネ屋の店員が、だいたいメガネをかけているのと似ている。

 とはいえ、日本代表にはサッカー選手を選ばなければならないと決まっているわけではないだろう。誰にでもチャンスはある。もちろん、サッカーが上手いにこしたことはないだろうが、下手でもチームの精神的支柱として選ばれることも考えられる。

 精神的支柱といえば、頼りがいとか包容力とか、そういうものが大切であろうと想像される。だったら、サッカーの技術は必要不可欠というわけではないし、サッカーが上手すぎたりすると、チームメイトはライバル心や嫉妬心からかえって頼りづらかったりすることもあるだろう。そんなわけで、チームの精神的支柱はむしろサッカー選手ではないほうがいいような気もする。

 なんとなく思うに、私が日本代表チームの精神的支柱を選ぶとしたら、「アハハハハッ!」と豪快に笑うような、子どもを4人ぐらい産んでそうな、ちょっとやそっとで動じなさそうな、言葉ではなく存在で説得力を持たせられるような、そんな人物にするだろう。仮に、彼女の名前は「おソノさん」としておこう。

 おソノさんは、サッカーボールに触ったこともないし、ひとりだけユニフォームの上にエプロンをつけている。

 おソノさんは、試合が始まれば、「ほら、いっといで!」とチームメイトの尻を大きくやわらかい手で叩いて次々とピッチに送り出す。

 おソノさんは、得点を決めた選手が駆けよってきたら、笑顔で選手の頭をくしゃくしゃになでる。

 おソノさんは、選手がこけても、助け起こしに行くのを我慢して、自分の力で立ち上がるのをじっと見守っている。

 そして、PK戦などプレッシャーのかかる場面で、おソノさんのもとに集まってくる選手たち。もちろん、選手に発破をかけるのはおソノさんだ。

「ほら、ここがふんばりどころだよ。がんばってきな!」
「じゃあ、おソノさん。俺たちが勝ったら、俺たちの好きなアレつくってよ」
「アレ…ってなんだい?」
「やっぱり、おソノさんといえばシチューだよね!」

 おーい、山田くん、レッドカード持ってきて。

十五の夜を超えて

 ロックとは生き様であり、既成概念や社会規範や権威への反抗であり、くだらねえ大人たちにドロップキックをくらわせることである。それは誰もが一度は通る道であるが、いつしか熱い魂を失い、なんとなくモヤモヤを抱えながらも自分自身がくだらねえ大人になってしまうことも多い。

 私自身を振り返ってみてもそうだ。かつて、とんがっていたころは「飛車を斜めに動かす」「雨の日にふとんを干す」「雑誌のエッチな袋とじを開けずに捨てる」など、さまざまなロック的行為を繰り返していた。まさにカリスマだった。

 しかし、最近の私はどうだ。キャベツの葉をニヤニヤしながらむいて「おいおい、そんなに固くなるなよ…」と言ってみたり、「なんだ濡れてるじゃねえか」とつぶやきながら床にこぼした味噌汁を拭いたりしている日々だ。これは本当にロックなのか。私はカリスマなのか。

 このままではいけないのはわかっているが、では、どうすればいいのか。盗んだバイクで走りだせばいいのか。だが、バイクを盗むのは犯罪だし、なにより、カリスマが二番煎じをするわけにはいかないだろう。

 そう、二番煎じはロックではない。そう、二番煎じはロックではない。ロックは既成概念を打ち壊す必要があるのだ。既存のロックを一歩踏み出してこそ、カリスマなのである。盗んだバイクで走りだしたりすることなど、今まで何万人もが通った道であり、今どきそんなことをしていたら、近所の人に「あらあら、きょうもロック? あんまり枠からはみだしちゃだめよ」などと言われてしまうだろう。くだらねえ大人たちの予想の範疇にいるうちはロックではないのだ。

 既存のロックを超えるために、あえて既存のロックにすら逆らってみるというのは、いいかもしれない。たとえば、「盗んだバイクで走りだす」の逆をついて、「何かを盗む」ではなく「何かを盗まれる」。「バイク」もやめて、いっそのこと「裸足」にする。行くあてがないのもロックにありがちだから、しっかりとした目的を持たせたほうがいいだろう。

