『ペリーヌ物語』 結びつける者

ペリーヌ物語
1978年1月1日~12月31日放映(全53話)

 ペリーヌ物語は、世界名作劇場の初期作品のなかでは目立たない存在である。“ペリーヌ”を画像検索すると『ストライクウィッチーズ』のペリーヌ・クリステルマンの画像ばかりがヒットする。さらに、“ペリーヌ エロ”を画像検索するとペリーヌ・クリステルマンのいやらしい画像ばかりがヒットする。


『ペリーヌ物語』1話 ペリーヌ・パンダボアヌ

 ただし、目立たないからといって甘く見てはいけない。特に、ストーリー運びについては、一分の隙もないといってよい作品である。

 本作品において、ペリーヌは<結びつける者>という役割を担っている。ペリーヌ自身のキャラクター設定からして、そのように意図されている。

 まず、血統についていえば、ペリーヌはインド系の母とフランス系の父をルーツにもち、民族的、文化的に両者の中間に立つ存在である。その生い立ちからペリーヌは英語とフランス語のバイリンガルであり、後に通訳に抜擢されて(34話)、頭角を現していったことは、<結びつける者>というペリーヌの役割をもっとも端的に示している。

 また、13歳という年齢についても、同じことがいえる。子供というには精神的・肉体的に成熟しており、作中でもペリーヌは大人に混ざって祖父ビルフランが経営する紡績工場で働くことになる(28話~)。しかし、大人というには世知に長けておらず、一人で写真屋の商売をしたときは子供だと侮られて全く客をつかまえられなかった(16話)。つまり、ペリーヌは大人と子供の中間的に立ち、両者をつなぐ存在なのである。作中でも、工場の同僚の愚痴をビルフランに子供らしい率直さで伝えようとして、同僚を慌てさせるシーンなどがある(48話)。

 一方、ペリーヌを取り巻く環境については、いくつもの分断がみられる。

 まず、本作品におけるペリーヌの最大の目的は、祖父ビルフランとの家族としての結びつきを取り戻すことにある。しかし、祖父は息子が外国人と結婚したことを許さず、孫であるペリーヌの存在すら知らない。祖父とペリーヌは完全に断絶しているといえる。

 また、ビルフランは工場の経営者としては有能なのだが、時代性もあって労働者の待遇や権利についてほとんど配慮することがない。孫であることを隠して工場で働くペリーヌの給料は毎日のパンを買うのに精いっぱいで、総じて労働者の待遇は悪い。つまりは、労使間が断絶しているのである。

 さらにいえば、ビルフランが経営し、ペリーヌの働く工場が紡績工場であることも注目すべき点である。紡績業は、産業革命の象徴とでもいうべき業種である。工業化においてイギリスから大きく後れを取ったフランスだが、ペリーヌの時代には追い付きつつあり、第二帝政期に整備されたインフラを利用して著しい発展を見せていた。それは、家内工業から工場工業への変革の時代である。それまでの、生活と生産の現場が一致していた時代から、両者が分断され、人々が生活の中でモノをつくるという行為から遠ざけられはじめた時代である。

 ペリーヌは、それらの分断した事柄を次々に結びつけていく。

 マロクールの街で、ペリーヌは町はずれの空き家に居を構え、自分の力で生活しようと決意する。それは単に生活費を自分で稼ぐというだけではない。ペリーヌは生活に必要な道具を自分の手でつくってしまう。くつ、下着、鍋や食器などをつくり、それをけっこう楽しんでいるようである。小規模ながら、ペリーヌはものづくりを自らの手を取り戻し、生活と生産の場を結びつける。

 また、ペリーヌは労使間の断絶の解消についても積極的に動く。工場の経営者であるビルフランに対し、従業員の葬式に出席することをすすめたり、ひどい待遇を受ける女工の悪臭漂う共同部屋に連れ出したりして、ビルフランに従業員の待遇改善に目を向けさせることに成功する(49話)。ペリーヌはビルフランに対してこんなふうに伝える。

「ビルフラン様は今までは工場を大きくすることだけを考えていたのではないでしょうか。ですから、これからは働いている人たちのことたちをもっともっとお考えになっていただきたいのです。」

