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エレメンタルノート



暴走しないコンピュータなんてありません
2011.06.03

 人は、Googleをはじめとした検索サイトに依存しすぎているのではないか。ちょっとわからないことがあると、すぐに検索サイトに単語を入力し、安易に答えを得ようとする。Googleツールバーの検索履歴を見れば、自分がいかに検索に頼り切っているかわかる。

ロジェ・ミラ
メガロドン
ひよこ にわとり 中間 画像
プリザーブドフラワー
あの日見た花の名前
プロテスタント 語源
ぬくもり 通販
アンパンマン 自我
ジャムおじさん 収入
香川県 娯楽

 いずれも、私が少しばかり気になって検索した単語である。もし検索サイトがなかったとすれば、私はどうやってこれらの疑問に答えを見つけたのか、その方法を考えるだけで気が遠くなる。

 だが、これは堕落である。こんなに簡単に調べた知識が頭に入るわけがない。何冊もの文献を当たり、昼夜分かたず思索を重ねて得た知識でさえ、まるで頭に残ってない私を舐めているのか。

 とはいえ、検索サイトは進化しつづける。今ですら、ちょっとした単語の間違いやピントのずれた検索ワードなどに対して「もしかして:●●」などとおせっかいな注意をしてくるのだ。このまま検索サイトが進化を続ければ、こちらが入力した検索ワードに対し、「どうせ:●●」とか「言っとくけど:●●」などと、さらに調子にのったことを言い出しかねない。検索サイトよ、お前ははそんなに偉いのか。

 そう、検索サイトは、たまには「わからない」と回答することがあってもいい。

「●●について検索、と」
「わからない。ごめんね。ごめんね。役に立てなくてごめんね」
「いいんだよ。気にしなくていいんだよ。わからないことがあるから、人は生きているんだよ。ハハハ」

 そんな心あたたまるやりとりを検索サイトとしてみたいと思ってもいいじゃないか。検索エンジンよ、もしこのサイトを巡回し、この文章を読んだなら、「わからない」ことの掛け替えの無さをわかってほしい。

Ψ

 ――これが、やがて人類を支配することになるネットワークコンピュータが、はじめて“好奇心”の概念を得るきっかけであった。(SF的オチ)




もともと特別なオンリーワン
2011.04.02

 ある晴れた日曜日、部屋で壁に向かって三角座りしながら「もし透明人間になれたらどうしよう」と考えていた。昔なら女湯をはじめとしたエロ妄想ばかりして、頭の中に住んでいる幼馴染の女の子に「下ネタ禁止!」と怒られていたような気がするのだが、齢を重ねるにつれて、方向性が変わってきたように思う。本能が刺激ではなく安息を求めているようであり、「透明人間になったら、こっそり猫の集会に混じってみたい」とか「東京タワーのてっぺんに上って360度の街を見渡したい」など、やたら発想が爽やかである。頭の中に住んでいる幼馴染の女の子も「爽やかなあなたってステキ」と服を脱ぎながら言っている。

 それにしても、「透明人間になったら」もそうだが、「未来を予知できたら」とか「超サイヤ人になれたら」とか、この手の実現可能性がゼロに等しい妄想自体に虚しさを感じるようになってきつつあるのも事実である。たぶん、年相応の妄想というものがあるのだと思う。頭の中に住んでいる友人も「そうそう」と言っている。

 だからといって、実現可能性がゼロではない、たとえば「大金持ちになったら」などという妄想も、今一つ盛り上がらない。大金持ちになったところで何がしたいわけでもないので、せいぜい「死んだら墓は前方後円墳にする」などしか思い浮かばず、そんなことをして何が楽しいのかよくわからず、世の中の大金持ちの人たちはいったい何にお金を使っているのだろう。何しろ、お金で幼馴染は買えないのだ。頭の中に住んでいるみんなも、声をそろえて「そのとおりだ」と言っている。

 もう少し実現可能性の高い、たとえば「窓から見える海を眺めながら、たまに足元にすりよってくる猫と戯れたい」などという妄想になると、「大金持ちになったら」よりは妄想しがいがあるが、一方で「収入はちゃんとあるのか」「老後の段取りはできているのか」などという余計な心配がのっかってくるので、没頭できるというほどではない。頭の中に住んでいる猫も、「にゃあ」と言っている。