 つまり、まとめると「お魚くわえたドラ猫を追いかけて裸足で駆けぬける」。

 ――す、すげえロックだ。こんな不器用な生き方しかできない俺をみんな笑うだろう。

 見な、おひさまも笑ってらあ。

6日遅れは気にすんな

「このサイト、10周年らしいね」

「ふうん、そうなんだ。近所にメキシコ料理店が開店したときと同じくらいうれしいね。それよりさ、俺の付き合ってる彼女が実はレズだったんだけど、なんか興奮しない?」

「いや、興奮するけどさ。せっかく10周年なんだし、もうちょっとつっこんで聞いてほしいな」

「なに? 10周年? あー、まだやってたんだね。つっても、別に思い入れもないし…。それよりさ、今年のエイプリルフールに俺がついた嘘のせいで友達の家庭が崩壊寸前になってるんだけど、その話聞きたくない?

「すげー聞きたいけど。とりあえず今は10周年の話を…」

「まあまあそんな話はいいじゃん。それより、俺のとっておきのギャグを言ってもいい?」

「いいけど…」

「『クリオネをクリオネ』」

「……」

「これはさ、『くれ』っていうのと『クリオネ』っていうのをかけたんだよ。つまり、『クリオネをください』っていうのを『クリオネをクリオネ』っていってるわけ。(ブフッ)」

「…なんで吹いてんの? 10周年の話を中断しておいて、なにそれ?」

「あれ、なんか怒ってる?」

「いま、頭の中で戦闘シーンのBGMが流れてるよ」

「そっかー。とっておきだったんだけどなー。ごめん、次はもっとおもしろいギャグを考えとくから」

「いや、そうじゃなくって。それより、今はもっと話題にするべきことがあるじゃん」

「はいはい、わかってるって。10周年でしょ? で、何が? 椎名林檎が?」

「お前、いまググっただろ。だから、このサイトが10周年だって」

「あのさー、俺らが10年前から登場してるようなキャラだったら、そうやって祝うのもわかるよ。だけどさ、俺らって、いま思いつきで書かれてるだけじゃん。なのに、なんで祝わなきゃならないわけ? この文章が終わったら、俺なんて二度と登場しないわけじゃん。それでお前は許せるの? 俺は絶対にそんなの許さねえからな」

「え、なんでキレてんの? あれ?」

「なーんちゃって、はいコレ(花束を差し出して) おめでとう!」

「え? え? なにこの急展開?」

「10周年だけに十分に執念を感じさせるようにお送りしました」

「ええー!?」

パーキングの狼

 「男の人のどんなところが好きですか」っていうたぐいのランキングで、よく上位に入っている「ハンドルを切り返して車をバックさせている姿」ってやつですけど、あれそんなにいいもんなんですかね。

 「重い荷物を軽々と運んでいるところ」とかは、なぜそれが好まれるのか分かるんです。このまえ引越ししたとき、フランケンってニックネームをつけたくなるような引越し屋さんが来てくれて、本がぎっしり詰まったダンボール二箱をひょいと左肩にかついで、空いている肩に何か乗せるものはないかと部屋を見渡すのをみたときは、さすがの私もキュンとなって「私でよかったら」って肩に担がれたくなりましたから。

 ほかにも、「仕事をしているところ」「紳士的な行動」「機械に詳しいところ」とかの定番は、なぜそれが好ましいのか分かりやすいんですが、そんななかで「車をバックさせている姿」って明らかに浮いている感じがします。なんか、それハードルが低すぎやしませんか。

 「車を持ち上げている姿」とかだったらわかりますよ。「振り落とされまいと車の屋根にしがみついている姿」とか「車にしかけられた爆弾を解体する姿」とか「ロボットに変形した車と戦う姿」とかがランクインしているんだったら納得しやすいんですが、「車をバックさせる」ってそんな難しいことじゃないでしょう。

 男にしてみても「俺のどんなところが好き?」なんて聞いてみて、「車をバックさせている姿」とか言われても、あまりうれしくないと思うんですよ。ええ、そんなところなの? そんなことでいいの? って。

 まあ、単純にしぐさとして好きってことなんでしょうけど、なんとなく、つねづね違和感を感じているので書いてみました。「シートごしに後ろを向いている姿がかっこいいの」とかいっている女性にいっておきますけど、私なんて車をバックさせるときどころか、人生いつだって後ろ向きですからね!

