『ロミオの青い空』 黄金の魂は黄金の魂に惹かれあう

ロミオの青い空
1995年1月15日~12月17日放映(全33話)

 1875年ごろ、スイスの山間部にあるソノーニョ村の少年ロミオは、病気の父の治療費を出すため、<死神>と呼ばれる人買いに自分自身を売る。死神によってミラノに連れてこられたロミオは、煙突掃除夫として働くことになる。

 ソノーニョ村にいるときのロミオは、小さな世界しか持たない。村には学校もなく、医者もいない。第1話でロミオは「英雄になる」と息巻いているが、何をするのかと思えば、村祭りの出し物の棒のぼり競争(参加者4名)での勝利を目指しているだけのことである。


『ロミオの青い空』1話 棒をのぼるロミオ

 ミラノに連れてこられたロミオは、煙突掃除夫としての過酷な仕事をこなしながら、今まで見たことのないものを見聞し、文字を覚え、将来について考え、様々な経験をする。同じ煙突掃除夫のアルフレドや、親方の家に住む病弱な少女アンジェレッタなど、多くの人々との出会いを通じてロミオは大きく成長する。


左『ロミオの青い空』15話 アルフレド
右『ロミオの青い空』15話 アンジェレッタ

 タイトルになっている「青い空」とは、ロミオが煙突の上から見る見渡す限りの空のことであるとともに、ロミオが村から出ることで得た広い世界の寓意である。


『ロミオの青い空』8話 煙突から空を見るロミオ

 そんなタイトルのイメージどおり、さわやかな気持ちになれる作品なのだが、あらためて振り返ってみると、なぜかロミオを素直に応援する気になれない。その理由を考えてみると、私は歳をとり、ロミオのようにまっすぐな少年にまるで共感できなくなってしまったためではないかと思われる。

 ロミオはあまりに利他的で、正義感が強すぎるのだ。

 ロミオは、自分を買った死神が湖でおぼれそうなところを助けたり、危険をかえりみず爆弾が仕掛けられた建物に駆け込んだり、他人のために銃口の前に立ってひるむことがなかったり、格好良すぎている。

 おそらく、子供のころなら素直に格好いいと思えただろう。しかし、「夢」「笑顔」「感謝」などを社訓にする会社にブラック臭しか感じないように、ロミオの黄金の魂を毒に感じて共感できなくなってしまった。

 ロミオがもっともくじけたのが、親友のアルフレドが病気で亡くなったときである。そのときはさすがにふさぎこんでいた。しかし、仲間に「お前は逃げている」と殴られると、涙を流して立ち直る。こういう感性の人には、何か相談しても殴ってきそうで相談したくないと思ってしまう。

 アンジェレッタが、生き別れの祖母に会いにいったときもそうだ。アポなしで出かけたロミオたちは門前払いを食らう。「もういいの、帰りましょ。ここまで来られただけで、私は幸せなの」というアンジェレッタに対し、ロミオたちは強引に屋敷に侵入する。結果的にはうまくいくのだが、そんなロミオの前向きさを負担に感じてしまうのである。


『ロミオの青い空』24話 門前払いを食らうロミオたち

 たぶん、今の私にとって、物語の主人公はちょっとクズなぐらいがいい。そのほうがほっとできるのである。

ア「もういいの、帰りましょ」
ロ「そう、よかった。じゃあ帰ろうか」
ア「えっ」
ロ「というか、ちゃんとアポをとっておくべきだったね」
ア「……」
ロ「まあ、うすうす無理だろうなと思ってた。でも、ここまで来られただけで、幸せだよね?」
ア「……うん」

『ピーターパンの冒険』のどたばた予定調和

ピーターパンの冒険
1989年1月15日~12月24日放映(全41話)

①ウェンディがフック船長のせいでトラブルに巻き込まれる
②「助けてピーターパン!」
③ピーターパンのおかげでピンチを脱出

 だいたい、こういうドラえもんみたいなパターンで話が進む。ドラえもんはひみつ道具の種類で③の部分のバリエーションをつけられるが、ピーターパンはそういうわけにはいかない。ピーターパンの飛行能力で飛べないフック船長を翻弄するか、フック船長の弱点である時計ワニを連れてきてフックを追い返すくらいしかないので、またこのパターンかと思うことが多い。一気に続けて見るのには適していないアニメである。週1話のペースで見るぐらいがちょうどいい。


