アイスエイジセオリー

 「安西先生、バスケやめたいです…」というギャグを思いついたので、その陳腐度を調べるため「バスケやめたいです」で検索したら354,000件あり、バスケをやめたい人が思いのほか多いことがわかった。

アイスエイジセオリー

 別の部署にいやな奴がいる。そいつより納税のほうが好きなくらいだ。
 そいつと関わる仕事があり、気が進まないなりに進めていたが、一昨日渡した書類の細かい部分について、そいつから嫌味っぽいメールが来た。そいつの出身地は知らんが京都に帰れと思う。

アイスエイジセオリー

 最近は、せっかく面白いダジャレを思いついても検索するとどうせ誰かがすでに書いていることがほとんどなので発表する気が失せるのだが、せっかくの面白いダジャレなので一応発表する。

 元気百倍、アンパンクラチオン

アイスエイジセオリー

 栗一粒秋三界を蔵しけり  寺田寅彦

 この句、もとは栗(くり)ではなく粟(あわ)であったらしい。いつのまにか(おそらくは誤植で)粟が栗になってしまったようだ。坪内稔典がこれを解説をしている文章がよかったので、書き留めておく。
 
『三界は仏教用語だが、私たちの全世界をさす。すなわちこの句は、一粒の栗のなかにこの世のすべてが詰まっている、という意味であろう。』
『では、この句、粟の句とすべきだろうか。私見では栗でよい。もし粟だったらこの句が有名になったかどうか。おそらくならないだろう。小さい物の代表みたいな粟粒にこの世の全てがあるというのは、理屈が通り過ぎて平凡だ。それに対して、栗の句とすると、理屈よりも栗の存在感そのものを生き生きと表現している。』

 たしかに粟だとしゃらくさい。栗には可愛げがある。あまりにクリアーな解説なので、好きでもなんでもない句が好きになった。

引用文の出典:「産経新聞」朝刊 2012年11月9日号記事を高橋輝次編著「増補版 誤植読本」から孫引き

アイスエイジセオリー

 客層が陰気なところが気に入っている喫茶店でよく昼飯を食うのだが、今日は陽気なおばさんが来ていた。見たことのないマスターの笑顔がショックだった。
 店を出るとき、自動ドアの軽く押すボタンを強く押した。

アイスエイジセオリー

 何度も目で見ているのに脳は認識していないことがたまにあるが、うちの近所にカレー屋があることを最近知った。一度脳が認識すると、いちいち目に付くようになる。
 以前、名探偵コナンの灰原哀とナニワ金融道の灰原達之が同じ名字という事実を脳がうっかり認識したせいで、哀のことを考えているときに達之の顔がチラつくようになったのに似ている。

アイスエイジセオリー

 今日は仕事で久しぶりに高速道路に乗った。
 無心に三十分ほど運転していると、マリオの無敵BGMが脳内に流れ始めて危ない。

 昨日書き忘れていたが、「アイスエイジセオリー」は日記の名前。カッコイイ名前をつけると長く続けられそうな気がする。

アイスエイジセオリー

 中田はすでに七人ほど自分を見つけたそうだ。
 
 部屋にかかったマスタード色のカーテンを見ていたら唐突に涙がこぼれた。カーテンは十五年ほど前に奮発して買ったものだが、ずっと同じのをかけていることが急に悲しくなったのだ。
 そして、涙ぐみながら、自分にそんな感性があったことにびっくりした。かつてはこんなことで泣けるなど想像もできなかった。感性は年齢とともに鈍っていくばかりかと思っていたが、そう単純なことでもないのかもしれない。
 そういうわけで、ちょっとしばらく日記を書いてみようと思う。

『ペリーヌ物語』 結びつける者

ペリーヌ物語
1978年1月1日~12月31日放映(全53話)

 ペリーヌ物語は、世界名作劇場の初期作品のなかでは目立たない存在である。“ペリーヌ”を画像検索すると『ストライクウィッチーズ』のペリーヌ・クリステルマンの画像ばかりがヒットする。さらに、“ペリーヌ エロ”を画像検索するとペリーヌ・クリステルマンのいやらしい画像ばかりがヒットする。