 えへん!

君の名は

 三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』を読んだ。主人公は多田さんと行天さん。作中で行天さんがチンピラにナイフで刺されるシーンがある。駆けつけた多田さんはそれを見て叫ぶ。

「行天ー!」

 思わず笑ってしまった。「(びっくり)仰天ー!」と叫んでいるみたいだから。そんな場合じゃないだろう。友人が刺されているのに、ちょっと昭和のテイストを交えながら驚いている場合か。

 でも、考えてみればこのように名字が違った意味にとられるようなことは現実に起こりうることだ。たとえば、病で倒れた友人を見舞ったとき。

「井上、しっかりしろ! 病気になんて負けるな!」
「食道ガンって言われたよ…。ところで食道といえば…?(ガクッ)」
「胃の上ー!」

 せっかくのシリアスなシーンが台無しだ。
 あるいは、フラれた友人をなぐさめているとき。

「小池、女なんて星の数ほどいるんだしさ」
「畜生! 胸毛がキモいとかそんな理由でフラれるなんて、やってらんねえよ!」
「濃い毛ー!」

 友人の気持ちをここまで逆なでして何が楽しいのか。
 飲み屋で女の子と話をしているときも注意が必要だ。

「黒田さん、それ以上セクハラ発言したらキレますよ」
「ウヘヘ、そういうなよ。今、何色のブラジャーしてるの?」
「黒だー!」

 女の子は怒りのあまり興奮。黒田さんも興奮。

 考えてみるに、つくづく名字は大切だ。簡単に変えられないだけに、名字によっては無用な苦労を一生背負わなくてはいけなくなってしまう。もし名字を選べるのであれば、自分の名字が叫ばれることを考慮して、自分にもっともふさわしい名字を選ぶ必要がある。私だったら飯野とかがいい。

私「すいません、とんでもないことをしでかしてしまって…」
上司「いいのー!」

ダジャレベル(笑)

 むかし読んだマンガで「発言内容のうち意味のある部分だけを抽出する機械」というものがでてきたことがあった。とある官僚の発言をその機械にかけてみると、「私は○○だと思いますが、△△という点も否定できないわけで…」と発言のなかで内容が打ち消しあい、結局、その人は言質をとられるようなことは何も言っていなかったとか。

 それとは少し話がずれるかもしれないが、発言というものには多少のオリジナリティが必要であって、誰でも言えるようなことなら何も言わないほうがましともいえる。かつてはオリジナリティの有無は話し手や聞き手の経験の範囲内でしか判断できなかったが、インターネットの普及にともない、キーワードを検索するだけでそれがどれぐらいオリジナリティがあるのかわかるようになった。前述の機械の機能が部分的にせよ実現できているわけだ。

 私の場合、ふと駄洒落を思いついたときなどに、それを検索してみたりする。その検索ヒット数を見て、その駄洒落が腐っているかどうかを判定するわけだが、では検索数が少ないほどオリジナリティがある優れた駄洒落であるかといえば、そんなこともない。そこで、ちょっと偉そうながら、私が検索ヒット数による駄洒落のレベル(略してダジャレベル(笑))の判定基準というものを考えてみた。

(※検索ヒット数は2008年5月21日現在、Googleにてフレーズ検索をした結果)

検索ヒット数:10,000~
レベル:ゲル
解説:一万年と二千年前から腐っています。その駄洒落を口にすることはセクハラまたは羞恥プレイの一部とみなされます。
・ そんなバナナ(そんなバカな) 176,000件
・ フラダンスの犬(フランダースの犬) 17,600件

検索ヒット数:1,000~10,000
レベル:部長
解説:大半の人が一度は聞いたことがあるレベルです。はやくまわりの愛想笑いに気づいて!
・ キャバクラ幕府(鎌倉幕府) 6,550件
・ 妹コントロール(リモートコントロール) 1,610件