『ピーターパンの冒険』8話 ピーターパンとウェンディ

 おそらく、視聴対象年齢が他の世界名作劇場より低めに設定されており、単純なドタバタ活劇を楽しむ作品である。ピーターパンとフック船長の戦いもあまり緊張感がなく、遊園地のアトラクションみたいなものだ。

 ところで、幼い視聴者にとってピーターパンは正義の味方でフック船長は悪者ということになるが、大人の目で見るとそうともいいきれないところがある。

 本作品を見て気になったのは、フック船長がピーターパンや子供たちを本気で殺そうとしているのに対し、ピーターパンがどこか手加減した対応をしており、本気でそれを阻止しようとしていないところがある。

 ピーターパンの圧倒的な身体能力をもってすれば、フック船長を捕らえたり、ワニのエサにしたりすることなどたやすいことだ。ただ、フック船長の存在があるからこそピーターパンは活躍することができ、子供たちはピーターパンを尊敬してくれる。ウェンディはピーターパンを見てうっとりする。つまり、ピーターパンは自らのステータスを高めるために、フック船長を都合よく利用しているだけなのではないかという疑惑がわいてくるのである。

 そもそも、フック船長が子供たちを殺そうとする動機はあるのだろうか。作品を見る限り、子供たちをつかまえて働かせたり、奴隷商人に売ったりなどの実利を得ようとしているようにはみえない。子供たちは、ピーターパンの巻き添えを食らって命を狙われているだけではないか。

 やっつけようと思えばやっつけられるフックを泳がせ、自らの利益のために利用するピーターパンは本当にヒーローなんだろうか。

『フランダースの犬』 ネロの亡命

フランダースの犬
1975年1月5日~12月28日放映(全52話)

 最終話のネロが昇天するシーンが有名な作品である。

 だが、この作品を通して見て気付くのは、ネロが移動するシーンがやたらに多いことである。ネロの祖父は、村から街へ牛乳を緑色の荷車に載せて運搬することで生計を立てており、ネロもそれを手伝っている。なので、事実として毎日、村から街まで往復しているのだが、それにしても何十回も同じ道のりが描写する必要があるのだろうか。


左『フランダースの犬』5話 祖父ジェハンとネロ
右『フランダースの犬』5話 ネロ

 ネロの家→石造りのアーチ橋→公共水道の脇→アロアの家の前→小さなほこら→白い跳ね橋→ポプラ並木→川沿いの道→アントワープの街

 アニメを見ながら、自然に道順を覚えてしまうほどだ。ネロは1話から最終話まで、一度としてこの道を外れることはなく往復する。幼なじみのアロアがイギリスに留学しても、友人のジョルジュが遠くの街へ奉公に行っても、ネロはこの往復路を一歩も抜け出すことがなかった。

 ふつう、移動というのは目的地へたどり着くための手段であり、移動そのものにはあまり意味はない。通学電車で同じ車両に気になるアイツがいてドキドキ、といった少女マンガ的シチュエーションでもないかぎり、移動がクローズアップされることはない。

 にもかかわらず、執拗といってもいいほど同じ移動シーンを繰り返すのは、どんな意味が考えられるだろうか。

 すぐに思いつくのは、たった一本の道を往復するだけのネロの生活を描くことにより、ネロの将来に対する閉塞感や、ネロに見えている世界の狭さを象徴的に表現している、という考えである。しかし、ネロの屈託のなさをみていると、それは勝手な深読みというものだろう。

 ここは素直に考えて、ネロの移動シーンを何度も描写するのは、特に意味があるわけではなく、ネロという主人公に対して描くものがそれしかなかったということではないか。41話でネロの祖父は、ネロが幼かったときのことを回想する。祖父が思い浮かべたのは、ネロに初めて会ったときや、ネロにおそろいの帽子をあげたときなど、いかに回想にありそうなシーンではない。幼いネロが緑色の荷車に乗って移動したり、荷車の脇で歩いて移動しているシーンを、祖父は思い浮かべるのである。

 人は、目的地がなければ、どこかに属することができない。通学なら学校に、通勤なら会社にといった具合である。しかし、ネロはついにどこかに属するということがなかった。だから、ネロという人物を描くには移動しているところを描くしかないのである。