『ペリーヌ物語』1話 ペリーヌ・パンダボアヌ

 ただし、目立たないからといって甘く見てはいけない。特に、ストーリー運びについては、一分の隙もないといってよい作品である。

 本作品において、ペリーヌは<結びつける者>という役割を担っている。ペリーヌ自身のキャラクター設定からして、そのように意図されている。

 まず、血統についていえば、ペリーヌはインド系の母とフランス系の父をルーツにもち、民族的、文化的に両者の中間に立つ存在である。その生い立ちからペリーヌは英語とフランス語のバイリンガルであり、後に通訳に抜擢されて(34話)、頭角を現していったことは、<結びつける者>というペリーヌの役割をもっとも端的に示している。

 また、13歳という年齢についても、同じことがいえる。子供というには精神的・肉体的に成熟しており、作中でもペリーヌは大人に混ざって祖父ビルフランが経営する紡績工場で働くことになる(28話~)。しかし、大人というには世知に長けておらず、一人で写真屋の商売をしたときは子供だと侮られて全く客をつかまえられなかった(16話)。つまり、ペリーヌは大人と子供の中間的に立ち、両者をつなぐ存在なのである。作中でも、工場の同僚の愚痴をビルフランに子供らしい率直さで伝えようとして、同僚を慌てさせるシーンなどがある(48話)。

 一方、ペリーヌを取り巻く環境については、いくつもの分断がみられる。

 まず、本作品におけるペリーヌの最大の目的は、祖父ビルフランとの家族としての結びつきを取り戻すことにある。しかし、祖父は息子が外国人と結婚したことを許さず、孫であるペリーヌの存在すら知らない。祖父とペリーヌは完全に断絶しているといえる。

 また、ビルフランは工場の経営者としては有能なのだが、時代性もあって労働者の待遇や権利についてほとんど配慮することがない。孫であることを隠して工場で働くペリーヌの給料は毎日のパンを買うのに精いっぱいで、総じて労働者の待遇は悪い。つまりは、労使間が断絶しているのである。

 さらにいえば、ビルフランが経営し、ペリーヌの働く工場が紡績工場であることも注目すべき点である。紡績業は、産業革命の象徴とでもいうべき業種である。工業化においてイギリスから大きく後れを取ったフランスだが、ペリーヌの時代には追い付きつつあり、第二帝政期に整備されたインフラを利用して著しい発展を見せていた。それは、家内工業から工場工業への変革の時代である。それまでの、生活と生産の現場が一致していた時代から、両者が分断され、人々が生活の中でモノをつくるという行為から遠ざけられはじめた時代である。

 ペリーヌは、それらの分断した事柄を次々に結びつけていく。

 マロクールの街で、ペリーヌは町はずれの空き家に居を構え、自分の力で生活しようと決意する。それは単に生活費を自分で稼ぐというだけではない。ペリーヌは生活に必要な道具を自分の手でつくってしまう。くつ、下着、鍋や食器などをつくり、それをけっこう楽しんでいるようである。小規模ながら、ペリーヌはものづくりを自らの手を取り戻し、生活と生産の場を結びつける。

 また、ペリーヌは労使間の断絶の解消についても積極的に動く。工場の経営者であるビルフランに対し、従業員の葬式に出席することをすすめたり、ひどい待遇を受ける女工の悪臭漂う共同部屋に連れ出したりして、ビルフランに従業員の待遇改善に目を向けさせることに成功する(49話)。ペリーヌはビルフランに対してこんなふうに伝える。

「ビルフラン様は今までは工場を大きくすることだけを考えていたのではないでしょうか。ですから、これからは働いている人たちのことたちをもっともっとお考えになっていただきたいのです。」

 ところで、<結びつける者>としてのペリーヌの特質は、母の影響が大きい。物語の序盤では、ペリーヌは負けん気が強く、写真屋としての商売を同業者に邪魔されたときなどは自分たちの腕が上だと食ってかかっている(10話)。母はそんなペリーヌをいさめ、相手の立場に立つことを教え、死の際では「人に愛されるためには、まず自分が人を愛さなくては」と伝えるのである。


『ペリーヌ物語』21話 ペリーヌと母

 母の教えのとおり、さまざまなものをうまく結びつけていくペリーヌだが、祖父との関係だけはうまくいかない。ペリーヌは、祖父に拒絶されることが怖くて、自分が孫だと言い出すことができない。そこで登場するのが、フィリップ弁護士である。

 フィリップ弁護士はペリーヌのインドからフランスへの長い旅路をたどることで、ペリーヌの父と母、旅の中で出会った人々を順に線で結んでいく。倒叙的に描かれるその様子は、刑事コロンボを見ているような痛快さがある。そして、49話において、フィリップ弁護士はペリーヌとビルフランをつなぐ最後のパーツであるルクリおばさんの存在を指摘し、ペリーヌはビルフランの孫だと解き明かすのである。