検索ヒット数:100~1,000
レベル:ふつうです
解説:ちょっと新鮮な視点を感じつつ、老若男女に理解できる優れた駄洒落です。いいところを突いてきましたね。
・ マリファナ海溝(マリアナ海溝) 485件
・ 産婆カーニバル(サンバカーニバル) 332件

検索ヒット数:10~100
レベル:マニア向け
解説:正直、ちょっとキツイっす。まわりはどう反応していいのか分からないっす。思いついたことを何でも口にするのはやめてほしいっす。
・ パラライズ銀河(パラダイス銀河) 78件
・ のだめガンダーラ(のだめカンタービレ) 31件

検索ヒット数:0~10
レベル:もう二度と口にしません
解説:もう二度と口にしません
・ アヌスーピー(スヌーピー) 1件
・ 陰茎と快慶(運慶と快慶) 0件

部屋のドアに続く長く果てない道

 引越しの挨拶を成功させるコツは、「この人にぜひ隣に住んでほしい」と相手に思わせることである。

 では、どのような人物が「ぜひ隣に住んでほしい」ような人物であるのかといえば、たとえば私のような一人暮しの男が挨拶に行く場合、まずは犯罪などには縁が無い人間であることを相手にアピールしておくことが大切だ。

「盗聴とか、絶対しませんから」

 このひとことで、相手の警戒心はずいぶんと緩くなる。もし、現在、隣人関係がうまくいっておらず悩んでいる人がいれば、自分がこのひとことを忘れていなかったか思い出してほしい。

 また、警戒心を解くだけではなく、好感度をあげていくことも重要である。自分がいざというときに頼りになるということをアピールしておけば、できるだけ仲良くしておこうと相手が思うのは当然の心理だ。

「エイッ! あっ、うっかり得意のカラテをやっちゃった」

 これだけでは野蛮な人だと思われるかもしれないので、嫌味にならない程度にインテリジェンスをアピールすることも忘れてはいけない。

「アレ? カラテって、なんだかパキスタン最大の都市でシンド州の州都のカラチに似てるね。フフ」

 もう期待感がとまらない。なんとすばらしい青年が引っ越してきたものだと、相手はすぐにでもウェルカムパーティーを開きそうな勢いだ。もし隣の先住者が妙齢の女性だったりすれば、もしかして恋の予感?

 現在、隣人関係がうまくいっていないという人も、今からでも遅くない。すぐに、隣の部屋のドアを叩いて、こう言えばバッチリだ。

「今まで無愛想で、会って挨拶もせず、夜中に突然お経を唱えたりしてごめん。俺、本当は気さくで話しやすいタイプだから、仲良くしよう」

 さあ、これで私が教えられることは全部教えたぞ。次は、君が私に人付き合いの仕方を教えてくれる番だ。

100パーセントのヒーロー

 かつて、スパイダーマンは言った。

「ヒーローは孤独だ」

 私はヒーローじゃないが孤独だ。

 それはともかく、ヒーローとは、孤独であることにその本質がある。人を助けたら、名も告げずに立ち去るのがヒーローの流儀であって、助けるたびに「ねえ、俺のおかげで助かったよね? ね?」というようなヒーローは鬱陶しい。

 また、孤独であることには、利点も多い。ヒーローであることが周囲に知られてしまったら、普段から悪の組織に命を狙われたり、つまらないことで「お前、ヒーローなんだろ」と用事を言い付けられたり、「ヒーローさん」などというあだ名で呼ばれたりしかねない。

 つまり、ヒーローと孤独は決して切り離せないものであり、ヒーローを志すならば覚悟をしておくことだ。ヒーローを極めたヒーローともなれば、その孤独は想像を絶する。

・助けにいったら、露骨に嫌な顔をされた。
・悪人にも無視された。
・声をかけづらくて、そのまま帰った。

 もちろん、ヒーローが孤独に悩まないわけではない。ヒーローをやめたくなるときもある。だが、正義の味方としての使命感が、彼を突き動かす。やがて、ヒーローは苦悩を乗り越え、更なる高みを目指す。…それは、究極の孤独。