 ところで、<結びつける者>としてのペリーヌの特質は、母の影響が大きい。物語の序盤では、ペリーヌは負けん気が強く、写真屋としての商売を同業者に邪魔されたときなどは自分たちの腕が上だと食ってかかっている(10話)。母はそんなペリーヌをいさめ、相手の立場に立つことを教え、死の際では「人に愛されるためには、まず自分が人を愛さなくては」と伝えるのである。


『ペリーヌ物語』21話 ペリーヌと母

 母の教えのとおり、さまざまなものをうまく結びつけていくペリーヌだが、祖父との関係だけはうまくいかない。ペリーヌは、祖父に拒絶されることが怖くて、自分が孫だと言い出すことができない。そこで登場するのが、フィリップ弁護士である。

 フィリップ弁護士はペリーヌのインドからフランスへの長い旅路をたどることで、ペリーヌの父と母、旅の中で出会った人々を順に線で結んでいく。倒叙的に描かれるその様子は、刑事コロンボを見ているような痛快さがある。そして、49話において、フィリップ弁護士はペリーヌとビルフランをつなぐ最後のパーツであるルクリおばさんの存在を指摘し、ペリーヌはビルフランの孫だと解き明かすのである。

 ペリーヌは<結びつける者>としての役割を持ちながら、自分と祖父の関係だけは結びつけることができなかった。しかし、ペリーヌが旅の途中で結んできた人とのつながりが、最後には自分と祖父を結びつける糸になるという、印象的なラストシーンを迎えるのである。

 50話以降はエピローグのようなものだが、祖父はペリーヌの勧めで目の手術を行い、閉ざされていた外界とのつながりを取り戻して物語は終わる。

 第1話から最終話まで、作品の持つテーマを余すことなく描き切っている。なにより「人の結びつき」などというくすぐったいようなテーマを正面から描いているにも関わらず、まったく鼻に付かないのがいいところだ。

 惜しむらくは、その独特のキャラクターデザインだろう。ペリーヌは慣れればかわいいのだが、たまにタツノオトシゴの妖精みたいな顔になるのが玉に瑕だ。あと、酔ったロバのパリカールは、夢に出てくる。


『ペリーヌ物語』8話 酔いどれパリカール

『こんにちはアン』 小さなアンにかけられた呪い

こんにちはアン ~Before Green Gables
2009年4月5日~12月27日放映(全39話)

 『こんにちはアン』は『赤毛のアン』(以下、本伝と呼ぶ)の前日譚で、孤児のアンがトーマス家の家事手伝いをしている6歳のころから、カスバート家に引き取られる11歳までの出来事が描かれている。『こんにちはアン』は本伝の出版100周年を記念して書かれており、本伝とは作者が異なっている。


左『こんにちはアン』01話 アン・シャーリー6歳
右『こんにちはアン』19話 アン・シャーリー8歳

 2008年に出版された原作を、2009年にさっそくアニメ化したのが本作である。

 本伝を繰り返し読んだ者の目線では、このシーンは本伝のあのシーンにつながるんだなとか、これは本伝のあのシーンのオマージュだなと、いろいろ楽しめるつくりになっている。ところが、話数が進むにつれて、だんだん本伝の<呪い>のようなものを感じるようになってくる。

 つまり、『こんにちはアン』の最終話が、本伝の第1話につながるのだから、あらゆる点で整合している必要があり、アンの持ち物ひとつとっても矛盾があってはいけないのである。

 カスバート家へ向かうアンの服装は「きゅうくつな交織りの服」「色あせた水兵帽」「取っ手の壊れたかばん」でなくてはいけない。アンはそばかすだらけのやせっぽちでならなければならない。アンはアイスクリームを食べたことがあってはならない。なにより、本伝でカスバート家に引き取られてから幸福になるアンは、『こんにちはアン』では幸福になってはならないのである。

 見ていて一番きつかったのは、1話でアンがミントン夫人からもらい、ロキンバーと名付けた猫との別れである。26話でハモンド家に引き取られることになったアンは、ロキンバーを連れていきたがる。だが、ハモンドから連れていけないといわれてしまう。表向きは「妻は猫が苦手だから」ということだが、視聴者は知っている。アンがロキンバーと引き離されるのは、本伝でアンが猫なんて連れていなかったからなのだ。


