小公子セディ
1988年1月10日~12月25日放映(全43話)
ニューヨークの下町で生まれ育った少年セディは、父の死を機に伯爵家の跡継ぎとしてイギリスのドリンコート邸に迎えられ、偏屈な祖父と暮らすことになる。祖父は、純粋無垢なセディと暮らすうち、次第に心優しい気持ちを持つようになっていく。
『小公子セディ』18話 セディ
見終わってからいろいろ考えているうちに、もしかしてこの作品のジャンルはホラーではないかと思うようになってきた。
作品を見ているときにセディのことを怖いとはっきり感じたのが33話である。セディは「単語のスペルが間違っているかもしれないから見てほしい」と、ニューヨークの知り合いのホッブスに宛てて書いた手紙を祖父に読んでもらう。その手紙には祖父のことが書かれている。自分の偏屈を自覚している祖父に、こんな手紙を読ませるのである。
親愛なるホッブスさん。
ぼくはおじいさんのことを書きたいと思います。
おじいさんは立派な伯爵です。
伯爵が暴君なんていうのはまちがっています。
僕のおじいさんは暴君ではありません。
ホッブスさんもおじいさんに会ったらいいお友だちになるでしょう。
だれだってみんなに親切な人のことは好きになるからです。
断っておくと、セディは手紙を読ませることによって祖父に何かを伝えたいわけではない。セディは、祖父が善良な人だとただ単純に信じ切っており、それをあのままに書いただけなのだ。だが、自分のことがこんな風に書かれた手紙を読まされて、平静を保っていられるだろうか。どうしたってセディの気持ちを裏切りたくないと思ってしまうのではないか。
つまり、セディの周りにいる人は、セディが意図しているわけでもないのに、ゆるやかにマインドコントロールされ、セディの望む人格に作り変えられていくのである。セディは26話で「小さな若君(リトルプリンス)」との二つ名を与えられているが、そんな可愛らしいものではない。セディに二つ名を付けるなら、「無垢の怪物(イノセントモンスター)」とでもしておきたい。
むろん、セディのマインドコントロールが及ばない人もいる。この作品には、世界名作劇場にしては珍しいほど「悪役」といえる人物が登場する。
コールデット夫人…7~8話に登場。セディの母が仕立てたドレスに難癖をつけて引取りを拒否した。
ハリス夫人…14~22話に登場。伯爵の親戚。伯爵の跡継ぎとしてドリンコート邸に突然やってきたセディに辛く当たる。
ニューイック…24~35話に登場。伯爵の領地の管理人だが、領民に不親切で嫌われている。地位を利用して私腹を肥やす。
ミンナ…39~43話に登場。ドリンコート家の正統な跡継ぎの母親と騙り、セディをドリンコート邸から追い出す。
ふつう、児童文学に出てくる悪役というのは、最終的には罰を受けたり、改心したりするものだ。勧善懲悪や因果応報というのは児童文学の基本といってもいいだろう。
ところが、この作品に登場する悪役は、ただ“いなくなる”のである。コールデッド夫人もハリス夫人もニューイックもミンナも、反省してセディに謝ったり、後悔の涙を流したり、捕まって罰を受けたりすることはない。彼らには、何のペナルティもなく、もともと存在しなかったかのように、ぱったりと登場しなくなってしまうのである。それに気づいたとき、どこか薄気味悪さを感じた。
最終話を迎えて、そこにはセディを心の底から愛する人しかいない。セディに疑いを持つものや反感を持つものは消えてしまった。
いなくなった彼らは、本当にどこかにまだ存在しているのだろうか。