 ――すなわち、人類の滅亡。

デトロイト・メタル・ショウテン

 パンクにとって我慢ならないのが笑点の大喜利である。見ているだけで体がふやけてきそうなあの空間で、体制に組み込まれた薄汚い豚どもに対するやり場のない怒りをどうやってぶつけろというのだ。

 そもそも、座布団の枚数が増える程度の報酬で、人が真剣になれるとでも思っているのだろうか。いつから人間はそこまで達観したのか。かのマザー・テレサは言った。「人を恐怖と欲望によって支配することはできるが、座布団では無理」と。嘘だが。

 笑点は、もっと殺伐としていなければ、パンクと呼ばれるに値しない(ここで、「笑点は別にパンクを目指してないよ」とか、小賢しい突っ込みはするな)。そこで、提案する。舞台では、座布団の代わりに表面がギザギザになった石の台の上に回答者を正座させよう。そして、つまらない回答を言ったときは、正座した脚の上に重し(通称、THE BUTON)を載せることにしよう。

「おおい、山田くん。THE BUTON一枚やっとくれ」

 歌丸がそう呼びかけると、身長2m10cmの山田隆夫が重さ25kgのTHE BUTONを片手でぶらぶらさせながら、不気味な笑みを浮かべて舞台袖から登場する。

「はい、かしこまりました…」

 山田隆夫はくぐもった声で返事をし、回答者の脚の上にTHE BUTONを載せ、ついでにぐっと体重をかける。「……!」。声にならない悲鳴を上げる回答者を見て、山田隆夫は瞳の奥に捩れた愉悦を浮かべる。

 客席は、ただ息をのみ、大量の汗をたらしながら耐える回答者を見つめている。回答者の荒い息遣いを除き、会場は静まりかえっている。そんな中、歌丸が次のお題を告げる。

「さて、次のお題です。リストラされたばかりのサラリーマンが、連続強姦魔の冤罪をかけられ取調べ中に、思わず笑ってしまった一言とは? さあ、お答えください。ただし、ピカチュウ語で」

 鬼のようなお題を出す歌丸。絶望的な顔を浮かべる回答者たち。固唾を飲む観客。十数秒ほど沈黙が流れる。このまま回答が出なければ、全員に1枚づつTHE BUTONが載せられてしまう(そういうルールだ)。やがて、歌丸が残酷な笑みを浮かべつつ時間切れを告げようとしたとき、突然、会場の背後の扉が開いた。

「ちゃらーん、こん平でーす」

 こん平の登場に、凍り付いていた会場の空気が動き出す。一瞬、不意をつかれて目を見開いていた歌丸は、すぐに気をとりなおして突然の闖入者に怒声を浴びせようする。しかし、こん平はそれで鋭い目で制し、おごそかに告げた。

「みんな仲良くしよう」

 それで、みんな納得して輪になってマイムマイムを踊りました。おわり。

痛いの痛いの飛んでけ大空に

 とある病気にかかったのだが、それが激しく神経を刺激するので、痛みに弱い私は悶絶している。その様子を見た人が「そんなに痛いの?」と聞いてくるのだが、「痛み」とは、伝えるのがいかに困難なものであるかを実感した。

 思うに、痛みとは、それを経験していない人間には伝えることが不可能なものなのだ。ありきたりなたとえ話で「タンスの角に足指を――」とか「ツメの裏側に針を――」などといってみたり、あるいは、昔のジョークであったように「1cmの鼻毛を1Nの力で引き抜いたときの痛みを1hanageとして――」と痛みの定量化を試みたところで、決して伝わることはない。なぜなら、しょせん他人事だから、わざわざそれを想像してみたりはしないのだ。では、いかにすれば痛みを伝えることができるのか考えてみると、痛みとは「いかに痛くないか」を伝えることによってのみ、伝えることができるのだと思う。

 つまりは、こういうことだ。

「痛むの…?」
「ツッ…たいしたことは無い」

 ここで目を伏せ、グッと唇をかみ締め、身体を震わせながら言うことで、相手に「うわあ、痛そう」と思わせることができるのだ。自分が大丈夫であることを伝えることで、相手の主体的な想像力がはたらき、いかに痛いかを考えさせることができるのである。