『こんにちはアン』26話 アンとロキンバーの別れ

 アン・シャーリーがどれだけ明るくふるまっても、どれだけ希望を見失わないようにしても、彼女が本作で幸せになることはない。これを呪いといわずなんと言おう。

 また、呪いをかけられているのはアンだけではない。アンが幸せにならないということは、アンの養育者たちがアンを幸せにできないということでもある。

 最初の養育者トーマスは酒飲みでろくに仕事もせず、何度か立ち直ろうとするが、最後は汽車に轢かれて死亡する。次の養育者ハモンドは製材所を営むが、大きな仕事を請け負った直後に心不全で亡くなってしまう。

 この決して解けない呪いを見ていると、運命とはこういうものなのかと考えさせられる。つまり、すべての出来事はあらかじめ決まっており、人間の意志や努力などは無意味なのではないかと。

 しかし、さらに考えてみると、この呪いが解けるのは果たしていいことなのだろうか。呪いが解けて、アンがこの物語で幸せになることは、望ましいことなのだろうか。

 もちろんアンにとっては悪いことではないだろう。エリーザ、ミントン、エッグマン、ヘンダーソン先生など、本作において孤児のアンを引き取りたいと考える人はたくさんいたし、呪いがなければ引き取られていただろう。アンならグリーン・ゲイブルズに行かなくても、彼女らしい幸せをつかむことだろう。だが、本伝においてアンに幸せをもらうことになるマシュウやマリラをはじめとした多くの人々は、アンが存在しなければ本伝で書かれるような幸せを得られるとは思えないのである。

 してみると、アンには呪いなどかかっていなかったのかもしれない。アンにとっての試練であることは間違いないが、たまたまアンがそういう役回りだったというだけのことで、本来はアンにしか幸せにできない人に対する<祝福>だったのかもしれないとも思えてくるのである。

 こういうことを、ひとことでまとめてしまえば、次のようになる。

 『神は天にいまし、すべて世は事もなし。』

『世界名作劇場』ドロワーズまとめ

 『世界名作劇場』といえばドロワーズに定評がある。そこで、名劇におけるドロワーズの描写についてまとめてみた。なお、各作品の舞台となった年代については、『世界名作劇場シリーズ メモリアルブック』(ちばかおり著)に拠っている。

【1830年代】
 ドロワーズといえばヴィクトリア朝ファッションというイメージがあるが、『南の虹のルーシー』はヴィクトリア女王の即位前にイギリスからオーストラリアにやってきたポップル家の物語である。

 主人公のルーシーが履くドロワーズは当時としては最新ファッションである。ポップル家の社会的地位を考えれば、何も履いていないことが一般的だろう。また、当時のドロワーズは股の部分が縫い合わされていないのが普通だが、アニメでは縫い合わされている。


『南の虹のルーシー』12話

【1860年代】
 ドロワーズならぬパンタロンスタイル。ペチコートを何枚も重ねてスカートをふくらませている様子がうかがえる。『愛の若草物語』に登場するマーチ家は貧しいながらも心は上流階級。エイミーのような小さなこどもでも、うっかり肌をみせるようなこともなく、ガードは固い。

 なお、当時はピアノの脚ですらふしだらな連想をさせるため靴下をはかせたという俗説があるが、アニメに登場するピアノの脚はむきだしである。


『愛の若草物語』1話 エイミー・マーチ


『愛の若草物語』1話 ジョオ・マーチ

【1870年代】
 時代が進むと、ドロワーズは次第に装飾的になり、「見せる下着」へと変化していく。ブルーマー夫人が女性の服飾の自由化を掲げてブルマーを引っ提げてロンドン万博に乗り込んできてから20年。夫人の思惑とは違えども、ドロワーズの丈は短くなり、ずいぶん動きやすいスタイルになったことは間違いない。


『ペリーヌ物語』30話


『ロミオの青い空』24話

【1880年代】
 このころになるとドロワーズの股の部分を縫い合わせてあるのが普通になってきた。意識や流行の変化というだけでなく、衛生面での進歩も大きいだろう。ちょうど『赤毛のアン』でアンが髪を洗っているシーンがあるが、石鹸の大量生産技術が確立して庶民にも気軽に手に入るようになった時代である。