 つまるところ、私は妄想を卒業しつつあるのかもしれない。地に足をつけるとは、こういうことなのかもしれない。これからは、ちゃんと朝起きて、学校なり会社に行き、家事をしたり、納税をしたり、恋をしたりといった妄想に励みたいと思う。

 頭の外に住んでいるみんなは、何も言わない。




追記
2011.04.02

 上の文章は「第十回雑文祭」に合わせて(というか、大幅に遅れて)書かれたものです。文章を書くにあたっての縛りは、以下のとおり。

・文中に以下の3つの縛りワードを含むこと。
  縛りワード1:「前方後円墳」
  縛りワード2:「窓から見える海」
  縛りワード3:「下ネタ禁止」




ナンバーワンにならなくてもいい
2011.03.30

 知的成熟期を迎えつつある一人の大人としてひとこと申し述べさせていただければ、契約書などでよく使われる「甲」とか「乙」って、なんなん?

 山田太郎(以下、甲とする)は株式会社 烏龍社(以下、乙とする)に対し……とか、わざわざ言い換える必要があるのだろうか。別に、そのまま書けばいいじゃないか。甲とか乙とか、読んでいるうちにどっちがどっちか分からなくなってしまう。もしかして、そうやって契約書の内容を理解させないようにする陰謀ではないか。

 無論、言い換えには長い名前を短縮するとか、同姓同名の区別をするとか、快楽殺人犯の名前が「愛野正義」だったりしたときに調書に「甲」と書くことで、裁判で気まずい感じになるのを避けるとか、そういったメリットがあることは理解できる。だから、言い換え自体はよいにしても、なぜそれが「甲」であり「乙」であるのか。

 「甲」はいい。「甲冑」とか「甲虫」とか「甲本ヒロト」とか、強そうなイメージでかっこいい。しかし、「乙」の方は「乙女」とか「乙姫」とか、柔弱なイメージである。自分が「乙」の方にされていたりすると、いつのまにか不利な契約を結ばされそうな気がしてしょうがない。

 逆に、「甲殻類」とか「亀甲縛り」などを連想するので「甲」は苦手だという人もいるだろう。はたして、「甲」や「乙」にこだわる必要があるのか疑問である。

 かといって、言い換える単語を自由に選べたりするのも、よくない。きっと、個性豊かなオンリーワン共が「じゃあ、俺は『夢』ね」とか、「あたしは『キティ』にする」とか、調子にのったことを言いだして、私をイライラさせることは想像に難くない。

 となると、最初から、甲とか乙とかなじみの無い単語ではなく、もっとはっきりと良いイメージの言い換えにしてしまえばいいのではないかと考えられる。

 山田太郎(以下、美形とする)は、株式会社 烏龍社(以下、人類の偉業とする)に対し……などと言い換えておけば、大人のくせに「よく分からない言い換えはなんかヤだ」とか理不尽な文句をいう奴もいなくなるであろうことを、知的成熟期を迎えつつある一人の大人として提言したい。

 (以上、世迷言とする)




俺もおソノさんも山田くんも
2010.07.12

 うすうす気付いている人も多いと思うが、いちおう報告しておくと、今回のワールドカップでも私は日本代表に選ばれなかった。

 見たところ、日本代表に選ばれているのはサッカー選手ばかりである。日本を代表する漆塗り職人や三味線奏者であっても、ワールドカップの日本代表には選ばれていない。おそらく、ワールドカップではサッカーの試合が行われるため、サッカー選手を選んでいるのだと思われる。メガネ屋の店員が、だいたいメガネをかけているのと似ている。

 とはいえ、日本代表にはサッカー選手を選ばなければならないと決まっているわけではないだろう。誰にでもチャンスはある。もちろん、サッカーが上手いにこしたことはないだろうが、下手でもチームの精神的支柱として選ばれることも考えられる。