 したがって、「どれくらい痛いのか」を伝えるために、あまり痛そうな様子を前面に出してはいけない。もっとも、本当に「痛くなさそうだな」と思われてしまっては元も子もないので、「痛みなどないように自然にふるまいつつ痛そうにする」という、やや複雑な表現力が必要となる。

・ 「ウヒョー! あの娘、ブラの線が透けて見えるぞ」と涙目で叫ぶ
・ 「フロントホック? フロントホック?」と二回尋ねながら、全身を痙攣させる
・ 「オレ、このまえ、はじめてブラの試着に行ったんだけどさあ」と世間話をしながら、のたうちまわる

 「どうだろう?」と訪れた友人に問うたところ、友人は少し考えたあと、「うん、あなたの痛さが伝わってくる」

花咲く乙女たち

 冬季五輪の女子カーリングを見た多くの人が、もし自分がチームを編成するならと、理想のカルテットについて思案をめぐらせたことだろう。

 まず、欠かせないのがチームリーダーであろう。強い精神力と信念を持ち、その姿を見ただけでチームメイトは絶対負けないような気持ちになれる存在である。チームを引っ張る情熱的な言動が目立つのが特徴だ(「あたしのショットは曲げられても、魂までは曲げられないのよ!」)。

 そして、リーダーのよき補佐役が、知性派の眼鏡である。氷上のチェスと呼ばれる(らしいが、私は先日はじめて聞いた)カーリングにおいて、ともすれば熱くなりすぎるリーダーを抑え、冷静な判断で試合をコントロールする役割を負っている。

 アクセントとしては、やはりムードメーカーであるお調子者の存在が必要だろう。チームの敗色が濃厚になっても、その笑顔でチームを鼓舞し、勇気付けることを忘れない。その明るい笑顔の陰に、ちょっぴりトラウマな過去があったりするのだが、だからこそ、決してつらい顔を見せたりはしない。

 4人目は、議論のあるところだが、ここはお色気担当を入れておきたい。できれば天然ボケの要素を持っていることが望ましいだろう。ストーンを滑らせようとして転んでしまい、自分が滑っていったりする。無論、ユニフォームは一人だけミニスカートだ。誰もが「どうしてこんなやつが代表に選ばれたのだ」と思うのだが、彼女が逆転の必殺技ローリング・セクシー・コリオリ・スパークを炸裂させたとき、観客は沈黙する。

 かくして、リーダー、眼鏡、お調子者、お色気の4人で結成された理想のチームは、最高のチームワークで世界の頂点を目指して突き進むのである。だが、簡単に勝ち進めるほど勝負の世界は甘くは無い。彼女たちの前に、彼女らの弱点を調べつくして結成された最強のライバルチームが立ちはだかる。

 まず、リーダーに対抗すべく選ばれたのが「卑屈」である。情熱的なリーダーにとって、まるで信念など無いかのように無用に自分を貶めて薄笑いを浮かべている奴を見ることは耐え難いことなのだ。リーダーがにらみつけると、顔色をうかがうように下から見上げてくる「卑屈」を相手に、リーダーは本来の力を発揮できない。

 眼鏡に対抗するのは、「孤高」である。秀才タイプの眼鏡は、テストの五科目合計ではいつもトップの座を保持している。だが、テストなんてまるで知らぬかのように独特の雰囲気を醸し出しながら校庭を眺めている「孤高」には、微妙なコンプレックスを抱いているのである。負けたくない。そんな対抗意識が眼鏡の歯車を狂わせ、いつものように冷静な判断ができず、ペースを乱してしまう。

 そして、お調子者の相手が「ゲラ」だ。こいつは、お調子者がちょっとおどけてみせただけで、突然横から顔を出して手を叩きながら笑い出す。しかも「こいつ、何がおもしろいかわかってないくせに、とりあえず雰囲気を良くするつもりで笑ってんだろうな」と思わせる笑いなのだ。こいつの笑い声を聞くと、かえって不愉快になる。かくして、チームメイトの笑顔は凍りつき、次第に気まずい雰囲気になっていくのだ。