 ペリーヌは<結びつける者>としての役割を持ちながら、自分と祖父の関係だけは結びつけることができなかった。しかし、ペリーヌが旅の途中で結んできた人とのつながりが、最後には自分と祖父を結びつける糸になるという、印象的なラストシーンを迎えるのである。

 50話以降はエピローグのようなものだが、祖父はペリーヌの勧めで目の手術を行い、閉ざされていた外界とのつながりを取り戻して物語は終わる。

 第1話から最終話まで、作品の持つテーマを余すことなく描き切っている。なにより「人の結びつき」などというくすぐったいようなテーマを正面から描いているにも関わらず、まったく鼻に付かないのがいいところだ。

 惜しむらくは、その独特のキャラクターデザインだろう。ペリーヌは慣れればかわいいのだが、たまにタツノオトシゴの妖精みたいな顔になるのが玉に瑕だ。あと、酔ったロバのパリカールは、夢に出てくる。


『ペリーヌ物語』8話 酔いどれパリカール

『こんにちはアン』 小さなアンにかけられた呪い

こんにちはアン ~Before Green Gables
2009年4月5日~12月27日放映(全39話)

 『こんにちはアン』は『赤毛のアン』(以下、本伝と呼ぶ)の前日譚で、孤児のアンがトーマス家の家事手伝いをしている6歳のころから、カスバート家に引き取られる11歳までの出来事が描かれている。『こんにちはアン』は本伝の出版100周年を記念して書かれており、本伝とは作者が異なっている。


左『こんにちはアン』01話 アン・シャーリー6歳
右『こんにちはアン』19話 アン・シャーリー8歳

 2008年に出版された原作を、2009年にさっそくアニメ化したのが本作である。

 本伝を繰り返し読んだ者の目線では、このシーンは本伝のあのシーンにつながるんだなとか、これは本伝のあのシーンのオマージュだなと、いろいろ楽しめるつくりになっている。ところが、話数が進むにつれて、だんだん本伝の<呪い>のようなものを感じるようになってくる。

 つまり、『こんにちはアン』の最終話が、本伝の第1話につながるのだから、あらゆる点で整合している必要があり、アンの持ち物ひとつとっても矛盾があってはいけないのである。

 カスバート家へ向かうアンの服装は「きゅうくつな交織りの服」「色あせた水兵帽」「取っ手の壊れたかばん」でなくてはいけない。アンはそばかすだらけのやせっぽちでならなければならない。アンはアイスクリームを食べたことがあってはならない。なにより、本伝でカスバート家に引き取られてから幸福になるアンは、『こんにちはアン』では幸福になってはならないのである。

 見ていて一番きつかったのは、1話でアンがミントン夫人からもらい、ロキンバーと名付けた猫との別れである。26話でハモンド家に引き取られることになったアンは、ロキンバーを連れていきたがる。だが、ハモンドから連れていけないといわれてしまう。表向きは「妻は猫が苦手だから」ということだが、視聴者は知っている。アンがロキンバーと引き離されるのは、本伝でアンが猫なんて連れていなかったからなのだ。


『こんにちはアン』26話 アンとロキンバーの別れ

 アン・シャーリーがどれだけ明るくふるまっても、どれだけ希望を見失わないようにしても、彼女が本作で幸せになることはない。これを呪いといわずなんと言おう。

 また、呪いをかけられているのはアンだけではない。アンが幸せにならないということは、アンの養育者たちがアンを幸せにできないということでもある。

 最初の養育者トーマスは酒飲みでろくに仕事もせず、何度か立ち直ろうとするが、最後は汽車に轢かれて死亡する。次の養育者ハモンドは製材所を営むが、大きな仕事を請け負った直後に心不全で亡くなってしまう。

 この決して解けない呪いを見ていると、運命とはこういうものなのかと考えさせられる。つまり、すべての出来事はあらかじめ決まっており、人間の意志や努力などは無意味なのではないかと。

 しかし、さらに考えてみると、この呪いが解けるのは果たしていいことなのだろうか。呪いが解けて、アンがこの物語で幸せになることは、望ましいことなのだろうか。

 もちろんアンにとっては悪いことではないだろう。エリーザ、ミントン、エッグマン、ヘンダーソン先生など、本作において孤児のアンを引き取りたいと考える人はたくさんいたし、呪いがなければ引き取られていただろう。アンならグリーン・ゲイブルズに行かなくても、彼女らしい幸せをつかむことだろう。だが、本伝においてアンに幸せをもらうことになるマシュウやマリラをはじめとした多くの人々は、アンが存在しなければ本伝で書かれるような幸せを得られるとは思えないのである。