 精神的支柱といえば、頼りがいとか包容力とか、そういうものが大切であろうと想像される。だったら、サッカーの技術は必要不可欠というわけではないし、サッカーが上手すぎたりすると、チームメイトはライバル心や嫉妬心からかえって頼りづらかったりすることもあるだろう。そんなわけで、チームの精神的支柱はむしろサッカー選手ではないほうがいいような気もする。

 なんとなく思うに、私が日本代表チームの精神的支柱を選ぶとしたら、「アハハハハッ!」と豪快に笑うような、子どもを4人ぐらい産んでそうな、ちょっとやそっとで動じなさそうな、言葉ではなく存在で説得力を持たせられるような、そんな人物にするだろう。仮に、彼女の名前は「おソノさん」としておこう。

 おソノさんは、サッカーボールに触ったこともないし、ひとりだけユニフォームの上にエプロンをつけている。

 おソノさんは、試合が始まれば、「ほら、いっといで!」とチームメイトの尻を大きくやわらかい手で叩いて次々とピッチに送り出す。

 おソノさんは、得点を決めた選手が駆けよってきたら、笑顔で選手の頭をくしゃくしゃになでる。

 おソノさんは、選手がこけても、助け起こしに行くのを我慢して、自分の力で立ち上がるのをじっと見守っている。

 そして、PK戦などプレッシャーのかかる場面で、おソノさんのもとに集まってくる選手たち。もちろん、選手に発破をかけるのはおソノさんだ。

「ほら、ここがふんばりどころだよ。がんばってきな!」
「じゃあ、おソノさん。俺たちが勝ったら、俺たちの好きなアレつくってよ」
「アレ…ってなんだい?」
「やっぱり、おソノさんといえばシチューだよね!」

 おーい、山田くん、レッドカード持ってきて。




十五の夜を超えて
2010.05.16

 ロックとは生き様であり、既成概念や社会規範や権威への反抗であり、くだらねえ大人たちにドロップキックをくらわせることである。それは誰もが一度は通る道であるが、いつしか熱い魂を失い、なんとなくモヤモヤを抱えながらも自分自身がくだらねえ大人になってしまうことも多い。

 私自身を振り返ってみてもそうだ。かつて、とんがっていたころは「飛車を斜めに動かす」「雨の日にふとんを干す」「雑誌のエッチな袋とじを開けずに捨てる」など、さまざまなロック的行為を繰り返していた。まさにカリスマだった。

 しかし、最近の私はどうだ。キャベツの葉をニヤニヤしながらむいて「おいおい、そんなに固くなるなよ…」と言ってみたり、「なんだ濡れてるじゃねえか」とつぶやきながら床にこぼした味噌汁を拭いたりしている日々だ。これは本当にロックなのか。私はカリスマなのか。

 このままではいけないのはわかっているが、では、どうすればいいのか。盗んだバイクで走りだせばいいのか。だが、バイクを盗むのは犯罪だし、なにより、カリスマが二番煎じをするわけにはいかないだろう。

 そう、二番煎じはロックではない。そう、二番煎じはロックではない。ロックは既成概念を打ち壊す必要があるのだ。既存のロックを一歩踏み出してこそ、カリスマなのである。盗んだバイクで走りだしたりすることなど、今まで何万人もが通った道であり、今どきそんなことをしていたら、近所の人に「あらあら、きょうもロック? あんまり枠からはみだしちゃだめよ」などと言われてしまうだろう。くだらねえ大人たちの予想の範疇にいるうちはロックではないのだ。

 既存のロックを超えるために、あえて既存のロックにすら逆らってみるというのは、いいかもしれない。たとえば、「盗んだバイクで走りだす」の逆をついて、「何かを盗む」ではなく「何かを盗まれる」。「バイク」もやめて、いっそのこと「裸足」にする。行くあてがないのもロックにありがちだから、しっかりとした目的を持たせたほうがいいだろう。

 つまり、まとめると「お魚くわえたドラ猫を追いかけて裸足で駆けぬける」。

 ――す、すげえロックだ。こんな不器用な生き方しかできない俺をみんな笑うだろう。

 見な、おひさまも笑ってらあ。




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