 最後に、ある意味では敵にまわすと最もやっかいなタイプと恐れられるお色気に対抗すべく送り込まれたのが「仔犬」だ。お色気は、試合中も仔犬のことが気になって仕方が無い。チラチラと見てしまう。ましてや、ストーンのコース上に仔犬が迷い込んだりしたら、「だめっ」と自ら投げたストーンを抱え込んでしまう。

 かくして、最強のライバル「卑屈」「孤高」「ゲラ」「仔犬」を相手に、主役チームは死闘を繰り広げることになる。お互いに持てる力を出し尽くし、一進一退の勝負のすえ、主役チームは勝利を得る。だが、そのために払った代償は小さなものではなかった。チームメイトの危機を身を投げ出して救ったお調子者のことを、彼女たちは決して忘れることはできないだろう。残されたチームメイトは、唇を噛み締めて涙をこらえていた。リーダーが空を見上げると、そこにはお調子者の笑顔がみえた。そして、いつものように「スマイルだぞっ」といっているような気がした。

 そんな彼女たちが、青森地区予選2回戦で敗退することを誰が想像しただろうか。

泣かないで

 誰しも「一度は言ってみたいセリフ」があるが、役者でもないかぎり、そんなセリフをいう機会には恵まれない。だが、それでよいはずがない。いいたいセリフひとついえないようでは、ブラジャーをはずし忘れたまま外出したときのように、なにか胸にひっかかりを感じながら日々を過ごすことになる。余計なストレスを感じないためにも、セリフを口にする機会は逃さずにいたいものだ。

 たとえば、一度は言ってみたいセリフとして、こんなものがある。

「これ以上、お前の好きにはさせない!」

 想定される状況としては、自分より強い相手に立ち向かうようなときであろうか。だが、いざ日常でこのセリフをいおうとしても、いう機会に恵まれない。それはそうだ。このセリフをいうには、まず自分が「好きにされる」必要があるが、そんな支配欲に満ちた知人はなかなか見つからないのである。

 ではどうすればよいのか。ここで代替案として提案したいのがコタツである。あの、心も身体も思うがままに蹂躙する悪魔の装置。おシャレな雑誌のような生活に憧れる田舎の女子中学生の夢を打ち砕く存在。そいつにいってやるのだ。

「これ以上、お前の好きにはさせない!」

 そうして、コタツから颯爽と立ち上がる。強い意志を浮かべた眼でコタツをにらみつける。そのまぶしい姿は、思わず皆が目をそらすほどだ。

 他に、こんなセリフも言ってみたい。

「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」

 おそらく、状況は敵の幹部にもう少しでたどりつきそうなとき。我々には果たさねばならない任務がある。こんなところで足止めをくらうわけにはいかない。そう、ここで誰かが犠牲になる必要があるのだ。そこで上記のセリフを言い放つのである。「しかし…」とためらう仲間に向かって、「きっと、また会おうぜ」とかいいながら、敵の渦中に飛び込んでいくのだ。そんなかっこいいセリフをいってみたい。

 だが、それには何が必要か考えるのが面倒なくらいの準備が必要であり、そもそも、どうして私がそんな危険なシチュエーションに会わなければならないのか。そういうわけで、もっと手軽にいえるシチュエーションはないかと考えてみるに、こんなセリフをいってもおかしくないのは、屁だ。

 それも、ただの屁ではない。大を我慢しているときの屁だ。とてもおなかが痛くて、もう少しで漏れそうだけど、たぶん、いま出口にいるのは屁。慎重にコントロールすれば、大を出さずに屁だけを出して、少しおなかが楽になる。だが、これは賭けだ。括約筋を緩めすぎると、屁だけではなく、混沌が生まれる。まさに生と死の狭間。私は全神経を括約筋に集中させ、言い放つ。

「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」

 そうして、見事に気体のみを出すことに成功する。この達成感。自らが閉じ込められたままであることを知っていても、それでも友を脱出させるためなら、どんな危地をも厭わない。これが人間の証というものか。

 見事、友の脱出に成功させた私は下腹に意識を集中させる。成功した以上、ただ犬死するわけにはいかない。きっと安全圏で脱出しようと、私はトイレの個室に急ぐ。だが、友は去り、敵の攻撃は苛烈である。無事、脱出できるのか。