 児童文学において、子供と社会をつなぐ役割を担うことが多い父親は、この作品では不自然なまでに除去されている。ネロは家と社会のあいだでずっとたゆたっている。最後に、ネロは木こりとして生きる道を提示される。ネロが社会に属することができるはずだったが、ネロは顧みることなく、通りなれた道を通って街へと向かい亡くなった。

 ネロは亡くなるとき悔いを残していただろうか。木こりとして生きていくという生存ルートをあえて選ばなかったところを見ると、芸術家を夢見て死ぬことが、ネロにとっては良かったのだろう。ネロは、文字通り生活から亡命したのである。

『牧場の少女カトリ』 はたらくお嬢ちゃんの行く末

牧場の少女カトリ
1984年1月8日~12月23日放映(全49話)

 カトリは勤労少女である。シリーズの前半は家畜番、後半は子守りが主な仕事だが、オプションで台所仕事、麦の刈入れ、羊の毛刈り、機織りなど様々な仕事をこなしている。数えてみると、全49話のうち40話で何らかの仕事をしており、働いていない回はだいたい次の職場へ移動中である。


左『牧場の少女カトリ』8話 家畜番のカトリ
右『牧場の少女カトリ』33話 麦の刈入れを手伝うカトリ

 カトリは隙あらば働こうとする。マルティという近所の裕福な家の子と知り合うと、さっそく「私をあなたのところで働かせてくれないかしら」と仕事の斡旋を頼んでいる。マルティに「まだ小さいのに」と言われても、カトリはいうのだ。

「でも働きたいの」(2話)

 私が生まれてから一度も言ったことのないセリフである。 というか、「でも」の後に続くのが「働きたくない」以外に存在することに驚いた。

 やがて、マルティの紹介でカトリは家族のもとを離れて奉公に出ることになる。心配するマルティに、カトリは9歳にしてこういうのだ。

「私ね、仕事がつらいことはわかっているの。だから少しくらいつらいのは我慢する。一生懸命がんばるつもりよ」(5話)

 私が9歳のころは、おもしろいダジャレを考えてノートを埋めることなどに夢中だったものだが。

 そして、仕事を通じて広い世界に触れたカトリは、単純労働だけでは物足りなくなってくる。

「私、今、心から思っているの。学校に行きたいって。働くのがいやだっていうんじゃないの。でも勉強したいの。勉強して、世の中のことをもっともっと知りたいの、わたし。」(15話)

「私が働くといったのは、たとえばひとの役に立つ仕事がしたいのです。たとえば看護婦とか学校の先生とか。いえ、簡単になれるとは思っていません。でも一生懸命努力すれば…」(30話)

 そんなふうに考えていると、カトリを見込んだロッタ奥様に、都会に連れて行ってもらい、学校も行かせてもらえることになる。たぶん、私でもそうしてあげたくなると思う。

「トゥールクで働けるなんて、夢にも考えなかったんです。あっちの農場、こっちの牧場とまわり歩いて一生を終わるんだと、ついこの間まで思ってたんです。」(40話)

 カトリは自らの頑張りでチャンスをつかむ。なぜ、そんなに頑張るのかを考えてみると、つきつめると結局は「もっと働きたい」ということなのだ。最終話でいったん帰郷したカトリは、かつての家畜番仲間にいう。

「わたしはきっと学校を卒業したらこっちへ戻ってくるわ。そんな気がする」

 それに対して、家畜番仲間は寂しそうにこうつぶやく。

「いや、カトリは戻らないと思う」

 カトリは何も返事をせず、前を見つめたまま物語は終わる。カトリはどこまでも昇っていけそうである。

 もし、カトリが日本生まれだったら、いまごろ「カトリ神社」がつくられて、就活とか出世にご利益のあるパワースポットになっていたことだろう。

『トラップ一家物語』 マリアの十倍人生

トラップ一家物語
1991年1月13日~12月22日放映(全40話)