『こんにちはアン』1話


『赤毛のアン』30話


『ナンとジョー先生』11話


『ふしぎな島のフローネ』9話

【1890年代】
 『小公子セディ』のヒロインであるコッキーは5歳なので、動きやすさを重視してドロワーズは太もも丈である。小さい子ほど露出に対して寛容なのは今も昔も変わらない。ちなみに、コッキーの下着は設定画では、もっとふりふりのデザインとなっている。


『小公子セディ』28話

【1900年代】
 いよいよ20世紀に突入。長かったヴィクトリア朝も終わりを告げる。『ピーターパンの冒険』のウェンディは、ドロワーズこそ膝丈であるが、スカートがドロワーズ丈より短く、いわゆるドロチラ状態である。


『わたしのアンネット』2話


『ピーターパンの冒険』OP

【1920年代】
 『私のあしながおじさん』のジュディは本編ではコンビネーションスタイルの下着を身に着けているが、OPに登場する下着はぐっと短い。これぐらいの時代になると現代にかなり近いようである。ポリアンナも、ドロワーズというよりかぼちゃパンツといったほうがしっくりくるような短さになっている。


『私のあしながおじさん』3話


『私のあしながおじさん』OP


『愛少女ポリアンナ物語』10話

『南の虹のルーシー』 もっとも名劇らしからぬ主人公

南の虹のルーシー
1982年1月10日~12月26日放映(全50話)

 オーストラリアにヨーロッパ人が本格的な植民を始めてからまもない1837年。アデレードの人口が300人くらいしかいないころ、南オーストラリアに自由移民としてやってきたポップル一家の物語である。

 ポップル家は父、母、息子2人、娘3人の7人家族である。最初に強調しておくと、この作品は三女ルーシーと次女ケイトがオーストラリアの珍しい動物に驚き、建設途上の町や自然の中をかけずり回り、ボケ役のルーシーとツッコミ役のケイトの掛け合いがとても楽しい作品である。そう、楽しい作品であることには間違いない。しかし、最後まで見終わって感じたのは、それだけではなかった。


左『南の虹のルーシー』13話 ルーシーとケイト
右『南の虹のルーシー』14話 ポップル一家

 印象に残ったシーンが2つある。

 ひとつは、ルーシーがプリンストンというお金持ちの農園経営者の屋敷に滞在し、図書室に入ったシーンである。世界名作劇場のヒロインといえば、たくさんの本を見るとキラキラと目を輝かせるのが定番である。

 ところが、ルーシーは「どうしてこんなたくさんの本を読まなくてはならないんですか?」という、ある意味ではしごく当たり前の反応をする。考えてみれば、世の中は本好きの子供ばかりではないのだ。むしろ、字ばかりの本など読みたくない子供のほうが多いかもしれない。あまりにまっとうな子供の感想であるがゆえに、かえって意表をつかれて印象に残ったシーンである。

 もうひとつは、ポップル家がオーストラリアで農場を手に入れる見込みがなくなって、ルーシーの父がやけ酒を飲むようになってからのこと。希望をなくした父を気遣い、家族はやんわりと父をいさめる。父は改心して「心配させてすまなかった」と酒をやめる。家族愛により、父が立ち直るシーンを描いた心温まるシーンである。

 ところが、数日後に父は「ま、一杯だけ」と酒瓶を取り出し、グラスに注いでいるところを長男に見つかってしまう。そのときの父のうろたえぶり、そのあまりにも人間臭い様子を見て、とても物悲しい気持ちになった。これもまた、家族愛を絶対視する名劇の他の作品では見られないようなシーンだろう。


『南の虹のルーシー』43話 ルーシーの父

 つまり、何がいいたいかといえば、ポップル家は「ふつうの人たち」なのである。彼らは、忍耐力とか向上心とか行動力とか空想力とか、他の名劇の主役たちがいずれか傑出して持っていたりする能力を、どれもふつうに備えているが、特筆するほどには備えていない。ポップル家の人たちは、思った通りにいかない一家の状況を嘆き、生活のために望まぬ仕事をこなし、運が開けることを祈るしかできない。閉塞した状況に対し、彼らが行うのは「行動」ではなく「愚痴」なのである。