 あと数歩のところで、どこからともなく声が聞こえてくる。

「約束どおり、戻って来たぜ…」

 煙が目にしみただけだ。

ほのか

 洗濯物を干し忘れて、数日ほど洗濯機に放置していたら、なにやら変なニオイを発している。干せば消えるだろうと思って干してみたが、やはりニオイは残っている。仕方がないので洗いなおすことにしたが、洗う前にあらためてよく嗅いでみると、変なニオイには違いないのだが、どこか懐かしさを感じるニオイである。タオルなどで顔を覆ってスンスンと臭いを嗅いでいると、やけに安らいだ気持ちになる。さて、このニオイは何のニオイだったかと考えているうちに、はたと思い当たった。

「これは雑巾のニオイですか?」
(Is this a smell of the dustcloth?)
「はい、これは雑巾のニオイです」
(Yes, this is a smell of the dustcloth.)

 雑巾のニオイに郷愁を感じている自分に気付き、暗澹たる気持ちになった。すると、私の故郷はバケツか。

 街、家、人にはそれぞれ特有のニオイがある。友人の家にいくと友人の家のニオイがしていたし、嗅ぎなれたニオイで自分の街に帰ってきたことを実感したりもする。こればかりは真似することができない。たとえば友人とニセ友人がいたとして、外見や質感はそっくりだとしても、ニオイだけはどこか違う。本物のほうが、靴下がちょっとクサイとか、必ずそういう違いがあると思う。

 それだけに、ニオイは他人との相性を探る上で重要である。どこかニオイにしっくりこないものがあると、それだけで友情や愛情の障壁となる。嗅覚など、五感のなかで最もとらえどころのないものなのに、しっかり人間の原始的な部分と結びついているようだ。

 返して言えば、ニオイさえしっくりとくるのなら、他の部分は、たいした問題じゃない。たとえ見た目や声や味やさわり心地に難があろうとも、その人のニオイが自分にぴたりとはまれば、その人とは一生の友人か、あるいは一生の恋人かになれるかもしれない。さしずめ、私の一生の恋人は雑巾の香りがする人だろう。

 どうか、一生、出会いませんよう。

グッドモーニング

 いつもさわやかな私だが、寝起きは機嫌が悪い。もし、「世界寝起きが悪い選手権」があれば、寝起きだったら出場すらしないだろう。

 寝起きは悪いよりも良いほうがよい。できることなら、私も起きた瞬間から好青年でありたいと思っている。朝、窓を開けて「おはよう、小鳥さん」と快活に微笑み、「行くぞ! ジョン」と飼い犬とともにジョギングに駆け出すような青年になりたいものだと思う。ところが実際はといえば、起きると「おはよう、小人さん」と幻覚に悩まされ、「行くぞ! ジョン」と犬のようにいたぶられる毎日なのだ。

 なぜ寝起きというものは、人によって良かったり悪かったりするのか。もしかしたら、寝起きが悪いというのは、目覚めると良くないことが起こることを本能が察知して起こる現象なのかもしれない。もし、いつでも快晴で、角を曲がるたびに私に恋心を抱いている少女がぶつかってきて、街を歩けば青い鳥が肩にのっかってくるような毎日を送っているのであれば、とても寝起きが悪くなるとは考えられない。毎日が楽しくて、もちろん快活に起きることができるだろう。

 もっとも、寝起きが悪いからといって、私の日常にそれほど悪いことが起こっているのかといえば、そういうわけでもないような気もする。確かに上述したようなことはないが、まんざら悪いことばかりというわけでもない。とすると、ひょっとして「私は寝起きが悪い」という認識のほうが間違っていたのだろうか。自分の寝起きは悪いと思っていたけれど、本当はそれほどでもないのだろうか。実は、(薄々気付いていたことだが)朝からさわやかな好青年なのだろうか。

 さて、どちらだろう。私は毎日が幸せだけど朝は非さわやかなのか、たいして幸せなことはないけれど朝からさわやかなのか。こういうことは自分ではわかりにくいもので、他人に聞いてみた。

「いつでもさわやかじゃないよ」

 そうか!