 してみると、アンには呪いなどかかっていなかったのかもしれない。アンにとっての試練であることは間違いないが、たまたまアンがそういう役回りだったというだけのことで、本来はアンにしか幸せにできない人に対する<祝福>だったのかもしれないとも思えてくるのである。

 こういうことを、ひとことでまとめてしまえば、次のようになる。

 『神は天にいまし、すべて世は事もなし。』

『南の虹のルーシー』 もっとも名劇らしからぬ主人公

南の虹のルーシー
1982年1月10日~12月26日放映(全50話)

 オーストラリアにヨーロッパ人が本格的な植民を始めてからまもない1837年。アデレードの人口が300人くらいしかいないころ、南オーストラリアに自由移民としてやってきたポップル一家の物語である。

 ポップル家は父、母、息子2人、娘3人の7人家族である。最初に強調しておくと、この作品は三女ルーシーと次女ケイトがオーストラリアの珍しい動物に驚き、建設途上の町や自然の中をかけずり回り、ボケ役のルーシーとツッコミ役のケイトの掛け合いがとても楽しい作品である。そう、楽しい作品であることには間違いない。しかし、最後まで見終わって感じたのは、それだけではなかった。


左『南の虹のルーシー』13話 ルーシーとケイト
右『南の虹のルーシー』14話 ポップル一家

 印象に残ったシーンが2つある。

 ひとつは、ルーシーがプリンストンというお金持ちの農園経営者の屋敷に滞在し、図書室に入ったシーンである。世界名作劇場のヒロインといえば、たくさんの本を見るとキラキラと目を輝かせるのが定番である。

 ところが、ルーシーは「どうしてこんなたくさんの本を読まなくてはならないんですか?」という、ある意味ではしごく当たり前の反応をする。考えてみれば、世の中は本好きの子供ばかりではないのだ。むしろ、字ばかりの本など読みたくない子供のほうが多いかもしれない。あまりにまっとうな子供の感想であるがゆえに、かえって意表をつかれて印象に残ったシーンである。

 もうひとつは、ポップル家がオーストラリアで農場を手に入れる見込みがなくなって、ルーシーの父がやけ酒を飲むようになってからのこと。希望をなくした父を気遣い、家族はやんわりと父をいさめる。父は改心して「心配させてすまなかった」と酒をやめる。家族愛により、父が立ち直るシーンを描いた心温まるシーンである。

 ところが、数日後に父は「ま、一杯だけ」と酒瓶を取り出し、グラスに注いでいるところを長男に見つかってしまう。そのときの父のうろたえぶり、そのあまりにも人間臭い様子を見て、とても物悲しい気持ちになった。これもまた、家族愛を絶対視する名劇の他の作品では見られないようなシーンだろう。


『南の虹のルーシー』43話 ルーシーの父

 つまり、何がいいたいかといえば、ポップル家は「ふつうの人たち」なのである。彼らは、忍耐力とか向上心とか行動力とか空想力とか、他の名劇の主役たちがいずれか傑出して持っていたりする能力を、どれもふつうに備えているが、特筆するほどには備えていない。ポップル家の人たちは、思った通りにいかない一家の状況を嘆き、生活のために望まぬ仕事をこなし、運が開けることを祈るしかできない。閉塞した状況に対し、彼らが行うのは「行動」ではなく「愚痴」なのである。

 もちろん、そのままでは子供向けアニメにならないので、最後はルーシーが記憶喪失になり、偶然知り合ったプリンストンから農場を破格の条件で譲ってもらえるというラッキーイベントが発生する。裏を返せば、そんな宝くじに当たったみたいなことがなければハッピーエンドにならないという、「ふつうの人たち」の悲哀すら感じられるラストである。

 なにやら、暗いイメージを書いてしまったが、最初に強調したとおり、この作品が「楽しい作品」であることは紛れもない事実である。個々のシーンをとりだせば、ゲラゲラ笑えたり、ほっこり心あたたまったりするシーンはいくらでもある。

 もしかして、この作品は深い視点で考察しながら見れば、人間の陰影を描いたとんでもない傑作なのではないかと思うことがある。しかし、この作品があまり話題にならない理由も分かる気がするのである。