 もちろん、そのままでは子供向けアニメにならないので、最後はルーシーが記憶喪失になり、偶然知り合ったプリンストンから農場を破格の条件で譲ってもらえるというラッキーイベントが発生する。裏を返せば、そんな宝くじに当たったみたいなことがなければハッピーエンドにならないという、「ふつうの人たち」の悲哀すら感じられるラストである。

 なにやら、暗いイメージを書いてしまったが、最初に強調したとおり、この作品が「楽しい作品」であることは紛れもない事実である。個々のシーンをとりだせば、ゲラゲラ笑えたり、ほっこり心あたたまったりするシーンはいくらでもある。

 もしかして、この作品は深い視点で考察しながら見れば、人間の陰影を描いたとんでもない傑作なのではないかと思うことがある。しかし、この作品があまり話題にならない理由も分かる気がするのである。

『トム・ソーヤーの冒険』 トムはどんな大人になるのだろう

トム・ソーヤーの冒険
1980年1月6日~12月28日放映(全49話)

 1845年ごろのアメリカ、ミシシッピ川沿いの小さな町に住む10歳の少年トム・ソーヤーが遭遇する日々の出来事を描いた作品である。タイトルには「冒険」とあるが、冒険野郎マクガイバーのように世界を股にかけて毎週命がけのアクションをする話ではなく、子供心にワクワクするような出来事が描かれている。


『トム・ソーヤーの冒険』2話 トム・ソーヤー少年

 とはいえ、大人になってからでは熱中して見るのはつらい。幼いころに見ていたら「トムと友達になりたい」などと思ったのかもしれないが、大人になった今では、こんな糞ガキは勘弁してほしい、というのが本音である。

 というのも、トムはイタズラっ子というには可愛げがない。好奇心で行動するというより、目立ちたくて行動している感じである。しかも、イタズラは一人ではやらない。有名なエピソードに、トムが死んだと町の人に思わせておいて自分の葬式にひょっこりと帰ってくるというのがあるが、それも嫌がる友達を言いくるめて3人でやる。それ以外のイタズラについても、たいていは友人のハックことハックルベリー・フィンがつきあわされる。

 たとえば、37話でこっそり気球に乗り込むシーンはこんなふうだ。

トム「俺はお前がもっと勇気のあるやつだと思っていたよ」
ハック「そんなこといったって、俺たちだけで気球に乗ったらどこに飛ばされるかわかんないぞ」
トム「そんなに飛ばされやしないさ。あまり上に行かないように大きな石をつむのさ」
ハック「それじゃ上に上がらないんじゃないの」
トム「そのときはひとつひとつ石を落として調節するのさ」
ハック「でもさあ、もしミシシッピ川のほうに流されて途中でおっこっちゃったら?」
トム「それこそ一番安全だろ。なにしろ俺たちは泳ぎは達者だし」

 こんなふうに嫌がるハックを言いくるめてイタズラに付き合わせる。友達がいないと思われるのが嫌で一人で学食に入れない大学生みたいでかっこ悪い。一人でやれ。

 他にも、友達に平気でうそをついたり、正々堂々とした勝負なのに自分の負けを認めなかったり、これは、ある意味では等身大の少年を描いた作品なのかもしれない。なんとなく、トムは口のうまさを活かして、将来は小さなお店でも開いて子供時代と変わらない人間関係の中で「あのころのオレはよお」と昔の出来事ばかり振り返って一生を終えるのではないかという気がする。

 ――と、ずいぶんトムをくさしてきたが、そろそろ空しくなってきたところだ。そう、これは嫉妬なのだ。私には、トムのような生き方はできない。私には、会って間もない女の子に<婚約>を申し込むことなんてできない。しかも、ほかの女の子とも<婚約>したことがバレて激怒されても、うまく立ち回って仲直りするなんてことは、私にはどうやっても無理だ。

 だからといって、人は自分の人生を否定することはできないのである。だから、たとえ空しくても、私はトムは嫌いだといわせてもらう。私は、トムもトム・ソーヤー的なものも嫌いである。トム・ソーヤーの家とか名前がついている宿泊所は、朝から体操とかさせられそうだから嫌いだ。トム・ソーヤー風の料理とかは、手を洗ってなさそうだから嫌いだ。