 マリア・フォン・トラップの人生は波乱万丈である。本作品で語られている範囲でその経歴をまとめると、次のようになる。

2才のとき母親を亡くす。
9才のとき父親を亡くす。親類に引き取られ虐待を受ける。
15才のとき中学校を卒業。家出して雑用で生活費を稼ぐ。奨学金を得て師範学校に入る。
18才のとき師範学校を卒業。ノンベルグ修道院の門を叩く。(1話)
修道院からトラップ男爵家に家庭教師として派遣される。(3話)
2男5女の子持ちで20歳年上のトラップ男爵と結婚する。(32話)
トラップ男爵が全財産を預けていた銀行が破綻し、下宿屋を始める。(33話)
トラップ一家合唱団として舞台に立つ。(34話)
ナチスドイツの支配から逃れるため、オーストリアからアメリカに亡命する。(40話)

 これ以降のマリアの人生は本作では語られないが、史実では亡命先のアメリカでも激動の人生を送っている。マリアが生きていたら、飲み屋で若い頃のしょうもない武勇伝を語るおっさんの前に連れて行きたい。マリアの前ではどんな武勇伝だろうと語るのが恥ずかしくなるだろう。


左『トラップ一家物語』08話 マリア
右『トラップ一家物語』35話 トラップ一家

 もっとも、マリアの人生は特殊すぎてなかなか共感できるところが少ない。卒業旅行で見たアルプスの夕映えが素晴らしいので修道女になろうと思った、などといわれても「あるある」とうなずく人はあまりいないだろう。

 本作の内容も、マリアの人生に比例してか盛りだくさんである。マリアの家庭教師としての奮闘記だけでも、7人の子供がいるからボリュームたっぷりである。そのうえ、メロドラマじみた恋愛劇や教育方針をめぐる家政婦長との確執など息をつくひまがない。歴史の奔流に巻き込まれるラスト数話は、いくぶんあわただしく終わってしまった。

 結局、マリアは幸福だったのだろうか。まったく愚痴を言わない性格なので、安穏とした人生でないことについてどう思っているのかはよくわからない。ただ、人生の最後に振り返って「何のために生きていたのか」などという後悔だけは、絶対にない人生であることは間違いない。

『名犬ラッシー』 やさしい世界のやさしい犬

名犬ラッシー
1996年1月14日~8月18日放映(全26話)

 炭鉱の町で暮らす少年ジョンとコリー犬ラッシーの交流を描いた物語。


『名犬ラッシー』16話 ジョンとラッシー

 人気が出なくて打切りになったということで、よほどつまらなかったんだろうかと期待せずに見たら、まったくそんなことはなかった。人々の暮らしぶりを感じさせる町の描写は世界名作劇場のなかでも屈指の出来栄えだし、ジョンのへこたれない性格は好感が持てるし、ヒロインは素朴でかわいい。

 ただし、犬のラッシーが主役ということで、単調になっている部分もある。この作品は、基本的に一話完結でラッシーの活躍が描かれるのだが、ラッシーは犬なのでできることには限りがある。ものを運ぶ、人を呼んでくる、何かを捜すというあたりがラッシーの活躍の限界で、犬らしくないこと(家事をする、相談にのる、心理戦など)はできない。よって、いくつかのエピソードで「似たような展開だな」という印象を受けることがあった。

 犬だけに、ワン・パターンなのである。

 もっとも、単調なのは悪いばかりではない。単調だからこそ、共感をおぼえるような日常のさりげない出来事を、じっくり描くことができている。秘密基地で友達と語らったり、みんなでケーキをつくったり、ザリガニ釣りに出かけたりといった、のんびりとした作品世界を楽しむことができるアニメである。

 どのエピソードもうまくまとまっているが、6話の「嵐の中をかけぬけろ」などはこの作品らしさがうまく表現されているかもしれない。町内の家に届け物をするため、嵐の日に出かけていくという「冒険」のスケール感のささやかさや、風でちっとも前に進まないジョンのコミカルな動きなど、イライラしてそうな人に見せてやったら、やさしい気持ちになって犯罪が減ると思う。


『名犬ラッシー』6話 嵐の中をかけぬけるジョンとラッシー

 ジョンと離れ離れになったラッシーが、ジョンのもとへ帰るための千キロメートルに及ぶ旅路が、打切りのためにたったの2話で終わってしまったのは残念である。あと数話もあれば、作品としての完成度はぐっと高まったことだろう。いち視聴者として、そんな無念を感じる作品である。